「STU(瀬戸内)48」は、まさに邪馬台国文化圏
1.邪馬台国文化圏と出雲オオクニヌシ文化圏
今年(2017年)四月にAKB48グループの「STU48」の発足を知った時、「やはり『邪馬台国文化圏』は今日現在も行き続けているのだ」と胸が踊りました。
現時点(2017年9月)では、予定どおり各県の港の活性化に向けた船上劇場が具体化するか否かは分かりませんが、是非とも軌道に乗せていただきたい、とわくわくしています。(追記:2018年夏が延期になり、2019年4月16日に出航)
自説では邪馬台国文化圏は瀬戸内七県(山口、広島、岡山、兵庫、愛媛、香川、徳島)と九州の大分県と福岡県北部にまたがっています。弥生後期と終末期の倭国(西日本)の盟主であった邪馬台国は吉備(岡山県と広島県東部)と讃岐(香川県)で、首都は岡山市の吉備津(王宮は吉備津神社)、副首都は高松市(王宮は田村神社)、投馬国の中心部は広島市安佐南区の大町と古市付近となっています。
邪馬台国の弟格は出雲王国(首都は出雲市)で日本海に出雲オオクニヌシ文化圏(山口県北部、島根、鳥取、兵庫県北部、越三国の福井・石川・富山・新潟)を形成しています。
弥生時代中期は奴国・伊都国を主体にした九州北部が倭国の中心部でしたが、吉備邪馬台国・出雲王国連合が一世紀後半に奴国・伊都国まで支配下に置いて、弥生後期が始まり、三世紀後半に大和(前身は御所市を中心とした葛国=狗奴国)が吉備邪馬台国を制覇した後、西日本だけでなく東日本を統一して大倭国(西は九州地方中南部まで、東は東北地方南部まで)が成立し、古墳時代が始まった、とする図式です。
2.「邪馬台国=大和」説と「大和一元説」は渡来人系学者の想定にすぎない
「日本の歴史は大和から始まった」とする「大和一元主義」を踏まえて、「邪馬台国は大和でなければならない」と見なす固定概念が根強い状況ですが、「邪馬台国=大和」説は第二王朝である応神天皇時代の五世紀初め以降に来朝してきた渡来人系学者が大和朝廷の御用学者として誤った想定をして提唱しだしたもので、「大和一元主義」は古事記(公表は712年)から日本書紀(同720年)に至る八年の間に、当時の対抗勢力であった唐と新羅に対する権威付けから創作されたものにすぎません。
文献を見ていくと、「邪馬台国=大和説」が初めて登場するのは、隋の裴世清(はいせいせい)の訪日(608年)以降の七世紀前半に中国で編纂された「隋書」です。文字化された日本の神話・歴史・伝承をまとめた書物で、残存するものの中で、最も古いものは八世紀初期の古事記、日本書紀と風土記(編纂の詔は713年)の三書です。
あまり注視されていませんが、この三書の中で、「邪馬台国、ヒミコ(卑弥呼)、トヨ(台与)」の三要素に触れている部分は「日本書紀の神功紀」39年から66年にかけての四箇所(三カ所は「三国志・魏志倭人伝」、一カ所は「晋の起居」からの引用)のみで、古事記(主な目的は氏族系譜の乱れを正すこと)と残存している風土記(主な目的は地方各国の風物と伝承をまとめること)では皆無です。このことは八世紀初頭までの国内の伝承には「邪馬台国」、「ヒミコ(卑弥呼)、トヨ(台与)」は存在していなかったことを示しています。
さらに留意しなければならない点は、日本書紀だけが神武天皇以後の歴代王の生没年を明記していることで、これを鵜呑みにすると神武天皇の即位年は紀元前660年、崇神天皇は西暦0年頃、となります。日本書紀では 暦年が確実な「百済記」を主体にして「神功46年は366年」、「同65年は385年」として、その前後に120年前のヒミコとトヨの記述を挿入して、あたかも「神功皇后=ヒミコ・トヨ」を印象づけています。(末尾の注を参照)
この造作により、四世紀半ばから後半にかけての神功皇后は、120年さかのぼるヒミコ・トヨと同一人物というイメージを与え、これを基準にして中国の「辛亥(しんがい)思想」にもとずく暦法を使って神武天皇までの歴代の天皇の生没年を想定しました。
またこれによって、神功皇后以前と以後が線引きされて、五世紀初めに渡来系学者が来日する以前は「いつの時代かに創作された神話の時代」、自分たちが文字を伝えて記録されるようになってからが「歴史時代」と区分されてしまいました。
問題は、東西が統一された「日本国」は渡来系学者が渡って来る以前の三世紀末には誕生しており、「日本神話の原形」も「邪馬台国神話と大和日向神話」が「出雲の国譲り」を接着剤として合体されて四世紀初め頃に成立していたことです。
残念なことに奈良朝廷が当時の国際情勢下の権威付けと国威発揚の必要性から、渡来系学者の誤った想定を公的に認定してしまいました。この認定により、①日本書紀の記述を鵜呑みにすると「神武天皇の即位年は縄文時代の紀元前660年頃、十代目の崇神天皇は紀元0年」となり、②「神功皇后以前は神話の世界だから、飛鳥時代に創作されたものすぎない」と見なすと欠史八代説につながっていきますが、双方とも渡来系学者の誤った造作に躍らされているにすぎません。
上古代の正しい歴史と伝承を知らないか見下した、飛鳥時代から奈良時代初期のお雇い外人学者の視点がいまだに幅を利かしていて、「邪馬台国の敵国だった狗奴国は大和」という発想自体が日本列島ではタブー視され、芽が摘まれてしまっている印象を受けます。
3.高天原神話の発祥地は津山盆地を中心とした吉井川と旭川流域
自説では三世紀末に大和が東西日本を初めて統一(九州地方中南部から東北地方南部まで)する以前に、吉備邪馬台国は西日本(九州地方北部から関西地方西部)を統括する盟主として国家体制も「イザナギからスサノオ系譜」に到る神話も確立していた、としています。
弥生時代前期後半に淡路島を中心とした瀬戸内海東部に生まれた「イザナギ・イザナミ国生み神話」は津山盆地に入って「イザナミの黄泉路行き」篇が膨らみ、剣神フツヌシ、武神タケミカヅチ等が誕生します。
津山盆地は弥生時代中期は中国山地に産出する銅と錫の集積地で銅鐸、銅剣など青銅器製造の中心地でした。剣神フツヌシ、武神タケミカヅチの誕生もそれにそったものです。同時に津山盆地は養蚕も盛んで絹織産業も発展していました。毎年、太陽の活力が衰える冬至の頃に、太陽の復活を願う祈願祭が催されていました。高天原は旭川の水源地である蒜山高原で太陽神オオヒルメの住みかは蒜山三山でした。
弥生中期後半に、当時の倭国の中心部だった九州北部の筑紫地方から、先端文化とムスビの神々を携えて移住者がやって来て、何らかの理由で現地勢力と軋轢が生じた結果、「高天原でのスサノオの狼藉」、「天の岩戸とアメノウズメ」、「スサノオの降臨とヤマタノオロチ」等々の逸話が誕生します。スサノオの降臨地は美作と備前の国境にある「高ノ峰(神の峰)」で、スサノオの二人娘、クシイナダヒメ(櫛稲田姫)とカミオオイチヒメ(神大市姫)の二系統の神々が誕生していきます。
「高天原蒜山」説は「高天原は日向であってしかるべき」として「大和一元説」に固執する方々にとっては誠に不都合な存在です。「神代遺蹟考」で蒜山高天原説を1929年(昭和4年)に提唱して、不敬罪に問われた佐竹淳如先生事件以後、岡山県の地元でも中央政府の反応に腰が引けて「高天原は蒜山高原」、「旭川と吉井川流域が高天原神話の発祥地」では困る、という方々が多い印象を受けます。
4.舞姫アメノウズメとアイドル文化
瀬戸内邪馬台国文化圏を認知している人はごく少数で、「邪馬台国は大和でなくてはならない」という人が大半でしょう。「神武天皇2600年前説」と「欠史八代説」の両極端に翻弄されながら、このまま未解決のまま、日本の上古代は謎に包まれた、曖昧模糊とした神秘的なままの方が都合が良い、と見なす方も多いことでしょう。
「大和は狗奴国説」の視点から古事記と日本書紀を読んでいくと、西暦57年の「奴国の金印」以来から大和による日本統一までの過程はすらすらと解けていくのですが、「神武天皇2600年前説」と「欠史八代説」の双方とも予想以上に分厚い壁です。「この壁を打ち破っていくにはどうすべきなのか」を模索している中で、ある意味で自然発生的に誕生した「STU48」の登場は、「瀬戸内海邪馬台国文化は歴史の底流で行き続けて来ている」ことを示す大きな励みとなりました。
現在のアイドル文化は娘歌舞伎や舞妓さん文化からの派生と考えていましたが、どうやらその起源はもっと古く、弥生時代中期後半に成立した「高天原のアメノウズメ」に起源があるのではないか、と見なすとわくわくしてきます。
毎年冬至の頃になると「太陽神の活力の復活」を願う祭りが開催され、津山盆地で絹の機織り(当時は高級技術職)に従事する少女や乙女たちが祈願の踊りを舞い、それを青銅器産業に従事する工人や農民のオジサンたちがニコニコ顔で楽しみます。キャプテン格の乙女がちょっとセクシーな舞いを踊るとどっとどよめきが湧き、それを嫉妬した太陽神オオヒルメが天岩戸から顔を覗かせる、という光景は、現代のアイドル文化とそっくりです。高天原冬至祭は邪馬台国文化圏の各地でも催されたことでしょう。
「STU48」の関係者も、邪馬台国文化圏と結びつけておられる方は恐らく皆無だと思いますが、なんとなくヒミコ(卑弥呼)はAKB48チーム8の人見古都音さん(岡山県出身。2019年5月に卒業)、トヨ(台与)はSTU48の福田朱里さん(香川県出身)をイメージしながら、いつかSTU48のメンバーを舞姫として「邪馬台国・瀬戸内の古代史蹟を巡る船周遊の旅」が具体化しないかな、と期待しています。
(注)日本書紀の「神功皇后とヒミコ・トヨ」を同一視させようとしている部分
神功紀39年、「魏志に云はく、明帝の景初三年(239年)、倭の女王の朝献」
同 40年、「魏志に云はく、 正始元年(240年)、倭国に詔書印綬を奉る」
同 43年(363年)、「魏志に云はく、正始四年(243年)、倭王が魏に上献」
同 46年(366年)から65年(385年)まで、暦年が確実な「百済記」を主体に、倭国側の記録を交えながら、倭国と朝鮮半島の関係を記載。
同 66年(386年)、「晋の起居の注に云はく、武帝の秦初二年十月(266年)に倭の女王の貢献。
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