年表「縄文時代から大和による日本統一国家の成立まで」
――日本の文化は縄文時代から現代に至るまで、一万数千年の間、沖縄諸島から北海道・樺太南部まで、黒潮と支流の対馬暖流を通じて、一本の縦軸である背筋が分断されることなく貫いて来ています。
この縦軸こそ、中国や欧米の文化といった横からの刺激や影響を受けても、それを消化して自分のものとして吸収する能力と体質を堅持して来た源泉であり、この一貫性の高い基台が、中国文化や朝鮮半島文化とは異なる、日本文化の独自性です。
世界の中でも稀有で貴重なこうした特質を、どのように地球文化に活かしていくかを日々考えています――
★ 以下 自説を年表の形で整理してみました。
縄文時代
―氷河時代の終了で、海面が百メートル以上上昇して、日本列島が形成される、
―粘土を焼成する縄文土器の発祥は、氷河時代の黄河河口付近と推定。
―縄文人の主要な神は太陽神オオヒルメ(お日様)と大山の神(大山祇など)でした。大山が植物・動物を生み、太陽が育てます。
弥生前期 水稲文化が発祥した揚子江の下流北部にあたる江蘇省からの移住
紀元前473年 越により呉が滅亡。呉から対馬暖流に乗って、九州北部に避難して来た集団が水稲農耕、ムスビ(産霊)の神々(タカミムスビ、カミムスビなど)、銅剣銅矛文化を伝える。
紀元前334年 斉により越の滅亡。呉の滅亡後に江蘇省に居住していた越人が北部九州を通過して、日本海・瀬戸内海に避難。淡路島を中心とした地域で銅鐸文化とイザナギ・イザナミ神話が誕生。火神カグツチに焼かれたイザナミは紀伊半島の花の窟(いわや)から黒潮に消える。
―イザナギ神話は水稲・銅鐸文化と共に西日本の東部地域に拡散。ことに中国山地に銅鉱山が見つかったことから、津山盆地が銅剣・銅鐸の製造拠点として発展し、イザナミの終焉地は比婆山(備後と伯耆の二か所)に移行した。
弥生中期 秦の滅亡と前漢の成立後、黄河文化が北部九州に伝来
紀元前206年 秦の滅亡 秦が滅亡し、前202年に前漢が成立する渦中で、亡命者が朝鮮半島に流入。北部では前194年に衛氏朝鮮が成立、南部では後の辰国の母体(一部は後の弓月氏)が形成される。
―奴国・伊都国を中心とした北部九州の興隆 朝鮮半島南部の亡命者を通じて、揚子江文化とは異なる黄河文化の流入が北部九州で始まる。
―吉備の津山盆地の発展 津山盆地で富(とみ)族と剣神フツヌシが誕生し、富族は銅剣を携えて瀬戸内海を東上して、一部が物部氏となって、河内と大和盆地西北部にまたがる生駒山山麓に登美(とみ)国を建国。
紀元前109・108年 前漢の武帝が朝鮮半島を支配し四郡(楽浪、玄莬、臨屯、真番)を置く
―奴国・伊都国の全盛と飽和化 真番郡を経由して、大規模工事も可能な品質が高く強固な前漢の鉄製品(鉄剣、工具など)や最新文化が伊都国に入り出し、奴国が集積地・加工地として発展し隆盛する。半島とを結ぶ海運は志賀島の安曇氏が、国内の海運は宗像氏が担う。しかし北部九州は丘陵地が多く、大規模な水田耕作が不向きなこともあって、次第に人口が飽和化。
―奴国と周辺の住人がムスビの神々と先端の鉄器を携えて、宗像氏が仲介して日本海と瀬戸内海に東下していく。出雲にはカミムスビ(忌部系のアメノトミ・アメノフトダマ)、丹後にはワクムスビ、吉備にはコゴトムスビ(中臣系のアメノコヤネ)、讃岐・阿波にはカミムスビ(忌部系のアメノトミ・アメノフトダマ)が代表例。この影響もあってか、銅鐸が「聞く銅鐸」から、より大型で華麗な「見る銅鐸」に入れ替わって行く。
同じ頃、豊前の英彦山(ひこさん)の山麓のタカミムスビを祀る一族のアメノホヒの息子ホノニニギが仲間を引き連れて豊後に向かい、伊予のオオヤマツミ族の支援を受けて日向に入り王国を建国。
―瀬戸内海・日本海地域の大中河川の扇状地での水田開発が活発化
ムスビ系の人々がもたらした大型鉄器を活用して、日本海と瀬戸内海の沿岸部の大中河川の扇状地で水田の開墾が進む。ことに吉井川、旭川、高梁川、芦田川の四大河川を有する吉備、斐伊川と意宇川を有する出雲で水田開発が進み、富の蓄積と必要な時には兵士になりうる農民人口が増大。
―吉備の吉井川中流でスサ王国が誕生して勢力を拡大
吉備の吉井川流域で磁鉄鉱が産出する、との噂が広がり、宗像氏が率いる荒くれ者たちが押し寄せる。中流の棚原(やなはら)で磁鉄鉱を含む鉄鉱山を発見した後、さらに奥地へ進んで行くが、富族と縄文時代以来の太陽神オオヒルメを信奉する住民と軋轢が生じ、追い払われた荒くれ者たちは周佐(すさ)、棚原、周匝(すさい)の吉井川中流域に定着してスサ族が誕生。この逸話を素材にして、「高天原とスサノオ神話」が成立する。スサ王国を支える氏族として中臣氏(フツヌシ、タケミカヅチ、アメノコヤネ)が台頭。
―スサ族が伸張・分波。主力は瀬戸内海地域と伯耆に拡散していき、吉備津の足守川河口の川入を見下ろす丘に拠点(天台宗の真如院付近)を構える。
吉備北西部の分派は三次地域が安芸・吉備・出雲・石見の四国の中心であることを象徴する四隅突出墳丘墓をひっさげて、西出雲のカミムスビ王国を征服して日本海に勢力を拡大。
スサ族の拡大範囲は分銅形土製品の分布と一致する。
紀元57年 前漢が奴国に金印を授与 奴国が倭国(西日本)の盟主と認知されたものの、吉備・出雲のスサ族連合が奴国への攻撃を開始。
紀元70年代 吉備・出雲勢力の奴国制覇
―吉備・出雲連合が奴国を攻撃する渦中で、宗像氏の推薦により屈強さで知られた日向のヒコイツセ(彦五瀬)・イハレビコ(伊波禮毘古。神武天皇)兄弟が率いる集団が遠賀川の河口「岡の湊」の警護役に抜擢される。
―吉備連合が奴国・伊都国を制覇した後、勇猛さを評価されたヒコイツセ・イハレビコ集団は投馬国(中心部は可部湾を含む広島湾)、次に吉備王国の首都海域の警護を委託される。
弥生後期 吉備王国が瀬戸内海・北部九州、西出雲王国が日本海の盟主に
紀元80年代 ヒコイツセ・イハレビコ集団が大和盆地南西部に葛国を建国
―奴国・伊都国を制覇した後、水銀朱が価値の高い輸出品であることを知った吉備王国と宗像氏はヒコイツセに大和盆地の奥地にあると噂に聞く水銀鉱山の確保を要請。
―吉備王国は事前に登美国のニギハヤヒ王にヒコイツセ一行への支援を依頼する使者を送っていたが、王国乗っ取りを目論む義理息子ナガスネビコが握りつぶして、「日下の湊」に着いたヒコイツセ一行を襲撃し、ヒコイツセが深手を負う。
―兄ヒコイツセの死後、イハレビコは艱難辛苦を経て、宇陀野の水銀鉱山を確保。宇田野―磯城―御所市―風の森峠―吉野川・紀ノ川を結ぶ水銀朱街道を固めて葛国を建国し、御所市掖上に王宮を構える。
紀元107年 吉備スサ王国の全盛と帥升の後漢への遣使。
―スサ王国のシンボルは分銅形土製品から特殊壺・特殊器台へ
倭国(西日本)の盟主となったスサ王国は王や貴人の葬儀で大型の特殊壺・特殊器台を飾るようになる。大型の土器
を制作・焼成する技術は制覇した奴国から修得した可能性もあるが、弧帯紋と鋸歯文は「スサノオのヤマタノオロ
チ」を象徴。
―壮大な比翼入母屋造りの王宮が落成する吉備スサ王国は全盛期を迎え、川入の丘にあった王宮が手ざまになったこと
もあり、二棟の切妻造りを連結した豪壮な王宮(吉備津神社)を建造した。
倭国大乱 紀元165か~185か年頃
―吉備王国の楯築王の急死と西出雲王国の野心
帥升の孫にあたる楯築王の時代にスサ王国は絶頂期となったが、楯築王が跡継ぎ不在の状態で急死。西出雲王国
に嫁いだ楯築王の姉の息子がスサ王国の王位継承を主張し、スサ王国のシンボルである特殊壺・特殊器台を出雲
に持ち帰る。
これに吉備南部と讃岐勢に阿波王国が加わり反発したことから、吉備北部・西出雲王国対吉備南部・讃岐・阿波王国の南北戦争(倭国大乱)となる。
―孝昭天皇(第五代カエシネ王)の東海三国の制覇
倭国大乱で南側が形勢不利となったことから、阿波王国は資金源の確保で宇陀野の水銀朱鉱山に着目。伊勢のサ
ルタヒコ王国を後押しして、サルタヒコ族が宇陀野を攻撃。
迎え撃った葛王国は尾張氏を主体にしてサルタヒコ族を撃退。余勢をかって伊勢王国に加えて美濃と尾張の木曾
川・長良川・揖斐川流域の美濃平野まで占拠。
尾張氏は木曽川河畔に定着(真清田神社)し、周辺の開墾を開始。
―卑弥呼の即位
周匝のスサ族宗家の長女がヒミコ(卑弥呼、姫御子)として王位を継承することで南北が合意して、倭国大乱が終結。
弥生終末期 紀元185年~266年
孝安天皇(第六代クニオシビト王)
―大和盆地全域と河内を統合
東国三国を支配下に置いて、財力と兵力を増した葛国は考安天皇の兄アメノオシタラシヒコ(和邇氏)の主導で、大和盆地全域を統一。生駒山麓の盆地西北部から河内湾までを治めていた物部氏の登美王国はアマツヒコネ族が占拠し、物部氏の主力は尾張国に移住して、三河・遠江攻略の先兵となる。
孝霊天皇(第七代フトニ王)
―近江王国を支配下にした後、越前、丹波と摂津を支配
大和軍は西は山城からアマツヒコネ族、東は尾張氏が攻撃して近江の野洲王国を攻略。その後、アマツヒコネ族は
摂津を攻め、尾張氏は越前に次いで丹波に侵攻し、摂津でアマツヒコネ族と合流。
―淡路島を攻略した後、阿波王国を破る。先兵は伊勢サルタヒコ族(猿女氏)
水銀朱交易を担っていた阿波王国との対立が激化し、淡路島を支配した後、伊勢のサルタヒコ族を先兵にして、阿波王国と激戦の後に勝利(大麻比古神社)。
河内アマツヒコネ族は摂津と淡路島の海人を吸収して、水軍を強化。
―阿波王国から徴発された工人が大和川改修と前方後円墳を伝える
敗北した阿波王国から忌部氏の石工など技術者や知識人が大和盆地に徴発され、大和川の難所の改修工事を実施。より大型の舟が河内側から大和盆地への航行が可能となり、纏向の湊に唐子・鍵の商工業機能を移転した大市が東海三国から徴発された作業員を使って建造される。板石を積み重ねる石室を含む、阿波発祥の前方後円墳も導入された。
孝元天皇(第八代クニクル王)
―吉備邪馬台国への攻撃を開始 紀元230年代後半
東播磨の加古川を拠点に倭国の盟主である吉備王国への攻撃を開始。ヒミコが魏に支援を要請し(239年)、帯方郡
から援軍として張政一行が到着(247年)したこともあって、長期戦となる。
―東海地方の尾張氏と物部氏が房総半島の上総(市原と木更津)を占拠 しかし、手ごわい現地の部族の抵抗で下総・武蔵への侵攻は阻まれる。
―ヒミコの死とトヨの即位 紀元248年頃
老衰でヒミコが崩御(墓は鯉喰神社弥生墳丘墓)。ヒミコの隠し子の男性が王位を継承したが、実力不足もあって周囲の支援を受けず、讃岐に嫁いだヒミコの妹の孫トヨ(台与)が十三歳で王位を継承。
張政がウラ(温羅)とオニ(王丹)兄弟に後を託して帯方郡に戻る。
開化天皇(第九代オオビビ王)
―吉備王国の滅亡 紀元266年
西播磨での大和軍の攻撃が激化。トヨは魏に代わった西晋に援護を要請する使者を派遣したが、呉を破って中国全
土の統一を目論む西晋は倭国に無関心。
―大和軍は陸軍は尾張氏、水軍は河内アマツヒコネ族が主力。国境でのにらみ合いが続く中、水軍の奇襲攻撃で首都の吉備津が陥落。反撃したウラが戦死し、弟オニがゲリラ軍を指揮。
―水軍の河内アマツヒコネ族と傘下のアメノユツヒコ族は海路で備後、安芸、周防、長門へと進軍し、一挙に筑紫まで占拠。
―第二軍の意富氏が伊予から豊後を経由して肥後と島原半島を占拠。捕虜兵として従軍したタケカシマ等の吉備勢は
肥前の鹿島に定着。
―トヨの大和盆地入りと開化天皇の急死
讃岐の田村宮(田村神社)に避難していたトヨが人質兼開化天皇の后候補として大和入り。讃岐の百相(ももそ)から来たモモソ媛と呼ばれる。
疫病により開化天皇が急死。
古墳時代前期
崇神天皇(第十代ミマキイリヒコイニエ王) 治世270年~295年頃
―トヨの助言で王権は軌道に
二十歳前後の若さで王位を継承したものの、国内外の治安の悪化と疾病の蔓延に苦慮。トヨの助言で課税の一時的
な中断、瀬戸内海の神オオモノヌシを纏向の三輪山に召請などを実践して、王権が軌道に乗る。
―タケハニヤス(建波邇安)の反乱
開化天皇の腹違いの弟タケハニヤスは母方が河内アマツヒコネ族であることから、アマツヒコネ族を統括していた。開化天皇の存命中から天下取りを目論み、ひそかにアマツヒコネ族に命じて吉備・周防の捕虜と共に倭国の盟主の象徴である特殊壺・器台を河内湾の拠点に運び込んでいた。
崇神天皇の即位後、天下取りを試みるが失敗し、アマツヒコネ族も失墜。物部氏の主流が生駒山の本拠地に復活。
―四道将軍の派遣
西道 吉備津彦兄が久留米の筑後川王国を制覇。
丹後王国 崇神天皇の弟ヒコイマス(日子坐)が遠津氏が治める丹後王国を破る。
北陸道 崇神天皇の義父オオビコ(大毘古)が越三国を経由して岩城の会津に到達。
東山道 オオビコの息子タケヌナカハワケ(建沼河別)が東山道から会津街道を進んで父と合流。但し下
総・武蔵の広大な関東平野は手づかずのまま。
―箸墓の建造 紀元280年頃
崇神天皇と親密な関係となったトヨ(百相媛)と吉備の中臣氏の復権を危惧したオオビコ親子(阿部氏)と尾張氏によるいじめに困惑したトヨが自害。吉備王国の最後の女王の死を悼んだ崇神天皇が纏向に箸墓を築造。
―関東平野への進出
「吉備王国は海からの急襲で滅びた」とのトヨの呟きを思い出した崇神天皇は意富氏とタケカシマに下総と常陸を分ける水道から関東平野への攻撃を命令。大和軍は水道を挟む鹿島と香取に拠点を置き、常陸・下野・上野を占拠。しかし武蔵・下総への侵攻は阻まれる。
オオビコ親子に東国の支配権を牛耳られてしまうことを警戒した崇神天皇は、タケヌナカハワケを筑紫に、反乱の恐れがあるアマツヒコネ族のツクシトネ(筑紫刀禰)一族を常陸に移動させ、東国の統括者としてトヨキイリヒコ王子を下野に遣る。
―西出雲王国の制覇で東西日本の統一を達成 紀元290年頃
最後まで独立を堅持していた西出雲王国も、南と東から吉備津彦兄弟、西の筑紫からタケヌナカハワケが攻撃し
て陥落。
大和による東西倭国の統一(西は日向・肥後南部まで、東は阿武隈川流域・阿賀野川流域まで)が完結。
―西出雲王国の兵士による武蔵・下総の制覇
敗退した西出雲の兵士たちの一部は首都の警護役として大和盆地に送られた(オオクニヌシの息子アジスキタカ
ヒコネを祀る高鴨神社)が、大半は武蔵と周辺地域の制覇に向けて東国に送られる。
武蔵を征した出雲人はスサノオ(氷川神社)、鶴見川地域を征した者はアメノトミ(杉山神社)、陸奥南部を征
した者はアジスキタカヒコネ(都々古別神社)を祀った。
垂仁天皇(第十一代イクメイリヒコイサチ王) 治世295年~325年頃
―サホビコ(沙本毘古)の反乱 紀元300年頃
ヒコイマスの息子で垂仁天皇の后の兄サホビコの天下取りの野望を挫く。
―ヤマトヒメ(倭比賣)の伊勢の地選択と日本神話の編纂 紀元320年頃
父の垂仁天皇の意を受けて、ヤマトヒメが東西倭国の統一を記念する地の模索に旅立つ。東山道と東海道の入り口
を探った後、伊勢に入り大和から海路で東国に向かう地を選択。
伊勢神宮(祭神は大和の祖神アマテラス)に加え、東国支配の入り口となった水道を挟んだ鹿島神宮(祭神は
中臣氏のタケミカヅチ)と香取神宮(祭神は中臣氏と物部氏のフツヌシ)を三大神宮とする。
崇神天皇時代に開始された統一日本の誕生神話は吉備・出雲神話に「出雲の国譲り」を接着剤として日向神話に
繋げる形で完成した。