邪馬台国吉備・狗奴国大和外史

 

4章 吉備邪馬台国の歴史       参照:補遺その1-2.中臣氏と吉備邪馬台国

1.呉越族と弥生前期 (前473~前180年頃) 

 

(呉越族と弥生文化) 

       弥生時代前期前半:前473~前300年頃

 33.(2)の1で触れたように、日本列島に弥生文化をもたらした人たちは主に中国の揚子江(長江)の北側の江蘇州からボートピープルとして渡来してきた呉族と越族だったのではないか、と私は推測しています。

 

 それ以前の弥生時代早期から、朝鮮半島南部からの渡来があり、すでに水稲耕作や青銅文化をもたらしていたことも事実ですが、北部九州を主体に点で拡がる小規模なものに留まり、西日本地域の広域な発展には至らなかったようです。

 呉族と越族の渡来には約100年~140年の時間差がありますが、それが銅矛文化圏の九州と銅鐸文化圏の近畿地方の相違につながっていきます。

 

 第1波の呉族の渡来は前473年の呉の滅亡にあります。ボートピープルとなった呉族は朝鮮半島の済州島や3韓地域、九州北部と西部の有明海地域に移住します。朝鮮半島西南部の馬韓地域にいったん定着してから、北部九州に渡来した人々もおり、甕棺と一緒に支石墓文化も入ってきます。

 

 第2波の越族の渡来は約1世紀後の前333年頃です。九州北部と西部の海岸線はすでに呉族系が定着していたため、海岸沿いに東に進みます。日本海は出雲から越地方、関門海峡を越えて瀬戸内海、豊前から豊後、伊予、日向へと進みます。

 

(瀬戸内海東部でイザナギ・イザナミ神話が誕生) 

              弥生前期後半:前300~前180年前後

 瀬戸内海に入った越族の一部は東端の淡路島に到達し、安住の地を見つけました。中小河川の葦原を燃やし、湿地帯を開墾して水田を造り、泥や土を盛って杭(くい)を打ち込んで地面を固め家々や高床倉庫を造っていきます。後続の越族が淡路島周辺に定住していきますが、ことに対岸の紀ノ川や阿波の吉野川流域に新天地が広がります。

 

 イザナギ・イザナミの前に登場するクニノトコタチ(大地)、クニノサヅチ(土)、トヨクムネ(稲の豊穣)、ウヒヂニ・スヒヂニ(泥)、オオトノヂ・オオトマベ、オモダル・カシコネの神々がその過程を物語っています。

 

 ようやく村づくりと最初の稲の収穫を終えた越族は、牛鈴(ぎゅうりん)を鳴らしながら故郷を偲んでいました。その牛鈴は重すぎて舟に乗せることができなかった水牛にかけていたものでした。その音色に引きつけられて、それまで遠巻きに様子を伺っていた土着の縄文人たちが寄ってきました。ガラス質のサヌカイトの音色しか知らなかった縄文人にとって、青銅の金属音の音色は珍しく神秘的でした。

 

 これをきっかけに越族と縄文人の交流と融合化が進み、人口が増えていきます。祭りの広場に牛鈴が吊らされ、銅鐸へと発展していき、鹿骨を使った骨占いも伝わります。

 

 淡路島を主体にイザナギ・イザナミ神話の原形が生まれていきます。おのころ島と呼ばれた沼島(ぬしま)に下りたイザナギとイザナミは、御柱の周りを回り、妻のイザナミが先に入って寝屋に入ると子供が産まれない。天の神々に相談すると、妻が先に誘ったのが悪いという。今度は夫が先に声をかけると四国を先頭に、日本列島の島々が誕生します。次に太陽神・月神・嵐神の3貴神が誕生した後、山の神オオヤマツミなど自然界の神々が登場します。最後に産んだ火の神ホノカグツチに陰部を焼かれたイザナミは死んでしまいます。イザナミは紀伊半島の熊野市の花の窟から大洋のかなたの根国 に旅たちます。母神イザナミを失った嵐神は泣いてばかりいて、雨が降り続きます。イザナギは流れが速い鳴門海峡と明石海峡を避けて友が島水道で禊(みそぎ)をした後、幽宮(伊奘諾神宮)から隠棲します。

 

 イザナギ・イザナミ神話は水稲耕作、桑・養蚕業の発展と共に拡散していき、銅鐸の音色をかなでる村々が増えていきます。東は近江(多賀神社)へ、西は西播磨から津山盆地へと海辺から内陸部へと拡がっていきます。 

 

(銅鐸と津山盆地)

 イザナギ・イザナミ神話は東側よりも西側の津山盆地で発展していきます。津山盆地は西播磨と出雲を結ぶ要地で、吉井川を通じて瀬戸内海、讃岐に通じています。吉井川流域は支流の吉野川も含め、平地部は水が豊富で水田に適し、高地には桑が植えられ養蚕・絹織物の産業が成長します。さらに中国山地から青銅に必要な銅とスズが産出することが分かりました。美作一の宮の中山神社周辺が銅鐸や青銅器制作の中心地となります。

 

 しかし淡路島周辺と違って中国山地や高原に住む縄文人との軋轢が生じます。越族は護衛のために武装化するようになり、富(とみ)族が集団の指揮をとるようになります。中国山地は縄文時代から太陽信仰が盛んで、太陽神オオヒルメを信奉していました。

 

 イザナギ・イザナミ神話が発展していきます。津山盆地を見下ろす那岐山(なぎせん)がイザナギ・イザナミの降臨の地となります。イザナミが火神ホノカグツチに焼かれて死ぬ場面が増幅され、怒ったイザナギが火神を斬ると、富族の神である武神タケミカヅチ、剣神フツヌシが誕生します。

 

 イザナミの隠棲の場所は太平洋の彼方の根国ではなく、中国山地の鍾乳洞の先の黄泉(よみ)国となります。イザナミを追い求めて、イザナギは鍾乳洞から黄泉国に入ります。黄泉国でイザナミに再会し、イザナミを地上に引き戻そうとします。イザナミの忠告を無視して火を灯してしまったイザナギは腐乱し蛆虫がたかったイザナミを見て、恐れをなして地上に逃げ込みますが、シコメとイザナミが追ってきます。山葡萄の実をばら撒きながら、イザナギは地上に戻ります。

 

 イザナギ・イザナミ神話は銅鐸と共に中国山地へと2方向で伝播していきます。1つの流れは峠を越えて伯耆の日野川に入り、日野川沿いに東出雲まで伝わり、伯耆の比婆山がイザナミの陵墓になります。もう1つの流れは備後への道で、縄文時代から聖地だった比婆山のイワクラが陵墓となります。

 

 

4章 吉備邪馬台国の歴史

2.北部九州の倭族の興隆と東進   

      弥生中期前半(前180~前100年頃) 

 

 吉備の津山盆地で、武神タケミカヅチと剣神フツヌシを祀る富(とみ)族が成長した弥生前期末頃、北部九州では村からクニへ発展する動きが強まっていきます。北部九州には前5世紀からボートピープルとして渡来した呉族が土着の縄文人と融合しながら定着して倭族となっていました。

 

 倭族が祀る神々はタカミムスビなどムスビの神々でした。朝鮮半島南部の人たちも呉族が主体でしたが土着のわい族と融合して韓族となっていました。いわば兄弟か従兄弟の関係で、対馬海峡を通じた交易、交流は密にありました。ムスビの神々は「天と地」を結ぶ意味に加えて、半島、対馬、壱岐、北部九州を結ぶ神々、という意味合いも含まれているかもしれません。

 

 玄界灘と響灘に面する北部九州は水稲耕作に適した広大な平野部に欠けるものの、豊富な海産物に恵まれていることもあり、人口が増加していき村からクニに発展する地域が増えていきます。しかし平野部が少ないことから、隣接する村やクニと土地と水を奪い合う争いが頻度を増していきます。

 

(朝鮮半島の変化)

 その頃、前221年に秦の始皇帝が中国を統一して山東半島の斉、遼東半島の燕も秦帝国に組み入れられたことから、半島への中国の影響が強まっていきます。前219年の徐福伝説もその一例です。前210年に始皇帝が没し、前202年に前漢が誕生するまで、中国は混乱しますが、燕、斉、趙等から半島への亡命・逃亡者は数万人に達した、と伝えられています。前195年に箕氏朝鮮に亡命した燕人の衛満が策略で衛氏朝鮮を建国しますが、亡命・逃亡者の一部は半島南部の韓族の地へも流れていき、後の辰国の母体になっていきます。

 

 亡命・逃亡者の中には軍人もいれば、商人や技術者(工人)、農民もいたことでしょう。衛氏朝鮮は韓族を服属させていこうとしますが、これに韓族が抵抗します。韓族は亡命・逃亡者の協力も得て武装化を進め、クニが分立していきます。韓地方にも銅矛(ほこ)、銅剣、銅戈(か)や鉄鏃などの武器に加えて、銅鏡や玉類が流入し、自主製造も盛んになります。

 

(九州北部の倭族)

 すでにクニとクニの間の戦国時代に入っていた北部九州のクニグニは競って、半島から青銅武器、鉄製武器、銅鏡、玉類を輸入し、また半島から技術者を招き、青銅器や高殿も自主製造するようになります。招聘者の中には中国からの亡命・逃亡者も含まれていたことでしょう。高殿の建築技術や井戸の掘削技術も伝わり、クニグニの王は競って豪壮な高殿祭祀場を建設し、戦勝を祈って銅矛と銅戈を祀り、銅剣、銅鏡と玉類を3種の神器とします。

 

 クニグニは戦争を繰り返しながら、玄界灘の西側からマツロ国、伊都国、早良国、奴国、粕国(不弥国)、宗像国、崗国(遠賀川)、聞国が有力となっていき、ことに伊都クニが国際貿易の窓口、奴クニが産業都市として倭族の中心になります。宗像国の主体者である宗像海人(あま)は、邪馬台国論争など古代史をめぐる論議ではあまり注目されてきませんでしたが、この頃から北部九州と本州を結ぶ交易者として、3世紀後半の大和狗奴国による東西日本の統一まで、重要な役割を果たしていきます。

 

(倭族文化の東進)

 クニグニの勢力争いは有明海沿岸など西部九州にも波及していきます。また伊都クニの住人が前200年頃に壱岐に建設した原(はる)の辻遺跡が発展するなど、半島との交易も盛んになっていきます。半島の伽邪地方に移住した人たちもいるでしょう。

 

 人口の肥大化、土地不足、相次ぐ戦乱の中で、東方に新天地を求めた人たちも多く出現しました。仲立ちを務めたのは宗像海人でした。すでに宗像族は伊都クニで陸揚げされ、奴クニで加工される青銅製品や舶来物を九州東部や本州、四国の主要地に輸出し、米やヒスイ、水銀朱、干あわびなどの海産物を輸入する交易者として勢力を拡げていましたが、北部九州の倭族たちを東方に運ぶ役割もになっていきます。

 

 倭族は南東部の宇佐と伊予、日本海は出雲や丹後半島、瀬戸内海は安芸、吉備、讃岐へと流れていきますが、先端文化と技術を帯同する倭族は各地の首長たちから歓迎されます。

 

 出雲では倭族がもたらした神カミムスビが島根半島を創った土着神ヤツカミズオミヅノと並存して祀られるようになり、丹後半島ではワクムスビが祀られるようになります。

 

(瀬戸内海に入った中臣氏と忌部氏)

 瀬戸内海に入った倭族はアメノコヤネ族とアメノフトダマ族でした。アメノコヤネ族はツハヤムスビ―イチタマ―コトムスビ―アメノコヤネの系譜を持つ祭祀を司る部族でした。 アメノフトダマ族はタカミムスビ―アメノフトダマの系譜を持ち、青銅技術などの工人、農民から構成されていました。

 

 宗像海人の舟に乗って吉井川を遡上して、アメノコヤネ族と アメノフトダマ族は銅の産地として知れ渡った津山盆地に到着します。

 

 倭族がもたらした銅鏡は、富族だけでなく、中国山中のオオヒルメ族の垂涎の的となります。太陽の光りを照り返す銅鏡は太陽神オオヒルメが宿る聖器として崇拝されていきます。 アメノコヤネ族は高殿を建設し、富族を驚かせます。高殿を使った祭祀で、銅鏡、銅剣と玉が3種の神器となります。アメノコヤネ族は富族の一員に組み込まれ、祭祀の担い手となります。

 

 アメノフトダマ族は青銅技術を伝え、銅鐸はより大きく、精巧な銅鐸が製造されるようになります。井戸の掘削技術を持つアメノフトダマ族は、雨が少ない讃岐の首長に招かれ、麻と木綿(ゆう)を主体とした畑作が讃岐で発展します。さらに山中から水銀朱(辰砂)が産出される阿波へと進出していきます。

 

 工人、開拓者として吉備、讃岐に向かう倭族が増え、吉井川を縦軸として、津山盆地―瀬戸内海―讃岐を結ぶクニ連合が伸展を始めていきます。

 

 

4章 吉備邪馬台国の歴史

3.吉備スサ王家の誕生 

         弥生中期半ば(前100~前50年頃) 

 

(前漢の武帝の朝鮮半島の植民地化)

 221年の秦の始皇帝による中国統一に続いて、前2世紀後半に登場した前漢の第7代武帝(在位前141~前87年)により、東アジア世界が大きく変わり、日本列島もその渦の中に巻き込まれていき、中国の中原の中枢部の影響を直接受けるようになります。

 

 前119年に武帝は国内すべての鋳鉄所を国有化(国営製鉄所は46か所)し、鉄と塩の専売事業を前漢の屋台骨を支える資金源とします。各地に鉄の生産・精錬所を興していき、中国ではこの頃から鉄器が青銅器を凌駕していきます。前109年に武帝は衛氏朝鮮を滅ぼして朝鮮半島を植民地化し、半島北部に玄菟郡、西北部に楽浪郡、西南部に真番郡、東北部に臨屯郡を設置します。楽浪郡は313年に北方騎馬民族の高句麗に滅ぼされるまで、約420年間にわたり中国の半島支配の前線基地となります。

 

 武帝の植民地化により、半島南部の3韓地方での中国の影響は決定的になります。衛氏朝鮮時代より半島南部を往来する中国人商人や工人が増え、鉄資源探しも活発化します。弁韓地方の洛東江流域で砂鉄と鉄鉱山が発見されます。砂鉄からの鉄精錬がいつ頃から始まったかは不明ですが、洛東江河口の金官(金海市)が鉄製品の出荷場として繁栄していきます。その頃、金官がある伽邪地方では9干が支配する9国に分かれていました。

 

 前漢は武帝の死後、前82年に真番郡を廃止しますが、中国からの亡命・逃亡者の子孫が形成する辰国が前漢の肩代わりとして、3韓地方を統括するようになります。

 

(北部九州の伊都国と奴国が倭国の盟主に)

 武帝の半島植民地化は伊都クニと奴クニにとっては絶好のチャンスの到来でした。青銅よりも硬く頑丈な鉄製機材は武器としてだけでなく、農具としてクニグニが渇望していましたので、地理的に鉄の輸入と加工に適していた伊都クニと奴クニは周辺のクニグニを凌駕して、クニから国へと成長し、北部九州での戦乱が和らいでいきます。

 

(吉備の吉井川流域の鉄鉱石)

 中国山地の砂鉄精錬は、応神朝の5世紀前半に半島からの渡来系の人々によって始まりましたが、それより5世紀先立つ弥生時代中期半ばに、吉井川流域で鉄鉱石から鉄を精錬する鉄製造が小規模ながらも始まっていたのではないか、と私は想定しています。それを実証する遺跡はまだ発見されていませんが、「邪馬台国吉備説 神話編」で日本の神々の根源地と遺跡を追跡しながら、私は以下のような連想に至りました。

 

 ある時、伽邪地方にいた交易商人が市場で良質な磁鉄鉱を見つけました。磁鉄鉱は鉄鋼の素材だけでなく、毒性が強い水銀朱(辰砂)の代用として鎮静・催眠の薬としても使用されるため、希少価値が高いものでした。出所を探っていくと、対馬海峡の先にある倭国からのものでした。

 

 倭国に良質の磁鉄鉱が産出するらしい。噂はたちまち伽邪地方の港に拡がりました。一攫千金を夢見る荒くれ者や商人が倭国をめざします。伊都国に到着した彼らが産地を探していくと、どうやら瀬戸内海の中央部を流れる吉備の吉井川流域のようです。伊都国や奴国にいた流れ者も追従して、次々と宗像海人の舟に乗って吉井川を目指していきます。

 

 吉井川中流の周匝(すさい)の港に着いた荒くれ者は磁鉄鉱、硫化鉄、赤鉄鉱の石を市場で見つけました。噂は本当でした。荒くれ者たちは産地を求めて奥地へと進み、後追いで周匝港に到着する荒くれ者も増え、総数は約3000人にも達しました。地元の人たちは彼らを「荒(すさ)ぶ者」と呼びました。 

 

(スサ王家の誕生)

 荒ぶ者の一部は津山盆地から追分峠を越えて旭川流域に入りました。その辺りからは中国山地のオオヒルメ族の領域でした。オオヒルメ族は銅の産地を乗っ取りに来たのではないか、と荒ぶ者を警戒します。山中に砂鉄を発見した荒ぶ者はさらに山中を進んだため、とうとうオオヒルメ族と争いになります。戦いでは鉄鏃や鉄剣を持つ荒ぶ者の方がはるかに優勢でした。恐れをなしたオオヒルメ族の女酋長や巫女たちは蒜山高原に逃げ込みます。オオヒルメ族は富族に窮状を訴え、富族に忌部族と宗像族が加わり、仲裁に乗り出します。

 

 大規模な磁鉄鉱の鉱山を見つけることはできなかった荒ぶ者たちの首領は富族たちの仲裁に従い、吉井川に戻ります。一攫千金をあきらめて北部九州に戻る荒ぶ者もいましたが、戻ってもあてがない者たちは周匝、柵原(やなはら)、周佐(すさ)の吉井川流域に定着し、スサ族と呼ばれるようになります。吉備高原に棲みついて、古くから農民に恐れられていた巨大な大蛇を酒を盛った酒舟におびき寄せ、大蛇退治を果たしたこともあり、徐々に土地の人たちにも認知されていきます。

 

 吉井川流域から産出する鉄鉱石は硫化鉄が主体で、良質の磁鉄鉱はまれにしか見つかりません。しかし伽邪地方から流れてきた荒ぶ者の中に、鉄の精錬作業の経験者がいました。粘土で炉を作り、磁鉄鉱、赤鉄鉱石や硫化鉄を薪と一緒に摂氏500600度に熱して還元させていくと、酸素が抜けてスポンジ状になった鉄塊ができあがりました。鉄塊を石槌で鍛錬して炭素など不純物を除去していく過程を繰り返していくと、鉄鎚(てっつい)らしきものができあがりました。鏃などの武器や農機具に加工するにはもろすぎましたが、地面に木杭を打ち込む鉄鎚としては使えそうでした。スサ族は吉井川に木杭を打ち込んで土堤を盛り上げ、初夏の梅雨、秋の台風、初春の雪解けの季節の氾濫を防ぎ、吉井川周辺の微高地に木棒や板を打ち込んで灌漑工事をしていきます。数年後、吉井川周辺の荒地は見事な水田と畑に変貌しました。

 

 スサ族は吉井川中流域を統括する中富(中臣)族と共同して、荒地を開墾していく土木集団となり、あちこちで歓迎されながら、津山盆地や吉井川下流地域へと勢力を拡大していきます。スサ族の象徴として分銅形土製品が創案されます。

 スサ族の首領は周匝に本拠地に置き、スサ王国ができあがっていきます。オオヒルメとスサノオ(スサの男)がウケイ(誓い)の対決をした後に富族と忌部族が仲裁する高天原神話、スサノオが大蛇を退治するヤマタノオロチ神話が創作されていきます。中国山中の5部族は太陽神オオヒルメの息子神、宗像族はスサノオの娘神となります。 

 

(周匝周辺の神社)

 スサノオ神話の根源地は西出雲の斐伊川流域と見なすのが既成観念となっていますので、高天原神話、ヤマタノオロチ神話の発祥地は、吉井川中流の赤磐市北部(前吉井町)と美咲町の柵原地域とする自説に納得されない方々も多いことと察しますが、神社等の分布から裏づけていくとこができます。

 

 赤磐市と美咲町の境に神(高)ノ峰(標高517メートル)がそびえていますが、南麓にスサノオがヤマタノオロチを斬った剣を洗った「血洗いの滝」と宗形神社があります。宗形神社には、かって神ノ峰の山頂付近にあった太陽神を祀る神峰伊勢神社、オオナムチを祀る神峰神社と剣祓神社の3社が合祀されており、平安時代に編纂された延喜式神名帳以前に存在した是里4古社となっています。神ノ峰の北側にはスサノオを祀る上山宮、八神(ねりがみ)の地名があり、吉井川を挟んで周佐(すさ)、柵原鉄鉱山跡(ふれ合い鉱山公園)があります。

 

 吉井町にある石上布都魂(いそのかみふつたま)神社はスサノオないし剣神フツヌシを祀っていますが、日本書紀のヤマタノオロチ紀第3書で「スサノオが蛇を斬った剣は吉備の神部にあり」と紹介されており、大和の石上神社の元宮です。祀られていた剣は崇神天皇の時代に石上神社に遷された、という伝承は、吉備邪馬台国を破って倭国の新しい盟主となった大和が、邪馬台国の象徴の1つであったスサノオの剣を首都に持ち去ったことを語っています。

 

 

4章 吉備邪馬台国の歴史

4.吉備邪馬台国の膨張 

         弥生中期後半(前5075年頃) 

 

(第1次高地性集落の流れ)

 弥生中期後半に入ると北部九州の伊都国と奴国は全盛期に入ります。伊都国は国際的な港湾都市国家として発展し、王墓の三雲南小路墳丘墓がその繁栄を伝えています。奴国では青銅器、鉄器、ガラス製品の加工と生産が飛躍し、須玖(すく)遺跡群は弥生時代最大の青銅器生産地となります。奴国にとっては本州西部と九州全体を統一する絶好のチャンスでした。

 

 この頃、北部九州以外でも環濠集落の内区の中に巨大な高殿を建てた例が増えていきます。また瀬戸内海地域を主体に第1次高地性集落が拡がっていき、瀬戸内海や近畿地方で戦闘用に大型化した武器が大量に作られていきます。西・中部瀬戸内地域では平形銅剣、出雲・山陰地域では中細形銅剣Cが始まり、河内湾周辺では中期後半以降に戦争が増えていきます。高地性集落は低地の大型集落の近くの高地に作られ、のろし通信機能と防御性を備えた砦の機能を持っていますが、中期後半の銅鐸が第1次高地性集落のすぐ近くで発見されます。

 

 本州西部での変化について、寺沢薫氏は「ナ国とイト国が前漢帝国の権威を笠に、一層強大な部族連合を形成したことが、関門海峡を越えた以東のクニグニに現実的な緊迫感をもたらした」(講談社 日本の歴史02「王権誕生」P.201)と推論されています。しかし奴国が瀬戸内海地方や東部九州を征服して倭国を建国した形跡はありません。逆に奴国は弥生中期後半に頂点に達した後、退潮していく傾向が見えます。

 私は第1次高地性集落は分布の中心部に位置する吉備と讃岐が発火点で、吉備と讃岐勢力が吉備邪馬台国へと発展していく膨張過程を物語っていると考えています。吉備、讃岐、播磨、摂津、淀川と大和川水系、、阿波などで、米を主体に穀物の生産が増大してクニグニが勃興していくと同時に北部九州諸国はこの地域から輸入される米や穀物への依存度が高まっていきます。この流れは吉備で弥生中期半ばに発生した分銅形土製品(第25.参照)とスサノオ系の神々の流れときれいに一致します。

 

(スサ族の勢力拡大)

 周匝(すさい)を本拠地としたスサ王国の初代王は2人の后を持ち、クシナダヒメとカミオオイチヒメ(神大市媛)に神話化されます。大土地開墾集団となったスサ集団は3方向へと勢力を拡げていきます。東は西播磨から近畿地方へ、北は中国山地を越えて日野川流域に入り伯耆と東出雲へ、西は吉井川、旭川。高梁川、芦田川の吉備4大河川の沖積平野へと進んでいきます。

 

 まず東勢力を見ますと、スサノオとカミオオイチヒメとの間に誕生した息子神オオトシの子孫が拡散していきます(「邪馬台国吉備説 神話編」P.120~P.124参照)。オオトシを祀る神社は兵庫県の姫路市から神戸市にかけて、ことに神戸市に密度が高くなっています(神戸市西区・宮前大年神社 )。同市灘区の桜ヶ丘遺跡から銅鐸14個、大阪湾型銅戈7本が発見されましたが、西から来たスサ族が土着勢力を破った後に奪った銅鐸と銅戈を埋納した情景が浮かんできます。

 オオトシは3人の后をもちます。后カガヨヒメはミトシ(奈良県御所市・葛城御歳神社)など2神、

后アメシルカルミヅヒメはオオヤマクイ(滋賀県大津市・日吉大社、京都市西京区・松尾大社)など10神、后イヌヒメはオオクニミタマ(奈良県天理市・大和神社)など5神をもうけます。

 オオトシ系スサ族は神戸を拠点に淀川、河内湾、大和川流域へと地元勢力を破りながらクニグニを建設していった、と推測しますと、近畿地方での第1次高地性集落の分布、中期後半以降に河内湾周辺で戦争が増えていったことと符合します。大和盆地の敵国として神武神話に登場する登美(とみ)国も吉備のスサ族か富族の末裔でしょう。

 

 津山盆地と吉井川流域を本拠とする本家筋はオオトシ系よりも時間をかけながら、じっくりと肥大化していきます。スサノオとクシナダヒメからヤシマジヌミが生まれ、6代目オオナムチ(大土地王)まで大きな変化はありませんが、一代は約20年とするとオオナムチの登場は1世紀半ば頃となります。

 

 オオナムチは古事記ではアシハラシコヲ、ヤチホコ、オオクニヌシ、ウツシクニタマの4神、日本書紀ではオオモノヌシとオオクニタマを加えて6神と同一の神としています。オオモノヌシは吉備・讃岐系、アシハラシコヲは西播磨系、ヤチホコは伯耆・因幡・越系、オオクニヌシは西出雲系と私は判断しています。

 

 本家筋の膨張過程を私は次のように考えています。

1段階:前50年~1世紀前半

西播磨勢力:津山盆地と連動していますが、オオナムチがアシハラシコヲとなります。

伯耆勢力:淀江が日本海の外港になり、巨大な高地性集落である妻木晩田(むきばんだ)遺跡を築き、東出雲まで勢力を伸ばしていきます。オオナムチがヤチホコとなります。

下市勢力:吉井川、旭川、高梁川、芦田川の吉備4大河川の沖積平野を開墾していきます。備後勢力は中国山地の三次盆地に進出し、四隅突出弥生墳丘墓が発生します。オオナムチはオオモノヌシとなります。

 

2段階1世紀半ば

 出雲国風土記を読むと、東出雲のスサノオは平和的で、アオハタサクサヒコ、ツルギヒコ、イハサカヒコなどの子神も作り、ヤツカミズオミヅノとカミムスビ系と共存していますが、西出雲ではオオナムチが大原郡の木次(きすき)で「八十神は青垣山の内側にはいさせまい」と宣言するなど大原郡での描写に戦闘関連の伝承が幾つかみられます。

 

 私の連想では、伯耆・東出雲勢力と三次勢力が斐伊川で合流して西出雲王国を征服し、奪った銅剣や銅鐸を荒神谷遺跡(銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個)、加茂岩倉遺跡(銅鐸39個)に埋納します。出雲に吉備の傀儡王国が生まれ、スサノオ神話と四隅突出弥生墳丘墓が西出雲に伝播します。オオナムチはオオクニヌシとなります。

 

(中国、半島、伊都国、奴国の動き)

 中国では前漢が衰弱し、8年に王莽が新王朝(825年)を建国して貨泉を発行しますが、長続きはせず、25年に光武帝(在位2557年)が後漢を樹立します。伝説では42年に朝鮮半島の伽邪地方で首露(すろ)が9干を征服します(第33(3)の2参照)。57年に倭の奴国が後漢に遣使を派遣して金印を授与され、後漢の柵封体制に組み込まれます。

 

 なぜ奴国が後漢に遣使を送ったか、を考えていきますと、①伽邪地方で支配者が9干から首露に代わる動乱が発生したため、奴国は後漢との直接交流を試みた、②吉備邪馬台国勢力の膨張に危機感を抱き、自らの地位を保全するため……の2点が理由に挙げられます。

 

 後漢から金印を授与された奴国は自他ともに倭国の中心国として認知されますが、奴国は周辺の国々を征服していく軍事大国には至りませんでした。

 

 その理由として、①奴国は西の伊都国と東の宗像国に挟まれていた。宗像族は瀬戸内海勢力との結びつきが強かったため、奴国は単独では東侵できなかった、②産業センターとしては発展したが、米や穀物は瀬戸内海や出雲地方からの輸入に依存していた、③農地に限界があり、戦闘時に兵士として活用できる農民の絶対数が不足していたため、軍事国家としては成立できなかった・・・・・・などが挙げられます。

 

      

4章 吉備邪馬台国の歴史

5.吉備邪馬台国が西日本の覇者に   参照:補遺その1-2.中臣氏と吉備邪馬台国

       弥生後期(75年~190年頃)

 

 私の邪馬台国吉備説は、いよいよ弥生後期に吉備邪馬台国が北部九州の奴国と伊都国までを傘下に置いて、西日本の盟主、倭国の盟主となる佳境に入ります。

 

 弥生後期に入ると奴国は衰えが目立つようになります。この理由として寺沢薫氏は、奴国は伊都国に吸収され、後期末まで伊都国が倭国の盟主を維持していくと主張されます。107年に倭国王帥升(すいしょう)らが後漢に朝貢しますが、帥升は107年直前に奴国を含めた北部九州全域と対馬、四国西南部を統括してイト国連合体(倭国)を築いた伊都国王であり、その王墓は井原鑓溝(やりみぞ)遺跡と、寺沢氏は推定されています(講談社 日本の歴史02「王権誕生」P.218~P.220)と推定されています。

 しかし伊都国が原倭国であるイト国連合体の首都となったとした場合、伊都国の経済が発展し人口も増大したはずですが、その痕跡はありません。井原鑓溝遺跡に埋葬された王の後、200年前後に造営されたと見られる平原遺跡の王墓までの約100年間、現時点では伊都国から大規模な王墓は発見されていません。伊都国の支配下で奴国の産業発展が継続した痕跡もありませんし、伊都国の西南部に位置する吉野ヶ里遺跡など有明海沿岸地域も頂点は弥生中期で、後期に隆盛した気配はありません。

 

 私は奴国と伊都国は1世紀の80年年頃に吉備邪馬台国勢力の傘下に組み入れられた、と解釈しています。

 

(吉備勢力の西征)

 スサ族は近畿地方へと拡散してクニグニを打ちたて、日本海側では西出雲王国を制圧して新出雲王国を打ち立てましたが、周匝(すさい)の本家からは西播磨、伯耆、吉備の3勢力が分かれていきます。このうち、下市に本拠を置いた吉備勢力は吉井川に加えて備前の旭川、備中の高梁川、備後の芦田川の沖積平野の開墾を通じて米の生産量を高め、西播磨と伯耆勢力をはるかに凌いでいきます。西への比重が強まった吉備勢力は下市から足守川に拡がる平野部に拠点を移し、吉備中山に王宮を築きます。海と接する吉備中山は砦の役割を果たし、吉井川や旭川に較べると洪水の恐れが少ない足守川河口は西への勢力拡大の前線地となります。

 

 勢力を拡大していくスサ族勢力にとって、どうしても必要なものは鉄の確保でした。鉄は武器用だけでなく、大土地を開拓し維持していく農機具として必要不可欠でした。スサ族は微高地型と微低地型を組み合わせた沖積平野の大型水田の開発で勢力を拡げていきますが、その開墾と維持には板の先端に鉄製の刃先をとりつけた鋤(すき)と鍬(くわ)や収穫用の鉄鎌(かま)が欠かせません。北部九州の奴国と伊都国を勢力下に置いて、鉄の輸入ルートを手中にすることが吉備勢力の最終目標となり、同じように鉄農具を必要とする新出雲王国も加勢していきます。

 

 吉備勢力は1世紀後半、中臣、忌部、宗像の3部族も連動して西へと勢力を伸ばしていきます。安芸と伊予は吉備勢力に従い、豊前を中心に東部九州も勢力圏に組み入れていきます。

 

 日向のヒコイツセ・神武兄弟が宇佐に滞在していた宗像族と中臣族の手引きで、遠賀川河口の岡の湊の警護役として雇われたのはその頃のことで、私は75年頃と推定しています。ヒコイツセ・神武兄弟が率いる日向集団は勇猛さが評価されて、岡の湊から投馬国の首都圏である太田川河口の警護役となり、その後、吉備勢力の本拠である穴海と吉井川河口の警護役へと階段を上っていきます。

 

(吉備邪馬台国が倭国の盟主に)

 80年頃、西播磨と伯耆の勢力も合流して、足守川の吉備津を首都とする吉備邪馬台国王国が確立します。 周匝の本家はスサ族の本貫として近畿地方と出雲も含む広域のスサ族の象徴王家として存続します。

 

 吉備勢力は岡の湊に集結して奴国への進軍を海と陸から開始します。伊都国の井原鑓溝遺跡の王が他界した直後かもしれません。奴国は伊都国の支援も受けて防戦し、後漢から授与された金印は志賀島に隠匿されます。

 

 鉄鏃など鉄製の武器では吉備勢力は奴国・伊都国連合より劣っていましたが、サヌカイトを使った石鏃も強力で、鉄鏃と劣らない殺傷力がありました。その上、出雲、安芸、伊予、豊前の勢力も加わった吉備勢の兵力の数は奴国・伊都連合を圧倒していました。奴国と伊都国の誤算は北部九州勢力のトリオの一角をになっていた宗像国が完全に吉備勢力についたことでした。

 

 あっという間に奴国・伊都国連合が敗れ、奴国の工人は豊前や瀬戸内海の吉備王国圏や出雲王国へと徴発されていきます。後漢と朝鮮半島の窓口としての伝統とノウハウを持つ伊都国王家は延命しますが、吉備邪馬台国の傀儡政権となります。

 

 107年、吉備邪馬台国の初代王となった帥升(すいしょう)は傘下の国々と連合して後漢に遣使を送り、自ら進んで後漢の冊封体制に入ります。帥升は戦争捕虜奴隷である生口を160人献じますが、多くは奴国と伊都国の兵士だったでしょう。彼らを後漢政府に証しとして示すことにより、名実ともに帥升が倭国の盟主となったことを宣言したわけです。狙いは当然、伽邪地方の鉄の確保にありましたが、後漢の舶来物の輸入の独占もありました。

 

 吉備邪馬台国の領域は吉備4地方、讃岐、伯耆、西播磨と広域に広がりました。影響圏は九州東部と北部から中国・四国・近畿地方までで、それが倭国の領域です。讃岐の高松市を訪れた際、岡山市に本社を置く百貨店「天満屋」の支店がありました。天満屋の支店網を調べて見ると、広島市、福山市、倉敷市、津山市に加えて、伯耆の米子市にもありました。まさに私が推定している吉備邪馬台国と投馬国の領域です。偶然かもしれませんが、地域流通網は古代から現代まで変化していないようです。

 

(吉備邪馬台国の隆盛)

 吉備勢力が伊都国・奴国を制圧したことにより、日本列島の中心は北部九州から中国・四国地方に移っていきます。 イソタケルを信奉する伽邪地方の海人たちの船が日本海や瀬戸内海に寄港するようになり、水深が深い高梁川の河口の酒津が吉備邪馬台国の国際港となります。伽邪地方の海人たちは紀伊まで進み、紀伊の豊富な杉を伐採して造船術を伝えます。イソタケル海人の足跡は熊野や熊山の地名やイソタケルを祀る神社に残されています。(注:「くま」は古代韓語で「神」を意味する、とする説があります)

 

 近畿地方では奈良盆地、山城盆地、南河内平野など河川をさかのぼった平野の奥地や盆地の開拓が進み、第2次高地性集落が拡がっていきます。その動きは関が原や伊賀盆地を越えて、伊勢湾沿岸地域まで広がり、後期末の2世紀末頃には北陸や東海地方にも高地性集落が出現するようになります。

 

 吉備邪馬台国ではオオモノヌシ信仰と祭司と神話の体系が整っていきます。銅鐸は鈴へと変化していき、銅鐸の紋様は特殊壺・器台へ継承されていきます。2世紀中頃になると、地域色の強い土器が各地でしのぎを削るようになります。瀬戸内海では円丘墓が突出部を設けて前方後円墳を志向し始め、出雲地方では四隅突出形方形墓が定着します。

 

 2世紀後半に入ると、後漢は分裂状態に陥っていきます。184年に黄巾の乱が起き、190年に後漢王朝は事実上滅亡して軍閥混戦の三国志の世界に入ります。 柵封体制にもひび割れが生じていきます。

 

 吉備邪馬台国は3代目か4代目の楯築王の時代に絶頂期に達しますが、跡継ぎの指名がないまま、180年代に急逝します。楯築王の姉か妹は出雲王国に嫁いでいましたが、それが倭国大乱の要因となります。

 

                 

4章 吉備邪馬台国の歴史

6.投馬国は広島市太田川流域

           (参照:補遺1-1.投馬国・広島湾説

 三国志・魏志倭人伝で紹介される奴国と邪馬台国の間にある不弥(ふみ)国と投馬(とうま)国の所在地論争もまだ決着がついておりません。

 

 不弥国の港は福津市津屋崎と私は推定しています。投馬国は邪馬台国大和説では広島県福山市の鞆(とも)、岡山県の吉備津、香川県の高松市などが候補地に挙げられていますが、私は「邪馬台国吉備説 神話編」で出雲の出雲大社周辺、安芸の太田川河口地域、伊予の松山市周辺の3地域を候補に挙げました(P.453~P.454)。

 

 3か所を候補に挙げた理由は、

邪馬台国の首都を足守川流域とすると3か所とも距離的に魏志倭人伝の描写に合致する、

②3か所とも近くに宗像族系の神社が存在する。出雲は淀江に近い米子市(宗像神社)、安芸は宮島の厳島神社、伊予は今治市(姫坂神社)が代表例、

2点です。

 

 3か所のうち西出雲説では邪馬台国の外港は淀江となり、淀江で陸揚げして日野川をさかのぼり、中国山地の四十曲峠を越えて旭川に入る、というコースになります。魏志倭人伝の「水行10日、陸行1月」を「投馬国から海路10日進んだ後、陸路で1か月進む」と解釈すると妥当性があります。「海路なら10日、陸路だと1か月かかる」と解釈すると安芸説が有利となります。しかし宮島から太田川河口地域は内陸部に窪んでいますから、津屋崎から関門海峡を南下して宇佐に至り姫島経由で松山市、大三島経由で足守川に至るコースと距離的にはほぼ同じとなります。海流の影響を考慮すると松山説も妥当で、実際に松山市内に文京遺跡という大規模な弥生後期の集落があります。

 

 おそらく不弥国から吉備邪馬台国に至る交易ルートは3ルートがあったのでしょう。

 

(投馬国・太田川河口説が有力に)

 私は3か所の中で、どこを投馬国か特定できないでおりましたが、広島市安佐北区に在住される、私より年長の従兄弟の広畠饒二(じょうじ)氏から、太田川の支流の安川に伴(とも)という地名があり、投馬国だったのではないかという連絡を受けました。

 

 ちなみに私の両親は父が広島市に隣接する府中町、母が広島市宇品の出身で、父方の遠祖は安佐北区に拠点をおいた平家の末裔です。

 

 投馬国は宮島から廿日市市、佐伯区五日市、太田川河口にかけてのどこかではないか、ことにスサノオと関連する安佐南区の祇園町と私は見当をつけていましたが、安川は祇園町から少し上流の古市辺りに注いでいます。饒二氏の説明では沼田町伴は古市から五日市町を結ぶ古道の中間地点にあたり、国・郡・郷制ができた頃は土茂郷だったようです。

 

 古代の太田川周辺の地理をさぐっていきますと、江戸時代までは広島城辺りが浜辺で、現在の広島市の中心街は海中にありました。古道はJR山陽本線に沿って流れる瀬野川河口から府中町を経て戸坂で太田川を越え、東原、古市から安川に沿って伴に上がり五日市に下るルートだったようです。

 

 すると、ヒコイツセ・神武天皇兄弟が府中町の埃宮(えのみや)に滞在した伝承とも辻褄が合います。兄弟が率いる集団は瀬野川と太田川の河口を警護していたわけです。芸備線に沿って流れる三條(みささ)川も古市から少し上がった八木町、深川(ふかわ)町で太田川本流と合流しています。三條川の上流は高天原伝説がある大土山辺りで、すぐ側に日本海に注ぐ江の川が流れており、三次盆地圏内に入ります。

 

(スサノオとオオトシ系の神社)

 饒二氏にお願いして、安佐南区周辺のスサノオを祀る神社を調べていただきました。祇園町でスサノオを祀っている神社は安(やす)神社でした。1020km圏内では摂社を含めて7社、ことに安芸区では4社がありました。

 

 驚いたことにスサノオの孫神で神戸市など兵庫県に多いオオトシを祀る神社が5社がありました。近畿地方と安芸を結ぶ海の交易も盛んだったのでしょう。これに加えて、スサノオとオオトシの両神を祀る神社が8社、スサノオと他の神を祀る神社が8社ありました。

 

 スサノオとオオトシを祀る神社が多いから吉備邪馬台国圏に属していると単純には言い切れませんが、イチキシマヒメを主体に宗像3女神を祀る厳島神社(いつくしまの語源はイチキシマ)がある宮島は古代から聖域でしたから、吉備のスサノオと北部九州の宗像神とを結ぶ地であったことは確実で、投馬国の性格を充分に示しています。

 

 問題点は、太田川流域の安佐南区、高陽地区と可部町、左側の佐伯区五日市と廿日市市、右側の府中町では確かに小規模の弥生遺跡が密集していますが、まだ弥生時代後期の大規模集落と集合墳墓地が発見されていないことです。安佐南区と安佐北区は丘陵地も含めかなり宅地開発が進んでいるようですが、大きな発見がありません。

 

 いずれ投馬国の現場検証で現地を歩いてみる予定ですが、私は80%の確立で投馬国は太田川流域で間違いがないと判断しています。

 

 

4章 吉備邪馬台国の歴史

7.倭国大乱とヒミコの登場 

          弥生終末期前半(190247年)

(倭国大乱)

 中国の歴史書が伝える180年前後に発生した倭国大乱の原因については、色々な推測がされてきました。

弥生後期に西日本地域での鉄の普及が進んだ結果、国々の勢力争いが高まったため、

後漢の衰微により倭国の盟主だった伊都国の力が衰えてバランスが崩れたため、

九州勢力の東征の状況を示している、

大和対出雲の争い、

など諸説噴出しています。

 

 最近では倭国大乱後、吉備を主体にした西日本勢力が大和盆地に入り、邪馬台国を打ちたて、ヒミコを共立した、とする説が有力になっていますが、これは明治維新をモデルにした連想にすぎません。明治維新でも徳川幕府と尊王派での戦争があったように、当然、大和の先住王国との戦争があったはずなのに、その痕跡はありません。

 

 これまではあまり倭国大乱との関係が注目されてきませんでしたが、なぜ200年前後に吉備に楯築墳丘墓、出雲に西谷2号墳丘墓、阿波に萩原2号墳丘墓と、大型の墳丘墓が突如として出現し、北部九州の伊都国にも平原遺跡が登場したのか。さらになぜ出雲の西谷墳丘墓に楯築墳丘墓で祀られたものとほぼ同時代に吉備で造られた特殊壺・器台がわざわざ中国山地を越えて祀られたのか、について焦点をあてていく必要があります。同じ頃、大和盆地でもホケノ山古墳が建造された、とする説もありますが、ホケノ山など巻向の初期古墳の発生は第7代孝霊天皇時代の220230年頃と見るのが妥当です。

 

(自説では倭国大乱は吉備邪馬台国の後継戦争)

 楯築王が他界した後、真っ先に課題となったことは後継の王を誰にするか、でした。楯築王には子供ができず、後継者の準備もしていませんでした。真っ先に後継王に名乗りをあげたのは出雲王国の王でした。出雲王の母は吉備から嫁いだ楯築王の姉姉妹でしたから、それなりの正当性がありました。

 

 これは英仏100年戦争(13371453年)の発端によく似ています。1328年にフランスのシャルル4世が亡くなり、男子継承者がいなかったことからカペー王朝は断絶し、従兄弟のフィリップ6世が王位を継いでヴァロワ王朝が始まります。これに対してイギリスのエドワード3世は母がシャルル4世の妹イザベラであることを理由にして王位継承を主張し、英仏百年戦争が始まります。

 

 しかし出雲勢力に対し、備前、讃岐、西播磨、阿波の勢力が大反対をしたため、吉備邪馬台国連邦である倭国は大混乱におちいります。内戦は出雲・備後勢力と備前・讃岐・阿波勢力が拮抗ししていたため、数年から10数年続きます。

 

 吉備邪馬台国圏が倭国大乱に陥っていた頃、大和盆地の狗奴国では第5代孝昭天皇が東海地方を制圧します。詳細は第5章3.に書きますが、これが狗奴国伸張のきっかけとなります。

 

 ヨーロッパや中国などと異なる日本の歴史の独特なところは、大戦争になる前に、どこかで着地点を探し出すことです。倭国大乱の場合は、中臣、忌部、宗像の3部族が調停役となり、周匝のスサ族宗家の長女ヒミコを女王に即位させる案で収拾がつきました。

 

 190年代の半ば頃、倭国最大規模の楯築王の墳丘墓で、連邦各国の王が集まって盛大な就任式が執り行われ、立坂(たちざか)形の特殊壺・器台が飾られました。それでも自分が倭国の盟主だ、と自負する出雲王は特殊壺・器台を出雲に持ち帰り、後に墳丘墓に置かれます。

 

(ヒミコの女王就任と独立性を強めた出雲、阿波と伊都国)

 女王に就任したヒミコと政府首脳人の船出は難航し、大変な毎日が続きました。後漢の衰微で後ろ盾を失い、後漢との交易も不安定となり、伊都国、奴国など北部九州の国々が独立性を強めていきます。

 

 伊都国は独立性を取り戻し、出雲・日本海向けや九州西部諸国への交易で繁栄していきます。出雲王国は瀬戸内海の吉備邪馬台国に対抗するように2世紀に日本海沿いに勢力を伸ばし、オオクニヌシ信仰圏は越後まで達し、さらに信濃川に沿って信州、阿賀野川に沿って会津盆地にまで勢力を拡げていきます。山中の水銀朱の産出に加えて、吉野川の扇状地開墾と麻、木綿(ゆう)の栽培に成功した阿波国は黒潮に乗って、紀伊半島南部や三河、遠江、駿河、伊豆、房総半島へと太平洋側に拠点を広げていきます。

 

 出雲の西谷墳丘墓、阿波の萩原墳丘墓、伊都国の平原遺跡と、3王国は競って、自国の繁栄と強勢を誇示するために楯築墳丘墓に匹敵する大型の墳丘墓を構築していきます。丹後半島でも赤坂今井墳丘墓が造られます。

 

(ヒミコと帯方郡)

 ジリ貧となった吉備邪馬台国の転機となったのは、204年に中国東北部の公孫氏が帯方郡を造り、朝鮮半島南部の諸国への統制を強めたことです。210年頃、公孫氏の使者が帯方郡から訪問し、中国との直接貿易が復活し、伊都国の警備が再整備されます。

 

 ヒミコ政権は楯築王の死の前と同様に帯方郡交易を独占します。再び中国の文化や物産などが直接、吉備に入るようになり、ふらついていたヒミコの治世が上向いていきます。

 

 ヒミコは五斗米道や陰陽五行説に興味を示し、王位の権威付けに利用しました。帯方郡からの使者や交易人の中に黄巾の乱をおこした太平道の残党も混じっていたかもしれません。衣装や化粧も中国式に切り替えるイメージチェンジにより、ヒミコの神秘性が増していきます。

 

 反面、帯方郡との密な交流、伽邪地方の海人の増大は、宗像族にとっては交易の利権を奪われていくことにつながったため、宗像族は建国以来、縁が強かった大和狗奴国との関係を強めていきます。

 

 220年代に入り、大和狗奴国が瀬戸内海東部に勢力を伸ばし、淡路島に次いで阿波王国を併合します。ヒミコ邪馬台国の新しい強敵が間近に迫ってきました。

 

(魏への遣使)

 中国では、220年に後漢から曹氏の曹丕に禅譲されて魏王朝が成立し、魏、蜀、呉の三国時代となります。

 

 238年に魏が公孫氏を破り、帯方郡の新しい支配者となると、ヒミコ政権は即座に反応して、翌年239年陰暦6月に遣使を送ります。吉備には伽邪地方の海人や帯方郡の人間の往来が増え、帰化人(渡来系倭人)も増えますが、難升米(なしめ)も帰化人の可能性があります。

 

 245年に半島北部では高句麗が魏に反旗をひるがえし、それに呼応するかのように南西部の馬韓諸国も245年と246年に帯方郡を攻撃します。宗像族を通じて馬韓諸国の反乱を知った大和狗奴国は吉備邪馬台国への攻撃を仕掛け、ヒミコに再び至難が訪れます。しかし魏は高句麗と馬韓諸国の反乱を鎮圧します。帯方郡はヒミコの要請を受けて、張政を筆頭にした援軍を送り込み、狗奴国との戦いは停戦となります。

 

 247年に長寿をまっとうしたヒミコは楯築王の墓から700メートルばかり離れた鯉喰神社弥生墳丘墓に祀られ、向木見(むこうぎみ)形の特殊壺・器台が祀られます。男王が跡を継ぎますが、ヒミコの隠し子だったのではないか、と思ったりもします。男王は臣下の一部や諸国の同意が得られず、内紛となりますが、讃岐の忌部族に嫁いだヒミコの妹の息子の娘トヨが女王に就任することで内紛がおさまります。

 

                   

4章 吉備邪馬台国の歴史

8.最後の女王トヨ 

      弥生終末期後半(248266年)

 

 ヒミコの跡を継いだ邪馬台国の女王トヨはヒミコに較べるとあまり注目されてきませんでしたが、倭国の盟主が吉備邪馬台国から大和狗奴国へ移行する際の橋渡し役として、宿命的な役割を果たした悲劇のヒロイン、と私は考えています(第1章8.参照)。

 

 トヨは中国の歴史書に2回登場します。1つは三国志・魏志倭人伝で、247年か248年に13歳で女王に就任します。もう1つは日本書紀の神功皇后66年紀に掲載されている「晋の起居の注」で、266年に「倭の女王が晋に遣使した」と記されています。トヨとは書かれていませんが、晋は265年に魏から禅定されていることから、トヨと推定されています。トヨは帯方郡の支配者が公孫氏から魏に変わった際に即座に遣使を派遣したヒミコの外交政策を踏襲したわけです。

 

 266年以降のトヨの消息は不明ですが、トヨは3132歳と妙齢の年頃でした。

 

(トヨとヤマト‐トトビ‐モモソヒメは同一人物)

 第1章8.で書きましたように、私はトヨとヤマト‐トトビ‐モモソヒメの双方を追っていくうちに、二人は同一人物と判断するようになりました。

 

 吉備邪馬台国が266年頃、大和狗奴国に敗北した後、30代初めのトヨは人質ないし第9代開化天皇の后候補として大和に連れていかれ、大吉備津彦(イサセリビコ)の同腹の姉ヤマト‐トトビ‐モモソヒメとして遇された、とするものです。

 

 巻向の箸墓に祀られる人物もヒミコではなく、日本書紀の記載(崇神紀10年)どおり、ヤマト‐トトビ‐モモソヒメすなわちトヨであると考えています。箸墓の主はヒミコであるとする説も根強くありますが、巨大な定型前方後円墳である箸墓と特殊壺・器台の第3期にあたる宮山形が造られた時期は250年頃なのか280年頃なのか、がヒミコかヤマト‐トトビ‐モモソヒメか、の分かれ目となります。30年の差を科学的に証拠づけることは私には不可能ですが、どう考えてみても250年頃は早すぎ、約30年後の280年頃が無難であるようです。特殊壺・器台やオオモノヌシ信仰が吉備から大和に移入したのは吉備邪馬台国が大和に征服された後のことになります。

 

 以下は私が思い描いている大和狗奴国による吉備邪馬台国征服の筋書きです。

 

(帯方郡への依存を強めたトヨ体制)

 魏志倭人伝では「トヨはヒミコの宗女(一族)」と書かれていますが、私の想定ではトヨはヒミコの妹で讃岐の忌部族に嫁いだ女性の息子の娘で、トヨにとってヒミコは大叔母となります。生地は高松市の田村神社、船山神社(共に祭神はヤマト‐トトビ‐モモソヒメ)、百相(ももそ)にかけての地域と考えます。

 

 13歳で何も分からなかったトヨは帯方郡の張政が帰国する前に託した激励の言葉を心に刻み、魏の張政が残した支援体制に依存していきます。桃太郎伝説の敵方として登場するウラ(温羅)は言い伝えでは百済出身となっていますが、帯方郡の張政に伴って吉備に渡来し、張政が帰国する際に後を託した将軍だったのではないか、と推測しています。ウラは鬼城山麓の阿曽に住むアソヒメをめとり帰化人となります。吉備津神社の外陣にはウラと一緒に弟のオニ(王丹)も祀られていますが、オニは「鬼」を連想させます。オニは兄ウラが討ち死にした後、ゲリラ隊を指揮って大和軍に抵抗したのかもしれません。

 

 トヨが力を注いだのは帯方郡の技術を使って大規模な灌漑用の貯水池を各地に造っていったことです。ことに生まれ育った讃岐は降雨量が少なく、ひんぱんに日照り被害が発生しますので、力を入れ、讃岐の農民の恩人となります。

 

 大和狗奴国とは西播磨の揖保川を境界線にして、にらみ合いが続いていきます。

 

(宗像族の離反)

 トヨ体制の判断ミスは、魏と帯方郡に依存するあまり、民族系の交易者である宗像族をおざなりにしてしまったことです。宗像族は吉備津でも大窪に拠点(宗形神社)を持っていましたが、半島との交易や利権は伽邪地方の海人が中心になってしまったことに不満を強めていました。安芸王国と伊予王国も中継交易のうまみを失っていき、宗像族に同調していきます。しかしトヨ体制はそれに気がつきませんでした。宗像海人は大和狗奴国への接近を強めていきます。

 

(中国では魏から晋へ)

 中国では魏の実権は司馬氏が握るようになり、司馬氏による中国全域の統一化が現実味を帯びていきます。魏は敵対する蜀と呉のうち、まず263年に蜀を滅ぼして三国時代を終了させ、江南の呉の勢力も弱まっていきます。26512月、魏は司馬炎に禅譲されて晋国が誕生し、司馬炎は晋の武帝(在位265290年)となります。

 間髪を入れずに、翌春、トヨは遣晋使を派遣します。トヨと邪馬台国の思惑は、当然、洛陽の新政権との信頼関係の確認にありました。しかし武帝の関心は南東と南西に向いており、倭国と朝鮮半島を含めた東方政策にはあまり乗り気ではありませんでした。武帝は280年に呉を併合し、60年ぶりに中国全土が統一されます。

 

(狗奴国の総攻撃)

 宗像族を通じて魏から晋への政権移行を知った大和狗奴国の開化天皇は、播磨の氷川に陣取る吉備津彦兄弟(開化天皇の叔父)に、吉備邪馬台国攻撃の号令を発します。

 奇襲攻撃はまず海から始まります。宗像族の海人を水先案内として、大和軍は吉井川と旭川の河口を襲って制海権を握ります。その後、西播磨と備前を制した陸軍が王宮がある吉備中山を包囲します。トヨは包囲される寸前に王宮を逃れ、生まれ故郷の讃岐の百相に避難します。

 吉備中山を包囲した大和軍は、笹ヶ瀬川上流に前線基地を置きました。笹ヶ瀬川の上流、楢津の近くに、ウラの首をさらした伝説がある首部(こうべ)の白山神社があります。また京山には尾針神社があることから、陸軍を率いた大将は尾張族であったろうと想像しています。水軍(海軍)の主力は河内を拠点とするアマツヒコネ(天津彦根族)ですが(以下、加筆する予定です

 

(トヨの大和入り)

 吉備を征服した大和軍は、ようやく讃岐に逃避したトヨを探しあて、大吉備津彦(イサセリビコ)はトヨに大和入りを懇請します。トヨとイサセリビコの交渉は長い日数がかかりましたが、讃岐や邪馬台国圏の住民へ危害を加えない、という条件でトヨは人質になることに同意し、大和行きを承諾しました。

 

 その後のトヨの動静は第5章7、と第6章1.、2.でご紹介します。

 

 

5章 大和狗奴国の歴史  参照:補遺3-1.「欠史八代説」を皇別氏族から検討すると

1.神武天皇の大和入り

         (弥生後期初め 80年頃)

 

(天孫降臨神話)

 神武天皇(イハレビコ)の系譜はアマテラスから始まります。アマテラスの息子は5男神で、このうち長男のアメノオシホミミがタカミムスビの娘タクハタチヂヒメ(ヨロヅハタヒメ)と結婚してホノニニギが生まれ、アマテラスの命令を受けて、5伴緒に守られて赤子のホノニニギは天から九州東南部の日向の高千穂に降臨します。 

 第332.と3.で紹介しましたように、この天祖降臨伝説は朝鮮半島の扶余族や伽邪地方の始祖誕生神話とよく似ているから、神武天皇の先祖は半島から渡来してきた、とする半島起源説が根強く流布しています。ところが半島の始祖伝説では卵ないし赤玉が地上に降りて孵化しますから、厳密に見ると、天から降りてきた以外はきれいに合致しているわけではありません。

 

(銅矛文化圏と日向神話)

 天孫降臨神話は、大和狗奴国が勢力を強め始めた第5代孝昭天皇以後に、大和地方で脚色されたものですが、ホノニニギ以降の神話は弥生中期後半の九州北部、本州西端、九州東部、四国西部に拡がる中広形銅矛(ほこ)文化圏と九州東南部の襲()地方の海人部族との接触によって創作されたようです。

 

 伊予を根源地とするオオヤマツミ(大山祇神社)は地上に降り立ったホノニニギに娘姉妹イハナガヒメとコノハナノサクヤヒメを差し出し、ホノニニギは不細工の姉イハナガヒメをしりぞけ、妹コノハナノサクヤヒメと結婚します。コノハナノサクヤヒメは一晩でみごもり、長男ホデリを産み、その後、次男ホスセリと三男ホヲリ(ヒコホホデミ)をもうけます。 

 海幸彦となったホデリは山幸彦となったホヲリをいじめますが、ホヲリは海神の宮殿を訪れて、王女トヨタマヒメと出会い、さらに海神の王からホデリをこらしめる玉を授けられ、ホデリを退治します。トヨタマヒメは長男ウガヤフキアエズを産む際に、正体のワニ(鮫)の姿を夫ホヲリに見られたことを恥じて、海中に戻ってしまいます。ウガヤフキアエズは母の妹タマヨリヒメに育てられ、成人してからタマヨリヒメと結婚して、ヒコイツセ、イナヒ、ミケム、イハレビコ(神武天皇)の4人の息子が生まれます。ヒコイツセ兄弟はアマテラスの6代目、ホノニニギの4代目となります。

 

 弥生中期に入ると北部九州が隆盛となり、人口が増えていき、工人を主体に一部の人たちが東に移住していきます(第4章2.参照)。

 神武天皇の祖先もその一員で、まず豊前側の英彦山(ひこやま)山麓に定住しました。ちなみに英彦山神宮の主神はアメノオシホミミです。ホノニニギの祖母が首長を務めていた時代になって、ホノニニギは伊予のオオヤマツミ族の支援を得て、日向に移住し、オオヤマツミ族の女性と結婚します。息子のホヲリは九州東南部の襲地方の海人部族の娘をめとり、日向に王国を築きます。

 

(神武兄弟の東征の理由)

 ホヲリが日向に築いた王国が大きく発展したか、というとそうでもないようです。理由は日向の大地は火山灰がつもった荒地で、古代では大規模な灌漑工事と土地改良工事をほどこさない限り、水稲耕作ができなかったためでした。現在でも火砕流からできたシラス台地が多い鹿児島県では水稲耕作は不適地です。出雲や日本海地域、瀬戸内海地域に移住した倭族に較べると、経済的には発展せず、後進地域になりました。

 

 「神武兄弟 吉備邪馬台国の傭兵説」は、おそらく私が初めて提唱した(「邪馬台国岡山吉備説から見る 古代日本の成立」P.78~P.82ものです。不毛な山岳地帯のスイス人が近世にフランス軍やハプスブルグ軍の出稼ぎ傭兵となり、その名残がローマ法王庁バチカンの衛兵隊として残っていますが、それと同じ理由で、貧困な地域からの出稼ぎ隊です。

 日向から出稼ぎに出たヒコイツセ一行は宇佐に在住したウサツヒコ、宗像族(宇佐神宮奥山の大元山)の仲介で中臣族のアメノタネ(天種)と出会います。時代は弥生中期末か後期初めで、すでに宇佐は吉備邪馬台国圏の傘下に入っていました。吉備邪馬台国は膨張期にあたっており、奴国と伊都国征服の目前でした。

 

(神武兄弟が大和盆地をめざした理由)

 中臣族に雇われたヒコイツセ一行はまず試用期間として、遠賀川河口の岡の湊の警護役を担当します。南部九州の熊襲の血も混じった神武族は体格が屈強で、精悍な実力が認められます。

 吉備邪馬台国が奴国・伊都国を征した後、安芸の投馬国が神武族をスカウトし、瀬野川と太田川の警護をまかされます。その後、吉備邪馬台国の本拠地である吉井川と穴海の入り口(高島)の警備役に抜擢されます。

 

 水銀朱が貴重な輸出品であることに気づいた吉備邪馬台国は大和盆地の奥地で産出される水銀朱の交易ルートの確立を計画していました。水銀朱は現在の金に匹敵する価値がありました。大和地方の奥地の水銀朱ルートは2つありました。宇陀野から磯城に入り初瀬川から大和川を下って河内湾に入るルートと、磯城から南葛城地方に入り、風の森峠を下って吉野川から紀ノ川河口に入るルートです。

 生駒山をはさんで大和盆地と河内地方の北部を拠点とする登美(とみ)王国からも、交易路開拓に向けて支援団を送って欲しい、という要望がありました。

 吉備邪馬台国と宗像族は支援団の仕事をヒコイツセに打診しました。報酬もかなり好条件だったことからヒコイツセは快諾します。ヒコイツセは吉備の河川沿いに開墾された大水田の風景を見て、資金を蓄えて故郷の日向に戻り、大掛かりな開墾事業をする夢を抱いていました。

 

(登美王国のナガスネビコ将軍の陰謀)

 登美王国は吉備のトミ(富)族の一員でした。ヒコイツセの船団は河内湾の日下(くさか)の白肩港に到着します。吉備王国の話では登美王国の案内役が出迎えるはずでしたが、人気はありません。一行は大和川の峡谷沿いに龍田に向かいますが、難所が続いたため日下に引き返します。

 登美王国のナガスネビコ軍が突如、襲ってきました。不意をつかれた一行は、命からがら船にたどりつきますが、毒矢がヒコイツセの肩に刺さります。一行は河内湾を脱出して、大阪湾を南下して紀ノ川を目指しますが、途中の和泉国の血沼(ちぬ)でヒコイツセは他界します。兄の復讐を誓った イハレビコは紀ノ川河口の名草族を打ち破り、紀ノ川沿いに吉野に向かう計画をたてましたが、中流の橋本族は手ごわい相手のようです。紀伊半島を南下して、熊野灘の新宮に至り、宗像族と親交があるタカクラジ(高倉下)に迎えられます。

 

 イハレビコはタカクラジの助言を無視して熊野市の七里御浜に進み、ニシキトベ族を破って密林に入りますが、大きなツキノワグマに襲われ、気をうしない、意気消沈して新宮に引き返します。見かねたタカクラジは吉備の中臣族に援軍を要請します。しばらくして中臣族は武器だけを送ってきました。態勢を立て直した一行はヤタガラスの案内で十津川をさかのぼって吉野川の五條に到着し、吉野越えをして、水銀朱の産地の宇陀野でエウカシ軍を打ち破ります。次いで磯城族を破り、ついに大和盆地に入り、兄の仇ナガスネビコ軍と相対します。

 

(登美王国のニギハヤヒ王の服従)

 登美王国のニギハヤヒ王(物部氏の祖)はナガスネビコの妹ミカシキヤヒメ(トミヤヒメ)を后として息子ウマシマヂをもうけていましたが、ナガスネビコは王位の座を狙っていました。

 ヒコイツセ一行を大和に派遣する伝達は登美王国に届いていましたが、ナガスネビコが握りつぶしていたことが判明します。ニギハヤヒ親子は自分らも吉備のトミ族の末裔である証拠として、天羽羽矢(あめのははや)とかちゆきをさしだしてイハレビコに恭順し、ナガスネビコを暗殺します

 

 イハレビコ一行は南西部の畝傍山へ進軍し、層富(そほ)のニシキトベ、和珥(わに)の坂下のコセノハフリ、長柄のイノフフリの土グモ3族と高尾張の土グモを破り、余勢をかって風の森峠から吉野川に下り、橋本族を破って、宇陀野、磯城、南葛城地方から紀ノ川河口に至る水銀朱交易路を把握しました。

 

 

5章 大和狗奴国の歴史

2.神武天皇の葛国建国と2代目~4代目 

                87170年頃)

 

「あきらかに神話上の人物である神武天皇のあとの八代は、日本の民族が文字や暦をもつ文明の段階に達したのち、その王名表である帝紀のなかに、架空につくりあげた天皇群ではなかったろうか」(日本の歴史1.神話から歴史へ 井上光貞。中公文庫 初版1973年)。

 この文章の原書は1964年に発行されていますが、その頃から現在まで約半世紀にわたって、神武天皇と第9代開化天皇までは飛鳥時代に架空につくりあげた天皇群とする説が正論となり、文献学だけでなく考古学の研究者もほとんどの方々が欠史八代説にそって邪馬台国論を論じられています。第1章3.と4.で書きましたように、欠史八代説は第2次世界大戦後、戦前の皇国思想に対する反動の風潮の中で登場した推論にすぎず、歴史的な事実を抹殺してしまいました。

 

 欠史八代説の根拠は、第2代~第9代天皇は簡単な帝紀だけで、各代の治世中のできごとを描いた旧事が存在しないことにありますが、帝紀の系図、ことに王族から派生した皇別氏族を具体的に追っていくと、大和盆地の南西部に建国された葛(狗奴)国が倭国の覇者となっていく過程を物語っていることが分かります。

 

(葛国建国と磯城国との連合)

 87年頃にイハレビコは橿原に王宮を構えます。故郷の日向を旅立ってから約12年が経過しており、イワレビコは35歳くらい、息子のタギシミミは16歳くらいになっていました。

 イハレビコが打ち立てた王国は葛(くず、くづ)の名産地であることから、葛国と呼ばれるようになり、吉備では訛って狗奴(くぬ)国と呼ばれるようになります。葛国は初めから大和盆地の全域を支配したわけではなく、大和盆地の南西部を支配する中小国にすぎませんでしたが、南東部の磯城国と同盟を結び、宇陀野、磯城、葛国、風の森峠、五條、吉野川(和歌山県に入ると紀ノ川)を結ぶ水銀朱交易路を独占し、宗像族も紀ノ川中流辺りまで進出するようになります。

 

 しばらくして、イハレビコは日向に戻ることをやめ、大和に骨をうずめる決意をして、磯城王国からイスケヨリヒメを后に迎えました。イスケヨリヒメはタギシミミとほぼ同じ年頃でした。

 イスケヨリヒメは長男カムヤイミミと次男カムヌナカワミミを産み、イハレビコは治世19年の106年頃、54歳くらいで息をひきとり、畝傍山麓に葬られました。

 

(王位継承争い)

 イハレビコ王の死後、タギシミミが暫定的に王権を握り、イスケヨリヒは長男カムヤイミミが成人した後は王位をカムヤイミミに譲るという約束をして、しぶしぶタギシミミと再婚します。夫の義理の息子と再婚することは、現代的には常識外に見えますが、世界の歴史を見ると当たり前の話で、第九代開化天皇も、父の孝元天皇の后イカガシコメを后に迎えて崇神天皇が誕生しています。カムヤイミミは15歳、カムヌナカワミミは13歳くらいになっていました。

 次第にタギシミミは本性を現して、義弟の2人を殺そうとしていることにイカガシコメが気づき、息子に警告します。2兄弟は先手をうって岩窟で寝ているタギシミミを襲います。兄カムヤイミミはおじけずいて矢を射ることができませんでしたが、弟が見事に撃ち抜きます。兄は覇気がなかったことを恥じ、王位を弟に譲ります。 

 

(第2代綏靖天皇カムヌナカワミミ)

 カムヌナカワミミは御所市森脇に王宮を構え、母の姪でいとこにあたる磯城国のカハマタヒメと結婚し、長男シキツヒコタマデミが生まれます。

 

 兄カムヤイミミの子孫は古事記の神武記では、意富(おお)臣、火(肥)君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、伊予国造、科濃国造、道奥の石城国造、常道の仲(那賀)国造など全国に数多く散らばっています。古事記を編纂した太安万侶(おおのやすまろ)も意富氏の末裔です。

 私が着目したのは、九州、茨城・福島・長野県と当時の大和にとっては西と東の辺境地域に多く分布していることです。古事記と日本書紀では語られていませんが、肥前国風土記には、第10代崇神天皇(在位推定268298年)の時代、肥後の朝来名(あさくな)の峯に陣取る土クモ退治に、肥君等の祖タケヲクミ(健緒組)を派遣した、という記述があります。 意富族の出身と見られるタケヲクミ は肥後の八代まで攻め落とし、夜になって有明海の海上に不知火(しらぬい)を目撃します。大和に戻った タケヲクミが崇神天皇に不知火を報告したことから、崇神天皇はタケヲクミに火君の姓を授けます。

 

 常陸国風土記では那賀国造の祖は中臣氏のタケカシマと記述されているため、タケカシマもカムヤイミミの子孫と混同されがちですが、肥前国風土記と常陸国風土記を読みながら、吉備邪馬台国の軍人だった中臣タケカシマは大和軍の捕虜となった後、カムヤイミミの末裔を名乗るタケヲクミ将軍の部下として九州西中部の制圧に従軍し、肥前の杵島(きしま)に落ち着いたのではないか、という連想をしました。崇神天皇はその後、東国の支配に向け、意富族と物部族に加えてタケカシマも常陸国に送り込み、意富族と中臣族の仲が深まっていきます。

 このストーリーは小説版「箸墓と日本国誕生物語――女王トヨと崇神天皇――」で膨らませましたが、280290年代に大和はすでに西は西部九州の肥後まで、東は茨城県を拠点に福島県南部と信州まで支配下に置いたようです。

 

(第3代安寧天皇シキツヒコタマデミ)

 シキツヒコタマデミは御所市に隣接する高田市三倉堂に王宮を構え、 磯城王国のハエの娘で 母カハマタヒメの姪アクトヒメと結婚し、長男トコネツヒコイロネ、次男オオヤマトヒコスキトモ、三男シキツヒコの3皇子が生まれます。

  長男トコネツヒコイロネは子孫の記述がなく、短命だったようで、次男オオヤマトヒコスキトモが王位を継ぎます。

 

(4代懿徳天皇オオヤマトヒコスキトモ)

 オオヤマトヒコスキトモは橿原市大軽町に王宮を置き、4代続いて磯城国から后を迎え、后フトマワカヒメは長男ミマツヒコカエシネ、次男タギシヒコを産み、長男が王位を継ぎ、次男タギシヒコは血沼の別(和泉)、但馬の竹別、葦井の稲毛の祖となりますが。子孫はあまり活躍していません。

 

 むしろオオヤマトヒコスキトモの弟シキツヒコの子孫が葛国膨張時の軍人として活躍していきます。シキツヒコの長男は伊賀の須知、名張の稲毛、美濃稲毛の祖、次男ワチツミは淡路島の御井宮に住み、長女ハヘイロド(アレヒメ)、次女ハヘイロドをもうけ、2姉妹は第7代孝霊天皇の后となり、ハヘイロドはヤマト‐トトビ‐モモソヒメと大吉備津日子(イサセリビコ)、ハヘイロドは若日子建吉備津日子を産みます。この系譜から、シキツヒコの長男は第5代孝昭天皇の伊勢・美濃・尾張の征服時に、尾張氏と共に将軍として活躍した。次男のワツミは第6代孝安天皇の時代の淡路島と阿波侵攻に活躍し、淡路島に定住して、第7代孝霊天皇の時代に娘2人が后となり、外戚となったことが推察できます。

 

 約半世紀にわたる「欠史八代説」により、神武天皇と第9代までの天皇は無視され、 意富臣、火(肥)君、シキツヒコ、吉備津日子兄弟など天皇系譜から誕生した人物(皇別氏族)も飛鳥時代の宮廷の御用学者か語り部が机上で創作したものにすぎない、あるいは67世紀に成り上がった豪族が始祖伝説を押し込んでいった、と断定されてきました。

 しかし神武天皇記・紀で紹介される歌謡は、葛国建国伝承として語り部が伝え継いだもので、とても約500年後に空想で創り上げられたものとは考えられません。第7代孝霊天皇までは正后と男系のみの記述ですが、各天皇には正后以外の后や王女も存在していたでしょうが、まだ中小国だった葛国ではそこまで配慮する語り部の体系が整っていませんでした。系譜の登場人物をたどっていくと、机上では創案することができないリアリティさに富み、ストーリーにも連続性があります。欠史八代と決めつけてしまったことは、過去半世紀の大きな誤りです。それに気づく人が一人でも多く増えて欲しいものです。

 

                     

5章 大和狗奴国の歴史

3.第5代孝昭天皇(ミマツヒコカエシネ)の東海地方制覇 

            (推定在位:170195年頃)

 

 4オオヤマトヒコスキト王の長男ミマツヒコカエシネは御所市掖上に王宮を置きますが、正后は初代から続いた磯城族からではなく、尾張族に代わります。これは、王家の外戚が磯城族から尾張氏に移ったことを意味しています。

  2代目から4代目は磯城王国と連合しての葛王国の地盤固めの時期で、5代目の孝昭天皇から葛国の地理的な拡大が始まります。時期的には吉備を中心に倭国大乱が発生し、終着した時期にあたります(第3章2.(6)、第4章7.参照)。

  正后の尾張連の祖オキツヨソの妹、ヨソタホビメは、長男アメオシタラヒコ、次男オオヤマトタラシヒコクニオシビトを生みます。

 

(尾張族と葛国の膨張)

 磯城族に代わって、新たに外戚となった尾張族は何者でしょうか?

 尾張族の根源地は尾張地方の愛知県ではなく、第2代綏靖天皇が王宮を置いた御所市の森脇に近い笛吹神社辺りと伝えられています。この辺りは葛城古道が続いており、見晴らしがよく、大和盆地を見下ろす眺望を楽しむことができます。

 

 尾張族が祀る神さまはアメノホアカリで、古事記では天孫降臨のホノニニギの兄、日本書紀では息子と伝えています。日向のヒコイツセとイハレビコの同族の者がヒコイツセ兄弟一行の一員となって大和まで同伴し、葛国が建国された後、警護役を兼ねて葛城山麓の高台に根拠地を置いたのではないか、と連想できます。

 アメノホアカリを祀る代表的な神社を調べていくと、尾張の一宮市の真清田神社、丹後半島のつけね、天橋立をのぞむ元伊勢籠(もといせこの)神社ですが、西播磨の龍野市の粒坐天照(いいぼにますあまてらす)神社、吉備の岡山市の牟佐に高倉神社、吉備津に近い京山に尾針神社があります。また讃岐の田村神社には、私がトヨと同一視しているヤマト-トトビ-モモセヒメと吉備津日子に加えて、アメノホアカリの息子神アメノカヤマが祀られています。アメノカヤマは葛城古道の笛吹神社でも笛吹連の祖神として祀られていますが、越後一の宮の彌彦(やひこ)神社の祭神でもあります。

 

 大和の葛城地方、尾張、丹後、西播磨、吉備、讃岐の点を線で結んでいきますと、尾張族の分布は大和葛国の膨張と連動していることが分かります。尾張族は孝昭天皇以降、天皇家の外戚として后を輩出していき、第7章3.で詳しく書きますが、アマテラスを祀る場所として伊勢が選ばれる際に決定的な役割を果たします。

 

(伊勢のサルタヒコ族)

 大和と尾張の間には伊勢(三重県)があり、アマテラスを祀る伊勢神宮がありますが、土着神はサルタヒコと見て誤りはないでしょう。古事記にはサルタヒコが壱(一)志郡で漁をしていて、ひらぶ貝に手をはさまれて溺れた逸話が紹介されています。 

 サルタヒコを祀る代表的な神社は鈴鹿高原にある椿大神社(つばきおおがみやしろ)で、奥宮の高山入道ヶ嶽(標高906.1m)の頂上付近に主座の磐座(いわくら)に加えて重ね石など全体で15か所に磐座群があります。磐座の起源は縄文時代にあるようですが、鈴鹿市の海側にもサルタヒコを祀る都波岐(つばき)神社があります。

 弥生中期から後期にかけての遺跡も鈴鹿市、四日市市、津市の周辺に多く、鈴鹿山脈の高原地帯から海辺にかけて、サルタヒコとサルメの夫婦神を祀る強力な王国が弥生後期に存在したと私は考えています。

 

(なぜサルタヒコは天孫降臨の案内役になったのか)

 伊勢土着のサルタヒコがなぜ日向に降臨するホノニニギの道案内役になり、ホノニニギのお伴だったアメノウズメと結婚して子孫は猿女(さるめ)君となったのでしょうか。

 サルタヒコが迎えたチワキ(道別き)は天と地上の境にあるから、ホノニニギをチワキから日向に案内した後、サルタヒコはまたチワキに戻って伊勢に下った、と考えれば理屈が合うと単純に説明される方もおられますが、この部分が日本神話成立の謎を解き明かしていくカギの1つになります。

 

  第2章3.で触れたように高天原の天石戸神話は吉備邪馬台国神話に、サルタヒコのホノニニギ出迎え神話は大和建国神話に属し、元々は別々の神話に属していたと判断すると解明は容易です。

 サルタヒコの出迎え神話は、孝昭天皇の時代に、大和の葛国が伊勢のサルタヒコ王国を打ち破り、一挙に美濃、尾張まで支配下に置いた後の時代に、葛国の伊勢支配を正当化、あるいは美化するために創られた神話であると、私は考えます。その後、日本神話の原形が成立する4世紀前半の第11代垂仁天皇の時代に吉備邪馬台国神話と大和建国神話が合体された時、アメノウズメとサルメが合体して、同一神となります。

 

(葛国の伊勢・美濃・尾張3国の征服)

 孝昭天皇の時代に入った頃、紀伊半島を迂回した交易が発展し、伊勢のサルタヒコ族は阿波の忌部氏等の交易者を通じて、水銀朱が高価な産物であることを知ります。伊勢地方にも幾つかの水銀鉱山がありましたが、最大の鉱山は伊勢地方と大和地方の境に位置する宇陀野にありました。

 サルタヒコ族は葛国と磯城国が管轄していた榛原、宇陀野に攻め込み、大和対伊勢サルタヒコ王国の戦争が始まります。孝昭天皇は尾張族のオキツヨソと第4代懿徳天皇オオヤマトヒコスキトモの弟シキツヒコの長男を将軍とした伊勢征伐軍を派遣します。

 

 サルタヒコ軍も強力でした。葛国軍はどうにか名張、上野、亀山と攻略していき、伊勢湾に達しますが、サルタヒコ軍は鈴鹿高原に立てこもり、ゲリラ戦を仕掛けてきます。

 神武記の大和侵攻歌謡の中に、「神風の伊勢の海の大石に はうもとはろう しただみの いはいもとほり 撃ちてしやまん」という歌謡がありますが、「神風が吹く伊勢の海の大石に這い回るシタダミ(巻貝)のように 我が軍団よ 鈴鹿高原を這いずりまわって 敵を撃ちまかしてしまえ」と私は解釈して、伊勢高原に立てこもったサルタヒコ軍の攻撃で、尾張オキツヨソ将軍が兵士たちに檄をとばした逸話が、後に歌謡となったのではないか、と推測しています。

 

 葛国軍はついにサルタヒコ王国を征服します。勢いに乗じて伊勢湾を北上して、美濃の長良川、尾張の木曽川流域まで攻め込みます。シキツヒコの長男の配下は長良川から養老山地にかけてを、尾張オキツヨソの配下は木曽川の伏流水が泉として湧き上がる一ノ宮(真清田神社)に本拠を構え、周囲を開墾していきます。

 

 結果として、葛国の東海3国の制覇が、葛国が倭国の盟主として日本列島の統一を実現していくきっかけとなりました。

 

 

5章 大和狗奴国の歴史

4.第6代孝安天皇(オオヤマトタラシヒコクニオシビト)の大和盆地制覇

          (推定在位:195215年頃)

 

 クニオシビト王は御所市室(むろ)に秋津島宮を構え、姪にあたる兄アメオシタラヒコの娘オシカヒメと結婚して、長男オオキビモロススメ(大吉備緒進)、次男オオヤマトネコヒコフトニが生まれ、弟のネコヒコフトニが後を次いで第7代孝霊天皇となります。

 兄アメオシタラヒコは和珥(わに。和邇)氏の祖となり、5世紀の応神朝、6世紀の飛鳥朝、7世紀の奈良朝まで、天皇家の外戚、大和盆地北西部の名族として影響力を持ち続けます。

 

 注目する点は孝安天皇は兄の娘を正后にしたことです。これは王家の血統と権威が強まったことを示していますが、第5代孝昭天皇の2皇子により、日本列島の盟主となる大和葛国の土台が固まった、とも言えます。

 

(孝安天皇の兄アメオシタラヒコの系譜)

 アメオシタラヒコが祖となる和珥氏の本拠地は大和盆地の南東部にある桜井市と北東部にある奈良市の中間に位置する天理市和邇です。

 古事記(孝昭天皇記)ではアメオシタラヒコを祖とする氏族として、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋(櫟井)臣、大坂臣など16氏を挙げています。

 春日臣は和珥氏が奈良市春日に移って春日和珥氏になりました(雄略天皇元年3月紀に春日和珥臣深目)から、和珥氏の本流とも言えます。

 大宅臣は奈良市南部、 粟田臣は京都市左京区岡崎、 柿本臣は天理市が含まれる添上郡(大和川支流の佐保川流域)、 櫟井臣は天理市櫟本(いちのもと)を地盤としており、アメオシタラヒコの子孫は天理市北部から北に向かって伸張していった氏族であることが分かります。 

 

(大和盆地全域を制覇して、葛国から大和国へ)

 なぜ、アメオシタラヒコの一族が大和盆地の北東部に拡がっていたのか、を考えていくと、第5代孝昭天皇の時代までは盆地南西部の1国にすぎなかった葛国は、東海3国を征服したことにより、盆地の国々をしのぐ格段の軍事力と経済力をつけて、南東部の磯城地方を併合した後、アメオシタラヒコの指揮で北東部の国々を飲み込んでいったことを示しています。

 北西部には初代の神武天皇以来、物部氏の登美(とみ)国が存在していましたが、この頃、葛国の傘下に組み込まれ、物部氏として陸軍の一翼をになうようになります。これにより、葛国は大和盆地全域を初めて統一します。登美国の支配は生駒山の西部にあたる河内湾まで達しますが、この地にアマツヒコネ族が進出し、物部氏の主力は尾張に移動して、尾張氏の指揮下で三河、遠江への侵攻を進めます。

 

 大和葛国にとって幸運だったことは、倭国大乱の騒動がまだ鎮静化せず、瀬戸内海東部の国々が大和盆地の情勢に干渉する余裕がない状況だったことです。吉備邪馬台国もヒミコが女王に就任したばかりで対外政策をうつことができませんでした。

 大和葛国の経済を支えたのは、東海3国からもたらされる米や穀物、海産物などでした。軍事的には東海3国の人々が下級兵士として徴発され、葛国の地理的拡大を支えていきます。それに合わせて、大和葛国は征服した土地の住民を下級兵士として活用し、前線に送り込むノウハウを蓄積していきます。

 伝承によれば、孝安天皇の時代に3度、第7代孝霊天皇5年、第8代孝元天皇3年に富士山が爆発していますから、駿河や遠江の難民が尾張や伊勢、大和盆地まで押し寄せてきたことも考えられます。

 

(淡路島、阿波への進出)

 アメオシタラヒコに次いで着目したのが、3代安寧天皇の皇子シキツヒコの次男ワチツミです。古事記では、ワチツミは淡路島に御井宮を構えた、と神武天皇記以来、初めて淡路島が登場します。ワチツミは第3代安寧天皇の孫、第5代孝昭天皇のまた従兄弟にあたりますから、第5代孝昭天皇から第6代孝安時代に生きていたと考えても論理的に合います。

 ワチツミは長女ハヘイロネ(アレヒメ)、次女ハヘイロドをもうけ、2姉妹は第7代孝霊天皇の后となり、ハヘイロネはヤマト‐トトビ‐モモソヒメと大吉備津日子(イサセリビコ)、ハヘイロドは若日子建吉備津日子を生みます。

 

 淡路島の御井宮は国分寺と国府の址や大和大国魂(おおくにたま)神社がある南あわじ市の新庄、榎列(えなみ)付近にあったと推測されますから、大和葛国が大和盆地全域を掌握した後、あるいは同じ頃、ワチツミを将軍とした大和葛国軍が紀ノ川河口(和歌山市)から淡路島南部に攻め込んだ、という光景が浮かんできます。

 大和葛国の淡路島侵攻の狙いは、瀬戸内海交易路の取得にありました。榎列付近は瀬戸内海に面する湊(みなと)と阿波に向かう福良(ふくら)の中間に位置しています。

 

 しかし大和葛国の淡路島南部進出は、鳴門海峡を挟んだ対岸の阿波王国の交易ルートを脅かすことになり、阿波王国との利権争いが激化していきます。

 

(商業都市纒向の発生)

 葛国の大和盆地統一により、東海地方と御所市を結ぶ東西街道と、盆地北部と磯城を結ぶ南北街道が交差する地点にあり、初瀬川を通じて盆地北部や河内地方ともつながる纒向が市場として発展していきます。正確には交差点は初瀬川の少し上流の金屋あたりですが水深が浅く、市場を行き交いする舟にとって適当な水深がある纒向が適地でした。200年頃、舟の交易用に纒向の地に運河が掘られます。

 

 同じ頃、庄内式土器0式が登場します。庄内式土器の発生には瀬戸内海の中・東部の技術や様式の影響がある、と言われていますが、私は庄内式土器の製作には淡路島から大和に徴発された陶器工人がかかわっていたのではないかと推測しています。淡路島南部の南あわじ市、ことに西岸の津井周辺では可塑性が高い良質の粘土が産出し、飛鳥時代から瓦の製造が始まり、現在でも日本三大瓦の産地として知られています。瀬戸内海の中・東部は、本州側では播磨と吉備、四国側では阿波と讃岐にあたりますが、その真ん中に位置する淡路島の工人の手で庄内式土器が創りだされた、と推定しても違和感はありません。

 さらに河内湾に移り住んだアマツヒコネ族は航海に秀でた淡路島の海人を引き込んで、大和葛国の水軍の土台を築いていきます。

 

                       

5章 大和狗奴国の歴史

5.第7代孝霊天皇(オオヤマトネコヒコフトニ)の阿波と近畿地方制覇

     (推定在位:215239年)

 

 孝霊天皇から古事記と日本書紀での記載は、后が複数になりますが、宮廷儀式や語り部を含めた行政組織がしっかりしてきて大国としての体制が整っていきます。大和建国神話も孝霊天皇の時代にまとめられたようです。

 

 孝霊天皇は4人の后から皇子5人、皇女3人をもうけました。

 正后クハシヒメは十市(とをち)縣主の祖オオメの娘で、オオヤマトネコヒコクニクル(第8代孝元天皇)を産みます。

 后チチハヤマワカヒメは春日の出身でチチハヤヒメを産みます。但し日本書紀ではクハシヒメとチチハヤマワカヒメは同一人物として、ヒコサシカタワケは記載がありません。

 后オオヤマトクニアレヒメ(ハヘイロネ)は淡路島のワチツミの娘で、ヤマト-トトビ-モモソヒメ、ヒコサシカタワケ、ヒコイサセリビコ(大吉備津日子)、ヤマト-トビ-ハヤワカヒメ、同じくワチツミの娘の后ハヘイロドはヒコサメマ、ワカヒコタケキビツヒコ(若日子建吉備津日子)を産みます。

 

 正后クハシヒメの出身地である十市は初代神武天皇の息子カムヤイミミを祖と自称する意富(おお)臣が地盤とする地で、大規模遺跡の唐古・鍵遺跡があります。孝霊天皇は初めて畝傍山周辺を離れて、唐古・鍵遺跡に近い黒田に王宮を構えます。

 后チチハヤマワカヒメは春日の出身ですから和珥氏につながり、ハエイロネとハヘイロド姉妹は淡路島から迎え入れられました。

 ハヘイロネの娘ヤマト-トトビ-モモソヒメは日本書紀では箸墓の主人公です。古事記では ヒコイサセリビコは吉備上道(備前)臣、ヒコサメマは播磨の牛鹿臣、 ワカヒコタケキビツヒコは吉備下道(備中)と笠(笠岡市)臣、ヒコサシカタワケは越の利波臣、豊国の国前臣、角鹿(敦賀)等の祖と記載しています。

 

 欠史八代説では、以上の人物は架空の人物とすべて切り捨てられてしまいますが、彼らは3世紀後半の倭国の変化、即ち吉備邪馬台国から大和狗奴国に盟主が移行していく過程で、象徴的な役割を果たしています。

 

(阿波国制覇)

 父の孝安天皇の時代に淡路島を征服した後、鳴門海峡の対岸にある忌部氏の阿波国との利権争いが激しくなります。阿波国が先に攻撃を仕掛けたのかもしれませんが、220年代に入ってから阿波国との抗争は戦争へと拡大します。次第に大和軍が優勢になり、阿波王国は吉備邪馬台国に助けを求めますが、ヒミコ政権はまだふらついており、なすすべがありません。

 吉野川流域に攻め入った大和の伊勢サルタヒコ軍は阿波王国の聖山で、アメノフトダマの子神アメノヒワシと孫神オオアサヒコを祀る大麻山に伊勢のサルタヒコをかぶせていきます。。

 阿波国南部の勝浦川、那賀川の住民は黒潮に乗って、遠江、伊豆半島、房総半島に逃亡し、房総半島南端に安房国を建国します。

 大和国は東海3国を征服した時と同じように、阿波の工人や住人を大和盆地に徴発しますが、孝霊天皇は、この頃から、倭国統一の野望を抱くようになります。

 

(大和川の改良工事と巻向副都心の建設) 

                (第1章2.、5.~7.参照)

 広大な沖積平野を貫く吉野川流域に発展した阿波国は板状に割れやすい変成岩の赤石(紅簾片岩)、青石(藍閃片岩)など良質の石の産地で、吉野川の治水工事などを通じて石の文化を誇っていました。萩原2号墳(2世紀末~3世紀初め)、同1号墳(3世紀前半)のように竪穴の側面に石を積んだ後に木槨を組み立て、前方後円の弥生墳丘墓を築く技法も持っていました。

 

 孝霊天皇は阿波から徴発した工人を使って、大和盆地から河内湾に注ぐ大和川の改良工事に着手します。現在でもJR関西本線に乗って高井田駅から王子駅手前の三郷(さんごう)駅までの景観を眺めますと、河内と大和の国堺は険峻な峡谷となっており、亀瀬岩などの難所があります。ヒコイツセ・神武天皇一行も大和川沿いに龍田まで上るのを断念しています。

 大和川の改良工事により、大和盆地と河内湾の間の舟の往来が改善され、大和葛国は御所市の風の森峠を下って五條で吉野川を下って紀ノ川河口に出るルートに次いで、河内湾から瀬戸内海に出る第2のルートを確保しました。これにより摂津や播磨への行程が短縮されます。

 孝霊天皇の陵墓は他の天皇の陵墓とかけ離れて、大和川を見下ろす王子の片岡にあります。難工事だった大和川改善事業を成し遂げた感慨がこもっているようです。

 

 父王の時代に自然発生的に成長した纒向に本格的な都市造りを初め、唐古・鍵遺跡の産業・商業を巻向に移転します。阿波の工人を使って巻向の周辺にホケノ山古墳(226250年頃)など前方後円古墳が造営されていき、古墳時代が始まります。

 

(近江国制覇)

 阿波を制した後、孝霊天皇は近江の攻略に着手します。近江は弥生中期から野洲川と近江富士と呼ばれる三上(みかみ)山周辺が強勢となります。近くの守山市伊勢町には弥生後期の大規模遺跡である伊勢遺跡がありますが、安(やす)国の中心部でした。

 

 近江攻略は3方向から一斉に開始しました。尾張軍は不和関(関が原)を越えて米原に、アマツヒコネの子神アメノミカゲを祀る部族は鈴鹿峠を越えて野洲川に進み、オオキビモロススメ将軍は山城の宇治から大坂の関を襲います。まず尾張軍が米原と多賀をおとしいれると、安国軍の主力は米原奪還に動きます。そのスキをついて、アメノミカゲ族が野洲川周辺の首都を攻撃し、安国は陥落しました。

 

(近畿地方制覇)

 安国攻略が成功した後、尾張軍は日本海の敦賀に出て若狭国を征服し、余勢をかって丹後半島の付け根の天橋立まで侵攻します。尾張族の勢力拡大に沿うように、三河、遠江や北陸で第3次高地性集落が増えていきます。

 しかし京丹後市にある丹後王国は強力で、尾張軍は足踏みをします。尾張軍は西南に向かって丹波を制覇し、摂津でオオキビモロススメ将軍と合流します。吉備邪馬台国の女王ヒミコが239年に魏に遣使を送る直前の頃でした。

 

(神社の祭神)

 大和による阿波、近江、丹波征服のストーリーは私が初めて提起したものですが、記紀の登場人物の系譜、考古学的発見に加えて、各国の一ノ宮など主要な神社の祭神と歴史を調べていくうちに、ごく自然に浮かんできたストーリーです。

 

 阿波の大麻山麓の大麻彦神社は阿波の祖神アメノヒワシとオオアサヒコと共に、どいうわけか伊勢のサルタヒコが祀られています。近江の三上山麓の御上(みかみ)神社はアマテラスの3男アマツヒコネの子神アメノミカゲを祀っていますが、アマツヒコネを祀る三重県北部の多度大社と連動しています。丹後の元伊勢籠(こも)神社は5世紀の雄略天皇がトヨウケを伊勢神宮外苑に遷座した後にアメノホアカリが主神となりますが、宮司は海部家であるなど、尾張族との関係が深いようです。

 

 これまで考古学と神社史は連動した研究はあまり試みられてきませんでしたが、弥生時代から 平安時代までの古代史には連続性があります。諸国の一ノ宮や二ノ宮のほとんどは平安時代に作成された延喜式で確定しましたが、周辺には古代遺跡が存在します。考古学の研究者も記紀や風土記、神社史や神話に精通されておられないと、とんだ憶測違いをされてしまいます。ところが残念ながら、とんだ憶測違いが幅をきかしているのが現状です。

 

 孝霊天皇の叔父オオキビモロススメを将軍にして、吉備邪馬台国に向かう西への進軍が始まります。「吉備に向かってもろともに進め」という掛け声が聞こえてきます。

 

                         

5章 大和狗奴国の歴史

6.第8代孝元天皇(オオヤマトネコヒコクニクル)の吉備邪馬台国への挑戦

        (在位推定:239247年頃)

 

 クニクル王(孝元天皇)は再び橿原市の畝傍山麓に王宮を戻し、軽町の堺原宮に王宮を構えます。留意する点は、物部系の穂積臣が外戚に登場したことです。正后として物部系の穂積臣等の祖ウツシコヲの妹ウツシコメを迎え、オオビコ、スクナヒコタケイゴコロ、ワカヤマトネコヒコ‐オオビビ(第9代開化天皇)の3皇子をもうけ、オオビビが跡を継いで第9代開化天皇 となります。

 日本書記ではスクナヒコタケイゴコロはスクナヒコヲココロないしヤマト-トトヒメとなっています。ヤマト-トトヒメは先代の孝霊天皇の皇女ヤマト-トトビ-モモソヒメと同一人物で、父親は孝霊天皇ないし孝元天皇のどちらかだった、とする説もあります。

 

 后ハニヤスビメは、河内のアオタマ(青玉)の娘でタケハニヤスビコを生みますが、アオタマは河内アマツヒコネ族の首領と見なすことができます。タケハニヤスビコは第10代崇神天皇の時代に天下取りを狙って反乱をおこします。

 后イカガシコメはウツシコヲの娘、正后ウツシコメの姪でヒコフツオシノマコトを産みますが、孝元天皇の死後、孝元天皇の皇子オオビビと再婚して第10代崇神天皇を産みます。イカガシコメが后に入ったのは孝元天皇が中年になった頃で、年齢はオオビビより少し上か同い年前後だったようです。

 

(オオビコとヒコフツオシノマコトの系譜)

 正后ウツシコメの次男スクナヒコタケイゴコロは古事記でも日本書紀でも子孫の系譜の記載がなく、若死にだったのかもしれません。

 これに対し長男オオビコは息子タケヌナカハワケと共に崇神天皇時代の4道将軍のうちの2人になり、娘ミマツヒメは崇神天皇の正后となり、第11代垂仁天皇を生みます。系譜は古事記では「阿部臣等の祖」とだけ記されるだけですが、系譜の紹介が少ない日本書記で例外的に「阿倍臣、膳(かしはで)臣、阿閉(あへ)臣、狭狭城山(ささきのやま)君、筑紫国造、越国造、伊賀臣」と詳しく記載されています。本拠地は三重県西部の伊賀国と見られ、上野市にオオビコを祀る敢國(あえくに)神社があります。

 

 后イカガシコメの息子ヒコフツオシノマコトの系譜はオオビコとは逆に古事記で詳しく、日本書記では「武内宿禰の祖父」とのみの記載です。古事記では尾張連の祖オオナビの妹、葛城のタカチナビメをめとり味帥内(うましうち)宿禰、木国造の祖ウヅヒコの妹ヤマシタカゲヒメをめとり武内宿禰をもうけます。

 応神紀9年に味帥内(甘美内)宿禰は武内宿禰の弟として登場しますが、年代を計算していくと、武内宿禰と味帥内宿禰は日本書記の記述どおり、ヒコフツオシノマコトの孫ないしはひ孫と解釈した方が正しいようです。古事記では、武内宿禰は蘇我臣の祖となる石河宿禰を含めて男7人、女2人をもうけるなど、詳しい系譜が記載されていますが、通説どおり、この系譜は蘇我氏が全盛だった6世紀初期に組み込まれたもので、720年までに編纂された日本書記では削除されたのでしょう。

 

(吉備邪馬台国への攻撃開始)

 オオキビモロススメ将軍が率いる大和軍は東播磨まで達しますが、そこから西は吉備邪馬台国の領域に入ることもあり、足踏み状態となります。

 小休止となった間、孝元天皇は、陸に強い尾張氏を重用し、東海、阿波、近畿地方へと拡大した領域の体制固めをしていきます。東播磨と西播磨の境では、大和側と吉備側の小競り合いが絶えず、緊張が続きますが、クニクル王は好機到来をじっと待つことにしました。

 

 大和軍との小競り合いは続き、警戒したヒミコ政権は245年に魏に窮状を直訴します。魏の3代皇帝の少帝は詔書を発して、難升米(なしめ)に黄色の軍旗を帯方郡を通じて授与する約束をします。

 翌246年、朝鮮半島西南部の馬韓諸国が帯方郡に反旗をひるがえします。宗像族から、その報告を受けたクニクル王は吉備攻略の時機到来と意を決し、大叔父オオキビモロススメ将軍に吉備侵攻を命じます。オオキビモロススメ将軍は東播磨の加古川の丘に前線基地を設け、まだ少年だった孝元天皇の腹違いの弟、吉備津日古兄弟も従軍します。

 

 大和軍は東播磨から総攻撃を仕掛けます。翌247(正始8)年、ヒミコは帯方郡に急使を派遣し、大和狗奴国との交戦状況を説明します。クニクル王の期待に反して、帯方郡は馬韓諸国の反乱を楽々と押さえ込んで余力がありましたから、即座に張政を将軍とする救援軍を派遣します。張政は魏の少帝が約束した黄色の軍旗を難升米に手渡し、檄文で吉備軍と救援の帯方軍を鼓舞します。 

 

 この図式からすると、魏志倭人伝で紹介される狗奴国王の卑弥弓呼はクニクル(孝元天皇)、将軍の狗古智卑狗はオオキビモロススメということになります。吉備側は気づきませんでしたが、その渦中でクニクル王が急死し、皇子のオオビビが第9代王に即位します。

 オオビビ新王は父王の遺志を継いで吉備攻撃を続行しますが、帯方郡の援軍を得た吉備邪馬台国は粘りを増し、オオキビモロススメ将軍も老衰もあって戦いの渦中で亡くなります。オオキビモロススメ将軍の亡き後、総帥の敵役者がおわらず、大和軍の統率が混乱します。吉備津日子兄弟が総帥になるには、まだ若すぎました。

 大和軍は揖保川河口の御津町まで支配下に置いたものの、山陽道と出雲道に進む揖保川沿いの龍野の粒丘(いいぼおか)に陣取る吉備国の前線基地を破ることができず、陸軍は行きづまり、海側でも赤穂に陣取る吉備水軍を攻めきることができず、吉備軍が提示した停戦案をオオビビ王はじくじくたる思いで飲まざるをえませんでした。

 

 247年にヒミコが他界した後、吉備邪馬台国では男王が即位しますが、不満分子が反乱をおこし、千人あまりが殺戮されます。大和には好機到来でしたが、新体制が整っていなかったこともあり、静観せざるをえませんでした。

 吉備邪馬台国の混乱はトヨの女王就任でおさまり、吉備邪馬台国は安定を取り戻しました。それを見届けた張政はウラ (温羅)に後を託し、トヨを激励した後、遣魏使の一行と一緒に帯方軍に帰還します。

 それ以後、吉備王国と大和王国は小康状態が続いていきます。

 

                     

5章 大和狗奴国の歴史

7.第9代開化天皇(ワカヤマトネコヒコオオビビ)の吉備邪馬台国制覇

        (在位推定:247267年頃)

 

 オオビビ王(開化天皇)は王宮を大和盆地北部、和珥(わに)氏の領域に属す春日(奈良市)の伊邪河(いざかは)宮に構え、陵墓も王宮の近くに造ります。近畿地方のほぼ全域に拡大し領土を統括するために、地理的に山城、近江に出やすい春日を選んだのでしょう。

 

 4后から皇子4人、皇女1人をもうけます。

 まず丹波の縣主ユゴリの娘タカノヒメを后に迎えてヒコユミスミが生まれますが、ユゴリは丹波に定住した尾張氏と推定します。ヒコユミスミはオオツツキタリネとサヌキタリネの息子2人をもうけ、2人がもうけた娘5人のうち、オオツツキタリネの娘カグヤヒメは第11代垂仁天皇の后となります。

 次に父の孝元天皇の死後、父の后だったイカガシコメを迎え、ミマキイリヒコイニエ(第10代崇神天皇)とミマツヒメが生まれます。

 和珥臣の祖ヒコクニオケツの妹オケツヒメからヒコイマス、葛城の垂見宿禰の娘ワシヒメからタケトヨハヅラワケが産まれます。タケトヨハヅラワケの系譜は古事記では道守臣、忍海部造、御名部造、稲葉の忍海部、丹波の竹野別、依網の阿毘古等の祖としています。

 

(ヒコイマスの系譜)

 妃オケツヒメの長男ヒコイマスは四人の后から11人をもうけますが、子孫の多くは第11代垂仁天皇時代に表舞台で活躍します。系譜を見ていくと、近江と丹波、丹後に根づいた一族となり、4世紀後半の神功皇后につながります。

 欠史八代説に沿うと、ヒコイマスの父である開化天皇は架空の人物ですから、神功皇后まで架空の人物となり、4世紀の歴史は空白となってしまいます。実際に、欠史八代説が正論とされている現在、4世紀は空白の世紀となって、何らの進展もありません。

 

 ヒコイマスは山代のエナツヒメ(カリハタトベ)を后として、オオマタ、ヲマタ、シブミ宿禰が生まれますが、オオマタの2人の息子アケタツとウマカミは垂仁天皇時代に出雲行きで登場します。

  また春日のタケクニカツトメの娘サホノオオクラトメを后としてサホビコ、ヲザホ、サホヒメ(サハヂヒメ)、ムロビコが生まれます。サホヒメは垂仁天皇の最初の后となり溺愛されますが、謀反をおこした兄サホビコ側について討ち死にします。

 近江の御上(みかみ)のはふりがもち拝くアメノミカゲの娘オキナガミズヨリヒメを后としてタタスミチノウシ(紀では丹波道主)、ミズノホノマワカ、カムオオネ(ヤツリノイリヒコ)、ミヅノホノマワカ、ミイツヒメが産まれます。丹波道主は父ヒコイマスの丹後征伐の後、丹後に定住しますが、娘4人(古事記では3人)は叔母にあたるサホヒメの遺言で垂仁天皇の后となります。

 オキナガミズヨリヒメの母イロトヲケツヒメも后となり、山代のオオツツキマワカ(神功皇后系譜の祖)、ヒコオス、イリネを産みます。オオツツキマワカは弟イリネの娘アヂサワヒメとの間にカコメイカヅチをもうけ、カコメイカヅチは丹波の遠津臣の娘タカキヒメとの間にオキナガ(息長)宿禰をもうけ、息長宿禰と葛城のタカヌカヒメとの間にオキナガタラシヒメ(神功皇后)が生まれます。遠津臣はヒコイマスに滅ぼされた丹後王国の末裔であろうと推測しています。

 

(アメノヒホコ伝説)

  神功皇后の母である葛城のタカヌカヒメは新羅から来朝したアメノヒホコの系譜に属し、アメノヒホコの7代目にあたります。

 

 丹後半島の隣に位置する但馬を根源地(出石神社)とするアメノヒホコも神秘的な存在です。日本書記では垂仁3年紀に新羅の王子アメノヒホコの来朝を伝え、同88年紀に垂仁天皇は5代目の清彦にアメノヒホコが持参した財宝の開示を命しますが、系譜等を整理していくと垂仁天皇の時代に初代から5代まで誕生するのは常識としてありえません。アメノヒホコの来朝は垂仁天皇の祖父にあたる開化天皇の時代と解釈した方が無難です。

 

 古事記と日本書記では、朝鮮半島からの来朝者として、アメノヒホコ、 ツヌガアラシト(ウシキアリシチカンキ)、ソナカシチの3者の伝承が混合しているため、解読をより難しくしています。

 整理していくと、①赤玉ないし白石から産まれた妻が祖国の日本に戻ったため、新羅地方の皇子も妻を追って来朝した(大阪市の比売許曽ひめこそ神社)、②崇神天皇の末期に伽邪(任那)国が使者を派遣し、垂仁2年に使者が帰国したが土産物を新羅軍に強奪されてしまった、の2点が共通項です。

 

 現存する朝鮮古代史の文献は676年に斯羅(しら)国から発展した新羅が半島全体を統一した後に、新羅中心に編纂されたものなので、辰韓の他国の状況は詳しく追うのは困難です。私の想定では、辰韓12か国の中から斯羅国が勢力を拡大していく3世紀後半から4世紀前半にかけて、辰韓の別々の諸国から複数の王族・貴族の亡命があり、但馬地方に集合、在住するようになります。諸国の所在地は釜山から慶州に至る半島南東部の海岸線にあった国々でしょう。但馬の人たちにとっては新羅に奪われた祖国復興が悲願となりました。伽邪(任那)国の使者の来日と土産品の掠奪は、新羅の勢力が伽邪地方にまで達してきたことを示しており、4世紀後半の倭軍の半島侵攻の伏線となります。

  

(吉備邪馬台国の制覇)

 247年に開化天皇が王位に即位して以来 大和と吉備のこう着状態は10数年が経過しましたが、いつも頭からはなれないことは父王の遺志をついだ吉備攻略です。

 

 吉備とは揖保川をはさんで膠着状態が続いており、東播磨に駐屯する吉備津日子兄弟も焦燥の毎日が続きます。どうやら陸から攻めるのは難しいようです。しかし大和は内陸国ですから、水軍は吉備より劣っていました。

 明るい兆しは宗像海人族が大和により傾斜を傾けてきたことです。宗像族はトヨ体制が帯方郡に向きすぎ、朝鮮半島との交易で伽邪地方の海人が独占状態に近づいていくことに不満を強めていました。トヨ体制には内密に、成長性が高い大和側へと比重を移していきます。

 

 宗像族は開化天皇に海からの奇襲攻撃を提案します。同時にトヨ体制と伽邪地方の海人に同じような不満を持つ安芸、伊予、周防、長州の地元交易人にも根回しをしていきます。アメノヒホコの但馬国も大和への忠誠心を示すため、山越えをして西播磨への進軍を承諾します。中国の政権が魏から晋に代わった情報も奇襲攻撃の後押しをします。

 266年、トヨが晋に遣使を送った直後、河内アマツヒコネ族が率いる大和水軍は吉井川河口と高島の砦を急襲し、旭川を挟んで、備前と備中を分断します。王宮のある吉備中山を包囲した後、まず備前の下市、周匝(すさい)、津山を粉砕します。西播磨でも但馬アメノヒホコ勢力の加担で力を増した大和軍は吉備勢を打ち破ります。捕虜となった吉備の兵士たちは河内や和泉に送られます。

 

 陸軍を指揮する尾張族は笹ヶ瀬川上流の首部(こうべ)に前線基地をもうけ、じっくりと攻めていきます。トヨを人質として大和に連行していくことが開化天皇の命令でしたが、一足先に、 トヨは生まれ育った讃岐の百相(ももそ。田村神社、船山神社)に避難していました。尾張軍は王宮を攻め落しますが、トヨの姿はなく、銅鏡を除くと目立った宝物は見つかりませんでした。

 鬼城山に立てこもったウラ将軍は反撃を試みますが、数では圧倒的に有利な大和軍に壊滅し、ウラの首が首部でさらしものにされます。

 

(吉備最後の女王トヨの大和入り)

 吉備の残党はウラの弟オニ(王丹)が率いるゲリラ軍となります。その痕跡は備中(鬼ヶ嶽)、備後(三次市の鬼が城山)、伯耆(鬼住山)、讃岐(女木島、別名は鬼ヶ島)、安芸(広島市安佐北区と佐伯区の2か所に鬼ヶ城山)に残っています。

 

 ようやくトヨの居場所を探し当てたイサセリビコ将軍は、トヨに大和入りを説得します。初めは固く拒んでいたトヨも、吉備と讃岐の住民を虐殺しないことを条件として人質として大和行きに同意します。大和入りのお供に中臣タケカシマも混ざっていました。トヨと下女たちは春日に落ち着きますが、タケカシマも含めたお供は途中で行方不明となってしまいます。

 

 開化天皇はトヨを后にする腹積もりでしたが、伝染病で急逝します。まだ20歳前後の崇神天皇が即位しますが、トヨの存在を忘れてしまうほど、事態は深刻でした。

                         

 

第6章 大和の東西日本の統一   

              (参照:補遺2.大和の日本統一に関わった氏族                             

1.崇神天皇(ミマキイリヒコイニエ)とトヨ

           (在位推定268298年)

 

 第10代崇神天皇(ミマキイリヒコイニエ)は父の急死で、20歳前後の若さで即位しました。後継人として政務の実質を担ったのは、開化天皇の同腹の兄オオビコとミマキ王の母イカガシコメの実家である物部系の穂積臣でした。

 

 ミマキ王は后3人から皇子7人、皇女5人の12人をもうけます。

 后トホツアユメマクハシヒメは木国造アラカハトベの娘で、トヨキイリヒコ、トヨキイリヒメを生みます。トヨキイリヒコは下野の宇都宮(宇都宮二荒山神社)に居を構え、下野と上野の武士の祖となります。妹トヨキイリヒメはアマテラスの祭祀を担い、アマテラスを祀る場所を探して紀伊、吉備、丹後を巡ります。

 后オオアマヒメは父の名は不明ですが尾張連の出で、オオイリキ、ヤサカノイリヒコ、ヌナキノイリヒメ、トヲチノイリヒメを生みます。オオイリキは北陸の尾張系の地盤を受け継いだようで、能登臣の祖となります。ヤサカノイリヒコは娘ヤサカノイリヒメが第12代景行天皇の后となります。ヌナキノイリヒメはヤマトオオクニタマの祭祀をまかされますが、幼い頃から病弱だったようです。

 正后となったミマツヒメは阿部氏の祖オオビコの娘で、イクメイリビコイサチ(第11代垂仁天皇)、イザノマワカ、クニカタヒメ、チチツクワヒメ、イガヒメ、ヤマトヒコを生みます。イザノマワカの系譜は記紀にはなく、ヤマトヒコは兄の垂仁天皇より先に亡くなり、部下が殉死をした陵墓の最後の例となります。

 

(即位後の苦難)

 父王から継いだ大和国は戦勝国でありながら、惨憺たる状態でした。吉備邪馬台国征服に命運を賭けた父王の時代に、戦費をまかなうため農民に重税が課せられ、農民は疲弊していました。吉備邪馬台国からの戦利品も期待したほどではありませんでした。大和軍は吉備を征服した後も、宗像海人の手引きでアマツヒコネ族とアメノユツヒコ族の水軍が安芸投馬国、伊予、周防、長門、豊前、豊後へと西征を続けていましたが、瀬戸内海に出没するゲリラに戦利品を掠奪され、うまくゲリラから逃れたとしても、大和に至るまでの途中で、何者かが横取りしているようでした。

 傷つき、疲弊して大和に戻ってきた兵士たちに報酬を手渡す財政もありません。飢えた兵士たちは農民を襲います。さらに朝鮮半島から瀬戸内海に伝染していた伝染病が大和盆地にも流入し、病死や棄民が増大します。各々

 

 気分一新で、ミマキ王は王宮を春日から纏向に近い金屋の瑞籬(みつかき)宮に遷しますが、明るい兆しは現われません。王宮に王家の祖神アマテラスと三輪山の土着神ヤマト-オオクニタマの2神を祀りますが、アマテラス派とヤマト-オオクニタマ派がいがみあって、両神を王宮から別の地に遷さざるをえなくなりました。若き崇神天皇は追いつめられ、いつ反乱が起きても不思議ではない状況でした。

 

(トヨとの出会いとオオモノヌシの勧請)

 ミマキ王はトヨの存在を思い出し、春日でひっそりと暮らしていたトヨを秘かに訪れます。春日でトヨは讃岐の百相から来たモモソヒメと呼ばれていましたが、開化天皇を急死させた伝染病をもたらした人物として白い目で見られていました。

 トヨと崇神天皇が出会うのは初めてでした。トヨは30歳台半ば、崇神天皇は20歳前半で一回りトヨが年上でしたがが、眼を合わせた瞬間に、王者同士でしか分からない以心伝心がありました。

 

 トヨのアドバイスを受けて、家臣たちの大反対を押し切って無税を断行します。幸いなことにその年は豊作となり、少しずつオオビコや穂積臣の意見とは異なる独自の判断をしていきます。

 問題は瀬戸内海や山陽道に出没する吉備邪馬台国の残党ゲリラがいっこうに静まらないことでした。トヨは倭国の盟主の象徴であるオオモノヌシを大和盆地に招くことを提案します。さすがに敵国の神さまを大和に招き入れることにミマキ王は慎重でした。家臣たちの反対は目に見えています。

 

 治世72月、神浅茅原(かむあさぢはら)でオオモノヌシがモモソヒメに神がかりした逸話や同年8月にモモソヒメ、穂積臣の遠祖オオミクチ(大水口)宿禰、伊勢のオミ(麻績)君の3人に同時に貴人が現れて「オオタタネコにオオモノヌシ、ナガヲチ(市磯の長尾市)にヤマト-オオクニタマを祀らせれば、かならず天下は太平となる」という夢を見る、という日本書記の伝承は、臣下を納得させるためにミマキ王が仕掛けた細工かもしれません。

 オオタタネコを探すと、オオタタネコは和泉の陶工が住む村にいました。オオタタネコを祭祀者として三輪山にオオモノヌシを祀ると、不思議なことに瀬戸内海のゲリラも静まります。瀬戸内海や大和に征服された地域では、吉備邪馬台国を倭国の盟主とする思いが強く残っており、オオモノヌシが大和に遷ったことで、ようやく大和が倭国の新しい盟主であると納得したのかもしれません。

 

(オオモノヌシはどこから勧請されたか)

 三輪山へのオオモノヌシ勧請については、色々な解釈がされています。神武天皇の后イスケヨイリヒメ(記ではイスズヒメ)は記ではオオモノヌシ、紀では出雲のオオクニヌシの息子神コトシロヌシの娘ですから、オオモノヌシとオオクニヌシを同一神として、出雲懐柔策として出雲の神を三輪山に勧請した、とする説があります。しかし出雲を征服するのは崇神天皇の晩年のことで、出雲懐柔策は野見宿禰を重用するなど、むしろ次代の垂仁天皇の時代です。

 

 すでにお分かりのように、私はオオモノヌシは吉備邪馬台国の神さまで、現在は山頂にある熊山神社にはオオクニヌシが祀られていますが、吉井川と穴海を見下ろす聖山の熊山が根源地と考えています。讃岐の金刀比羅山にオオモノヌシが祀られるのは後代のことです。

 三輪山の神は弥生時代から蛇神だったようです。弥生中期後葉にオオトシ系スサ族の流れに乗ってヤマトオオクニタが蛇神にかぶさります。外から大和にやってきた神武天皇は地場の神さまの娘と結婚することにより、土地の人たちから認知されます。ヤマト-トトビ-モモソヒメは神の妻となることで、聖なる者になります。

 

 オオタタネコの在住地は古事記では河内の美努(みの)村、日本書記では茅渟(ちぬ)縣陶邑(すえむら)ですが、おそらく堺市東南部の陶器山周辺でしょう。 オオタタネコはオオモノヌシとスエツミミ(陶津耳)の間に生まれたクシミカタのひ孫で、父はタケミカヅチです。「すえ」は陶器を意味しますから、オオタタネコは陶器と密接につながったオオモノヌシの祭祀者であったことが想像できます。父のタケミカヅチ(建甕槌)は中臣系の軍神タケミカヅチ(建御雷)とは異なる神、とする説もありますが、オオモノヌシと中臣氏の根源地が吉備だったとすると、吉備邪馬台国の祭祀を司る一族に属すオオタタネコは吉備の陶工と一緒に和泉に徴発されたと考えても不自然ではありません。

 

 270年頃、大和盆地の土器は庄内式から、吉備、播磨、伯耆から影響を受けた布留式土器に代わっていきますが、和泉に徴発された吉備の陶工が布留式土器の誕生に関わった可能性があります。

 

(大和の吉備文化の吸収)

 布留式土器とほぼ同じか若干遅れて、吉備で誕生した特殊壺・器台の第3段階の宮山形の製作が吉備ではなく大和で始まります。多くの方々は箸墓だけに気をとられていますが、大和の特殊壺・器台の編年では、崇神天皇陵墓の北方にある中山大塚古墳から出土した特殊壺・器台は箸墓で発見されたものより、若干早く270年代半ばか後半に造られたようです(「古墳のための年代学」カタログ。橿原考古学研究所附属博物館。平成11年度秋期特別展)。

 

 箸墓の主はトヨ(ヤマト-トトビ-モモソヒメ )とする私から見ると、トヨは自害する以前に、吉備邪馬台国の王家の象徴である弧帯文と特殊壺・器台の使用を崇神天皇に認めます。これは名実共に、倭国の盟主が吉備から大和に禅定されたことを意味しています。大和にはすでに阿波の祭祀が入っていましたが、吉備の中臣氏の祭祀も大和に導入されていき、忌部氏と中臣氏は平安時代までライバル関係となっていきます。

 

 

第6章 大和の東西日本の統一

2.四道将軍と箸墓

 

タケハニヤスビコの反乱)

 政権と首都圏が安泰となった後、ミマキ王は東西日本の制覇に向けて、四方向に四道将軍を派遣します。西の方はイサセリビコ(大吉備津日子)、丹波・丹後は腹違いの弟ヒコイマス、北陸は叔父で舅のオオビビ、東の方にはオオビビの息子タケヌナカハワケが将軍に選ばれます。古事記では西の方が抜けていますが、これは西道制覇は266年に吉備邪馬台国を破った後から継続されていたためでしょう。

 

 第陣として北陸道に進むオオビコが木津川手前の平坂(ひらさか)にさしかかった際、童女が流行り歌を口ずさんでいました。耳を傾けると、ミマキ王に反乱をおこそうとしている内容でした。これは何かある、と首都の金屋に引き返し、ミマキ王に報告します。それを聞いたトトビ-モモソヒメはオオビコの腹違いの弟タケハニヤスビコが謀反をたくらんでいるのではないか、と忠言します。

 なぜ、モモソヒメが謀反を察知したのでしょうか。トヨが春日にいて、まだ崇神天皇と出会っていなかった頃、タケハニヤスビコは吉備邪馬台国から大和への禅定を目的に、あるいは隠匿された吉備の財宝のありかを探るためにトヨに接触していたのではないか、と私は想像しています。

 

 早速、内密に調べさせますと、瀬戸内海からの帰還兵士を河内湾や淀川流域で襲っているのは、タケハニヤスビコの手下の仕業でした。さらにアマツヒコネ族やアメノユツヒコ族が持ち帰って来る戦利品を隠匿し、吉備の特殊壺・器台を八尾の湊近くの墳墓に飾り立てていました。さらに自分が天下を取った後の準備としてなのか、吉備から徴発して来た陶工に特殊壺・器台を造らせていることも判明しました。

 先手を打って、タケハニヤスビコと妻アタヒメが軍をおこします。タケハニヤスビコは大和川河口に近い八尾を拠点としていました。アタヒメは大和川沿いに大和に入ろうとしますが、国境の大坂でイサセリビコ軍が退治します。タケハニヤスビコ軍は木津川でオオビコ軍と和珥臣ヒコクニブク軍と対峙しますが敗退します。

 

(大和軍の西征)

 大和の西征は吉備邪馬台国攻略作戦以来、吉備津日子兄弟が将軍でした。266年に吉備邪馬台国を破った後、どこまで西進したか、がポイントになりますが、266年から約10年かかって270年代に九州東部と北部に加えて、熊本県八代市の中西部まで支配下に置いたようです。

 その根拠として、庄内式土器が九州東部でも出土している、日向の西都原古墳群の大和型定型前方後円墳は300年以前に登場した、の2点が挙げられます。

 

 邪馬台国九州説に立たれる方の中には、庄内式土器の発生は3世紀末でしかも九州で誕生した、前方後円墳も九州で発生した、と信じ込まれておられる方も多いようですが、これは九州ナショナリズムから派生した誤った思い込みにすぎません。邪馬台国九州説を主張される方々は、大和説対九州説の対決にのみ焦点を置かれていますが、日本列島の盟主が邪馬台国から大和に代わった3世紀後半については、西日本だけでなく、関東甲信越地方を主体にした東日本の変化も考察する必要があります。

 

 邪馬台国九州説の方々は見落とすか無視されていますが、アマツヒコネ族・アメノユツヒコ族とは別個の第二陣が豊後経由で肥後国へ攻め込んでいます。肥前国風土記と肥後国風土記逸文の火君の祖タケヲクミの逸話は、大和が270年代に肥後まで支配下に置いたことを示しています。

 タケヲクミは神武天皇の皇子カムヤイミミを祖とする意富(おお)族に属す、大和生え抜きの名族です(第5章2.参照)。崇神天皇の時代にタケヲクミは熊本市近くの朝来名(あさくな。益城町)で土グモをを破った後、八代まで南下して不知火を見ます。大和に戻って崇神天皇に不知火を報告したことから、火の君の称号をもらいます。

 日本書記第12代景行天皇12年紀と豊後国風土記では、九州に御幸した景行天皇が阿蘇山に向かう竹田市周辺で土グモを破る逸話が記載されています。景行天皇の九州御幸は明らかに後代の脚色で、崇神天皇の時代に大和軍は豊後からJR豊肥本線に沿って肥後に進軍したのではないか、と見た方が自然です。

 

 不思議なことに意富族と肥前の杵島(きしま)の歌垣(唱曲)が常陸国風土記に登場しますが、九州西部まで攻め込んだ大和軍の精鋭が大和に帰還した後、今度は東国の制覇で関東地方に派遣された、と想像できます(第6章3.参照)。

 

(丹後王国)

 古事記では ヒコイマス、日本書記では息子のタンバミチヌシ(丹波道主)が丹波に進攻しますが、丹後半島で独立を保っていた丹後王国を攻め落としたのではないか、と想定できます。

 丹後半島では赤坂今井墳丘墓や大風呂南墳墓群など弥生中期から後期にかけての遺跡が続々と発見されており、強力な独立王国が存在していたことを裏付けています。網野町には丹波道主の墓と推定されている日本海最大の銚子山古墳があり、網野神社には ヒコイマスが祀られています。

 

 ヒコイマスの系譜を眺めていくうちに、出雲のオオクニヌシの系譜と「遠津(とおつ)臣」でつながることに気づきました。ヒコイマスはオキナガミズヨリヒメの母イロトヲケツヒメを后として山代のオオツツキマワカを産み、その息子カコメイカヅチは丹波の遠津臣の娘タカキヒメとの間にオキナガ(息長)宿禰をもうけ、息長宿禰はオキナガタラシヒメ(神功皇后)の父となります。

 その一方、オオクニヌシとトリミミから生まれたトリナルミの8代目アメノヒバラオオシナドミはアメノサギリの娘トホツマチネ(遠津待根)と結婚し、9代目トホツヤマサキタラシ(遠津山岬多良斯)が生まれます。古事記で第9代まで詳しく記載されるトリミミの系譜は日本海地域のどこか分からなかったのですが、丹後王国の系譜だった可能性が出てきました。

 

(日本海と東国)

 オオビコは越前、越中を過ぎて、越後の新潟市から阿賀野川をさかのぼり、岩城の会津(伊佐須美神社)で息子タケヌナカハワケと出会います。

 

 北越道は元々は出雲のオオクニヌシ文化圏に入りますが、孝霊天皇時代から尾張氏の一族が勢力を伸ばしていったようで、越後の彌彦神社ではアメノホアカリの息子神アメノカヤマを祀っています。オオビコ一族と尾張氏は緊密な関係を築いたようで、第7章3.で触れますが、アマテラスが伊勢に祀られる要因となります。

 タケヌナカハワケは東の道を進みますが、 富士山の噴火により東海道の駿河と相模の間の街道は塞がれていたようですので、東山(中仙)道から信州、上野を経て下野に入り、関東平野に下らずに、現在の野岩鉄道と会津鉄道のルートで会津入りをして、父オオビコと再会します。

 

(トヨと箸墓)

 四道将軍が凱旋して、天下泰平となった後、崇神天皇は税制を整備します。トヨは王宮の側に住み、ミマキ王はしばしばトヨを王宮に招きいれます。

 しかし正后ミマツヒメと父のオオビコ、后オオアマヒメと尾張氏を中心にトヨに対する警戒といじめが強まっていきます。オオビコなど批判者側は、なぜ大和とは関係が薄いオオモノヌシを三輪山に勧請してしまったのか、といまだに不満でした。裏で画策して、トヨを支えてきた吉備津日子3兄弟を、イサセリビコは備前、ヒコサメマは西播磨、ワカヒコタケキビツヒコは備中に永住させます。後ろ盾を失ったトヨの理解者はわずかに紀伊の后トホツアユメマクハシヒメだけになってしまいました。

 

 いじめにじっと耐えて大和で生きていても仕方はない。倭国の盟主の魂は崇神天皇に禅譲した。私の使命は果たした。トヨは意を決して自害の道を選びました。巷では、トヨは三輪山の神が蛇神と悟り、自害したという噂が広まります。三輪山の神との結婚を恥じたことは、トヨは大和の人間になりきれなかったことを意味しています。

 古墳は都市の近くの耕作地に適さない尾根に築くのが普通でしたが、崇神天皇は苦境を救ってくれたトヨに最大の礼を尽くし、三輪山を仰ぎ見れる纒向の一等地に陵墓の造成を命じます。吉備から徴発された工人や農民を主体に昼夜決行して箸墓が築かれました。

 

 箸墓の造成は260年前後で、ヒミコの陵墓と決定したと、扇情的に書き立てる新聞記事もあるようですが、私は造成は282年頃で、吉備邪馬台国の最後の女王トヨ(モモソヒメ)の陵墓と考えています。

 

 

第6章 大和の東西日本の統一

3.東国制覇と開拓

 

 大和政権が東国制覇を進めた270280年代の関東地方の弥生文化は西日本に較べて約50100年の遅れがあり、鉄器もあまり普及していませんでした。住民は水稲文化を伝えた弥生人と原住の縄文人が混血化したものですが、後に関東侍と呼ばれるように、体格ががっしりしており兵士として勇猛果敢でした。

 

  四道将軍のタケヌナカハワケは東山道の陸路で東国に入りましたが、東国への西日本の文化伝播はそれより先に、海路を通じて西日本の文化伝播は房総半島の突端の館山から始まっていました。

 

(阿波と安房)    参照:補遺3-2.千葉県市原市の神門古墳

 7代孝霊天皇が220年代に阿波を攻略した際、吉野川の南を流れる勝浦川と那賀川流域の住民は舟で沖合いに逃れ、黒潮に乗って北上して房総半島の先端に流れ着き、安房国を建国します(安房神社、州崎神社)。以来、大規模ではありませんが、安房と紀伊、阿波を結ぶ海の交易ルートが確立していました。麻の栽培技術を持っていた阿波出身の忌部族は水田と麻用の畑を開墾しながら、内房と外房の両側に沿って房総半島を北上していきます。大和が吉備邪馬台国を征服した後は、阿波に加えて讃岐からの移住者も加わりました。

 

 内房の付け根にある市原市の養老川河口地域は関東地方で最も早く大和型の古墳が登場した地域です。関東地方最古の古墳と見られる神門5号墳は前方後円の前方部分がわずかに突起した「いちじく形」をしており、古墳発生期のものと推定されています。

 

 大和盆地で発生した古墳が、大和から遠く離れた房総半島でもほぼ同じ時代に発生したことは不可思議です。しかし円丘に帯状の突出部を持つ萩原2号墳(成立は2世紀末か3世紀初め)、萩原1号墳(同3世紀前半)の弥生墳丘墓の伝統を持つ阿波の工人が、大和盆地に徴発されたことが前方後円古墳の誕生につながった(第5章5.参照)ことを考慮しますと、大和と内房の初期古墳は阿波の忌部族を仲介にして結びつけることができます。

 

(タケカシマの北関東征服)

 日本書記では、崇神天皇紀11年に四道将軍が大和に凱旋して、東国も大和の支配下に入りました。ところが次第にタケヌナカハワケが通過したルートは上野と下野の山麓部だけで、利根川、渡良瀬川と鬼怒川が構成する広大な関東平野は手付かずのままであることが判明していきます。

 

 安房・阿波の交易海人の話では、関東平野にはまだ統一王国は出現しておらず、小国が凌ぎあっている状態ですが、それぞれ強力で、攻め落としていくのは難しい、ということです。熟考を重ねた崇神天皇は陸路ではなく、海路で関東平野を攻略することを決め、崇神紀17年、諸国に造船を命じます。崇神天皇は関東平野への進軍をオオビコ親子ではなく、九州西部攻略で功があったタケカシマと意富(おお)族に託しました。舅と義兄弟であるオオビコ親子から距離を置いていたかった様子が見受けられます。

 タケカシマが率いる討伐船団は忌部族の水先案内で銚子に到着し、広大な内海に入ります。銚子は現在は利根川河口となっていますが、利根川、渡良瀬川と鬼怒川が連結されて銚子が利根川河口になったのは江戸時代のことで、3世紀後半は太平洋と広大な内海を結ぶ水道となっていました。内海の北方は信太流海(しだのながれうみ)、西方は榎浦(えのうら)流海で鬼怒川河口となっていました。

 

 タケカシマはまず水道の両側の鹿島と香取を押さえた後、榎浦流海に沿って信太郡を征服します。しかし下総、武蔵、利根川流域は土着勢力が強そうでしたので、信太流海から北の霞ヶ浦周辺を攻めていくことにします。

 最初の大敵は信太流海に突き出した半島の行方郡にいました。信太郡の安婆島から半島を見ますと、随所から煙が立ち上がっています。軍勢は半島の香澄里(かすり)に渡り、ヤサカとヤツクシが率いる土グモを退治しようとしますが、砦や木柵で厳重に守られた村落を攻撃する手立てがありません。

 タケカシマは一計を案じます。舟を並べた筏(いかだ)の上に舞台を造り、祭りの飾り立てをした後、沖合いに出て、笛、鈴、琴と太鼓の音に合わせて肥前の杵島の歌謡を歌い踊ります。一晩、二晩と昼夜を徹して祭りを続けていると、土グモたちも興味を持ち始め、老若男女が総出で見物するようになります。ころあいを見て、物陰に潜んでいたタケカシマ配下の兵士が皆殺しにします。

 

 タケカシマの勇猛と残酷さはたちまち常陸地方全域に広がっていきます。タケカシマは筑波地方を征服した後、那賀川へと北進し、水戸市の那珂川沿いの飯富に前線基地を設けます。ここから北軍と西軍に分かれ、北軍は久慈川流域、西軍は下野を征服した後、上野へと進軍していきます。

 

 以上のストーリーは常陸国風土記を読みながら連想したものですが、考古学的にも裏づけられます。弥生時代後期の常陸国は、南部の霞ヶ浦地域は上稲吉式土器、那珂川以北は十王台式土器とはっきり分かれていましたが、古墳時代前期が始まる3世紀後半になると、十王台式土器が他の地域へ移動し、十王台式土器文化圏の中に伊勢湾を中心とする東海地方西部の土器が入ってきます。これは大和勢力の侵入により、土着勢力が他の地域に逃避したことを示しています。

 

 常陸、下野と上野が大和の支配下に入った後、伊勢の港から開拓民が船で送られます。指揮は物部系の采女臣筑簟(つくは)がとりました、常陸地方の開拓は、吉備、ことに吉井河流域の備前と美作の住民の移住によるようで、筑波山と日立市の神峰山には美作の那岐山と同様にイザナギ・イザナミが祀られ、神峰山の周辺はイザナギに付随する多賀山地となっています。

 

(鹿島神宮・香取神宮と中臣氏)

 タケカシマが関東進出の突破口とした鹿島には中臣系の軍神タケミカヅチを祀る鹿島神宮、香取には同じく中臣系の剣神フツヌシを祀る香取神宮があります。両神宮は御船(みふね)祭などで密接なつながりがあり、平安時代の延喜式で神宮号が許されているのは伊勢神宮と両神宮のみですから、大和政権にとっては重要だったことが分かります。

 

 タケカシマは常陸国風土記では那珂国造の初祖ですが、古事記では那珂国造の祖は神武天皇の皇子カムヤイミミとなっています。このためタケカシマもカムヤイミミの子孫である意富氏に属すると解釈される方もあられますが、そうだとすると鹿島神宮と香取神宮にもカムヤイミミが氏神として祀られているはずです。タケカシマは肥前の杵島と縁が深く、タケカシマと関係があるか否かは不明ですが、杵島の近くに鹿島市があります。私の想像では、タケカシマは大和に敗れた吉備邪馬台国の軍人で、捕虜兵としてタケヲクミ軍に編入され、タケヲクミ軍の九州征伐に従軍し、熊本市で本軍と別れて島原半島に渡り、杵島周辺を征服した後、タケヲクミ将軍と共に大和に凱旋し、崇神天皇に重用され、オオビコ親子の勢力拡大を懸念する崇神天皇の懐刀(ふところがたな)となります。

 

 垂仁紀25年に5太夫が登場します。5太夫はタケヌナカハワケ(阿倍臣の祖)、和珥臣ヒコクニブク、物部連トヲチネ、大伴連タケヒと中臣連オオカシマですが、前4者とは異なり、中臣氏は神武天皇紀以降で登場するのは初めてです。オオカシマはタケカシマの息子で、タケカシマの時代に中臣氏が復活し、息子の代から中央政府で活躍するようになり、那珂国造は意富氏が代々継ぐようになった、とするのが私の推定です。

 

(東国経営をめぐる崇神天皇と阿部氏親子の確執)

 オオビビとタケヌナカハワケの阿部氏親子は、四道将軍として北陸道と東山道を通過して以来、北陸と東国は自分たちの領域である、と見なすようになっている、と崇神天皇は義父と義兄の勢力拡大を憂慮しました。いずれ阿部氏親子が政権乗っ取りを画策する恐れがある。

 またタケハニヤスビコの敗北以来、勢いをそがれたアマツヒコネ族はひっそりとしているが、筑紫のタケコロの主導で、中央政権に対して反乱をおかしかねない。

 そこで崇神天皇は大胆な策を実行しました。タケヌナカハワケを筑紫に移動させ、阿部氏親子を分離する。タケコロが率いる西国のアマツヒコネ族とアメノユツヒコ族の主力を東国に移して、意富氏の下で、東国の支配領域を広げて行く。

 

(皇子トヨキイリヒコの宇都宮入り)

 関東地方支配の目処が立った後、崇神紀48年に崇神天皇はイクメイリビコイサチを次代天皇に選び、長男のトヨキイリヒコを関東地方に送り込みます。意富氏に守護されながら、トヨキイリヒコは宇都宮(宇都宮二荒山神社)に居を定め、上毛野(上野)君と下毛野(下野)君の始祖となります。

 

 崇神天皇の目論みは関東地方を天皇家の直轄地として、朝廷の経費をまかなうことにあり、これは4世紀後半から朝鮮半島の任那(伽邪)地方を天皇家の直轄地とした先行例となります。

 

 

第6章 大和の東西日本の統一

4.出雲征服

 

 崇神紀60年、崇神天皇は群臣に「タケヒナテル(タケヒナトリ。アメノホヒの子神)が出雲の大神の宮に納めた天から招来した神宝を見てみたい」と命じます。

 そこで出雲国に神宝を朝廷に献じさせるために矢田部造の祖タケモロスミを出雲に派遣します。神宝は出雲臣フルネが管理していましたが、筑紫国に出掛けていて留守でした。代わって弟イヒイリネは朝命を受けて、弟ウマシカラヒサとその息子ウカヅクネに託して神宝を朝廷に献じます。

 

 筑紫から戻ったフルネは激怒して、イヒイリネを責めます。しばらくしてフルネはイヒイリネを誘って斐伊川の止屋(やむや)の淵に誘います。兄は真刀に似た木刀を腰にさしていました。二人は沐浴で水中に入り、先にあがった兄は弟の真刀をさし、後から岸に上がった弟はそれに気づかず兄の木刀をさします。すると兄が襲いかかり、刀を抜くことができなかった弟は討ち死にします(注:この逸話は古事記では景行天皇の皇子ヤマトタケルが出雲建(いずもたける)を退治する場面に使われています)。

 ウマシカラヒサとウカヅクネ親子はフルネの狼藉を朝廷に訴え、吉備津彦と筑紫に移ったタケヌナカハワケを出雲に派遣して、フルネを征伐します。この出雲征伐は崇神天皇の末期、290年代のことでしょう。

 

(出雲の国譲り神話)

 皇祖神アマテラスは長男アメノオシホミミに水穂の国を治めさせようと天下りを命じますが、アメノオシホミミは地上はやけに騒々しい、と高天原に戻ってきます。そこでアマテラスは八百万の神々を集め相談すると、水穂の国の騒乱を鎮めるためにアメノオシホミミの弟アメノホヒを下したら良いでしょう、とオモヒカネが提案します。

 アメノホヒは水穂の国に天下りしますが、オオク億ニヌシに媚びてしまって、3年が経過しても高天原に戻ってきません。

 

 そこでアマツクニタマの息子アメノワカヒコが派遣されますが、アメノワカヒコはオオクニヌシの娘シタテルヒメと結婚し、いずれは水穂の国を獲得する目論見をもって8年が経過しても高天原に戻ってきません。そこでオモヒカネは偵察として雉神ナキメを送ります。ナキメはアメノワカヒの屋敷の楓の木に降り立ってオモヒカネの伝言を伝えます。それを聞いたアメノサグメの助言もあってアメノワカヒコはナキメを矢で射殺します。矢は高天原まで飛んでいき、タカミムスビがその矢をアメノワカヒコニ向けて射返すと、矢は就寝中のアメノワカヒコの胸を突き刺し、即死します。

 妻のシタテルヒメの号泣は天(美濃)にいるアメノワカヒコの父にまで届き、一族は喪屋を造ります。シタテルヒメの兄でアメノワカヒコと親しかったアヂ(ジ)シキタカヒコネが喪屋を訪れます。アメノワカヒコと瓜二つの顔をしていたため、一族はアメノワカヒコは生きていたと狂喜しますが、アヂシキタカヒコネは死人に間違えられたことに激怒して、喪屋を切り倒してしまいます。

 

(タケミカヅチとフツヌシ)

 最後の手段として高天原は タケミカヅチとフツヌシ(古事記ではアメノトリフネ)を水穂の国に送ります。2神は(出雲大社に近い)伊那佐の小濱(をばま)に降り立って、オオクニヌシに直談判をしますが、オオクニヌシは息子のコトシロヌシに意見を聞いてくれ、との返答です。コトシロヌシは国譲りに同意しますが、もう1人の息子タケミナカタは服従せず、タケミカヅチと一騎打ちとなります。タケミナカタは敗れて信濃の諏訪湖(諏訪大社)に逃げ込んでしまいます。その後、オオクニヌシは自らを祀る壮大な宮殿を造ることを条件に国譲りに同意します。タケミカヅチは高天原に戻って。葦原中国の平定を奏上します。

 

(国譲り神話の不自然さ) 

 出雲の国譲り神話は不思議なことに出雲国風土記には陰も形も登場しません。この逸話は高天原を放逐されたスサノオが地上に下り立って子孫が繁栄していく逸話とアマテラスの孫神ホノニニギの降臨の逸話をつなげる接着剤の役割を果たしていますが、無理に糊付けをした印象が強くあります。270年代から290年代にかけて実際に出雲地方で発生したできごとを、4世紀前半の垂仁天皇の時代に国譲り神話として大和の朝廷で造作された逸話、と私は考えます。

 

(国譲り神話は3世紀末の大和の出雲征服が素材)

 四道将軍の270年代に、大和は伯耆経由で東部出雲までは征服し、大和系のアメノホヒ系の一族が松江市の神魂(かもす)神社の近くに拠点を構えます。しかし西部出雲を支配する神門王国は攻めきることができず、対応策として美濃出身の軍人アメノワカヒコが神門王国との交渉役として派遣されます。ところがアメノワカヒコは神門王国の王女と恋仲になり、結婚します。本人は機会を見て神門王国を乗っ取る腹積もりでしたが、数年たっても音沙汰がないため、大和は痺れを切らし、密使を使って軍人を暗殺します。

 

 崇神天皇末期の290年代になって、出雲はまだ全域を支配しておらず、西出雲の神門王国は独立を維持していることが判明します。崇神天皇は懐刀のタケカシマを常陸国から呼び出し、交渉役として出雲に派遣します。

 吉備の残党を引き連れたタケカシマは船で神門王国に到着します。フルネ王は大和への対抗策を協議するために対馬国か壱岐国に出掛けていました。弟たちはタケカシマたちの説得を受けて大和に恭順します。しかし出雲に戻ったフルネは弟を殺してしまいます。そこで吉備津彦とタケヌナカハワケを将軍とする大軍が送られ、神門王国は滅亡します。年代から見ると、吉備津彦は吉備津日子兄弟のどちらかの息子でしょう。

 

 その後、大和は出雲地方支配の拠点を松江市から出雲市に移します。出雲国風土記の出雲郡にはフルネと同一の人物と見られる「神門臣古禰(ふるね)を健部(たけるべ)と定めた」との記載があり、神門郡にはアメノホヒの12世孫ウルシの後裔と言われる神門臣イカソネが登場しますが、これは出雲の支配者である神門臣(出雲臣と同義語)が土着の人間から大和の人間に代わったことを示しています。東出雲にある熊野大社と西出雲にある出雲大社は共に出雲国一の宮ですが、熊野大社は出雲大社より神階が上位にあったとされ、毎年1015日、出雲大社の宮司家である出雲国造が熊野大社に参向して、出雲大社で用いる「ヒキリウス・ヒキリキヌ」を拝戴する鑚火祭が執り行われますが、これは大和の出雲支配の当初の本拠地は松江市周辺にあったことを物語る名残でしょう。

 

(出雲の人々の東国移住)

 290年代に大和に征服された後、出雲地方の住民は東山道か日本海の双方のルートで信濃を経由して、開拓民として東国に送られます。引率はアメノホヒの子孫が指揮をとりますが、まず常陸国の新治に陣地を置いて、まだ未征服だった利根川の南部の武蔵野を征服していきます。

 この流れは、新治の国司ヒナラスはアメノホヒの子孫であること、茨城県から利根川を渡った地点に近い東鷺宮神社でアメノホヒと子神タケヒナトリを祀り、スサノオを祀る氷川系神社はさいたま市大宮区の氷川神社から埼玉県と東京都の武蔵地方一円に拡がっていることから類推することができます。武蔵野の開拓は出雲の開拓民によるものであることは明瞭です。

 多摩川を越えた鶴見川流域にはスサノオの子神イソタケルを祀る杉山神社が分布しています。紀伊(伊太祁曽いたきそ神社)から伝来した説と出雲(韓国伊太氐からくにいだてほ神社)からの伝来説がありますが、私は出雲伝来説をとっています。

 オオクニヌシの子神アヂ(ジ)スキタカヒコネを祀る都都古別(つつこわけ)神社系は福島県南部の棚倉(たなぐら)町を中心に栃木県北東部まで分布していることから、出雲の別集団は新治から北上して陸奥国に入ったことが分かります。

 先行していた意富氏、アマツヒコネ族とアメノユツヒコ族が難渋していた、関東平野と周辺地域の平定は出雲族の加入で一気に進みました。その過程は、「国造本紀」の関東地方と東北地方南部の国造の系譜を一覧すると理解できます。

 

                      

第6章 大和の東西日本の統一

5.日本国誕生(東西日本の統一)

 

(任那からの使者)

 崇神紀65年、朝鮮半島の任那国(伽邪地方)が使者ソナカシチ(蘇那曷叱知)を派遣し、崇神天皇はソナカシチの接遇を皇太子イクメイリビコイサチ(垂仁天皇)に託して、68年に他界します。亡くなったのは298年頃と推定します。 

 

 なぜ任那国が使者を大和に派遣したのでしょうか?理由の1つは、吉備邪馬台国が崩壊した後、伽邪地方や任那国は出雲王国と交易を続けていましたが、出雲王国も崩壊したため、大和国を倭国の盟主として認知して使者を派遣したことが考えられます。

 もう1つの理由は、辰韓地方の斯羅(しら。後の新羅)の拡大戦略が伽邪地方にも影響を及びだしてきたため、大和に支援を求めたことです。垂仁天皇紀2年にソナカシチは帰還しますが、垂仁天皇からのみやげ物を斯羅に掠奪されてしまいます。垂仁紀3年に新羅の王子アメノヒホコ(天之日矛)の来朝の逸話が登場しますが、私は「新羅の王子」を「新羅地方(辰韓)の王子」と解釈します。崇神天皇の末期から垂仁天皇の時代に、斯羅の勢力拡大の影響下で、秦韓や弁韓地方の諸国からの使者や亡命者が相次いだのでしょう。

 

 任那は、おそらく両方の理由で使者を派遣したのでしょうが、大和は半島の事情にはまだうとく、また日本列島の統一に専念する必要があった時期でした。

 

2人の初国知らしし天皇)

 古事記は神武天皇と並んで崇神天皇を初国知らしし天皇と記載しています。このため、大和の建国者は人いたことになります。

 神武天皇は神話上の人物であり、神武天皇に続く第9代までの天皇も架空の人物(欠史八代)であるから、崇神天皇が初期大和政権(3世紀後半~4世紀中ごろ)の最初の大王、実在した天皇の初代と見ることが、現時点での通説、あるいは正論となっています。神武天皇の九州から大和への東征伝承を崇神天皇とかぶせることで、邪馬台国九州説を正当化されようとする方もおられますし、騎馬民族説に代表されるように天皇家は朝鮮半島の出身であると主張される方もいまだにおられます。

 

 第1章3.や第5章2.等で書いてきましたように、欠史八代という誤まった説が1960年代から約半世紀以上もの長い間、定着してしまっています。大和は邪馬台国の敵国である狗奴国だった、という発想がなぜ、これまで表面に登場してこなかったのが不思議でなりません。一流の大学や研究機関の先生がそうおっしゃるのだから、と新聞・テレビが配布されるプレス・レリーズや談話を要約し、新聞・テレビが報道するのだから、そうなのだろうと、と思い込んでしまうと、知らぬ間に日本の空気、常識となってしまい、異説ははじけ飛ばされてしまいます。固定概念となってしまった「欠史八代説」は誤りであることに気づく人々を増やしていくことが、目下の私の仕事になったようです。

 大和国は最初から大和盆地全域を統一していた、と錯覚されておられる方も多いようです。200年前後に吉備を主体にした西部勢力が大和盆地に入り、協同して邪馬台国を構築し、ヒミコを女王に共立した、とする説もこれに沿って登場したものです。

 

 大和狗奴国説にもとずいて、イワレビコ(神武天皇)は1世紀後半に大和盆地全体ではなく、西南部の南葛城地方に狗奴(葛)国を建国した建国者、ミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)は3世紀後半に初めて東西日本の統一を成し遂げた日本国の建国者、と考えると、初国知らしし天皇が二人存在したとしてもおかしくはありません。

 

(崇神天皇の功績)

 弥生中期の北部九州勢力、弥生後期の吉備邪馬台国圏は西日本だけの世界でした。崇神天皇の功績は西は九州中西部の肥後(熊本県)、東は福島県南部まで一挙に東西日本を統一したことにあります。神武天皇が建国し、第10代崇神天皇が日本を統一するまで、約200年が経過しています。神武・崇神王朝と名づけることができる第1王朝は4世紀半ばの第12代景行天皇で終了し、4世紀後半に第2王朝の応神王朝、6世紀初めに第3王朝の継体王朝が始まりますが、いずれも女系でつながっていますから、現代につながる日本国の創始者は崇神天皇で、その始祖は神武天皇と言うことができます。

 

 崇神天皇は自ら戦場を駆け抜ける武将ではなく、知将タイプのようです。父王の死で若くして王に即位した後の苦難が思いやりと深みがある人間に育てたのかもしれません。叔父タケハニヤスビコの天下取りが成功していたなら、東西日本の統一は遅れ、別の歴史となっていたことでしょう。

 

(崇神天皇とトヨの出会い)

 吉備邪馬台国の最後の女王トヨが人質として大和入りし、イサセリビコ(大吉備津日古)の姉ヤマト-トトビ-モモソヒメとして遇されて、崇神天皇のアドバイザーとして活躍した、とする筋書きは、オオモノヌシの根源地は瀬戸内海と見なしたこと、モモソヒメに関する讃岐での伝承と信仰から思い浮かべた私の推定にすぎません。箸墓はすでに盗掘されているでしょうから、箸墓の主が男性なのか、女性なのかは永遠の謎となる可能性も高いでしょう。

 しかし崇神天皇は征服した吉備から特殊壺・器台などの技術や神話と祭祀体系等を取り入れ、受け継いだことは間違いはありません。

 

(大和の融和政策)

 周囲を山に囲まれた大和盆地は海の交易には不適で、大規模な沖積平野もなく、水銀朱を除くと資源的にも恵まれていません。同じく西日本の端に当たると近江とほぼ似た条件下にありますが、大和が日本統一を成し遂げることができたのは、孝昭天皇の東海3国の征服にあります。以来、被支配者側を巧みに取り込んでいく融和政策が大和の伝統となったことが、朝鮮半島より約400年も早い3世紀末に日本列島の統一を成し遂げたことにつながります。

 

 大和の融和政策の代表例は、征服した諸国の土着の神々を抹殺せずに、神社の祭神として祀り続けたことにあります。伊勢の猿女(サルタヒコ)君、阿波の忌部氏、吉備の中臣氏など、征服された氏族も政権の中に取り込んでいきます。このとりこみのうまさが日本文化の特性になっていきます。

 幸いなことに異民族の侵入がなく、縄文文化から12000年の歴史の糸が途切れずに1本でつながっているのは、先進国の中では日本が唯一の国です。それが日本人のアイデンティティであり、誇りでもありますが、それが地球文化の中でどれだけの意味合いを持ち、何を貢献できるのかをパリで生活しながら熟考しています。

                         (参照随想録渡来人系学派からの離脱と縄文ルネサンスへ

 

                     

第7章 日本神話の成立

1.大和体制の確立

 

 298年頃、父王ミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)を継いで第11代王を即位したイクメイリビコイサチ(垂仁天皇)は、記紀などを読んでいくと、母と祖父に忠実な箱入り息子、優等生タイプの印象を受けます。母ミマキヒメの父オオビコは第9代開化天皇の兄にあたり、ミマキヒメは夫の崇神天皇とは従兄弟同士、兄タケヌナカハワケは垂仁天皇の5大夫の1人となりますから、垂仁天皇は王家のサラブレッドとも言えます。垂仁2年紀にサホビメ(狭穂姫)を皇后に立てますが、女性関係もまじめだったようで、サホビメにぞっこん惚れ込んでいたため、他の后を作らなかったようです。祖父、母と同様に、父王が三輪山にオオモノヌシを勧請にしたことに不服でした(垂仁天皇紀25年)。

 

(サホビコの反乱)

 ところが人生というものは思惑どおりには進まないものです。垂仁天皇とサホビメは相思相愛というわけではなく、サホビメの方は覚めていて、夫より兄サホビコへの思いを強く抱いていました。

 サホビコとサホビメの父は崇神天皇の腹違いの弟ヒコイマスですから、垂仁天皇とはほぼ同世代の従兄弟同士です。母は春日のタケクニカツトメの娘サホ(佐保)のオオクラトメですから、奈良市北西部の佐保を地盤にした和珥系の氏族だったようです。

 

 垂仁天皇紀4年、天下取りを狙ったサホビコは実家に戻った妹に短剣を手渡し、垂仁天皇暗殺をそそのかします。サホビメは愛妻を膝枕にして昼寝をする夫を短剣で刺そうとしますが、刺しきることをできず、涙を浮かべます。涙は夫の顔に落ち、夫が眼を覚まし、サホビメは兄の企てを白状します。

  垂仁天皇は上毛野君の祖ヤツナダ(八綱田。トヨキイリヒコの息子)にサホビコ討伐を命じますが、サホビコは稲束で稲城を築いて防戦し、サホビメも一粒種のホムツワケを抱いて稲城に逃げ込みます。サホビメは自分も稲城にこもれば、私にめんじて兄も救われると望みを抱いていました。しかしヤツナダはサホビコを許さず、サホビメに稲城から出てくるように説得を試みますが、サホビメは赤子ホムツワケを兵士に託した後、火がつけられた稲城の中で兄と共に討ち死にします。

 サホビコの佐保の領地は朝廷に没収されたのでしょう。その後、正后となったヒバスヒメと垂仁天皇の陵墓は佐保に造られます(佐紀古墳群)。

 

(垂仁天皇の后たち)

 垂仁天皇紀15年、垂仁天皇はサホビメの遺言に従って、サホビメの腹違いの兄弟である丹後のタンバミチヌシ(丹波道主)の娘4人ないし5人を后とします。このうち1人ないし2人は器量が不細工だったため里に帰され、ヒバスヒメ、ヌバタのイリヒメ、アザミのイリビメの3人が宮廷に残り、長女の ヒバスヒメが正后となります。

 その後、垂仁天皇は山代の大国のフチ(淵)の娘姉妹カリバタトベとオトカリバタトベも后に迎え、古事記では大筒木垂根(崇神天皇の腹違いの兄弟)の娘カグヤヒメも后に加わりますが、后はすべて山代と丹波・丹後の系統となっています。

 

4世紀後半の応神朝につながる系譜)

 垂仁天皇関連の系譜を見ていくと、4世紀後半の応神朝へと論理的につながっていき、整合性があります。

 

 たとえば上毛野君の祖ヤツナダ(八綱田)は垂仁天皇の兄トヨキイリヒコの息子で、ヤツナダの孫にあたるアラタワケ(荒田別)とカガワケ(鹿我別)は応神紀15年に百済に使いして王仁を連れ帰っています。

 丹波道主の母オキナガミズヨリヒメの母でありながら、娘と一緒にヒコイマスの后となったイロトヲケツヒメは山代のオオツツキマワカを産み、オオツツキマワカの息子オキナガスクネ(息長宿禰)はオキナガタラシヒメ(神功皇后)の父となります。実在が否定されている神功皇后はヒコイマスと垂仁天皇の后たちとつながっているわけです。

 垂仁天皇の后オトカリバタトベの娘フタヂノイリビメは垂仁天皇の孫ヤマトタケル(倭建)の后となり、神功皇后の夫となるタラシナカツヒコ(仲哀天皇)を産みます。

 

 欠史八代説と神功皇后架空説ではこの3つの系譜は、飛鳥時代の宮廷の御用学者が創作したことになりますが、仔細な部分まで論理的に符合する系譜を御用学者がでっち上げるのは、一般常識から見ると不可能で、何らかの史実にもとづいていることは明らかです。それでも欠史八代説と神功皇后架空説が正しいと主張される方々は一般常識をご存じない、ということです。

 

(富士山麓の開墾)

 崇神天皇末期から、西国や出雲の開拓民を使った、関東平野南部の武蔵国と陸奥国の開拓は進んでいましたが、垂仁天皇の業績は富士山麓の開墾と駿河と相模をつないで東海道を開通させたことにあります。

 

 駿河国一の宮の富士山本宮浅間神社の社伝では、第7代孝霊天皇の御代に富士山が噴火して、鳴動常ならず、人民は恐れて逃散し、国中が荒廃したので、第11代垂仁天皇はその3年に山麓に浅間大神を祀り、山霊を鎮めたのが社殿の創始、と伝えます。浅間神社の祭神はコノハナノサクヤヒメですが、夫神ホノニニギ、父神オオヤマツミも祀られています。

 駿河国に隣接する伊豆国の三島市には富士山の噴火で流れてきた溶岩がいまだに残っています。三島市にある伊豆国一の宮の三島大社の祭神はオオヤマツミで、伊予の芸予諸島の大三島の大山祇(おおやまつみ)神社から勧請された、と伝えられています。阿波と讃岐の忌部族が房総半島、吉備の中臣族が常陸、下野と上野、出雲族が武蔵と陸奥の開拓に関わったことと連動させていくと、溶岩で埋まった富士山麓の開拓は伊予東部と芸予諸島のオオヤマツミ族がかかわっている、と想定できます。

 

 崇神天皇と垂仁天皇時代の東国開墾政策により、西日本と東日本がより密につながり、神武・崇神朝と私が名づける第1王朝は頂点に達します。文字はまだ登場しませんが、現代につながる日本社会の第一歩といえます。

 

               

第7章 日本神話の成立

2.出雲懐柔策

 

(出雲の大神のタタリ)

 垂仁天皇の気がかりは、サホビメが残した一粒種ホムツワケはあごひげが胸元に垂れる年齢になっても、ものをしゃべることができないことでした。

 古事記の描写では、ホムツワケは空を飛ぶ白鳥の声を聞いて、初めてあごを動かして話そうとしました。垂仁天皇は山辺のオオタカに命じて、白鳥を追わせます。オオタカは紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬、近江、美濃、信濃へと白鳥を追っていき、ついに越で白鳥を捕らえ、都に戻って垂仁天皇に献じます。しかしホムツワケは白鳥と遊んでも、ものを話しません。

 

 すると垂仁天皇の夢に出雲の大神が現れて、ホムツワケがものを話さないのは、出雲の大神を充分に祀っていなかったタタリであることが分かります。垂仁天皇はヒコイマスの孫兄弟であるアケタツ(曙立)王とウナカミ(莬上)王をお供につけてホムツワケを出雲に送ります。一行は出雲に着いて大神を祀った後、斐伊川の中洲に仮り宮を建てます。出雲国造キヒサツミがご馳走を献じると、ホムツワケは「川下にある山のような森はアシハラシコヲを祀っている社なのか」と初めて言葉を発します。ホムツワケはヒナガヒメと夜を共にしますが、姫の正体は蛇であることが分かり、恐れをなして逃げ帰りますが、怒ったヒナガヒメが後を追ってきます。何とか都にたどりついた一行が垂仁天皇に帰還を報告すると、ホムツワケがものを話したことに喜んだ天皇は、ウナカミ王を出雲に戻して神の宮(出雲大社)を建造させます。

 

 この逸話は日本書記では簡略化され、空の白鳥を見たホムツワケが「おぬしは何ものぞ」と叫んだことから、鳥取造の祖アメノユカハタナに白鳥を追わせます。アメノユカハタナは出雲または但馬で白鳥を捕らえ、垂仁天皇に献じると、ホムツワケは白鳥と遊びながら、ものを話すようになります。ホムツワケの出雲行きの記載はありません。

 

(垂仁天皇と出雲)

 垂仁天皇と出雲の関係は、日本書記では5か所に登場します。

 

 崇神60年紀では、大和軍が出雲フルネ(振根)を退治した後、出雲臣等が大神(オオクニヌシ)を祀ることを回避したため、丹波の氷上(ひかみ)のヒカトベが皇太子だった垂仁天皇に出雲の神を祀るように忠告します。

 垂仁7年紀では、大和の当麻邑のタギマノクエハヤと出雲のノミスクネ(野見宿禰)に相撲対決をさせ、野見宿禰が勝ち、垂仁天皇に仕えるようになります。

 垂仁23年紀ではホムツワケが目撃した白鳥を鳥取造の祖アメノユカハタナが出雲ないし但馬で捕らえ、ホムツワケがものを話すようになります。

 垂仁26年紀では、トヌチネ大連を出雲に派遣して出雲国の神宝を検校させます。

 垂仁32年紀では、正后ヒバスヒメが亡くなり、野見宿禰の提案で、殉死の代わりに形象埴輪を陵墓に立てることになり、出雲国の土部(はじぶ)を大和に徴発します。

 

(出雲と鴨族の2系統の神さまを祀る高鴨神社)

 大和盆地から吉野川(和歌山県に入ると紀ノ川)に下っていく御所市の風の森峠の近くに、高鴨神社があります。祭神は出雲のオオクニヌシと宗像神タギシヒメの息子アヂヒキタカヒコネ、娘シタテルヒメと彼女の夫アメノワカヒコの3神です。アヂヒキタカヒコネは福島県南東部と栃木県北部に分布する都々古別(つつこわけ)系神社でも祀られています。

 

 高鴨神社は古代豪族の鴨族の発祥の地とも言われます。同じく御所市にあり、高鴨神社の下社とも言われる鴨都波(かもつば)神社の祭神も出雲系のシタテルヒメと別腹の弟コトシロヌシの2神ですが、やはり鴨族の発祥地とされます。

 鴨族が出雲系であるなら、話は簡単なのですが、鴨族の祖神カモタケヅヌミ(賀茂建角身)は神武天皇一行を熊野から宇陀野まで案内したヤタガラスと同一神とされ、根源社は京都市の下鴨神社です。神武天皇紀2年では、ヤタガラスの子孫は葛野主殿県主部(かづのとのもりのあがたぬしら)として、子孫は山城に居住していることを記載していますが、ヤタガラスが領地をどこに与えられたかは記載していません。

 

 このため、賀茂(鴨、加茂)神社は葛城鴨と山城鴨の2系統に分かれていますが、出雲の神と大和土着の神との2種類の神を祀る理由を、高鴨神社の由緒書きでは「本社は古代豪族の鴨族が発祥の地に奉斎した神社である。神話においては、(出雲の)国譲りに際し、御祭神の3柱とともにご活躍され、また神武天皇の大和平定にもヤタガラスとして武勲をたてられた」と説明しています。しかし古事記、日本書記や出雲国風土記には、鴨族が出雲の国譲りに関係した逸話は登場しませんので、かなりこじつけた解釈と感じます。

 神武天皇紀2年では、ヤタガラスと並ぶ忠臣である道臣(みちのおみ)、大来目(おおくめ)、ウヅヒコ、オトウカシ、オトヒキは畝傍山周辺に領地を与えられていますから、ヤマタガラスも金剛山麓と風の森峠の周辺に領地ないし管轄地を与えられたとみても違和感はありません。ちなみにアメノホアカリを氏神とする尾張族の根源地と見られる高尾張は、鴨都波神社より少し北の笛吹あたりと伝えられています。

 

(出雲懐柔策の理由)

 以上を整理していきながら、私が思い描いた筋書きは以下のようになります。

 

 父王時代の末期に大和は出雲を征服しますが、その際に出雲の神オオクニヌシを祀る壮大な宮を築くことを約束します。しかし即位した垂仁天皇はサホビコの反乱もあって、約束を忘れてしまいました。

 サホビメの忘れ形見として垂仁天皇はホムツワケを可愛がっていましたが、成人となってもものを話しません。やがてそれは出雲の祟(たた)りだと気づき、出雲対策を練り直します。

 

 さらに出雲の影響は越後地方までの日本海地域と信州、会津盆地にまで及んでいることに気づきました。オオクニヌシを祀る神社は新潟県まで達しており、信州の諏訪系神社の祭神はオオクニヌシの息子タケミナカタですし、出雲の四隅突出型弥生墳丘墓の分布は福島県会津地方にまで広がっていることがそれを裏づけています。日本海側の諸国が示し合わせて反乱を起こし、これに信濃国、岩代国や武蔵国と陸奥国に移住した出雲族が呼応したら。大変な事態になります。

 出雲族が軍人として勇猛なことは、野見宿禰の天覧相撲で実証されていました。出雲国の現地採用の兵士の一部を大和盆地の警護兵として徴発すれば、出雲国の不満分子を分断することにもつながります。そこでヤタガラスの子孫として、風の森峠と金剛山麓を警備する役割をしていた鴨族を山城の鴨川に移し、代わって出雲族を大和盆地の西側の警備役に抜擢します。

 

 神武天皇の正后イスケヨリヒメの母セヤダタラヒメ(日本書紀ではヒメタタライスズヒメ)の父神は古事記では三輪山のオオモノヌシですが、日本書記ではオオクニヌシの息子神コトシロヌシとなっています。このため神武天皇が大和入りする前の土着勢力は出雲族だった、と考察される方々もおられますが、ヒメタタライスズヒメの父神をコトシロヌシとするのは、垂仁天皇の時代の後に生じた混同によるものです。三輪山の元々の神は蛇神ないしオオクニタマでしたが、崇神天皇の時代にオオモノヌシが勧請され、垂仁天皇の時代に大和盆地に徴発された出雲族を通して出雲の神々も大和盆地に入ったため、三輪山の神さまも混同されるようになった、と考えます(第6章1.参照)。

 

                  

第7章 日本神話の成立

3.アマテラスと伊勢神宮

 

 アマテラスがなぜ伊勢に祀られるようになったのか、については、伊勢には元々から土着の太陽信仰が存在していた、外宮に祀られるトヨウケが地付きの神だった、大和勢力の東方発展の拠点だったから、など諸説が入り乱れています。

 

 垂仁天皇時代の政治・経済的な状況と外戚の構成を通して考察していくと、理由は意外に簡単で、垂仁天皇の祖父オオビコと叔父タケヌナカハワケを祖とする阿倍臣(伊賀臣・阿閉臣などのアベ氏)と尾張氏の両者の利益が合致する場所が伊勢の五十鈴川河口地域だったからです。加えて、五十鈴川河口地域は大和盆地から海路で東国に向かう出発点でしたから、東西が初めて統合された日本国の誕生を象徴する場所としても適していました。

 

(トヨキイリヒメの巡行)

 崇神天皇6年紀、三輪山麓の金屋の王宮にアマテラスとヤマト-オオクニタマの2神が祀られていましたが、両神は並存できません。仕方なく崇神天皇は両神を祀る場所を別々にして、アマテラスは皇女トヨキイリヒメ、ヤマトオオクニタマは皇女ヌナキノイリビメを斎女とします。

 ヌナキノイリビメは幼い頃から病弱でしたが、崇神天皇から東国統括を託されて下野の宇都宮に居を構えたトヨキイリビコを同腹の兄に持つトヨキイリヒメは気丈だったようです。トヨキイリヒメはアマテラスを祀る場所を求めて、紀伊の奈久佐浜宮、吉備の名方浜宮、丹波の与佐宮に巡行しますが、祀る場所を特定するには至りませんでした。

 

(ヤマトヒメの巡行)

 トヨキイリヒメの腹違いの兄弟である垂仁天皇は25年紀にアマテラスの斎女をトヨキイリヒメから皇女ヤマトヒメに代えます。理由としてトヨキイリヒメが年老いたことが挙げられますが、トヨキイリヒメが母マクハシヒメの故郷である紀伊の奈久佐浜宮(日前・国懸神宮)をアマテラスを祀る場所と主張したため、垂仁天皇や阿倍臣、尾張氏と対立したことも一因だったのではないか、と私は推定しています。

 

 ヤマトヒメはアマテラスを祀る場所を求めて、宇陀、伊賀国、近江国、尾張国を巡った後、伊勢国の桑名に入り、伊勢国を南下して、最終的に五十鈴川を祀る地と決めます。巡行コースは阿倍臣が拠点とする伊賀国(敢國神社)と尾張氏が拠点とする尾張国と周辺を含めた地域となっています。

 留意していくと、ヤマトヒメの巡行は東国に至る東山道と東海道の入り口に位置しており、西の倭国と東の倭国が統一されたことを象徴する場所として、東国への入り口を訪ね歩いたことが分かります。

 

(伊勢神宮の渡会氏は尾張氏系か?)

 伊勢神宮の創建には渡会(わたらい。度会)氏が深く関わっています。渡会氏は外宮の豊受大神宮の禰宜家ですが、当初は内宮の禰宜家でもあったようです。

 

 渡会氏の祖である大若子(おおわかこ)は垂仁天皇の時代に越国(北陸地方)の賊を討伐して大幡主の名を授けられます。大若子はその封地を神宮に寄贈した功績により伊勢国造に任じられ、大神主を兼ねて神宮に奉仕するようになり、弟の乙若子(おとわかこ)が大神主を継いで玄孫の乙乃古(おとのこ)から四流に分かれます。 

 大若子はアメノヒワケ(天日別)の6世孫ですが、ここから曖昧模糊とした世界に入ってしまいます。伊勢国風土記逸文では、アメノヒワケは神武天皇に従って熊野から大和入りした後、神武天皇の命令を受けて、伊勢の度会の賀利佐の嶺を拠点とする大国玉(伊勢津彦)を破り、伊勢の国を治めるようになります。アメノヒワケの先祖はアメノミナカヌシとカムムスビの2説があり、またアメノヒワケは阿波忌部の神アメノヒワシと同一神、 伊勢津彦はイヅモタケコ(出雲建子)と同一人物など、阿波と出雲の神まで関わってきて、頭の中がこんがらがっていきます。

 

 その一方で、渡会神主の系譜は伊勢国造一族ではなく、海神族出自の丹波国造一族の出であり、大幡主こと大若子は北陸諸国の国造や道君、江沼臣等の祖である、という説もあります。渡会氏は和銅4711)年に磯部氏から改名したとの説もありますが、磯部の地名が富山県富山市や氷見市、石川県金沢市に残っています。アメノヒワケは氷見市の磯部神社の祭神、大幡主は石川県金沢市の御馬神社の祭神となっています。

 丹後一の宮の伊勢籠神社の祭神は(海部氏も含めた)尾張系のアメノホアカリ、越後一の宮の彌彦神社の祭神はアメノホアカリの息子神アメノカゴヤマであることも考慮すると、丹波・丹後半島から越後に至る日本海地域は尾張氏の縄張りだったと考えられ、大若子も尾張氏系だった、とする説に魅力を感じます。この説ですと、伊勢籠神社の祭神であったトヨウケが雄略天皇の時代に伊勢神宮外宮に勧請されたことも理解できます。 

 

(なぜ伊勢の地が選ばれたのか)

 関東地方経営は垂仁天皇時代の大和王朝の生命線で、伊勢の五十鈴川河口地域は大和にも距離的に近く、太平洋にも乗り出しやすい、関東地方への窓口でした。陸の東海道は、溶岩で埋まる富士山麓の改修工事がまだ進行中か、開通したばかりで、まだ難所でした。

 平安時代の延喜式では、「神宮」の名がついた神社は伊勢神宮、常陸国の鹿島神宮、下総国の香取神宮の3社のみだったことからも大和―五十鈴川―東国への海洋ルートの重要性を察することができます。

 

 崇神天皇の半ば頃から、垂仁天皇の兄トヨキイリヒコ一族が関東地方を統括するようになりますが、それ以前に阿倍一族の祖であるオオビコとタケヌナカハワケ親子が北陸と東国を征服した将軍になっています。垂仁天皇の母ミマツヒメ(紀ではミマキヒメ)は阿倍一族の出身ですから、阿倍一族も東国経営の利権を持っている、と主張していた、と考えてもおかしくはありません。五十鈴川地域を阿倍一族と尾張系が押さえると、日本海地域に加えて太平洋側もコントロールでき、トヨキイリヒコ一族と中臣大鹿島一族の動きを牽制することができます。

 

 アマテラスを祀る場所が五十鈴川河口と決まった時点で、尾張氏系の大若子が越地方の領地を伊勢神宮に寄進し、その見返りとして伊勢国造のポストを取得します。

 大若子と弟の子孫は伊勢国と伊勢神宮の担い手となっていきますが、次第に神武天皇時代のアメノヒワケの伊勢国建国伝承と融合していった、と推測できます。

 

                   

第7章 日本神話の成立

4.日本神話の成立

 

 古事記と日本書記で紹介される日本神話を邪馬台国吉備説の視点から分析していくと、日本神話は吉備邪馬台国圏神話と大和建国神話という、体系が異なる2つの神話が出雲の国譲りの神話を接着剤にして融合されている構成となります(第2章3.参照)。

 この説は私が初めて発表したもので、まだ理解者や賛同者は少ない状況ですが、「邪馬台国吉備説 神話編」の制作の過程で、日本神話に登場する神々を祀る神社の根源社を探し、実際に各地の古い神社や古代遺跡をめぐっていきながら、浮かび上がってきた説です。

 

 神社や古代遺跡を巡っているうちに、弥生時代後期から平安時代の王朝貴族社会までは糸が切れずに歴史がつながっていることに気づきました。鎌倉時代以降になると武士が台頭して氏族と氏神の関係が薄れ、名高い神社の祭神が全国各地に勧請されるようになりますが、平安時代までは氏族と氏神の結びつきが強く、氏神の本籍地を探しながら氏神を祀る神社を追っていくと、氏族の発祥地と移動していった場所に氏族の歴史が鮮明に刻み込まれていました。

 代表例は東国の神々の分布です。房総半島では阿波の忌部氏のアメノフトダマ、鬼怒川―渡良瀬川―利根川流域では吉備の中臣氏のアメノコヤネとフツヌシ、武蔵では出雲のスサノオ、陸奥でも出雲のアヂスキタカヒコネ、伊豆では伊予のオオヤマツミと区分けできます。これは3世紀末までに全国統一を成し遂げた大和朝廷が征服した地域の住民を計画的に開拓民として東国に送り込んでいった歴史を物語っています。

 

(吉備邪馬台国圏神話と大和建国神話の違い)

 吉備邪馬台国圏神話はイザナギ・イザナミの日本列島創生から始まります。イザナギ・イザナミは3貴神(太陽神オオヒルメ、月神ツキヨミ、嵐神スサノオ)を主体に、八百万(やおよろず)の神々を生みます。オオヒルメとスサノオの高天原での対決の後、地上に降りたスサノオの子孫が繁栄していきますが、瀬戸内海を真ん中にはさんだ中国・四国地方の神話です。

 

 大和建国神話はアマテラスの孫神ホノニニギが高天原から日向地方に降臨し、4代目の子孫が大和盆地へ移動して大和国を建国していく出世神話です。両者を結ぶ接点は伊予の神オオヤマツミですが、基本的に系統が全く異なっています。

 

 両者を融合させて統一日本の神話を創り上げる構想は、3世紀後半に東西日本の統一を達成した崇神天皇の時代から始まったようです。その作業には、専門知識では忌部氏、中臣氏と大和の語り部の家系が関わりましたが、大枠の構成と筋書きには、崇神天皇と垂仁天皇時代の外戚だったオオビコ一族(阿倍臣)と尾張氏の意向が反映しています。

 

(吉備神話と大和神話融合の仕掛け)

 2神話の融合は、以下の4点に痕跡が見られます。

吉備神話の太陽神オオヒルメと大和の祖神アマテラスを同一神とする(アマテラスオオヒルメ)。

 

吉備神話のオオヒルメとスサノオの対決で誕生した5男神が、大和の5男神アメノオシホミミ、アメノホヒ、アマツヒコネ、イクツヒコネ、クマノクスビにすり替えられる。

(注:吉備神話の5男神は中国山地を主体にした太陽神を信仰する5部族だったと私は推定していますが、残念ながらまだ確実な証拠は見つかっておらず、今後の課題の1つにしています。大和の5男神のうち、アメノオシホミミはホノニニギの父神で大和王家の祖、 アメノホヒは大和が出雲王国を平定した後の出雲臣の祖となりますので、アメノホヒ以下の4神は神武天皇と日向から同行した家臣の末裔の系譜であろうと推測しています。)

 

吉備神話の高天原の天ノ石屋戸篇で活躍するアメノコヤネ、アメノフトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマオヤの5神は、ホノニニギ降臨のお供(5伴緒)となります。これは2神話を融合する際に創られた創作ですが、吉備邪馬台国圏の神々が大和の祖神に付き従って地上に降臨し、ホノニニギの建国を支えた意味合いとなります。

 

吉備神話のアメノウズメと大和神話のサルメを同一神として、アメノウズメはサルタヒコの妻になります。

 

(出雲の国譲り神話が接着剤として創作された理由)

 吉備神話と大和神話を融合させる5つ目の要素として、出雲の国譲り神話が創作されます。

 

 古事記と日本書記を読んでいくと、スサノオが高天原から地上に降り、子孫が繁栄した後、出雲のオオクニヌシの国譲りとホノニニギの降臨へと進みますが、何か不自然な印象を与えます。

 古事記ではスサノオの子孫である出雲のオオクニヌシの生い立ちから子孫の系譜まで詳しく記載されていますが、日本書記ではこの部分が省略され、スサノオのヤマタノオロチ退治とクシイナダヒメとの結婚の後、オオクニヌシの国譲り篇に飛びます。

 

 出雲の国譲りのモデルは大和が出雲王国を平定した290年代です。これに対しホノニニギの日向降臨神話は弥生中期後半の前1世紀後半の話です。古事記と日本書記では出雲の国譲りが先で、ホノニニギの降臨はその後ですから、年代的に矛盾が生じますが、吉備神話と大和神話の2つの神話を融合させていく編集の過程で出雲の国譲り神話が創作された、と考えると辻褄が合います。

 

 垂仁天皇の時代にあたる300年~320年代にかけては、大和朝廷は日本統一を果たしたものの、まだ万全な体制とは言えませんでした。日本海地域と信濃、会津はオオクニヌシを祀る出雲文化の影響が強く、東国も被征服者の人々が開拓民として送り込まれています。

 彼らが大和朝廷に抵抗して反乱を起こしたとすると、どえらい騒ぎとなることを阿倍一族や尾張氏は敏感に感じていました。出雲の国譲り神話は、出雲だけでなく、日本海地域、信州、会津盆地までの領域を出雲が大和に譲ったことを意味しています。旧出雲文化圏の地域を納得させる目的と、吉備邪馬台国神話圏と大和建国神話の異なる2つの神話をつなぎ合わせる接着剤として、出雲の国譲り神話が創作され、ホノニニギの降臨神話の前に配置されたことになります。

 

 古事記は稗田阿礼(ひえだのあれ)の口承伝承をもとにしており、4世紀前半には重要な意味を含んでいたオオクニヌシの子孫の系譜が残されています。これに対し、712年に公表された古事記を踏まえて、複数の口承伝承をもとに720年に編纂された日本書紀では、奈良時代にはすでに日本海対策を講じる必要がなくなっていた、あるいはオオクニヌシの子孫の系譜を載せた意図を理解しなかったため、省略されました。

 

 日本神話の成立は320年代と私は推定しています。その後、7世紀の飛鳥時代まで口承で伝えられていきます。その間、時の為政者や蘇我氏などの実力者によって追加や修正の手が加わりましたが、基本的な構造には大きな手直しはありません。

 

 日本神話の中に、西日本の盟主だった吉備邪馬台国の神話と文化が残され、大和朝廷はそれを受け継ぎながら、東西統一国家としてふさわしい神話に仕立てあげました。これにより、統一王国としての日本の基礎が固まりました。

 

                  

 

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