垂仁朝の「日本神話編纂」の舞台裏 (「謎の四世紀解読」 第一篇)
――出雲の国譲り創作と欠史八代の旧辞(旧事)割愛――
〔1〕義兄サホビコ(沙本毘古、狭保彦)の反乱と丹後の姉妹
(1)父ミマキ王の遺言
「私は東西日本の統一を達成したが、まだやり残していることがある。一つは王家の祖神アマテラス(天照)さまを祀る場所を特定すること、もう一つは統一王国にふさわしい日本神話の編纂だ。それをお前に託したい」。
死後が間近にせまったことを悟った父王ミマキイリヒコイニエ(御真木入日子印惠)は跡を継ぐ皇太子のイクメイリヒコイサチ(伊久米伊理毘古伊佐知)を枕元に呼んで静かな口調で語りかけました。
「アマテラスさまを祀る場所の特定は承知しました。母宮も日頃から気にかけております。しかし大和にはアマテラスさまから始まり、初代イハレビコ(伊波禮毘古、磐余彦。神武天皇)王を経る語り伝えがすでに出来あがっております。それを各国に押し付けていけば良いだけで、あえて統一王国にふさわしい日本神話を編纂する必要はないのではないでしょうか」。
「お前はまだ若い。私が即位間もない頃、宮中に祀られていたアマテラスとヤマトオオクニタマ(倭大国魂)の二神を宮中から離して、別々の場所で祀るようにせねばならなくなった事情も知らないだろう。両神がいがみあって、両立しなかったからだ。なぜならヤマトオオクニタマはアマテラスから始まる系譜には含まれず、イザナギ(伊邪那岐)・イザナミ(伊邪那美)から始まり、オオヒルメ(大日孁貴)とスサノオ(須佐之男、素戔鳴)、スサノオの子孫神であるオオナムチ(大穴牟遅、大己貴)とオオトシ(大年、大歳)へと拡がっていく系譜に属す神さまだからだ。この系譜の神々は瀬戸内海と日本海沿岸の各国に根強く拡がっており、アマテラス系譜は倭国の西南端の日向から大和に入ってきたよそ者と見なして、軽視する者がいまだに根強く残っている。我が国の伝承を無理やり押し付けていくと、軋轢が生じてしまうのは明らかだ」。
「支配下におさめた阿波王国、吉備邪馬台国や出雲王国など大半の国々はイザナギ・イザナミ系譜から始まる神話を伝承している。この系譜とアマテラスの系譜をいかに巧く融合させていくか。これがお前に託す宿題だ。吉備邪馬台国の最後の女王でおられたトヨ(台与。倭迹迹日百襲姫)さまとこの課題への取り組みを始めたが、残念なことに自害されてしまわれて、核心にまで進めることができなかった」。
「アマテラスを祀る場所を特定するべく、王女トヨスキイリビメ(豊鉏入日賣、豊鍬入姫)を各国に派遣して、紀伊の奈久佐浜宮、吉備の名方浜宮、丹波の与佐宮の三か所を候補地としたが、三者三様に決め手を欠いて未決着のままで終わってしまったのは、対象が西日本だけでなく、東日本にまで広がってしまったことに一因があるが、イザナギ・イザナミ系譜に属す氏族とアマテラス系譜に属す氏族との思惑が水面下で衝突して、いがみ合っていることも影響を与えている」。
(2)愛后サホヒメ(沙本比売、狭穂姫)
「唯一の心配事はお前が堅物で、生真面目すぎることだ。サホヒメ一筋でも構わないが、后に迎えて三年も経つのにまだ跡取りも生まれていないではないか。別の后も迎えた方がよいだろう」とミマキ王はイクメ王子に諭します。
イクメ王子は頭がよく、学術に秀でていましたが、腹違いの兄トヨキイリヒコ(豊木入日子、豊城入彦)よりも武術では劣りました。複数の后や愛人を持つことは貴人の男性にとっては当り前の時代にあって、皇太子イクメは女性に関しては淡白なのか、サホヒメ一筋で、他の女性には見向きもしませんでした。そのサホヒメに妊娠の兆候が見えませんので、周りの人たちはやきもきしていました。
ミマキ王は「後継者は東国の下野に送ったトヨキイリヒコにすべきだった」と後悔する時もありました。体格ががっしりしているトヨキイリヒコは武人として秀でていただけでなく、下野を拠点にして東国を統率する能力を発揮して、東国が大和朝廷の財政を支える宝物庫である位置を固めていました。正后に加えて数人の后をかかえ、子宝にも恵まれていました。
正后である母のミマツヒメ(御真津比売)はいつもイクメ王子をかばっていますが、まだ跡取りが誕生しなことが気掛かりでした。宮中に侍る侍女の中には后の意向を受けたかのように、イクメ王子に流し目を送る女性もおりましたが、見向きもしません。
「普通は息子の女色好きを心配するものだが、生真面目すぎると心配されるのは杞憂というか親馬鹿というものだ。ひょっとしたら王子は種無しなのか、女色よりも男色なのかも」と宮中の侍従やお供が面白おかしくささやきあいます。それが巷にも噂となって流れてしまいます。皇太子が種無しなのか、サホヒメが不妊症なのか、どちらかを占う賭け事が秘かに流行りましたが、それだけ世の中は泰平でもありました。
(3)王子ホムチワケ(品牟都和氣)の誕生
ミマキ王が崩御しイクメ王子が第十一代王を即位して、皇太后の地位についたミマツヒメは息子の即位に安堵はしたものの、信頼できる後見役の確保が次の心配事となりました。ミマキ王の叔父でもある父オオビコ(大毘古)がすでに他界してから久しく、オオビコを継いだ兄タケヌナカハワケ(建沼河別、武渟川別)は外戚の影響力の強まりを警戒したミマキ王によって筑紫に左遷されていたためです。オオビコ一族に加えて尾張氏などの画策が功を奏して、兄の中央復帰が確実となって阿倍氏一族が外戚の位置を固めましたので、皇太后は一安心できました。
待望していたサホヒメの妊娠も判明しました。陰口をたたいていた宮中の人たちは「亡きミマキ王の魂が宿られた」とうって変わっておべっかいをかきます。当然なことにクメ王は狂喜して、即座にサホヒメを皇后に格上げし、サホヒメのお腹をさすったりなでたりと終始サホヒメの側を離れません。
ところが当のサホヒメは喜ぶどころか、浮かぬ顔で内心は揺れ動いていました。サホヒメは元々、真底からイクメ王を慕っていたわけではありませんでした。近寄ってくるイクメ王子にあまり関心を抱かず、それとなく冷たく白々しく振舞っていたのが、 色っぽい流し目を送る女性たちに馴れていたイクメ王にとっては新鮮に映り、片思いの熱をあげました。周囲からの圧力もあってしぶしぶ后になりましたが、信愛する兄のサホビコ(沙本毘古、狭穂彦)から、兄を選ぶか夫を選ぶか、選択を迫られていました。
サホビコとサホヒメ兄妹の父はミマキ王の腹違いの弟ヒコイマス(日子坐、彦坐)でした。ヒコイマスは后を四人持ち、一族は大和盆地の北部から山代、近江を経て丹波、丹後、但馬、因幡へと勢力を広げていました。
―山代のエナツヒメ(荏名比売または苅幡戸辨)との間に大俣、小俣(をまた)と志夫美(しぶみ)。
―抄本(さほ)のオホクラミトメ(大闇見戸売)との間にサホビコ、ヲザホ(袁邪本)、サホヒメとムロビコ(室毘古)。
―近江のオキナガミズヨリヒメ(息長水依比売。アマツヒコネ系)との間にミチノウシ(丹波日古多多須美知能宇斯、丹波道主)、ミズノホノマワカ(水之穂真若)、カムオホネ(神大根)、ミズホノイリヒメ(水穂五百依比売)とミイツヒメ(御井津比売)。
―オキナガミズヨリヒの実母イロトオケツヒメ(弟袁祁都比売)との間に山代のオホツツキマワカ(大筒木真若)、ヒコオス(比古意須)とイリネ(伊理泥)。
四人の后のうち、抄本のオホクラミトメの母は王朝の旗本ともご意見番とも言える和邇(わに)臣出身のオケツヒメ(袁祁都比売)でしたから、ヒコイマス一族の本家筋と見なされていました。その長子であるサホビコは自負心が強く、自分はヒコイマス家の総領だと日頃から大威張りしていました。父が先導した丹波、丹後と但馬制覇も本当の立役者は自分だと信じ込んでいた上に、義弟となったイクメ王を弱虫と見下していて、自分が天下を取るのだと時機到来を虎視眈々と狙っていました。
父のヒコイマスもさすがにサホビコの傲慢さを見かねて何度か忠告をしますが、逆に親子の仲がこじれたまま、兄ミマキ王より先に他界していました。オキナガミズヨリヒメの王子で、丹後に定着したミチノウシ(丹波道主)を含めて腹違いの兄弟たちも、一族の総帥だといばりちらすサホビコに辟易していましたが、面と向って横暴ぶりをさとす者はいません。そんな兄でしたが、サホヒメは幼い頃から兄に可愛がられ、危急の際に助けられたこともあって、兄弟達の中で唯一、兄に同情的でした。
サホビコは佐保の実家に里帰りしたサホヒメに「以前から問うているが、夫と兄とで、どちらが愛しいか」と選択を迫ります。
「お兄さまこそ、愛しい方です」。
すでに腹を固めていたサホヒメは躊躇なく答えました。
「私を愛しいと思うなら、私とお前で天下を治めることにしよう」。
「隙を見てイクメ王を刺し殺せ」と妹に小刀を手渡します。
(4) サホビコの反乱
第一子ホムチワケ(本牟智和気、誉津別)が誕生しました。母子を溺愛するイクメ王は愛児を傍らにサホヒメの膝枕で昼寝をするのが習慣となりました。イクメ王にとっては至福の時でした。
膝の上で気持ち良さそうに寝入る夫の顔を見つめていると、「刺し殺すなら、今が好機だ」という兄の声が聞えてきました。意を決したサホヒメは懐中に隠した小刀を取り出し、夫を小刀で幾度も刺し殺そうと試みましたが、手首が震えおののいて刺す事ができません。無念さと後悔の念とが入り交じった大粒の涙が夫の顔にしたたり落ちました。
目を覚ました王は「怪しい夢を見てしまった。佐保(狭穂)の方角から暴雨が襲来して、大粒の雨が顔面を濡らした。その後、錦色の小蛇が首に巻き付いてきた。この夢は何の兆候なのだろうか」と怪訝な面持ちで不思議な夢を語りました。
観念したサホヒメは真相を白状してしまいます。血相を変えたイクメ王はすぐに甥の上毛野君八綱田を呼び出し、サホビコの屋敷の包囲を命じました。八綱田は下野のトヨキイリヒコの息子で、首都の警備役を兼ねて、大和に常駐していました。
八綱田軍に包囲されたサホビコは城壁代わりに稲穂を積み上げて立てこもりました。天下取りを放言したものの、前王の時代のタケハニヤスビコ(武埴安彦)の反乱に較べると思いつきレベルに過ぎず、準備不足で兵力も手薄でした。火をつければたちまち燃え上がってしまう稲穂を積み上げたのも、咎めは受けるだろうが、まさか自分の愛后の兄を殺戮することはないだろうという判断の甘さがありました。
サホヒメは「私が兄側に走れば、私と愛児に免じて、兄を赦免してくれるだろう」とあさはかな期待を抱いてしまい、赤子を抱いて兄側に走りました。イクメ王も駆けつけて、外に出てくるようにサホヒメを説得しますが、サホヒメはかたくなに中に閉じこもり、むなしいまま時が経過していきます。
ついに八綱田軍が稲穂に火をつけました。サホヒメは火中から赤子だけを差し出しました。
「私の腹違いの姪にあたる丹後の姫君は美人で育ちが良いと評判です。私の亡き後は、丹後から丹波道主の王女エヒメ(兄比売)とオトヒメ)弟比売)を后に迎えてください」と言い残して、兄とともに炎に飲みこまれてしまいます。
涙にむせびながら、佐保川が流れる大和盆地西北部の佐保にサホヒメを埋葬したイクメ王は、自分の陵墓を佐保に築造して、サホヒメを合祀することを決めました。
サホビコの反乱をあっさりと鎮圧した八綱田は「さすがにトヨキイリヒコ殿の息子だけのことはある」と評判を高めましたが、東国の権益を手中にしたいタケヌナカハワケ率いる阿倍氏と東海を本拠地にする尾張氏は「イクメ王がトヨキイリヒコ一族を重用していくのではないか」と警戒心を深めていきました。
(5)丹後の后たち
反乱の騒動が一段落してから、朝廷は丹波道主に后献上を打診しました。丹波道主は丹波河上マスノイラツメ(摩須郎女)などの后から五人の王女をもうけていました。すでに老いの年齢に入っていましたが、かくしゃくたる健康体で、自分の墓とする日本海最大の壮大な前方後円墳を網野に築造中でした。
朝廷からの申し入れは王女のうちから一人か二人をということでしたが、意気に感じた丹波道主は張り切って娘五人をまとめて后として送り込んでしまいました。ヒバスヒメ(氷羽州比売)、ヌバタノイリヒメ(沼羽田入毘沙売。オトヒメ弟比売)、アザミノイリビメ(阿邪美入毘沙売)、マトノヒメ(真砥野媛)、タカノヒメ(竹野媛)の五人の王女は二十歳から十一歳にかけての年齢でした。
サホヒメ一筋で、批判されようともけなげにも一夫一妻を守り抜いても構わないとまで思い込んでいたイクメ王にとってはいきなり后が五人に増え、しかも姉妹たち、おまけに下の王女二人はまだ十三と十一の若さでしたから、面食らってしまいました。五人の姉妹后では、と持て余し気味でした。まだ年少の二人は姉たちを凌ぐ才気が薄く、さほどの器量持ちでもないこともあって、実家に戻すことに決めました。
マトノヒメとタカノヒメは自分たちが不器量だから里に戻されたのだと信じ込んでしまいました。むざむざ実家に戻るのは父や地元の人々に恥をさらすだけだ、と幼い乙女心で思い詰めてしまい、マトノヒメは道中の山代の相楽で、タカノヒメは山代の葛野で自害してしまいました。イクメ王は里に戻したことを後悔しましたが、後の祭りとなってしまいました。
[2]愛息ホムチワケと出雲
(1)出雲の神の祟り
朝廷生活を始めた丹後の三姉妹は丹波道主の家系は多産系の家柄なのか、次々と子供を生んでいき、後継ぎの心配はなくなりました。
―ヒバスヒメ(氷羽州比売)はイニシキノイリヒコ(印色入日子)、オオタラシヒコ(大帯日子)オシロワケ(淤斯呂和気)、オオナカツヒコ(大中津日子)、ヤマトヒメ(倭比売)、ワカキイリヒコ(若木入日子)の四男一女。
―ヌバタノイリヒメ(沼羽田入毘沙売。オトヒメ弟比売)はヌタラシワケ(沼帯別)、イガタラシヒコ(伊賀帯日子)の二男。
―アザミノイリビメ(阿邪美入毘沙売)はイカバヤワケ(伊許婆夜和気、アザミツヒメ(阿邪美都比売る)の一男一女。
王宮生活に慣れてきた后三姉妹は、姉妹同士でもあって仲がよく、いつも談笑に興じていました。話題の一つはサホヒメの遺児ホムチワケ(本牟智和気、誉津別)についてでした。
「ホムチワケさまはそろそろ成人となる年頃が近づいていますのに、一向に言葉を発しませんね」。
「私たちを嫌って私たちの面前では口を開かない、というわけではないようですし」。
「言葉を発しないのはやはり生まれつきのようですね。世間では出雲の大神の祟りだと噂し合っているようですよ」。
もちろん、姉妹はイクメ王(イクメイリヒコイサチ。伊久米伊理毘古伊佐知)に面と向って話すことはありませんが、口が軽い侍女もおりましたから、后たちの会話はいつの間にかイクメ王の耳にも入ります。
「順位からすると先后の子であるホムチワケが皇太子となるわけだから、自分たちの王子を後継ぎにさせたいがために、ホムチワケのあら捜しをしているのだろう」と自身もホムチワケがいつになっても言葉を発しないことを気にはしていましたが、逆に不憫にカ思って溺愛します。
「あえて申し上げますが、西出雲王国が大和に恭順する条件として出雲のオオクニヌシを祀る壮大な社を建造する約束したにもかかわらず、それを守らずオオクニヌシをないがしろにしている、という不満が出雲だけでなく、出雲文化圏に属する日本海沿岸諸国に鬱積しておりますよ」とも后三人が口を合わせますが、自分たちが丹後出身だから、日本海側に目を向けけさせようとしているのだろうだ、と聞き流していました。
当のホムチワケは尾張の相津で切り倒した二俣杉で造った二俣小舟を磯城郡の位師(いちし)池や高市郡の軽池に浮かべて遊ぶのを日課としていました。ある日、空を飛ぶ白鳥(鵠くくひ)の声を聞いて「アギ」と初めて声を発しました。喜んだ王は山辺大タカにその白鳥を生け捕りにするように命じました。山辺大タカは白鳥を追って紀伊国から播磨、因幡、丹波、但馬を経て近江、美濃、尾張を過ぎて信濃に進み、ようやく越の和那美(わなみ)の水門で白鳥を網で仕掛けて捕らえて、イクメ王に献上しました。しかしホムチワケ王子は白鳥を見ても口を閉ざしたままで、言葉を発しません。
その夜、イクメ王は夢を見ました。「私の宮殿を大王の壮大な御舎のように改修するなら、王子は言葉を発するようになる」と何者かが語ります。早速、太占で占うと、ホムチワケへの祟りは出雲の大神の御心でした。
(2)日本海と東国
出雲の大神の祟りが原因であることを知ったイクメ王には思い当たるふしがありました。
信濃の攻略で東国の支配も確実になった父ミマキ王(ミマキイリヒコイニエ、御真木入日子印惠)は日本統一で最後に残された西出雲王国の征伐に取り掛かりました。ところが西出雲王国の防御の壁は固く、大和軍は中々、西出雲に攻め入りすることができません。
膠着状況が続く中で、意富氏タケヲクミ(健緒組)の推薦もあって、イニエ王は常陸駐在の中臣タケカシマ(建鹿島)を切り札として送り込むことを決めました。タケカシマは出雲王国の兄弟国にあたった吉備邪馬台国の兵士でしたから、出雲王国の事情にも詳しく、何らかの突破口を開いてくれるだろう、との期待を抱いたからです。
その頃、西出雲王国はフルネ(振根)王が絶対的な権力を握り、軍事大国の道をまっしぐらに進めて、農民たちに重税を課していました。筑紫諸国の残党や壱岐国、対馬国、あわよくば半島の伽邪諸国も巻き込んで、反大和同盟の結成を目論んでいました。その協議に向けて対馬に出掛けて、留守中は弟のイヒイリネ(飯入根)がアヂスキタカヒコネに加えて父神のオオクニヌシを、もう一人の弟ウマシカラヒサ(甘美韓日狭)が島根半島のコトシロヌシ(事代主)を祀っていました。
武神タケミカヅチ(建御雷、武甕槌)と剣神フツヌシ(経津主)を掲げて、船団を率いて西出雲の伊那佐の小濱(をばま)に到着したタケカシマは、吉備王国出身の自分の体験を語りながら、時代の流れは大和に傾いていることを順々とイヒイリネ、ウマシカラヒサに語り、恭順を説得します。
兄が課す重税に苦しむ農民達を見かねていた、心やさしいイヒイリネはタケカシマに同調し、ウマシカラヒサも恭順して、出雲の財宝を差し出すことに同意しました。但しその条件として、出雲の大神を祀る壮大な宮殿を建造すること、財宝のうち神鏡だけは出雲に残すことを条件としました。大和側はその条件を承諾しましたので、イヒイリネはミマキ王が直々に派遣した矢田部造(物部氏の同族)の遠祖タケモロスミ(武緒隅)に財宝を献上しました。
西出雲に戻って来たフルネは弟たちが勝手に国譲りをしてしまったことを知って激怒します。イヒイリネを斐伊川の止屋(やむや)の淵に誘って、騙まし討ちで殺してしまいました。恐れおののいたウマシカラヒサはイヒイリネの息子ウカヅクヌを伴って意宇郡のアメノホヒ軍のもとに逃げ込みました。
朝廷は吉備にいる吉備津彦兄弟一族と、筑紫に移動していた安倍氏タケヌナカハワケ(建沼河別、武渟川別)に西出雲への進軍を命じました。東のアメノホヒ軍に加えて、南と西から攻撃されたフルネ軍は総崩れとなり、西出雲王国は崩壊し、ミマキイリヒコイニエ王は東西日本の統一の偉業を成し遂げました。しかし出雲ではこの混乱で出雲の大神を祀ることを控え、おざなりになってしまいました。
数年後、丹波の氷上に住むヒカトベ(氷香戸辺)が皇太子イクメに啓上しました。
「息子が神がかりして、こう語っております。出雲人が祀っていた出雲の神鏡が水底に沈み、人々に顧みられないでいる」。
イクメは父王に、誰かが秘かに隠している神鏡を見つけ出してきちんと祀るべきですと奏上しましたが、この奏上もミマキ王の崩御に紛れてうやむやのままでかき失せになってしまったようです。
イクメ王は改めて山辺大タカを呼んで、諸国の状況を尋ねました。
「そう言えば、日本海側諸国とその他の国では住民の対応が確かに違いました。紀伊、播磨、近江、美濃、尾張では好意的でしたが、それとは好対照に日本海側の因幡、丹波、但馬と越ではしらんふりをされて難儀しました。信濃も非協力的でした」。
后たちの忠言にも一理があるようです。信濃も非協力的だったと聞いて、イクメ王は叔父のタケヌナカハワケ(建沼河別、武渟川別)が北陸と東国のことをしきりに話題に挙げるのは何故なのかに合点がいきました。
北陸と東国は父王が四道将軍として叔父で舅のオオビコを北陸に、オオビコの息子で正后ミマツヒメ(御真津比売)の兄であるタケヌナカハワケを東山道に派遣したのが大和による支配の始まりでした。当然なことに北陸と東国はオオビコ親子の管轄となりますが、外戚勢力の肥大化を警戒したミマキ王はタケヌナカハワケの担当を東国から筑紫に切り替え、九州の豊後・肥後の征服で功績を挙げた意富氏と配下の中臣タケカシマを常陸に送りました。意富氏が常陸、下野、上野と信濃を征した後、アマツヒコネ族とアメノユツヒコ族を東国に送ります。大和による東国支配が確立した後、長子トヨキイリヒコを東国統治の総帥として送り込みました。加えて出雲の捕虜兵士や村人が信濃経由で東国、ことに武蔵を主体に送り込まれるようになりました。
ミマキ王の死後、筑紫から都に復帰したタケヌナカハワケはイクメ王の叔父として外戚の位置を固めていました。
「叔父が狙い定めているのは北陸と東国の利権を取り戻すことなのだ。東国は単純に図式化すると叔父タケヌナカハワケが率いる阿倍氏と兄トヨキイリヒコ一族の利権争いとなる」。
出雲の影響は日本海諸国だけでなく、関東平野にも及び出していることも把握しました。
「叔父の狙いどおりに動かされると、トヨキイリヒコ一族のもとに意富氏、中臣氏、アマツヒコネ・アメノユツヒコ族、さらに出雲族も加わる一大脅威となる。国家が転覆する恐れもある」。
イクメ王は出雲と日本海の重視へと政策を転換していきます。
(3)ホムチワケの出雲詣で
とにもかくにも、まず第一にホムチワケの出雲詣でを優先しました。護衛役につけたアケタツ(曙立)とウナカミ(莵上)兄弟はヒコイマス(日子坐、彦坐)と山代のエナツヒメ(荏名比売または苅幡戸辨)との間に生まれたオホマタ(大俣)の息子で、ホムチワケにとっては母方の年長の従兄弟にあたります。
一行は出雲の神を詣でた後、大和に戻ろうとして斐伊川(肥川)の川洲に仮宮を造りました。出雲国造の祖キヒサツミ(岐比佐都美)が食事を饗すると「山のように見える、川下にある石砢(いはくま)の宮に坐すのはアシハラシコヲ(葦原色許男)の大廷か」と初めて言葉を発しました。「出雲の大神のご利益が早々に現れた」。喜んだ二人はホムチワケをアヂマサ長穂宮に坐せて、一夜妻としてヒナガヒメ(肥長比売)をあてがいました。
ヒナガヒメを透き見したホムチワケは「オロチ(蛇)だ、オロチがいる」と震えあがってしまいます。二人も隙間から覗いてみると、確かにオロチがうねっています。
「大和の三輪山の神もオロチです。神と契りを結ぶのは畏れ多いことです」と一行は一目散に逃げ出します。馬鹿にされたと思い違いしたヒナガヒメが海原を照らして追いかけてきましたが、どうにかこうにか無事に都に戻ることができました。
二人はイクメ王に「大神を詣でたご利益で、王子が言葉を発するようになりました」と報告しますが、ホムチワケはオロチ騒動で怖じけたためか、大和に戻ってからは言葉を発しません。いつも通りに二俣小舟を浮かべて遊んでいましたが、再び空の白鳥を見て「おぬしは何者だ」と叫びました。イクメ王はアメノユカハタナ(天湯河板挙)に白鳥捕獲を命じました。天湯河板挙は但馬と出雲の間にある因幡で白鳥を捕獲して、白鳥はホムチワケの良き話相手、遊び友達になりました。
イクメ王はウナカミ(莵上)を再度出雲に派遣して、オオクニヌシを祀る壮大な大社の建造を命じると共に、神鏡の行方探しを命じました。
(4)出雲の近衛兵と但馬の開拓民
出雲重視の政策に切り替えたイクメ王は出雲の兵士を大和に招き入れ、葛城山と金剛山東麓の警護役を任せました。この地は御所から風の森峠を下り五條に出て吉井川・紀ノ川を経て瀬戸内海と太平洋に到る主要街道にあたり、初代王イハレビコ(伊波禮毘古。神武天皇)以来、ヤタガラス(八咫烏)と慕われたカモタケツヌミ(賀茂建角身)を祖とする賀茂一族の土地でした。
イクメ王は賀茂一族に山代への移住を命じました。この措置にもちろん、反論や不平が出ました。
「大和には当麻邑のタギマノクエハヤ(当摩蹶速)を筆頭に武力に秀でた豪傑が幾らでもおります。わざわざ出雲から警備兵を呼び出す必要はありません。クエハヤは『四方を見渡しても、わしの力に並ぶ者はないだろう。わしを負かすとうぬぼれた者がいたら、力較べをしてみよう』と豪語しております」。
それを聞き伝えたイクメ王が群卿に「クエハヤは天下一の力士と自慢しているそうだが、これに比ぶ者はいないのか」と問いますと、一人の臣が進み出て「出雲国にノミノスクネ(野見宿禰)という勇士がおります。この人物を大和に呼び寄せてクエハヤと勝負をさせたらいかがでしょうか」。
早速、倭直の祖・長尾市の息子を派遣して出雲の野見宿禰を召還し、力較べの勝負をさせました。これが天覧相撲の始まりとなりました。
相対した二人は各々足を挙げて四股を踏み、格闘が始まりました。 野見宿禰はクエハヤの脇骨(あばら骨)をへし折り、さらに腰を踏み折って殺してしまいました。
イクメ王はクエハヤの所有地を召し上げて野見宿禰に賜わります。野見宿禰は大和に留まってイクメ王直属で仕えるようになり、出雲族はオオクニヌシの子神アヂスキタカヒコネ、シタテルヒメ、コトシロヌシを祀りました(高鴨神社、鴨都波神社)。一方の賀茂氏は山代国の木津川を下って淀川に入り、淀川をさかのぼって賀茂川上流に定着しました(上賀茂神社と下鴨神社)。
王宮がある纒向の側を流れる大和川は支流の寺川、飛鳥川と葛城川が合流する地点に近く、台風や豪雨が続くと纒向の大市場も水浸しになってしまうのが積年の悩みでした。そこで着目したのが但馬のアメノヒホコ(天日矛)族でした。但馬の海側には3世紀後半頃から、対岸の朝鮮半島南東部の辰韓地方からの亡命者が相次ぎ、沼地や湿地帯の開拓を行っていました。その実績を買われて、但馬の民が北葛城地方の低湿地帯の開拓に駆り出されました。
アメノヒホコの曾孫にあたる四代目の多遅摩比那吉岐には清日子、多遅摩比多訶、多遅摩毛理(田道間守)の三人の息子がおりましたが、清日子はアメノヒホコ族の総代として但馬に残り、多遅摩比多訶と田道間守が大和盆地へ移住しました。但馬の民は大和川本流に支流が合流する湿地帯の開拓(三宅町周辺)を果たし、アメノヒホコ族は次第に大和盆地西部の葛城地方へ拡散していきました。
[3]五大夫の選定
(1)五大夫の選定
「ヤマトヒコ(倭日子)、私の治世もようやく軌道に乗ってきた。ここらあたりで治世固めに臣と連を定めたい。氏族選びの相談相手を務めてくれないか」。
イクメ王(イクメイリヒコイサチ、伊久米伊理毘古伊佐知。垂仁天皇)は同腹の弟ヤマトヒコ(倭日古)に声をかけました。イクメ王には同腹の弟が二人、妹が二人おりましたが、末っ子のヤマトヒコを幼い頃から可愛がっていました。ヤマトヒコは武力にも教養にも優れ、判断力も明晰な成人に成長し、イクメ王が腹蔵なく話せる良き話し相手になっていました。自分の身に何かが生じた場合はヤマトヒコを後継王にしようという思いもありました。
イクメ王は元々、慎重居士でしたが、サホビコ((沙本毘古、狭穂彦)の反乱を経験してから、ことさらに各氏族の動きに注意をはらうようになっていました。
「氏族たちは自分たちの利益と繁栄のみを追っているにすぎない。唯一、信頼できるのは和邇氏くらいだろう」。
臣と連の選定にあたっては太皇后である母ミマツヒメ(御真津姫、御間城姫)の意見も参考にすべきでしたが、どうせ兄タケヌナカハワケ(建沼河別、武渟川別)に相談して、兄の意向を受けた要求をさしはさんでくることは目に見えていました。統治に自信を持ち始めており、越で発生した小規模の反乱も波乱なく処理することができ、自信は揺らぎないものになっていました。
「そろそろ母や叔父から離れて自分の意思を貫いていこう。いざという時の後継者は弟ヤマトヒコであることを明示する恰好の機会にもなる」。
臣の候補としてタケヌナカハワケを家長とする阿倍氏ははずせません。加えて意富(おお。多)氏、和邇氏か。臣ないし連の候補には尾張氏、ヒコイマス(日子坐)一族、兄トヨキイリヒコ(豊城入彦)一族が挙げられる。連の候補は武力に秀でた氏族に絞っていくと、吉備氏、物部氏、大伴氏、葛城氏、加えて父王が浮上させた中臣氏も浮上してくる。
イクメ王は纒向の王宮「玉垣(珠城)宮」を避けて、磯城郡の位師(いちし)池や高市郡の軽池の山荘にヤマトヒコを秘かに呼び寄せて、愛息ホムチワケ(本牟智和気、誉津別)が白鳥と遊ぶ光景を眺めながら、相談を重ねました。
最も警戒すべきことは阿倍氏が勢いを取り戻し、増長気味になってきたことです。タケヌナカハワケには四人の息子がおりましたが、息子たちの中から第二のタケハニヤスビコ、サホビコが出現する危惧がありました。
(2)臣の候補
阿倍氏の祖となるオオビコ(大毘古)は第八代クニクル(國玖硫)王。孝元天皇)の王子で第九代オオビビ王(大毘毘。開化天皇)の同腹の兄、第十代ミマキ王(ミマキイリヒコイニエ、御真木入日子印惠。崇神天皇)の舅にあたります。タケヌナカハワケ、組結、大稲與、御真津姫、波多武生の四男一女をもうけ、御真津姫はミマキ王の正后におさまりイクメ王の母となっています。オオビコはミマキ王の治世下で息子のタケヌナカハワケと共に四道将軍に任命され、オオビコは北陸を、タケヌナカハワケは東山道を通過して岩城の会津で再会し、大和による北陸北部・東国支配の端緒を作りました。オオビビの他界後はタケヌナカハワケが本家筋を継ぎ、イクメ王の外戚として重きをなしています。
意富(おお。多)氏は初代王イハレビコ(伊波禯毘古。神武天皇)の息子で、王座を弟カムヌナカハワケ(神沼河耳。綏靖天皇)に譲ったカムヤイミミ(神八井耳)を祖としています。代々、王家伝承の継承役を務め、後代には太安萬侶(おおのやすまろ)が「古事記」をまとめあげています。武力にも秀で、カムヤイミミの曾孫にあたる四代目の敷桁彦の三人息子である武恵賀前、武五百建、タケヲクミ(建緒組)のうち、建緒組は九州の肥国(肥前・肥後)の制覇で活躍し、不知火(しらぬい)の存在を第十代ミマキ王に報告して肥君を賜わり、子孫は伊予から豊後(大分)、肥国の国造を継いでいきます。武五百建は阿蘇氏と金刺氏の祖となり、本家筋にあたる武恵賀前は東国、ことに常陸地方の制覇で名を上げています。武恵賀前の息子には武緒木、武多伎利に加えて中臣氏のタケカシマ(建借馬)も組み込まれています。
和邇氏の祖は第五代ミマツヒコカエシネ王(御真津彦訶惠志泥。孝昭天皇)の王子で第六代クニオシビト王(國押人。孝安天皇)の兄、アメノタラシヒコクニオシビト(天足彦国押人)です。娘の押媛はクニオシビト王の正后となり、息子の和邇日子押人の娘、姥津媛は第九代オオビビ王の后となり、孫にあたる彦国姥津の息子のヒコクニブク(彦国葺)はミマキ王の治世でタケハニヤスビコの反乱鎮圧で活躍しました。本家の和邇氏に加えて、春日氏、大宅氏など数多くの分家が大和盆地北西部から山代周辺に翼を広げていき、大和朝廷のご意見番をはたす名家となっています。
臣ないし連の候補に挙がるのは尾張氏、日子坐一族と豊城入彦一族でした。
尾張氏はアメノホアカリ(天火明)を祖神とするイハレビコ一族の縁戚に当たる日向の氏族出身ですが、イハレビコ兄弟に従卒して日向から大和盆地に入り、イハレビコ王が大和盆地の西南部に葛国(狗奴国)を建国した後、葛城山系の東麓の高台にある尾張邑を拠点としていました。第五代ミマツヒコカエシネ王の御代の東海三国への進出の際に主力軍として頭角を現わし、奥津余曾の妹、余曾多本毘売がミマツヒコカエシネ王の正后になりました。大和の近江、若狭、丹波侵攻でも活躍し、吉備邪馬台国攻略に際しては吉備津日子兄弟の下で水軍のアマツヒコネ(天津彦根)族と並んで陸軍の雄として名を馳せました。拠点は葛城山麓から尾張国に移行していましたが、天火明から七代目にあたる健宇那比の娘オオアマヒメ(大海姫)がミマキ王の后となるなど、中央政府に対して隠然たる影響を維持していました。
日子坐一族は第九代オオビビ王の王子でミマキ王の腹違いの弟ヒコイマスを祖とします。ヒコイマスは四人の后を持ち、山代の荏名比売は大俣王など三男、大闇見戸売はサホビコ(沙本毘古)に加えイクメ王の后となったサボヒメ(沙本毘売)など三男一女、近江の息長水依比売は丹波道主など三男二女、息長水依比売の実母であるイロトオケツヒメ(弟袁祁都比売)は山代のオホツツキマワカ(大筒木真若)など三男をもうけていました。サホビコの反乱で一族は連座して没落する恐れもありましたが、イクメ王が丹波道主の娘三人を后に迎え入れたことから連座を免れ、丹波道主は丹後を拠点に日本海に睨みをきかす存在となっています。大俣王の息子アケタツ(曙立)とウナカミ(莵上)兄弟はホムツワケ王子の世話役として出雲の大神詣でのお供をしました。
豊城入彦一族はミマキ王の長子トヨキイリヒコ(豊城入彦)から始まり、武力に長けたミマキ王のお気に入りでした。後継王に指名される可能性もありましたが、オオビコの娘ミマツヒメや尾張大海姫に較べると母方は紀伊国造で身分が劣ることから、東国支配の統括者として下野に送られ、父王の期待に見事に答えました。イクメ王の時代に入って息子ヤツナダ(八綱田)がサホビコの反乱を鎮圧したこともあって、イクメ王に一目置かれる存在となりましたが、東国の利権の再確保を狙う阿倍氏建沼河別にとってはライバルとして最も警戒する一族となりました。
(3)連の候補
吉備氏は第七代フトニ王(賦斗邇、孝霊天皇)の王子である吉備津日子兄弟、兄ヒコイサセリビコ(比古伊佐勢佐理毘古、大吉備津彦)と弟ワカタケキビツヒコ(若建吉備津彦)を祖とし、二人は吉備邪馬台国攻略の将軍となります。ミマキ王の信任が厚く、吉備以西を管轄する四道将軍の一員ともなりましたが、勢力の増大を危惧するオオビコなどの画策で、兄弟一族は中央からはずされ吉備に封じ込まれました。
中臣氏は吉備津彦兄弟に敗北した吉備邪馬台国の軍事部門と祭祀部門を担う重鎮でした。敗北後、捕虜となって一部が豊後、阿蘇、肥国制覇の尖兵役となり、その中からタケカシマが台頭して、意富氏タケヲクミやミマキ王の信頼を得ました。タケカシマの息子となる大鹿島の時代に中央へ抜擢され、これに合わせてアメノコヤメ(天児屋)、タケミカヅチ(建御雷)とフツヌシ(経津主、布都主)を奉じる祭祀系中臣氏も浮上します。吉備氏と中臣氏は敵と味方の間柄でしたが、オオビコ親子と尾張氏に対抗する形で連動するようになり、半世紀前までのしこりは水に流れました。
物部氏は大和と河内にまたがる生駒山系を中心にした登美王国のニギハヤヒ(邇藝速日)とウマシマジ(宇摩志麻遲)親子を祖としています。初代イワレビコに恭順した後も王国は継続していましたが、第五代ミマツヒコカエシネ王が東海三国を支配下に置いた以後の膨張政策に沿って本拠地の生駒山系の地盤はアマツヒコネ族に取って代われ、物部氏の主力は尾張国に送られて尾張氏の配下として三河以東の攻略を担うようになりました。ミマキ王の治世下でタケハニヤスビコに連座する形で衰微したアマツヒコネ族に代る形で中央に浮上しました。伊香色色雄は十市根など十人の息子に恵まれ、イクメ王の時代から隆盛していき、三河・遠江に加えて出雲と石見の統括も担うようになります。
大伴氏は尾張氏と同様に初代イハレビコ王に従った道臣(日臣)を祖としますが、タケハニヤスビコの反乱後のアマツヒコネ族の衰微後、物部氏に合わせて武日の父、豊日から上昇しました。
葛城氏もイハレビコ王に従って日向から大和入りして、葛城国造を任じられた剣根(つるぎね)を祖とした葛城地方の豪族です。葛城垂見宿禰の娘ワシヒメ(鸇比売)は第九代オオビビ王の后になるなど大和盆地西部に隠然たる勢力を抱えていました。
(4)二臣三連の五大夫
吉日に合わせて家臣たちが王宮に召集されました。イクメ王が中央の玉座に着席すると一同はかたずを飲んで詔(みことのり)を待ちます。侍従がまず臣の名を挙げました。
「臣は阿倍臣のタケヌナカハワケ(武渟川別)、次に和邇臣のヒコクニブク(彦国葺)」。
列席者の多くが「左右の臣を皇別氏族の長老格で固めた順当な人選だ」と納得しました。「次は意富氏の名が出てくるだろう」と大方が予想します。
一呼吸を置いた侍従が「連は中臣オオカシマ(大鹿嶋)、次に…」と発するや否や、場内は驚嘆の声でどよめき、「物部トヲチネ(十千根)、次に大伴タケヒ(武日)」と続ける侍従の声が聞き取れないほど騒然となりました。
一人の家臣が立ち上がって「何が何でも、敵国の吉備邪馬台国の家臣だった中臣氏を連に任命されるとは……」と抗議の声を挙げましたが、イクメ王にジラリと睨みつけられて口を閉じてしまいました。選からもれた氏族から口惜しさや不平の愚痴がもれてきます。
「中臣氏ではなく、富意氏の間違いではないのか」との声も聞えてきますが、イクメ王は意に介せず、練りに練り上げた人選に自信を持っていました。出雲の大神の祟りに懲りたイクメ王は東西が統一された大倭国では被支配国の氏族でも再浮上できる可能性を示す実例として、出雲の兵士を警備役として大和盆地に招きいれました。この前例を引き継ぐ形で、中臣氏の重用に踏み切りました。
表面的には母皇太后を尊重して阿倍氏を筆頭の臣に立て、臣か連と予想された意富氏と豊城入彦一族を遠ざけたことになりますが、意富氏と豊城入彦に近い中臣氏を抜擢したのがみそ、一種の駆け引きでした。どちらかを臣に据えると阿倍氏との衝突は眼に見えています。中臣氏の背後には意富氏と豊城入彦一族がいることは誰にでも察しがつく上に、ヤツナダ(八綱田)を王宮を守る近衛兵隊長として大和に留めています。中臣氏は倭国の盟主としての祭祀を司る氏族でもありましたから、父王の意思を継いで大倭国にふさわしい神話を編纂していく上で、中臣氏を手中にしておく意図もありました。
これ以降、イクメ王を取り巻く家臣や氏族たちは二代派閥と中立派の三勢力へと色分けが進んで行きます。阿倍氏の許には尾張氏と物部氏、これに阿波と伊勢南部の忌部氏が加わりました。大和に倭国の祭祀を最初に紹介したことを自負する忌部氏は中臣氏への対抗意識が強く、中臣氏に遅れをとった焦りがありました。中臣氏の背後には豊城入彦一族と意富氏、これに吉備氏が加わりました。和邇氏と大伴氏はどちらの派閥にも属さない中立の立場を貫いていきます。日子坐一族は宮中に三人の后を送り込んだ丹波道主を中心に静観を決め込んでいました。
二代派閥の対立はすでにミマキ王の時代から水面下で進み、トヨ(台与。倭迹迹日百襲姫)の自害の原因にもなりました。ミマキ王は外戚のオオビコ親子を警戒したことから、ミマキ王の治世下ではトヨキイリヒコ閥が幅をきかせましたが、イクメ王の治世になって阿倍氏が力を取り戻しました。この二代派閥の対立の構図は第十一代オシロロワケ王(淤剘呂和気、忍代別。景行天皇)からオキナガタラシヒメ(息長帯比売、神功皇后)クーデターへと続いて行きます。
筆頭派閥となった阿倍氏は豊城入彦一族が統括する東国の利権や意富氏の常陸、信濃、九州中部(豊後、阿蘇、肥国)、吉備氏の吉備周辺、これに加えてアマツヒコネ族・アメノユツヒコ(天湯津彦)族が持つ西(周防、安芸、長門地区)と東(東国と陸奥)への侵食と割譲をじわりじわりとイクメ王に迫っていきます。
[4]日本神話編纂の開始
(1)出雲大社の落成
出雲の大神を祀る社の建造を監督しているウナカミ(莵上)から、大社の完成が間近となった報告がイクメ王(イクメイリヒコイサチ、伊久米伊理毘古伊佐知。垂仁天皇)に届きました。
イクメ王は五大夫の一人である物部トヲチネ(十千根)を王宮に呼び出しました。
「出雲の社が完成が近づいたという知らせが入った。私に代わって落成式の様子を見届けてきてくれないか。ついでに出雲の神宝の行方を明らかにしてきて欲しい。しばしば使いを出雲国に送って、出雲の神宝を検校させるが判定できる者がおらず、ウナカミからの報告もない」。
西出雲に到着したトヲチネは多藝志(たぎし)の小濱(をばま)に向けて斐伊川を下っていきます。すると遠方に赤い点が空中に浮いているのが眼に入ってきます。
「何だろう、あの赤い点は」。
その赤い点は近づくにつれてどんどん大きくなり、次第に天にも届くかとばかりに聳える真紅の大きな高殿だということが分ってきます。
「信じられない、あの高い建物は。今まで見たこともない壮大さだ。何かの錯覚か蜃気楼かも知れない」。
高殿に近づくにつれて、その大建築は紛れもなく出雲の大神を祀る新築の社であることが明白となりました。はやる気持ちで現地に着いて、あっと息を飲みました。大和では見たこともない想像を絶する大宮殿が眼前に聳えています。天をつらぬくかのごとく威容さを誇る千木(ちぎ)までの高さは50メートル近くに達しています。宮殿を支える御柱は高さが約25メートルほどもあり、直径1メートルを越える杉の大木を三本束ね、ベンガラで真っ赤に塗られて三列三か所に立て並べられています。宮殿と地上の間は約100メートルに及ぶ急勾配の階段が列柱で支えられてつながっています。
得意顔のウナカミに案内されて、浜風にあおられながら宮殿を取り巻く舞台に上ると、息を飲むほどの絶景が広がっています。斐伊川河口の三角州地帯や神門湾、日本海もはるか彼方まで見渡せます。
「出雲の民の底力には驚かされました。動乱期に息をひそめていた農民や人民が群れ集まって、ここぞとばかり作業に奉仕してくれました。社を支える杉の大木は斐伊川の上流で切り倒され、斐伊川を下ってきたものです。その光景は壮観でした」とウナカミは自慢げに語りますが、トヲチネも改めて出雲の国力のすごさを肌で感じました。イクメ王が出雲に特別な注意を傾けている理由を体感しました。
「この壮大な社を是非ともイクメ王にお見せしたいものだ」。
落成の祝いの場には地元の出雲だけでなく日本海諸国や信濃、東国の武蔵などから多くの人々が駆けつけ、隙間がないほど人垣で埋まりました。一年に一度、諸国の神さまが出雲に集合する神有月の有様を彷彿させます。トヲチネはお供にその模様を幅広の板に描かせながら、物珍しそうに覗きに来る人や通り過ぎる人の話に耳を傾けていると、「大和の王さまは国譲りで『我が住処として、太く深い柱で、千木が空高くまで届く宮を造っていただければ、そこに隠棲いたしましょう』と申し入れなされた出雲の大神に公約された大社を見事に実現された」とイクメ王を称える声が次々と耳に入ってきます。
行方知らずとなっていた多くの神宝が続々と献納され、トヲチネとウナカミは狐につままれた思いでした。動乱の際に臣下、忠臣が隠匿していたのでしょう。神鏡もいつの間にか奉じられていました。トヲチネは山のように積まれた出雲の神宝を大和朝廷に献上する物、地元に残す物と分別していきます。
都に戻ったトヲチネは板絵を披露しながら、イクメ王に落成時の模様を報告しました。
やはり、大和の神だけでなく、その土地元来の神さまである「国つ神」も尊重すべきなのだ、自分の判断は正しかった、とイクメ王は納得します。
「父王がヤマトトトビモモセヒメ(倭迹迹日百襲姫。台与)の助言を尊重したのは正解だった。二人の親密さは肉体的なものではなく、王者同士でしか分らない精神的な結びつきだったのだ」。
皇太后ミマツヒメ(御真津比売)などの耳打ちもあって、長年、瀬戸内海の神オオモノヌシを大和の三輪山に勧請することを助言したヤマトトトビモモセヒメ(トヨ)と父王の間柄を長年、疑っていました。自分も王者の立場になった今、父王は吉備邪馬台国の女王であったモモセヒメの助言にも耳を傾け、支配下に置いた国の国つ神と文化を尊重しながら、支配下の兵士や農民を活用していったことが、大きな波乱なしに大和が東西倭国を達成できたことにつながったことを悟るようになりました。むしろ謀反者はタケハニヤスビコやサホビコのように身内の中にいるとの思いを新たにして、身に引き締めました。
(2)日本神話編纂事業の開始
イクメ王はいよいよ父王の遺言である大倭神話の編纂に着手しました。編纂者の選択を弟のヤマトヒコ(倭日子)と進めます。二大派閥と中立派の均衡がとれる配慮をしながら、担当は意富氏、猿女君、忌部氏と中臣氏とすることで二人の意見はほぼ一致しました。
意富氏は祖が初代王の王子カムヤイミミ(神八井耳)であることから、大和の本流筋として、王家の源である日向の神話から神武天皇から先代王に到るまでの系譜と事跡を口承で伝えています。
猿女君は伊勢土着の豪族ですが、サルタヒコを主体とした神話を伝えています。第五代ミマツヒコカエシネ王(御真津彦訶惠志泥。孝昭天皇)の時代に伊勢が大和に下った経緯から、忌部氏には敵対心を抱いていました。
忌部氏は讃岐、阿波と伊勢南部を地盤にしています。イザナギ・イザナミから始まり、高天原の太陽神の岩戸隠れまでは倭国神話とほぼ同様でしたが、忌部氏の主力が讃岐から阿波へ移っていくに伴い、スサノオの狼藉に始まるスサノオ系の神話はなく、冬至が近づいて洞窟に引き込んだオオヒルメをアメノフトダマ(天布都魂)などが地上に引き戻す儀式と、タカミムビ(高御産巣日)―アメノフトダマ―アメノヒワシ(天日鷲)―オオアサヒコ(大麻彦)の系譜が主体となっています。第七代フトニ王(賦斗邇、孝霊天皇)の時代に本拠の阿波王国が大和軍に破れた後、倭国の文化や祭祀儀式を中臣氏よりも先に大和に紹介した自負がありました。
中臣氏は第十代の前王の時代に再浮上しましたが、スサノオからオオナチ(大穴牟遅)系とオオトシ(大年)系に至る倭国神話を伝える正統派でしたから、大倭神話の編纂では欠かせない存在でした。
大倭国神話の編纂に向けた最初の公会議が、阿倍臣タケヌナカハワケ(武渟川別)、和邇臣ヒコクニブク(彦国葺)、中臣連オオカシマ(大鹿嶋)、物部連トヲチネ、大伴連タケヒ(武日)の五大夫も参列して開かれました。
研究熱心なイクメ王は、これまでも何回となく、複数の語り部から大和神話と並行して吉備邪馬台国を主体とする倭国神話、これに加えて猿女君が伝えるサルタヒコ神話や物部氏の伝承なども聞いていましたが、吉備を中心として瀬戸内海と日本海地域の広範囲に広がる倭国神話と大和神話をいかに合体させていくか、の考察に至ると頭が混乱して結論が出ません。
意富氏が待っていましたとばかりに「筋書きはすでにほぼ出来上がっております。日向から降臨した神を伊勢サルタヒコが天と地の境でうやうやしく迎え、その後、各国の国つ神が大和に次々とひれ伏していくものです」と得意げに切り出すと、猿女君もごもっともと頷きます。
「初代王が日向から大和入りした後、第五代ミマツヒコカエシネ王の治世から王国の膨張が始まり、 東海三国、河内・淡路島、阿波、近江、若狭・丹波・摂津、東播磨、吉備邪馬台国、伯耆・東出雲、西国(安芸、伊予、周防、長門、筑紫、豊後、肥国)、東山道と東国、最後に西出雲の順で、大和の大倭国統一に至るまでを勇壮に、威風堂々と物語っていく英雄譚にまとめたら良いだろう」と阿倍氏タケヌナカハワケが話をつなげると、拍手がわきあがります。
「いや、その筋書きでは国つ神を篤く信奉する各国が反発するのが眼に見える。英雄譚にすると近江征服から筑紫征服まで主役の一翼を担ったアマツヒコネ(天津彦根)族をはずせなくなるだろう。中央から去ったアマツヒコネ族をあまり刺激したくない。その気持ちはお前たちも察しがつくだろう」とイクメ王が切り返しますと、場内は静まりかえってしまいます。
英雄譚の筋書きで進めていくと、各氏族は自派に有利な筋書きを求めていって確執が強まり、政争の火種になりかねません。王政転覆を秘かに狙う氏族に悪用される恐れもあります。
「英雄譚と並列して、征服した地の国つ神や説話を紹介していけばよいのでは」という声も上がります。
「私が思い描いているのは、大和の神話ではなく、大倭の神話なのだ。大和神話と倭国神話の融合、合体化だ。これは亡き父王が託した遺言でもある」。
「要点は日向に発した大和王国は、神代の時代から東西倭国を統一して大倭国の主となる宿命を神々から約束され、その使命を背負っていたことを大倭神話で明示することにある。大和は力づくで東西倭国を統一したのではなく、各国の自発的な国譲りの形で進行した、という筋書きにしたい」とイクメ王が続けますと、動揺と戸惑いの波が広がります。
しばらくして「倭国の太陽神オオヒルメと大和の祖神アマテラスを合体させて、アマテラスオオヒルメの神とすれば、倭国神話と大和神話の合体がやりやすくなるのではないでしょうか」という声が誰ともなく漏れてきました。
「それは妙案かもしれない」とイクメ王が頷いた後、会議は打ち切りとなりました。
編纂作業をまかされた意富氏、猿女君、忌部氏、中臣氏はお互いの腹の探り合いをしながらも、それぞれ頭をかかえてしまいます。意富氏と猿女君は倭国神話を、中臣氏は大和神話をよく知りませんでした。大和系に属しながらも、意富氏と阿倍氏では解釈の取り方が違います。阿倍氏は忌部側に理解を示しているのに対し、意富氏は中臣側に好意的でした。
(3)アマテラスの斎女
イクメ王は父王のもう一つの遺言であるアマテラスを祀る場所探しにも着手しました。
これまでは腹違いの姉トヨスキイリビメ(豊鉏入日賣、豊鍬入姫)がアマテラスの祭女を担い、父王の時代にアマテラスを祀る場所を特定するべく各国を巡遊しました。姉は紀伊の奈久佐浜宮、吉備の名方浜宮、丹波の与佐宮の三か所を候補地に挙げましたが、三者三様に決め手を欠いていることから、未決着のまま、いたずらに時だけが経過する状態が続いていました。
当初の目的は大和国が倭国(西日本)の盟主であることを象徴できる場所探しでした。ところが、ミマキ王の東日本制覇が現実味を帯びて来たことから、西日本でけだなく、東西倭国を統合した大倭国の誕生を象徴できる場所へと、目標が変わって来たことから、仕切り直しの形となっていました。
トヨスキイリビメはイクメ王より一歳ほど年長でしたが、異腹の弟であるイクメ王と打ち解けて面談する機会はほとんどなく、疎遠な間柄でした。もっぱら同腹の兄トヨキイリヒコ(豊城入彦)の息子で近衛兵隊長として大和に常駐するヤツナダ(八綱田)を実児のように可愛がり、世話を焼いていました。
「倭国の太陽神オオヒルメと大和の祖神アマテラスを合体させて、アマテラスオオヒルメの神とされるのは妙案ですが、太陽は東から昇ります。紀伊、丹波と吉備ではなく、もっと東方にアマテラスを祀る場所を探し出す必要がありましょう」と阿倍臣タケヌナカハワケ(武渟川別)がしきりに奏上します。東国の利権の復活を望むタケヌナカハワケは下野北部の那須を下野国から割いて、息子か孫を那須国造として送り込みたい魂胆を抱いておりましたが、イクメ王はそこまで察することはできませんでした。
「確かに候補の三か所を見直して、ゼロから仕切りなおしする必要がある」とイクメ王も同意します。
姉トヨキイリヒメが高齢となってきたことも理由の一つに挙げて、アマテラスの祭女をトヨスキイリヒメから王女ヤマトヒメ(倭比売)に切り替えましたが、結果的に場所探しは豊城入彦一族から阿倍氏へ比重が切り替ったことになりました。
ヤマトヒメはまだ十歳にも達しない幼少でしたので、ヤマトヒメが成人の歳になるのを待って場所探しの旅に出すことにしました。
(4)神祇(あまつかみくにつかみ)の祭祀と富士山裾野の開拓
イクメ王は祭祀体制の制度化も進めました。父王の気持ちが分ってきたこともあって、父王が進めた国つ神尊重の方向をさらに具体的に深めていきます。
「我が治世において、神(あまつかみ)と祇(くにつかみ)を尊び、祭祀することを怠ってはならない」と全国に向けて詔(みことのり)を発します。いたずらに大和系の神々を祀るのではなく、各国の祖神や地神を抹殺せずに、きちんと祀ることを布告しました。出雲の大神を祀る宮殿の建造と成功を通じて会得した教訓でした。さらに神地(かむどころ)と神戸を定めていきます。
神官に命じて「兵器を神の幣(まひ)とすること」の吉兆を占いますと、吉と出ました。それからは弓矢及び横刀(たち)を諸々の神の社に納めるようにしました。兵器をもって神祇を祭ることの始まりとなりました。
東国統括の最後に残された課題である駿河と相模を結ぶ東海道の開通工事にも着手しました。東国は朝廷の財務を支える直轄地として重要性をますます強めていましたが、西国と東国を最短で結ぶ東海道は、噴火による溶岩が積み重なっている富士山東麓が難所となって、通行が不可能となっていました。このため西国と東国との交通は美濃から信濃に入る東山道の陸路か伊勢から房総半島に入る海路に限られていました。
富士山東麓の開墾に向けて、伊予の大三島諸島周辺の漁民や農民が徴発されました。オオヤマツミ(大山祇)を信奉する伊予の人々は三島を拠点にして難工事に挑み、三島、御殿場から足柄を経由した東海道を開通させました。
これにより西国から東国に到る時間が短縮され、安全性も高まりました。イクメ王の治世は安泰となり、世の中は天下泰平の時代に入りました。
〔5〕相次ぐ物故と皇太子の選定
(1)皇太后と弟ヤマトヒコ(倭彦)の死
好事、魔が多しと言うのでしょうか、実母である皇太后ミマツヒメ(御真津比売)に次いで、良き相談相手として可愛がり、頼りにもしていた弟ヤマトヒコ(倭彦)も急の病で帰らぬ人となってしまいました。弟の死は予期せぬことで陵墓はまだ用意されていませんでしたので、突貫工事で身狭(むさ)の桃花坂(つきさか。築坂)に陵墓が築造されます。
臣下が陵墓の設計図板を提示します。王族の重要な一員だった証しとして弧帯文が刻まれた宮山型特殊器台と都月型埴輪、これに加えて円筒埴輪や壺型埴輪が整然と並べ立ててあります。
「倭国の継承者として弧帯文に固執し、強調する必要はそろそろ薄らいできたようだ。弧帯文入りの特殊器台と都月型埴輪ははずして、円筒埴輪をより多く飾りなさい。円筒埴輪を大量生産できる力量が大倭国の盟主の誇示、底力の強さを示すことににつながるだろうから」とイクメ王(イクメイリヒコイサチ伊久米伊理毘古伊佐知。垂仁天皇)は指示を出しました。
弧帯文は倭国の盟主国であった吉備邪馬台国の王家を示す文様で、弧帯文が彫り込まれた高さが1メートル強にも達する特殊器台(第一期は立坂型、第二期は向木見型)は王族の墳墓にのみ祀り飾り立てられていました。
その特殊器台(向木見型)と特殊壺を、吉備の陶器工人と共に船に乗せて河内の大和川河口の八尾に運び込んだのは、大和の水軍を担うアマツヒコネ(天津彦根)族でした。第十代ミマキ王(ミマキイリヒコイニエ御真木入日子印惠。崇神天皇)の腹違いの叔父にあたるタケハニヤスビコ(武埴安彦)の母ハニヤスビメ(埴安媛)はカワチアオタマ(河内青玉)を父とするアマツヒコネ族の出身でしたから、タケハニヤスビコは大和の水軍を指令者として思い通りに動かせることができました。タケハニヤスビコは吉備邪馬台国征圧の目標を達成した、腹違いの兄である第九代オオビビ王(大毘毘、大日日。開化天皇)の在世中から秘かに天下取りを画策しており、倭国の盟主の象徴である弧帯文入りの特殊器台を河内の一族の墳墓に秘かに飾り立てます。腹違いの兄オオビビ王が急死した後は「いよいよ自分の時代の到来だ」と、吉備から徴発してきた工人に弧帯文入りの特殊器台の製造を命じたことが第三期の宮山型特殊器台の誕生につながります。
ミマキ王が即位してから数年が経過した後、タケハニヤスビの陰謀が発覚しました。タケハニヤスビは淀川の支流木津川を上って山代側から、后アタヒメ(吾田媛)は大和川を上って河内と大和の国境である大坂山から大和盆地に攻め込もうとしましたが、阿倍氏オオビコ(大彦、大毘古)と吉備氏イサセリビコ(伊佐勢理毘古)、和邇氏ヒコクニブク(彦国葺)の手で鎮圧されます。河内に徴発されていた吉備の陶工は大和盆地の東南部に移動させられました。
即位後、災害や治安の悪化で亡国の危機にさらされていたミマキ王は、オオビビ王の后候補兼人質としてしぶしぶ大和入りしたものの、オオビビ王の急死でその存在が宙に浮いてしまったヤマトトトビモモセヒメ(倭迹迹日百襲姫。台与)と相性が合い、助言を聞き入れて倭国と瀬戸内海の神オオモノヌシを三輪山に勧請しました。すると国運が上向いていったこともあって、敵国だった吉備発祥であることを承知の上で、倭国の盟主の象徴である弧帯文を大和が受け継いだ証しとして特殊器台を活用することを決めました。大和盆地に定住した吉備の陶工たちは宮山型特殊器台と特殊壺の製作を進めましたが、作業場で共同作業をする大和の陶工たちは粘土板を輪状にした後、文様を刻み込み、四段、五段と段上に積み上げて高さ1メートル前後の器台を造り、乾燥後に焼成する工程をつぶさに観察します。やがて大和の陶工たちは吉備の工人の助けも借りて、弧帯文を刻み込んだ都月型埴輪、さらに円筒埴輪、壺型埴輪を製作するようになりました。
モモセヒメが自害した後、その死を悼んだミマキ王は吉備邪馬台国の最後の女王を称えるべく、大規模な前方後円墳「箸墓」の築造を命じましたが、同時に倭国の盟主の座が吉備から大和に移行したことを明示する意図で、吉備発祥の特殊器台に加えて大和で創出された都月型埴輪、円筒埴輪、壺型埴輪も並び立てました。
その後も崩御した王族の古墳に都月型埴輪、円筒埴輪、壺型埴輪に加えて宮山型特殊器台が祀られましたが、敗者側の象徴であった弧帯文をなぜ尊重するのか、という批判もありましたから、必ずしも王族の墳墓すべてに配置するしきたりとはならず、盟主の座が吉備から大和に移行したことを訴求する必要がある場合に限られました。配置された墳墓は王宮がある纏向の北方に位置する大和古墳群を主体に10か所に達しない程度でした。大和王国が大倭国の盟主としての座を揺るぎないものとしたことに自信を抱いたイクメ王が、弧帯文に執着する必要性が薄らいだ、と判断した以降は弧帯文の使用は消えていきます。
モガリの期間を終えたヤマトヒコの遺骸は聖域を囲むように円筒埴輪が林立した陵墓に埋葬されます。古くから伝えられてきた風習にのっとってヤマトヒコに仕えた近習者たちは殉死となり、陵墓のめぐりに掘られた壕に生き埋めされました。壕穴には毒薬が隠された壺類が置いてありましたが、夜半の闇に乗じて壕から這い上がって抜け出そうと、あえて毒薬を飲まない者もおりました。しかし予期していた以上に土砂が厚く、中々壕から抜け出すことができません。日がたっても死ぬこともできずに昼に夜に泣き叫び続け、ついに死に至って朽ち腐ってしまい、野犬やカラスが集まってその死体を貪り食うという悲惨な光景となりました。
供養に訪れたイクメ王も近習者の泣き叫ぶ声を聞いて悲傷の念に襲われました。「古くからの風習だからといっても、良くないことは従う必要はない」と殉死を悪習と見なして廃止を英断しました。
(2)後継者の選択
五大夫のうち、阿倍臣タケヌナカハワケ(武渟川別)と和邇臣ヒコクニブクは老境に入って病いがちとなり、阿倍臣はトヨカラワケ(豊韓別)、和邇臣はオオクタミ(大口納)へと代替わりしました。二人の長老がはずれたことから、イクメ王は両肩に押し付けられていた重石が一挙に抜けた解放感を味わい、より自由に政務を行うことができるようになりました。
老い先が短いことを悟ったタケヌナカハワケは、下野北部の那須を一族に割譲することを執拗にイクメ王に直訴します。叔父の最後の願いだけは素直に聞いてあげようと温情心がわいたイクメ王は直訴を受け入れ、トヨカラワケの弟であるイフヂ(意布地)の息子オホオミ(大臣)が那須国造に内定しました。当然なことに領地を割愛される豊城(とよき)一族にとっては面白いはずはありませんが、近衛兵隊長として大和に常駐するヤツナダ(八綱田)はイクメ王の決定にあえて口出しすることは躊躇しました。
「王子たちは成人と見なされる満14歳に近づいてきた。後継者と見なしていたヤマトヒコがあの世に行ってしまったことだし、そろそろ後継の皇太子を決めておかねばならない」。
皇太子候補の筆頭は正后ヒバスヒメ(氷羽州比売)の第一子イニシキノイリヒコ(印色入日子)と第二子オオタラシヒコ(大帯日子)オシロワケ(淤斯呂和気)でした。
二人は年子でしたが、性格は全く異なります。イニシキは寡黙で人付き合いが苦手で、武術にもたけているわけではありませんが、どういうわけか剣や鉄製農機具の製造に興味を示し、高じて貯水池や灌漑施設の土木工事の技術監督者として頭角を現わしていきます。弟オシロワケは正反対の性格で、幼い頃から要領が良く、宮中にはべる女官たちに可愛がられて育ちましたから如才ない外交術にたけた少年に育っていました。
イクメ王は二人を呼んで「お前たち、それぞれ、希望する方向を述べなさい」と命じます。そういえば兄トヨキイリヒコ(豊城入彦)と父王に呼ばれて、同じような質問を受けたな、とその時の光景をなつくしく思い出しました。
兄は「弓矢を得ようと思います」、弟は「王位を得ることを欲します」との返答も自分の時と似ています。後継者は私と同じように次男にしておこうと腹を固めました。「それぞれの希望通りにしたらよかろう」とイニシキには弓矢を授け、 オシロワケには「汝が朕の位を継ぎなさい」と内々に告げました。二人の母である正后ヒバスヒメも「妥当な結論です」と納得しました。
(3)ヒバスヒメの死
そのヒバスヒメも病に倒れ、あの世に旅立ってしまいました。纏向に近い大和古墳群とは距離が離れていましたが、サホヒメ(沙本比売、狭穂姫)を大和盆地西北部の佐保に葬って以来、自分の陵墓の場所にもしようと決めていたイクメ王はすでに佐保周辺に墳墓用の用地を確保していました。ヒバスヒメの陵墓の場所を秋篠川近くの佐紀の丘陵に決め、ヒバスヒメの父、丹波道主の前方後円墳に匹敵する大規模な前方後円墳を造成しました。
すでに殉死の廃止を宣告していたものの、古くからの風習である殉死を尊び継続する氏族がまだ残っていました。イクメ王は群卿を集めて「従者が主君の死に殉ずる慣習は確かに侮り難い側面もあるが、悪習でもある。ヒバスヒメのもがり(葬)では、殉死に替わる手立てをしたいと欲するが、何か名案はないものか」と詰問しますと、側近として仕える野見宿禰が進み出ました。
「確かに君主の陵墓に生人を埋め立てるのは不良であります。この悪習を後世に伝える必要なぞ、ありません。私にお任せください」。
野見宿禰は出雲に使いを遣り、出雲の国の土部百人あまりを召還しました。自ら土部を率いて、埴を取って人物・犬・鶏など種々の物の形を造って天皇に献上しました。
「今後はこの土物をもって生人に代用して陵墓に立て、後世への法則にされたら」と奏上します。
「なるほど、円筒埴輪の大量製造・工業化の誇示に加えて形象埴輪を飾るなら、倭国の弧帯文に代って、大倭国の盟主の座を象徴することができる」とイクメ王は上機嫌となり、「汝が便宜、誠に朕が心にかなえり」と野見宿禰を賞賛しました。この土物は埴輪、また立物と名づけられました(立物埴輪)。
「今後は陵墓に必ずこの土物を立てて、人を傷つけることをなくそう」とイクメ王は 殉死に代って埴輪をあてることを制度化します。野見宿禰へはその功を褒めて鍛地を賜い、土部(はじ)の職につけました。野見宿禰は姓を改めて土部臣となり、歴代王の葬儀を司る土部連の祖となりました。結果として特殊器台から派生した都月型や円筒埴輪は吉備起源、立物(形象埴輪)は出雲起源となりました。
イクメ王は佐紀の丘陵より佐保川に近い場所に自分の陵墓の造成を命じました。
(4)カニハタトベ姉妹
ヒバスヒメの妹后の二人も白髪が目立つ歳になっていました。老いが見えてきた后に見飽きたせいか、あるいは若い后を迎えて後宮を若返りさせたくなったのか、イクメ王は山代大国の不遅の娘カリハタトベ(苅幡戸辺)を後宮に迎え入れました。ある夜、厠に向う途中で夜番の近習の世間話が耳に入りました。立ち止まって耳を傾けていますと「陛下はなぜ妹カニハタトベ(綺戸辺)の方を選ばれなかったのだろう。姉よりずっとで姿形が美麗なのに」と頷きあっています。
「その噂が確かか否か、自分の目で確かめてみよう」。
遊び心もわいて、イクメ王は山代に行幸することを決めました。木津川を渡って山代に入った王は、矛(ほこ)を挙げて「噂通りの佳人であるなら、道中でその兆候(瑞)を見せて欲しい」と天に向かって言い放ちます。すると行宮(かりみや)に到着する手前で、河の中から大亀が浮かび上がりました。王が矛を持ち上げて大亀を刺すと、たちまち白石に化身しました。
「これは吉兆だ。オトカニハタトベは佳人に違いない」。
一目でカニハタトベを気に入ったイクメ王は有無を言わせずオトカニハタトベを伴って意気揚々と都に戻りました。
姉カリハタトベは祖別、五十日足彦、胆武男の三男を、妹カニハタトベは磐衝別(いはつくわけ)と石衝毘売(両道入姫、布多遅能伊理毘賣ふたぢのいりびめ)の一男一女をもうけましたが、両道入姫 はイクメ王を継いだ第十一代オシロワケ王の王子ヲウス(小碓。ヤマトタケル)の后となります。
〔6〕難渋する大倭国(日本)神話の編纂
1.王族系譜と歴代王の旧事(旧辞)
大倭(日本)神話の編纂は遅々として進みません。担当する意富氏、猿女君、忌部氏と中臣氏に、時には五大夫も加わって、イクメ王と討論を重ねますが、幾つかの難点を越えられず、皆、頭をかかえます。
葛国が伊勢、美濃と尾張の東海3国を征した後、大和盆地全体と河内・山代と淡路島を支配下に置いた第六代クニオシビト王(國押人。孝安天皇)から第七代フトニ王(賦斗邇。孝霊天皇)の時代にかけて、日向神話、葛国の建国、歴代王の系譜と逸話(旧事)をまとめる試みがなされました。これにより王家の祖神ホノニニギ(番能邇邇藝)の降臨を伊勢のサルタヒコ(猿田毘古)が出迎え、日向に定着した後、四代目のイハレビコ(伊波禮毘古)の大和入りと葛国建国、第二代カムヌナカハミミ王(神沼河耳。緩靖天皇)の即位に到るまでの大筋がまとまり、王家の伝承として伝えられていました。
第二代目の治世から第四代ヒコスキトモ王(日子鉏友。懿徳天皇)までは宇陀野―磯城―御所―風の森峠―紀ノ川を結ぶ水銀朱交易路を確立して王朝の土台を固める雌伏の時代となりましたから、平坦すぎてこれといった逸話はあまりなく、婚姻を通じた磯城族との結びつきを示す王系譜だけが伝えられていました。第五代カエシネ王(訶惠志泥、孝昭天皇)から第十代ミマキイリヒコイニエ王(御真木入日子印惠。崇神天皇)にかけて、 年代的には西暦190年~300年の約110年間は葛国の膨張に伴う激動の時代に入り、膨張が早すぎたこともあり伝承が公的には確立していませんでした。
歴代の王の系譜は意富氏が管理していました。各代の王さまは正后に加えて、認知された后や非公式の愛妾を複数人抱えていたことは確かですが、意富氏が伝えるものは正后の系譜を連ねただけでしたので、不満を漏らしている氏族もありました。系譜に乗っていない氏族が某王の子孫と名乗っている例もありましたが、その信憑性を確認する術もありません。
朝廷が正式な王族系譜をまとめるという話題はたちまち近畿地方一円に広がり、「我が先祖様は第四代タマデミ王(玉手見。安寧天皇)である」などと多くの氏族が駆け込みで陳情してきます。意富氏や五大夫に賄賂を申し出たり、コネを使ったりして王族の系譜に割り込もうとする氏族もありました。
「あんな奴まで王族の子孫だったとすると、誰もが王族の子孫になってしまう」など、陰口や笑い話が広がるほどでした。中には「第四代ヒコスキトモ王から直々に授かった」と、証拠として銅鏡をかざす氏族も出現しましたが、公けの席で公開されると、盗品だったことが判明して恥をかく者も出る始末で、収拾がつきません。
各王の旧事も意富氏がそれなりに整理をしてはいましたが、正式に吟味され、確定・編纂されたものではありませんでした。まだ鮮明な記憶を憶えている各氏族はそれぞれの先祖の活躍を誇示する逸話を勝手に膨らませ、自分の都合がよい旧事に仕上げていました。こちらをたてれば、あちらが立たず、各氏族の思惑が交錯し、このままでは氏族間での軋轢が高まることは目に見えています。
ことに厄介な問題は、アマツヒコネ(天津日子根)族をどう扱うか、という点にありました。アマツヒコネ族はタケハニヤスビコ(武埴安彦)の反乱後、中央での権勢は衰弱しましたが、河内・山代、瀬戸内海西部(安芸、周防)に加えて、東国の常陸、上総、相模などでも隠然とした勢力を伸ばしています。東海三国、河内・山代、淡路島・阿波、近江、近畿西部、吉備、九州、東日本を征服した後、西出雲王国を破って日本統一を仕上げていく歴代王の征服談も旧事の中に組み込んでいくと、河内・山代以降の征服譚で、尾張氏と並んだ重鎮氏族としてアマツヒコネ族を登場させざるをえません。
イクメ王は意を決しました。
「いつまで水掛け論を続けても埒は明かない。正后に加えて、その他の后たちを列記していくのははっきりとしている第七代フトニ王から、としよう。日向神話から初代イハレビコ王、二代目の即位まではすでに出来上がっている伝承通りとすればよい。今回の事業の最大の目的は大倭神話の編纂にあるのだから、とりあえず第二代以降の旧事は省略しておこう。
その代わりに王族系譜だけは、皇別氏族である意富氏、吉備氏、和邇氏などを含めて、系譜を見れば各王の時代の出来事も分るようにしっかりと整備しなさい。他の重要氏族は婚姻関係で挙げるか神話の中で紹介するようにする。他の雑多な氏族は切り捨てて構わない。
今後は宮中に系譜と旧事の編纂室を設けて、専任の役人がまとめることにする。 詳しい旧事は父王からとする」を判断を下しました。
2.倭国神話と大和神話の合体
イクメ王が第一の目的に掲げる、倭国神話と大和神話を合体させて大倭神話にまとめる試みも捗りません。倭国の太陽神オオヒルメ(大日孁)と大和の祖神アマテラス(天照)を合体してアマテラスオオヒルメとすることは決まっていましたが、どの部分でどのように結合するかが難点となっていました。
倭国神話は、弥生時代前期末に淡路島を中心にした瀬戸内海東端部でイザナギ(伊邪那岐)・イザナミ(伊邪那美)の国生みと三貴神(オオヒルメ、ツキヨミ、スサノオ)やオオヤマツミ(大山祇)などの神生みが誕生し、東は近江を経て日本海側に、西は吉備東部の津山盆地、吉井川、旭川流域に伝播しました。次いで津山盆地でイザナミの黄泉路篇が誕生し、出雲街道に沿って東出雲まで広がっていきます。弥生時代中期後半になると、瀬戸内海に筑紫のムスビ(産巣日)族や宗像族の文化が入り、その影響も受ける形でオオヒルメとスサノオのウケイ(誓約)対決を核にした高天原神話が成立し、スサノオの降臨とヤマタノオロチ(八俣大蛇)退治、スサノオの后クシナダヒメ(櫛名田比賣)からオオナムチ(大穴牟遅)、別の后カムオオイチヒメ(神太市比賣)からオオトシ(大年)の系譜が拡がり、吉備邪馬台国の膨張に伴って西日本の瀬戸内海、日本海地域に拡散していきました。
大和神話は弥生時代中期半ばに、タカミムスビ(高御産巣日)、カムムスビ(神産巣日)などムスビの神々を信奉する筑紫の人々が人口過剰と食糧不足を原因として、日本海と瀬戸内海への東下、九州東南部へ南下していったことに起因します。
豊前の英彦山(ひこやま)山麓に定着した部族がホノニニギの出身母体です。部族は後年、祖神としてアマテラスと尊称されるようになる未亡人が夫の死後、首長を務めていました。首長の孫ホノニニギは伊予のオオヤマツミ族の助けを得て、日向に移住して国を興し、二代目ホヲリ(火遠理)から三代目ウガヤフキアエズ(鵜葺草葺不合)を経て、四代目イツセ(五瀬)とイハレビコ兄弟へと続きます。イツセとイハレビコ兄弟が率いる一団は資金確保のため、西に向けて膨張する吉備邪馬台国の警備役として遠賀川河口、安芸の太田川河口、吉備の穴海での任務を経て、水銀朱交易路の開拓を目的に大和入りを試みます。不運にも兄イツセは戦死してしまいましたが、イハレビコは水銀朱の産地である宇陀野の制覇に成功した後、宇陀野と瀬戸内海への入り口にあたる紀ノ川河口を結ぶ水銀朱交易の要に位置する大和西南部の南葛城地方に葛王国を建国し、やがて葛王国は東海3国の制覇をきっかけに東西日本の統一という大事業を成し遂げていきます。
「要点は、日向に発した大和王国は力づくで東西倭国を統一したのではなく、神代の時代から大倭国の主となる宿命を神々から約束されており、各国は自発的に国譲りをしていったことを大筋として、各国の国つ神も尊重していく。この点がしっかりしているなら、ある程度の脚色、創作は許される」とイクメ王は編纂担当者たちを励まします。
3.出雲の国譲りを倭国神話と大和神話のつなぎとする
ある夜、「まず倭国神話を紹介した後、各地の国つ神の国譲りを挿入して、サルタヒコの出迎えから日向神話へとつなげていけば、神話の神々の世界から現実の世界へとつなげていくできるではないか」と何者かが語る夢をイクメ王が見ました。
目を覚ましてからイクメ王は、大和に国譲りをしていった国と代表する国つ神を順に頭に浮かべて行きます。
伊勢の制覇から始まった東国3国の国つ神はサルタヒコ、次に河内・山代と淡路島はオオトシ系譜、阿波は忌部氏のアメノフトダマ(天布刀玉)系、近江はイザナギ・イザナミ系譜、丹波・丹後はオオクニヌシ系譜、摂津・播磨はオオトシ系譜、吉備から以西もオオヤマツミと宗像三女神も含めてスサノオ系譜に属しています。
伊勢のサルタヒコを除くと、近江から以西はいずれも源泉はイザナギ・イザナミに行きつく。高天原のオオヒルメの天石戸隠れでは吉備の中臣系と阿波の忌部系の神々が躍動し、吉備に降臨したスサノオから、オオトシ系譜とオオナムチ系譜に分かれ、オオナムチ系譜は吉備ではオオモノヌシ(大物主)、播磨ではアシハラシコヲ(葦原色許男)、因幡ではヤチホコ(八千矛、出雲ではオオクニヌシ(大国主)と枝分かれしていく。
このうち警戒すべき勢力は吉備、阿波と出雲となるが、オオトシ系譜の諸国と並んで吉備も阿波も大和に組み込まれてから久しくなるし、吉備由来の中臣氏と阿波由来の忌部氏は編纂事業に加えている。出雲はすでに野見宿禰を手許に置き、出雲の大神を祀る壮大な社も建立したものの、それだけで十分とは言い切れないようだ。
イザナギ・イザナミ系譜に属す諸国の国譲りを最後の出雲の国譲りに凝縮することはできないだろうか、とイクメ王はふと思いつきました。大和による日本統一までの過程で、各国での反対分子の抵抗があったが、最後は各国王は平和的に恭順したことを、最後の出雲オオクニヌシで代弁させて、その後にアマテラスの孫の降臨をもってくればよい。
東国の状況はどうだろうか、と眼を東国に転じてみます。
東国の本格的な進出は父王が放った四道将軍の一人阿倍氏タケヌナカハワケ(武渟川別)から始まりますが、意富氏・中臣氏、アマツヒコネ族、豊城入彦、出雲族の順で開拓が進み、これに阿倍氏が再度割って入ろうとしている状況です。
このうち意富氏・中臣氏と豊城一族は懸念する必要はなさそうです。ところがアマツヒコネ族はツクシトネ(筑紫刀禰)の子孫と配下のアメノユツヒコ(天湯津彦)族が常陸・陸奥から相模へと、出雲族はヒナラス(比奈良珠)の常陸国の新治(にいはり)定住から始まり、大和勢力が最後までてこづった武蔵地方を制圧して下総や陸奥南部へと、それぞれ勢力を広げつつあります。アマツヒコネ族と出雲族が結束し、その結束を東国の利権の増強を狙う阿倍氏が利用していったら、朝廷にとっては一大脅威となることに気づきました。
「先手をうって東国でのアマツヒコネ族と出雲族を分断しておく必要がある」。
イクメ王は「倭国神話を紹介した後、各地の国つ神の国譲りを出雲のオオクニヌシの国譲りに凝縮して、その後、大和の祖神ホノニニギの降臨とサルタヒコの出迎えにつないで日向神話とヒコイツセ・イハレビコの大和入りへ続けていく構想を編纂者たちに投げてみました。
「伊勢が大和の傘下に入るのは第五代カエシネ王の治世下でありますから、時代的に符合しません。伊勢のサルタヒコに出迎えられたホノニニギが日向に降臨するのも地理的に論理が合いません」という声も上がりましたが、サルタヒコの出迎え神話はすでに出来上がっていましたし、第九代王までの旧事は割愛する断をイクメ王が下していたこともあって、原案通りとすることで、大方が合意していきます。
倭国神話の高天原の主要神である中臣氏と忌部氏の神であるアメノコヤネ(天兒屋)、アメノフトダマ、アメノウズメ(天宇受賣)などもホノニニギのお供として降臨させてみては、という妙案も飛び出しました。そのついでにアメノウズメとサルタヒコを夫婦にさせて倭国神話と伊勢神話を結びつけたらどうだろう、という声も出て来ました。
イクメ王は父王の時代までの大和による出雲攻略の歴史を詳しく調べさせます。
第九代オオビビ王(大毘毘。開化天皇)の御世で、吉備邪馬台国制覇を成し遂げた後、アメノホヒ(天之菩卑)族が日本海側、アマツヒコネ族と配下のアメノユツヒコ族が吉備以西の制圧に送られます。中国山地を越えたアメノホヒ族は伯耆を支配した後、意宇郡を中心とした東出雲も支配下におきましたが、西出雲王国への進出を阻まれました。それを察知したオオビビ王の腹違いの弟タケハニヤスビコは配下のアメノワカヒコ(天若日子)を出雲に派遣しました。アメノワカヒコは西出雲王国の王族に取り込みながら、出雲王の王女と恋仲になり、そこをきっかけとして西出雲王国の乗っ取りを秘かに画策します。
その間にオオビビ王が急逝して父王が即位しましたが、つんぼさじきとされた父王は出雲全域を征したものと理解していました。ところがタケハニヤスビコの死後、西出雲王国はまだ独立していること、アメノワカヒコの野望を知りました。早々、密偵を東出雲に送ってアメノワカヒコを暗殺します。その後、意富氏タケヲクミ(建緒組)の推薦で中臣タケカシマ(建鹿島)を西出雲に送って、国譲りを実現させました。
国譲りと神宝の献上はフルネ(振根)王が筑紫の対馬国に出掛けている間に代理王を務めていた弟イヒイリネ(飯入根)が約束したことでしたが、出雲に戻ってそれを知ったフルネは激怒してイヒイリネを騙まし討ちで殺害しました。恐れたもう一人の弟ウマシカラヒサ(甘美韓日狭)とイヒイリネ の息子ウカヅクヌ(鸕濡渟)が大和陣営に逃げ込み、ミマキ王は吉備の吉備津彦一族と筑紫の阿倍氏ヌナカハワケを西出雲に進軍させ、フルネ王を破って西出雲王国の支配下に置きました。
「そうか、イヒイリネの国譲りをオオクニヌシの国譲りに脚色していけばよい。タケハニヤスビコが送り込んだアメノワカヒコはアマツヒコネ族であることを暗ににおわせるなら、出雲王国は敵方だったが、イヒイリネが国譲りを約束して、忠誠を誓った。これに対しアマツヒコネ族は大和系だったが、王家に反旗をひるがえした、という構成にすることができる。これにより東国でのアマツヒコネ族と出雲族の接近を分断できる」。
4.大枠が固まり
アメノホヒ、アメノワカヒコと中臣タケカシマの順で進む出雲制圧は前王の治世末期のことで、編纂者たちも直近の出来事として記憶しておりましたから、イクメ王の意図をすぐに悟ることができました。難所を解決した編纂事業は前進を始めます。
太陽神オオヒルメと祖神アマテラスの合体に連動して、アマテラスとスサノオのウケイから誕生した五男神・宗像三女神のうち、五男神は旭川流域の五神からアメノオシホミミ(天之忍穂耳)、アメノホヒ、アマツヒコネ、イクツヒコネ(活津日子根)、クマノクスビ(熊野久須毘)に入れ換えられます。
出雲の国譲りの後、ホノニニギが降臨しますが、倭国神話の高天原の主要神アメノコヤネ、アメノフトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ(伊斯許理度賣)、タマオヤ(玉祖)が五伴緒としてタヂカラヲ(手力男)やアメノイハトワケ(天石門別)や大和系のオモヒカネ(思金)などと共にホノニニギに付き従います。これは被征服側の主要神が大和の神の守護役を担ったことを暗示させる仕掛けでもありました。さらに倭国神話と伊勢神話を接着する意図からアメノウズメはサルタヒコの后となりました。
[7]伊勢神宮の決定と日本神話の披露
(1)ヤマトヒメの巡行
ヤマトヒメ(倭姫)が成人の年齢に達し、大倭国神話の編纂も目処がついたことから、イクメ王(伊久米伊理毘古伊佐知、垂仁天皇)はアマテラスオオヒルメ(天照大日孁)を祀る場所探しでヤマトヒメを旅立たせることを決めました。
ヤマトヒメは四男一女を産んだ正后ヒバスヒメ(日葉酢媛)の一人娘で四番目の子でしたが、幼い頃から利発で、三人の兄より才気があり、人物を見抜く鑑識眼もありましたので、王子だったなら後継者にしただろう、とイクメ王が溜息をつくほどでした。イクメ王がヤマトヒメを祭女に指名したのも、その才知を見込んでのことでした。
播磨のイナビノオオイラツメ(稲日大朗姫)が第二子オオタラシヒコ(大帯日子)オシロワケ(淤斯呂和気。景行天皇)の后となって、大和の王宮に移り住んだ折、不慣れな王宮生活にあれこれ世話を焼いたのもヤマトヒメでした。イナビノオオイラツメはヤマトヒメを頼りにして、しばしば相談に乗ってもらいましたが、相手方となったヤマトヒメは逆に播磨や吉備の事情を熱心に聞き出して、大和とは異なる吉備の文化に関心を抱きます。ヤマトヒメはイナビノオオイラツメが生んだ甥のオオウス(大錐)とヲウス(小錐。ヤマトタケル)の双子の王子、とりわけ弟ヲウスを可愛がり、ヲウスもヤマトヒメになつきます。
「大和の祖神アマテラスさまを祀る場所は、姉トヨスキイリビメ(豊鉏入日賣、豊鍬入姫)が紀伊、吉備と丹波を候補地に挙げたが、いずれも決め手に欠けて決着がつかず、父王から私に託された課題となった。アマテラスとオオヒルメを合体することが確定してから、阿倍臣トヨカラワケ(豊韓別)など、家臣の一部がしきりと『太陽は東から昇ります』と強調する。しつこすぎるほどだが、その言い分にも一理ある。そこで今回は東の方向で場所探しをしてみたらどうだろう。但し尾張以東は都から遠すぎるから、東限は尾張としなさい。西の倭国と東の倭国を象徴できる場所探しなのだから、東山道か東海道の入り口に相当する所が妥当であろう」とイクメ王はヤマトヒメに示唆します。旅のお供として伊賀国、伊勢国、近江国、美濃国、尾張国の地勢に精通している阿倍氏と尾張氏の者をあてがいました。
ヤマトヒメは出発前に腹違いの叔母トヨスキイリビメの許にも、旅立ちの挨拶を兼ねて訪ねてみました。トヨスキイリビメはすでに誰ともなく耳にしたのか、大和建国神話と倭国神話を合体させることを承知していました。
「アマテラスさまと倭国の太陽神オオヒルメを一体化する発案は賢明な着想と私も思います。大和の祖神と倭国の太陽神が結びついたのですから、太陽が上る東に場所を探すことも道理に合いますよね」と鷹揚な口調で話します。
「私が巡行した時にはそんな構想はありませんでした。西の倭国と東の倭国の統合は、まだ夢のような遠い先の話でしたからね。アマテラスさまは本来は日向か豊前に祀られるべきだと思います。でも日向も豊前も都から遠すぎます。紀伊を訪れたのは初代王イハレビコ(伊波禮毘古)のお兄様ヒコイツセ(彦五瀬)の終息地ですし、イザナギ・イザナミ神話との結びつきも強い土地柄からです。吉備と丹波を訪れたのは神々が棲む高天原が存在するからです。オオヒルメは元々は吉備の旭川の神さまで、上流の蒜山高原が吉備と出雲の高天原なのです。丹波は大江山地が丹波と丹後の高天原です」と、紀伊の奈久佐浜宮、吉備の名方浜宮、丹波の与佐宮の三か所を候補地に挙げた経緯を説明します。
「あなただから本音をもらしますが、都から近く、母の里でもある紀伊を私は推奨しました。残念ながら諸氏族の思惑や政治的な要素が絡み合って実現しませんでした。世の中はややこしくできていますから、性急に決めようとなさらずに、現地の名産を堪能されながら、旅を楽しんでいらっしゃい。場所が正式に確定した後、宮中から受け継いでいるアマテラスの神宝をお譲りしましょう」と、青垣で囲まれた大和盆地では堪能できない海辺の魚が新鮮で美味しかったことなど、自分の巡行時の経験談をなつかしそうに語りました。
(2)伊勢神宮の誕生
三輪山麓を出発してまず宇陀に入り、佐々多に泊ります。次に阿倍氏が治める伊賀国に入り穴穂宮、柘植宮と巡っていきます。阿倍氏のお供が懇切丁寧な態度をしつつ、しつこいほど伊賀の良さを繰り返します。それでも「ここだ」という地が見つかりません。
「まずは東山道の入り口を検討してみよう」とヤマトヒメは考えて、鈴鹿峠を越えて近江に入ります。すると、尾張氏のお供が急に饒舌になります。琵琶湖東部の坂田宮を経て、難所の不破の関(関が原)をどうやらこうやら乗り越えて美濃の伊久良河宮に入りましたが、「ここだ」と閃く場所がありません。
「それなら東海道の入り口を」と、木曽川を下って尾張の中嶋宮に入りましたが、やはり気に入る場所ではありませんでした。阿倍氏と尾張氏のお供たちはしびれを切らした様子ですが、疲れが次第にたまってきたこともあってか、ヤマトヒメはお供たちに辟易してきて、なるべく伊賀の阿倍氏と尾張の尾張氏の地盤から遠ざかりたい、という気持ちがつのっていきます。
「尾張国と伊賀国の中間にある伊勢国はどうだろうか」と思いついて、ヤマトヒメは木曽川河口を舟で渡って、伊勢国に入りました。大和盆地で育ったヤマトヒメには磯の香りが新鮮でした。「青垣で囲まれた大和盆地では堪能できない、海辺の魚や貝をたっぷりと味わってみたら」という叔母トヨスキイリビメの言葉を思い出しながら、海の幸を堪能して一息をつくことができました。
最初に落ち着いた場所は桑名の野代宮でした。「東海道は桑名から船で尾張国に入り、三河、遠江へと続く。大和盆地から見ると、桑名は東海道への入り口と言えるし」とヤマトヒメの気持ちは桑名に傾きました。ところが駿河国と相模国とを結ぶ富士山麓の工事はほぼ完了に近づいたものの、まだ治安が不安定であったことを知って、桑名を断念して亀山の鈴鹿奈具波志忍山宮、松坂の飯野高宮へと下って行きました。
宮川の河口まで下って来ると、どういうわけか心が落ち着きます。早朝、浜辺を散策しながら漁市場を覗いてみると、伊勢湾の魚に加えて太洋の大魚が並んでいます。都から来た、と思われる人物を多く見かけましたし、東国の船乗りのたまり場もありました。
「そうだ、この地は東国への海路の出発地なのだ。首都の纒向にも近く、太洋から昇ってくる日の出も美しい。この地を選んでみたら」と閃光が走りました。早速ヤマトヒメは、伊勢周辺を行脚しながら、最後に五十鈴川河畔の地を特定しました。
ヤマトヒメの選択に最も喜んだのは、地元の豪族である渡会(わたらい)氏でした。渡会氏は弥生時代中期後半に筑紫から瀬戸内海を経て伊勢に到来したカムムスビ(神産巣日)族を母体としており、大和が東海三国を支配下に置いた後は、尾張氏と混雑したため、尾張氏に属すると見なされることもありました。イクメ王の治世が始まった頃に越で発生した反乱の鎮圧に、尾張氏の要請で渡会氏オオワクゴ(大若子)が出動して手柄を挙げて、越に領地を授与されました。オオワクゴは素早い判断で、越の領地をアマテラスを祀る社に寄進する申し入れをしました。
報告を受けたイクメ王は、伊勢の地が朝廷の財政を支える東国への出入り口にあたることを思い起こし、さすがはヤマトヒメだ、と即座に容認しました。阿倍氏と尾張氏にとっても、鎮座場所が伊賀でも尾張ではなかったものの、渡会氏は尾張氏との結びつきが強く、阿倍氏の地盤である伊賀と近距離でもありますから、もろ手を挙げて賛同します。ヤマトヒメは渡会氏の好意を受け入れると同時に、吉備のオオヒルメと縁が深い中臣氏も祭祀担当者に招き入れる許しを父王に求めました。オオワクゴは伊勢国造に推され、弟のオトワクゴ(乙若子)が伊勢の社の管理を任されました。
宮中から受け継いだアマテラスの神宝がトヨスキイリビメからヤマトヒメに譲渡され、伊勢の社に運び込まれました。海路での東国への出口に当たる伊勢と、太平洋を乗り越えて東国に入る水道の両岸を押さえる鹿島と香取の三か所の社が大和朝廷の屋台骨を支える重要拠点の土台を象徴として格上の扱いを受けていきます。
(3)後継二兄弟
すでに内定していたように、正后ヒバスヒメ(氷羽州比売)の次男オオタラシヒコ(オシロワケ)を後継の皇太子とすることが正式に公表されました。
十歳を過ぎたオシロワケは知性もまあまあ、武力もまあまあでしたが、人あたりが良いことから、後継ぎにふさわしいと衆目が一致します。欠点と言えば、幼い頃から侍女たちにちやほやされて育ったせいか、おべっかいに弱く、その上、早熟で性の目覚めが早かったことでした。早くも宮中の女性に手をつけて、好き者ぶりを発揮しています。
播磨に美女がいると聞きつけて、わざわざ東播磨の加古川に夜這いに出掛け、イナビノオオイラツメを口説き落として、双子のオホウスとヲウスが誕生していました。その上、妹イナビノワカイラツメ(稲日稚郎姫)にも手をつけてしまいます。見かねた周囲の者から批判されても、父王がカリハタトベ(苅幡戸辺)とオトカニハタトベ(弟綺戸辺)姉妹を后にした前例を挙げて、「父王を手本にしただけのことです」と平然と答えます。そのあっけらかんとした返答が次代の王らしい、とゴマをする者もおりました。宮中に侍る女性達を漁るのも相変わらずでしたので、良識派のひんしゅくをかいますが、王位を継ぐ者はそのくらいの度量があってしかるべき、という声もあって、大目に見られていました。
播磨から都に上ったイナビノオオイラツメは、王宮の水に合わせるのに精一杯で、夫の浮気まで干渉する余裕はありませんでした。何くれと世話を焼いてくれたヤマトヒメが都を離れたことが心残りでした。せめての救いは妹も後宮入りして王宮に暮すことになったことですが、その妹も都と王宮の水に合わず、二人は肩を寄せ合いながら、ひっそりと王宮生活を続けます。
長男イニシキノイリヒコ(印色入日子)は、派手な行動で良きにつけ悪しきにつけ、王宮の内外に話題をふりまく弟に較べると、地味な存在でしたが、剣の製造や池の建造などの土木の技師、監督者として頭角を現わしていました。河内・和泉国で高石池と茅渟池、大和盆地で狭城池、迹見池の築造の指揮を執ります。 池は洪水と旱魃を防ぐことができる貯水池の役割を果たしますから、イニシキは農民達から敬慕されるようになります。
鉄製の農機具や土木用具の生産・製造が増強され、産業として発展したことから、イクメ王は諸国に令して、田に水を引く池溝の築造を奨励します。これによって諸国の荒地や湿地帯の開墾が進み、村々は富み栄え、天下泰平の世を謳歌していきます。
後年、イニシキは茅渟の莬砥(うと)河上宮に滞在して、剣一千口を製造し、石上神宮に献納します。その縁から石上神宮の神宝の管理役を父王から託されました。ところが魔が差したのか、土木作業のしすぎなのか、風土病にかかってしまい、体調を崩してしまいました。仕方なく幼い頃から仲がよかった弟オオナカツヒコに祭祀を譲ろうとしましたが、受諾を渋ったため、五大夫の一人である物部氏十千根に祭祀を委ねました。これ以後、石上神宮の祭祀は物部氏が担うようになりました。
(4)大倭神話の披露
伊勢の社の正式決定と皇太子のお披露目を兼ねて、大倭神話の発表式がおごそかに挙行されました。宮中に系譜と旧辞の部屋を設けて、専任の役人がまとめる体制を作ることも公表され、早速、父王の時代からの出来事を公的にまとめる編纂作業も始まりました。
語り部による大倭国神話の披露は数日から一週間に及びました。陽が暮れる頃から深夜まで、ゆっくり、ゆっくりと朗誦されました。まだ文字がない時代でしたから、各氏族は配下の語り部を同席させ、暗誦させます。すべてが終った後、大祝宴の儀となり、大御馳走が振舞われました。
最後の日はイハレビコの大和入りと王系譜の朗詠となりました。王系譜に言及されずに涙を飲む氏族も数多くありましたが、皇別氏族の系譜と后たちが出自した氏族はしっかり登場していましたので、主要氏族は納得しました。
それまで多くの者が想像さえしなかった出雲のオオクニヌシ(大国主)の国譲りに驚きの声も挙がりましたが、史実に沿いながらも物語としてよくできていると評判がよく、イクメ王は我が意を得たと喜びました。早速、タケハニヤスビコが送り込んだアメノワカヒコ(天若日子)と出雲の王女シタテルヒメ(下照日賣)の悲恋、アヂシキタカヒコネ(阿遅志貴高日子根)がアメノワカヒコと勘違いされて憤激する場面は纏向の大市の芝居小屋で演じられ、人気を博します。勘が鋭い者は、東国でなぜ出雲系の民がスサノオ、アヂスキタカなどの祖神を祀ることが許され、その逆に大和系のアマツヒコネ(天津彦根)族に属すアメノワカヒコが、なぜ不運な最後を遂げてしまったのか、といった事情を理解しました。
倭国神話と大和神話を出雲の国譲りで接着していくと、確かに九州東部から東国・陸奥に到る各国の主要な国つ神を含めることができることにも識者は納得しました。残念なことに西部九州の肥前のヨドヒメ(淀姫、与止日女)、筑後のコウラタマス(高良玉垂)、肥後のアソ(阿蘇)などの神々がもれている、という声も出ましたが、それぞれの国の国つ神を最大限尊重し、筆頭神として祀ることで納得させました。
式典の後も編纂室に氏族の語り部を集め、統一倭国神話を伝える作業が進みました。各氏族は自分の先祖の手柄話や逸話、祖神を加えながら、語り継いでいきます。
大倭国神話の編纂と祖神アマテラスを祀る場所の特定、という父王から託された二つの課題に回答を出したイクメ王の時代に、イハレビコが建国した大和葛王国は頂点に達しました。
大倭国神話の公表で最も失望したのはアマツヒコネ族でした。高天原の五男神を除くとほとんど登場しません。やはりタケハニヤスビコ(武埴安彦)の反乱が尾を引いており、イクメ王の時代になっても朝廷かから警戒され続けていることを悟りました。あと数世代まではおとなしくしておく必要がある、と観念しました。氏族として生き残っていくためには、政争に巻き込まれず、特定の氏族にも組みしないことを一族は示し合わせました。
一方、殺されたイヒイリネ(飯入根)の功績を称えて息子ウカヅクヌ(鸕濡渟)を出雲の国造とし、同時に大和系のアメノホヒ(天之菩卑、天穂日)の系譜に組み入れることを決めました。イクメ王はその詔の使者として、信頼する野見宿禰を出雲に派遣しました。出雲に向った野見宿禰は播磨の龍野で急病に襲われ、客死してしまいました。出雲の人々が駆けつけて、人衆を連ねたてて川の礫(こいし)を運び上げ、墓の山を築いて野見宿禰を讃えました。
〔8〕但馬のアメノヒホコの末裔
(1)但馬のアメノヒホコ族の繁栄
(参照:吟遊詩人がつづる日本の神々 〔8〕但馬の神々)
丹後半島や但馬の海岸線には季節風や対馬暖流の対流の影響なのか、日本海対岸の朝鮮半島東南部に位置する辰韓諸国の漁民や船乗りがしばしば漂着し、逆に丹後や但馬の漁民が辰韓諸国に流れ着くこともありました。
丹後出身の倭人の船乗り脱解尼師今(だっかいにしきん)もその一人でした。辰韓12か国に属すシラ(斯蘆。後の新羅)国に漂着した脱解尼師今は、運がよいことにシラ国の第二代王である朴氏南解次次雄(治世4~24年)に気に入られ、王女アヒョ(阿孝)の婿となります。第三代王は南解次次雄の長男、儒理尼師今(同24~57年)が継ぎましたが、脱解尼師今は請われて第四代王に担ぎ出され、昔氏の祖として57~87年の間、治世を担います。脱解尼師今は母国との交易振興に力を注ぎます。辰韓と丹後・但馬を結ぶルートは伽邪地方―対馬―壱岐島―筑紫を結ぶルートとは異なる、第二の交易ルートとなり辰韓12か国との交流が深まっていきます。
辰韓諸国は三韓諸国の象徴的な盟主である辰王の下に12か国が並立していましたが、3世紀後半、第十二代国王である昔氏沾解尼師今(治世247~261年)の時代からシラ国が抜け出し、勢力を広げて次々と他国を呑み込む始めたことから、辰韓地方は動乱の時代に入ってしまいました。シラ国に敗れた国々、ことに海岸線に沿った己柢国、勤耆国などからの亡命者が次々と丹後や但馬の海岸に漂着するようになります。亡命者たちは祖国復興を目標に置きながら、人影がまばらだった但馬の海岸線沿いの湿地、泥地帯の開拓を始めました。
亡命者たちの逸話はツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)、ウシキアリシチカンキ(于岐阿利叱智干岐)、アメノヒホコ(天日矛)など幾つかの伝説が混同されて伝えられています。代表的なものは自国の創始者が卵から生まれる、という半島諸国の卵生神話に類似したもので、赤玉ないし白石から誕生した日本女性が故郷に里帰りをしてしまったため、夫も妻を追って来日した、という筋書きです。
(アメノヒホコの亡命)
アメノヒホコの来日は第九代オオビビ王(大日日ないし大毘毘。開化天皇)の時代にあたる260年前後でした。大和はオオビビ王の父王(孝元天皇)の時代から吉備邪馬台国への攻撃を始め、播磨の揖保川までは占拠していましたが、そこから西は吉備勢力の防備が強く、攻めあぐねていた頃でした。
アメノヒホコを乗せた船団は瀬戸内海に入り、吉備の海岸線に停泊しますが、伽邪諸国、帯方郡や楽浪郡との関係が深い吉備邪馬台国は、辰韓からの渡来と聞いて滞在を拒みました。仕方なくさらに東に進んで、大和勢力下にある播磨の揖保川河口に着き、大和軍に尋問されました。吉備邪馬台国と違って大和軍は好意的で、播磨の宍粟(しさは)邑か淡路島の出浅(いでさ)邑のどちらかでの居住を許されます。しかしアメノヒホコは各地をじっくり巡ってから居住先を決めたいと申し入れ、播磨から淡路島を経て近江に入った後、辰韓諸国からの亡命者が集合していると耳にした但馬に若狭を経由して向いました。アメノヒホコの従者の中には淡路島の出浅と 近江の吾名邑に留まる者もおりました。
噂に違わず、但馬の出石地方にはすでに多くの亡命者が居住していました。懸命に沼地や泥地の開拓に励んだ成果が実り、一つの郡ないし国としてまとまる基礎が固まり、出身地は異なるものの、シラ国に蹂躙された辰韓11か国の祖国復興を旗印として結束して、多遅摩俣尾が首長を務めていました。
アメノヒホコの一団は快く迎えられました。アメノヒホコが携えてきた財宝を見て、まぎれもなく辰韓の王族と分り、厚遇されます。首長の多遅摩俣尾は娘の前津見をアメノヒホコに差し出しました。前津見は多遅摩緒助(母呂須玖)を生み、アメノヒホコと前津見の孫が多遅摩斐泥、曾孫が多遅摩比那吉岐と続きます。
オオビビ王による吉備邪馬台国制覇の際にはアメノヒホコが率いる但馬勢力は当然のごとく大和側に付き、加勢しましたので、大和王権からの信頼を強めました。但馬地方はアメノヒホコ族が主体となっている海側は二方国、山側は但遅馬国に二分割されていきます。
(アメノヒホコ族の大和入り)
第十一代イクメイリビコイサチ王(活目入彦五十狭茅。垂仁天皇)の治世に入っていた四世紀初頭、狭穂彦(さほびこ)の反乱で愛后で狭穂彦の妹でもあるサホヒメ(沙本比売、狭穂姫)を失った王はサホヒメの遺言でサホヒメの腹違いの姪にあたる丹波道主の娘たちを后に迎えてから、后姉妹の助言を通じて日本海に眼を向けるようになりました。
出雲対策重視に切り替えたイクメ王はオオクニヌシを祀る壮大な大社の建造を命じると共に、出雲の兵士を大和盆地の警護兵として招き入れます。それに合わせて湿地帯開拓の実績を買って但馬の民を大和川本流に支流の寺川、飛鳥川と葛城川が合流する低湿地帯の開拓に駆り出しました。アメノヒホコの曾孫にあたる四代目の多遅摩比那吉岐には清日子、多遅摩比多訶、多遅摩毛理(田道間守)の三人の息子がいましたが、清日子はアメノヒホコ族の総領として但馬に残り、多遅摩比多訶と田道間守が出石の住民を率いて大和盆地へ移住しました。アメノヒホコ一族は低湿地帯の開拓を軌道に乗せながら、次第に葛城地方へ拡散していきました。多遅摩比多訶は兄の清日子の娘、管竈由良度美をめとり、葛城タカヌキヒメ(高額比売)が生まれました。
(2)アメノヒホコの財宝
イクメ王は父ミマキイリヒコイニエ(御真木入日子印惠)王の晩年、朝鮮半島の伽邪地方の一国からソナカシチ(蘇那曷叱智)が来日したことを思い起こしました。直に父王が崩御したことから、イクメ王がソナカシチの面倒を見ましたが、ソナカシチはしきりに洛東江をはさんで東に位置するシラ国の兵士が洛東江を越えて西の伽邪地方に侵入してくる窮状を訴えました。半島の情勢に疎いイクメ王はシラ国や辰韓諸国の存在を初めて知りましたが、ソナカシチの話にはあまり留意をしませんでした。
父王の死後、2年ほど経過してソナカシチは母国への帰国を希望しました。面会したイクメ王は「父王との縁があったことでもあるから、貴国の国名をミマキに因んで任那(みまな)としたらどうだろう、少なくとも我が国では貴国を任那と呼ぶことにする」との言葉をかけながら、赤絹百反(匹)を土産に持たせました。ソナカシチが帰国してからしばらくして、「ソナカシチは伽邪の港に無事に帰還したものの、シラ国の兵士に取り囲まれて土産の品々を強奪されてしまったようだ」という報告を受けました。
「そうか、ソナカシチは我が国の状況を探る目的もあったであろうが、シラ国の侵入を防ぐべく、我が国の協力を得ようとする意図もあったのだ。但馬のアメノヒホコ族はシラ国が属す辰韓地方からの到来と聞く。ひょっとすると、アメノヒホコ族は秘かにシラと手を組んでいる恐れもある。今のうちに、出る杭は叩いておいた方が無難だろう」。
イクメ王は清日子にアメノヒホコが招来した財宝の献上を求めました。招来品は玉類3個(羽太の玉、足高の玉、うかかの玉)、出石の小刀、出石の桙、日鏡、、辰韓地方の神を招く祭祀用具である「熊の神籬(ひもろき)」一具で、出石の社で大切に保管されていました。都から直々に役人がやって来て、財宝を確認した後、いやおうなしに都に持ち帰ります。清日子もしぶしぶ同伴して都に上ります。
イクメ王は清彦を招いて酒宴を催しました。宴席の間に入ると、アメノヒホコの招来品が玉座の前に展覧されています。
「せめて出石の小刀だけは祖国復興の象徴として手許に残しておきたい。出雲も神宝を献じたが、神鏡だけは自国の祖神と供に自国で祀ることを許された、と聞いている。気づかれてもお咎めを受けることはないだろうと腹をくくり、開示された財宝の中から小刀を秘かに衣(袍)の中に隠し、何食わぬそぶりで、小刀を佩きました。酒宴が始まり、宴たけなわになったこと、酔った貴人を避けようとして運悪く小刀が衣の中から露顕してしまいました。清彦へのお咎めはありませんでしたが、衆目の面前でアメノヒホコ族が失態を演じたことはたちまち巷間に伝わっていきます。
招来品は王宮の宝物庫に納められましたが、いつの間にか小刀が消え失せていることが発覚しました。「やはりアメノヒホコ一族は信用できない」と猜疑の目が向けられますので、都に住む多遅摩比多訶と田道間守にとっては肩身が狭い日々となりました。
後日、小刀は淡路島で発見されました。出浅(いでさ)邑の祠に神として祀られていたことから、出浅(いでさ)邑に残ったアメノヒホコの従者の子孫が王宮から盗み出したことが明らかとなり、アメノヒホコ族の汚点となりました。
(3)非時(ときじく)の香菓を求めて
老境に入ったイクメ王の長寿を願って家臣たちは知恵を絞りあいます。ある者が「常世の国という所にに非時(ときじく)という果実が存在し、これを食べると不老不死となる」と喧伝しているのを聞きつけると、誰もがその話に飛びつきました。
「是非とも非時の果実を見つけ出しましょう」。
家臣の忠言もあって、不老不死の妙薬を求めて、田道間守を朝鮮半島の海上にあるという常世の国に遣わすことになりました。
「ついでに、シラ国や任那も含めて半島諸国の状況を収集して来なさい」とイクメ王は付け加えます。田道間守にとっては、一族の汚名返上の好機到来でしたから、勇んで常世の国に向かいます。まず但馬に戻り、秦語を理解する者を従者につけ、辰韓諸国へ船出します。
その頃、朝鮮半島は激変の時代に入っていました。秦末期から前漢成立の動乱期に中国北東部からの亡命者が定着して以来、半島北部は楽浪郡、南部は辰国、楽浪郡と辰国を結ぶ形の帯方郡の構成で、中国文化が支配してきました。しかし中国勢力が弱体化した隙をついて、高句麗国が膨張し、モンゴル系遊牧騎馬民族である扶余族などが南下を始めたことから楽浪郡と帯方郡は消滅します。半島南部の馬韓、弁韓と辰韓三地域は辰国が弱体化しながらも盟主の座を維持してきましたが、馬韓と辰韓では新興勢力の台頭により秩序が崩れ始めていました。
暴風と荒波を何とか乗り切った田道間守は辰韓の南西部に位置する己柢国の浜辺に漂着しました。まもなく己柢国の兵士に取り囲まれ、シラ国のまわし者と疑われて捕虜となってしまいました。
田道間守はたどたどしい通訳を介して、自分たちは倭国からやって来たことを必死に説明します。
来訪した伽邪のソナカシチが持ち帰った倭国の土産をシラ人に強奪された話をすると、ソナカシチの名を知っていた者がいたのか、兵士はうって変わって友好的になりました。
「我が国は隣のシラ国と激戦の真っ最中です。我が国に滞在されることは危険ですから、洛東江を越えて、伽邪国以西に行かれた方が良いでしょう。ソナカシチの許にも案内させましょう。辰国の国王にもお会いなされたら宜しいでしょう。その代わり、帰国されたら倭国王に辰韓12か国の復興に協力して欲しい、と伝えて下さい」と護衛役をつけて田道間守一行を送り出します。
金官国に入りましたが、ソナカシチがすでに物故していることを知りました。金官国もシラ国勢力と一進一退の攻防の真っ最中でした、さらに西に進んで卓淳国へ入ると、辰国の役人が駐在していました。
「辰国は敵に囲まれてしまっておりますので、行かれるのは危険です。おっしゃられる非時の果実というのは、おそらく橘の実のことと思います。それなら、ここからさらに西に進んだ海中にある耽羅国(済州島)に行かれるのがよろしいでしょう」。
その言葉を信じて、田道間守は済州島へ向いました。済州島は火山でできた島でしたが、教えどおりに土地の人間も『非時の果実』と呼んでいる橘の実を見つけることができました。
(4)田道間守の帰国と自害
干した橘の実を串刺しにした束を抱えて筑紫の港に着いた田道間守を待ち受けていたことは、イクメ王が前年、崩御した知らせでした。イクメ王は田道間守が見聞した半島の新しい情報を心待ちにしていたということです。都に戻った田道間守は旅の疲れがどっと出たのか、床に臥すようになってしまいました。田道間守の世話をしたのは姪にあたる葛城タカヌキヒメ(高額比売)でした。
田道間守は一族の出身地である辰韓諸国の状況や己秪国の兵士達から「辰韓12か国の復活への協力を託されたことなど、つぶさに語ります。
病が続き、老い先が短いことを悟った田道間守は殉死する決意を固めました。あの世に行って、イクメ王に半島の話をたっぷりと報告しよう。早朝、そっと屋敷を抜け出します。イクメ王の陵墓にぬかづいて、持ち帰った橘を献じた後、イクメ王を追って自害しました。
田道間守の遺骸はイクメ王の陵墓の掘り壕の小島に埋葬されましたが、春が訪れると持ち帰った橘の実から芽が吹出しました。その子孫は連の称号を授けられ、田道間守は三宅連の祖と称えられていきます。
タカヌキヒメはヒコイマス(日子坐)の曾孫にあたる近江のオキナガスクネ(息長宿禰)に嫁ぎ、オキナガタラシヒメ(息長帯比売。神功皇后)が誕生します。オキナガタラシヒメは幼い頃から、アメノヒホコと田道間守の話を母から聞いて育ちました。「帰国されたら倭国王に辰韓12か国の復活に協力して欲しい、と伝えて下さい」という言伝は母から娘へと語り継がれていきました。4世紀後半に入って、オキナガタラシヒメが辰韓11か国の復興の悲願を実現すべく、新羅の城砦を攻め落とした遠因となります。
垂仁朝の「日本神話編纂」の舞台裏 (「謎の四世紀解読」 第一篇)
―― 了 ――
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