箸墓物語

 

[その三] トヨの大和入り 

   

一.百相ももそ、もまい、もあいの船岡宮   

 

二六六年四月

 八重桜のつぼみがふくらみだした頃、トヨは田村宮から二キロメートルほど先の船岡宮に移り住んでいた。船岡宮はふっくら盛り上がった船岡山(標高八六メートル)と阿波から下る塩江(しおのえ)街道に挟まれていた。船岡山に登ると、真正面に石清尾山、高松の平野と瀬戸内海、平べったい台地の屋島が一望できる。子供の頃に親しんだ故郷の風景だった。街道を少し下ると百相(ももそ)の宿場町があり、数十軒の民家が軒を並べている。

 

 百相の住民たちが毎日、差し入れをしてくるので魚も鳥獣も野菜も不足はなかった。日照りに悩む讃岐平野の農民にとってトヨは恩人だった。二四八年に十三歳で女王に就任したトヨの十八年間の治世での最大の功績は、帯方郡の技術を使って各地に貯水池を造っていったことだった。ことに降雨が少なく日照りの被害が多い、生まれ故郷の讃岐に力を注いだこともあり畑作が発展した。とりわけ大和狗奴国の侵入後に阿波から讃岐に逃げてきた農民は貯水池のお陰で荒地の開拓に成功し、女王トヨを畏敬していた。

 

 田村宮では中将ヤシマヒコと弟モモソヒコを中心に、御前会議、作戦会議が何度となく開かれ、トヨも時々加わった。

鬼城山の山麓に陣取るウラ将軍と、備中の井原を拠点にする中将イハラヲとは高梁川の酒津港と讃岐の坂出港を通じて田村宮と交信がつながっていた。将軍オオアサヒが率いる主力軍が壊滅した後、王宮奪還の使命はウラ将軍と中将イハラヲの双肩にかかっていた。津山のタケカガミ将軍は伯耆に逃れた噂も流れていたが、まだ連絡はとれずにいた。

 

二六六年五月

 やがて王宮陥落と首相ミヤベの暗殺が伝えられ、事態は切羽詰ってきた。周匝の大虐殺の噂も広がった。周匝の宗家は全滅したらしい。トヨが後継者と目をかけていた従弟のスサタケヒコも非業の死をとげてしまったのだろうか。狗奴国は想像以上に残酷な集団のようだ。スサタケヒコの恨みをはらさねばならない。

 

 王宮奪還策は、ウラ軍が吉備津の西部を死守している間に、安芸投馬国、出雲、伊予や豊前の諸国に救援を求め、中将イハラヲを中心に狗奴国撃退軍を結成することだった。晋に向かった遣使を追うように、帯方郡に支援を求める急使の派遣も決まった。しかし中将イハラヲから朗報が届かない。中将ヤシマヒコも数回、安芸と伊予に加勢を求める使者を送ったが、どういうわけか、両国とも反応が鈍かった。

 

 どうして、こうした事態におちいってしまったのだろうか。トヨはいまだに実感がわかなかった。わずか四日で明から暗に急転した悪夢。晋への遣使派遣に没頭していたスキを見事につかれてしまった。いつもヒミコと対比されてきた私が、初めて女王の座を披露する晴れ舞台となるはずが、最悪の事態に暗転してしまった。占いはあてにはならない

 

楯築王とヒミコの墓に椿の花を添えたことも悔んだ。あの時は気がせいていて、そこまで考えがおよばなかったが、椿の花は花ごと頭がぼとっと落ちる縁起が悪い花であることをになって気づいた。私はまだ未熟者だったのだ。ヒミコさまと肩を並べようと思い上がった私を神さまが諫めたのかもしれない。それにしても狗奴国の海からの急襲を誰もまったく予測していなかった。水軍力では吉備讃岐の方が狗奴国よりまさっているはずだ。なぜ赤穂と片岡の水軍が狗奴国の船団を防御できなかったのか。一日でも防御してくれていたなら、状況は違っていたはずだ。

 

ツツジの花が咲き、藤のつぼみが膨らみだした。形勢が不利になってきているという塩飽諸島の漁民の噂が、百相の住民にも拡がっていった。

「姫君は備後に退避された方がよいのでは。いっそのこと、山越えして土佐にお隠れになったら」と差し入れをしながら従者に告げる。中将ヤシマヒコと弟たちも、仮りの都を備中との境にある神辺(かんなべ)に置き、トヨを送り出すことをひそかに検討していた。

 

トヨも神辺への遷都計画が進んでいることはそれとなく気配で察していた。しかし讃岐から備後に移動する気持はなかった。讃岐も狗奴国に占領されてしまうなら、自害するしかないと覚悟を固めていた。ウラとイハラヲ中将が何とか踏ん張って吉備津を守り、来春には帯方郡の援軍を引き連れて遣使が戻ってくるだろう。その前に帯方軍が援軍を派遣してくる可能性もある。冬を越えるまでの辛抱だ、と自分に言い聞かせる。

 

トヨは暗くなってから鉄製の小刀を手にした。いざとなったら、これで自害するしかない。鞘から小刀を抜いて、ギラギラと光る鋭利な刃を親指で触れてみる。自害する時はどんな気持ちなのだろう。小刀を懐中にしまいこみ、外に目を向けると、白い卯の花にタケカシマとスミレの二人が談笑する姿が浮かんでいた。二人はけやきの大木に寄り添っていた。 

「二人は何を話しているのだろう。仲がよさそうだ」

こんな一大事の最中に若い二人の恋。私にはそんな思い出がない。恋を知らずに三を過ぎてしまった。ヒミコさまには内縁の夫がいたが、私は恋心がときめくような男性に出会ったことない。このままで終わってしまうのだろうか。

 

 

二.温羅の反撃 

 

二六六年六月

 狗奴国軍とウラ軍は足守川と支流の前川、血吸川が合流する高塚を境界線としてにらみ合いが続いた。ウラと中将イハラヲは讃岐の田村宮と交信しながら、出雲、安芸投馬国、伊予の国々からの支援到来を待ちわびていたが、瀬戸内海に面する安芸国と伊予国の反応はじれるほど鈍かった。すでに船で襲い掛かって来た狗奴国の水軍、アマツヒコネ軍との熾烈な攻防戦が進行していることを知るすべもなかった。

 出雲国からは好反応が戻ってきたが、距離的に遠く中国山地の山越えも必要で、援軍の到来には時間がかかりそうだった。伯耆の溝口で反撃の態勢を整える中将タケカガミとようやく連絡がついたが、狗奴国軍は吉備と伯耆の国境の四十曲峠まで侵攻してきており、支援は期待できそうでなかった。

 

梅雨の季節に入って狗奴国軍が先手を打った。命運をかける死闘が始まった。先陣の丹波尾張勢に尾張軍の物部勢も備中高松の陣地を出る。左手の庚申山を過ぎて、足守川を渡り高塚の街に入った。住民は何事もないかのように、平静さを装って丹波尾張勢の進軍を見やっていた。前川、血吸川に沿って西阿曽まで拍子抜けするほど快調に進む。恐れをなしたのか、敵の姿が見えない。敵が本拠地を置く鬼城山に向けて、丹波尾張勢が山間の道を登りだした時だ。突如、異国のドラの音が響き、血吸川の葦原に隠れて待ち伏せしていたウラ軍とイハラヲ軍が左右から一斉に矢を放った。狗奴国の兵士が次々と矢に射られ、血吸川に落ちていく。しとしとと降る雨の中、おびただしい血が血吸川に流れ、真っ赤に染まった。

 

ウラ勢は丹波尾張勢を蹴散らしながら王宮に向けて突き進んだ。矢喰の磐座(いわくら)をはさんで、丹波尾張勢の後衛を担う物部勢と激突し、激しい矢の応酬となった。勢いに乗ったウラ軍がここでも優勢となった。潰走する狗奴国軍を追撃して吉備軍は高塚へと進撃する。狗奴国軍は逃げながら高塚の家々に火をはなった。黒煙が高塚の街をおおいつくしていく。

「王宮まで一気に攻めろ。魏王の金印を取り戻せ。王国の財宝を奪還するのだ」

ウラの号令に兵士たちは怒涛の勢いで突進し、備中高松の陣地に迫った。吉備津の王宮までわずかな距離だ。狗奴国軍も必死に応酬する。王宮から支援に駆けつけた尾張勢が加わると、形勢が逆転した。

 

長時間にわたる矢合戦で戦局は狗奴国軍に傾いていった。温羅も矢に射られた。血に染まりながら足守川を渡り、矢部のヒミコの墳墓に這うようにたどり着いた

「ヒミコさま、無念であります」

ウラは追ってきた大和狗奴軍の兵士たちに取り押さえられ、首をはねられた。伝説によれば、ウラは雉に化けたが大和軍の総帥オオキビツヒコは鷹になって追い駆けた。ウラは鯉に化けて血吸川に逃れたが、オオキビツヒコは鵜となって鯉を噛みあげた、という。

 

 ウラ勢は壊滅した。五歳になったウラの息子も父と共に討ち死にした。中将イハラヲも無念の最後をとげた。足守川一帯は血に染まり、無数の死体が浮かぶ。

 

形勢を逆転した狗奴国勢は、鬼城山の砦まで一挙に攻め落とした。鬼城山に狗奴国の軍旗がはためいた。敗軍となったウラ勢とイハラヲ勢の兵士たちは、賀陽郡、山陽道に落ち延びていった。負傷した兵士たちは鬼ヶ嶽温泉で傷を癒した。ウラの弟オニが残軍の首領となり、抵抗軍が再編された。 

住民に見せつけるかのように、温羅の生首が首部(こうべ)にある尾張軍の基地の木柵にぶら下げられた。ウラの妻アソヒメは土民に扮装して首部に行き、夫の生首に号泣した。

 

吉備邪馬台国の首都は完全に制圧された。二六六年の初夏、狗奴国軍の総帥イサセリビコが意気揚々と吉備津の王宮に入った。吉備中山に上がり、足守川と吉備津を見下ろした。

「ここが吉備邪馬台国の首都だったのか」

 兄の第八代クニクル王が吉備王国征服の号令をしてから二年の歳月が流れていた。少年だったイサセリビコは叔父のオオキビノモロススの没後、若くして吉備征服軍の将軍についた。長い年月がかかったが、とうとう父フトニ王と兄クニクル王の夢を実現させることができた。

 

 

三.船岡宮包囲  

 

二六六年七月~八月

 ウラ将軍と中将イハラヲ討ち死にの急報が讃岐の田村宮と船岡宮に届いた。いよいよ、讃岐での決戦だ。残った道は讃岐からの巻き返ししかない。田村宮は悲壮感に包まれた。讃岐の警護が強化され、吉備津奪還作戦が練られていく。敵の兵士は予想以上の数らしい。手だてはゲリラ戦しかないかもしれない。弟のモモセヒコは坂出に常駐するようになる。農民たちも兵士に駆り出され、坂出港と高松港、東讃岐の大坂峠の砦も増強された。

 

頼りにする伊予と安芸から返答が来ない。

「いったい、伊予と安芸はどうしたのだろう」 

晋と帯方郡からの朗報が早く来ないものか。あと数か月持ちこたえたら、何とかなる。悲観と楽観が交錯する。もはや神頼みをするしかない心地だった。トヨは毎日、オオモノヌシに祈った。

 

 大和軍は捕えた漁民から、ようやく女王トヨは生まれ故郷の百相(ももそ)の船岡宮に避難している情報をつかんだ。密偵を放ってトヨの船岡宮滞在を確認した。尾張軍の主導で讃岐攻略の準備整えられていく。阿波に戻った阿波伊勢勢のイタハマたちは讃岐攻略の秘策を練っていく。

 吉備の児島と小豆島に尾張軍が集結した後、狗奴国の攻撃は小豆島と高松の間にある男木島から始まった。男木島は占領され、高松寄りの姉妹島である女木島が讃岐を守る最前線となった。しかし狗奴国はすぐには攻撃を仕掛けなかった。尾張軍の動きは陽動作戦にすぎなかった。梅雨明けの七月は狗奴国勢の攻撃がなく、平静に過ぎた。

 

大和の攻撃は、意表をついて讃岐の背後の讃岐山脈から始まった。阿波からの進攻は東讃岐と阿波と国境にあたる大坂と予想されていたが、阿波伊勢軍は吉野川中流の曽江から支流の曽江谷川をさかのぼり、夜半の奇襲攻撃で清水峠の讃岐の砦を破り、夜を徹して塩江街道を下り一挙に百相に進軍した。

船岡宮の警護兵が敵の襲来に気づいた時はすでに船岡宮は包囲され、田村宮への連絡が不可能になっていた。電撃作戦は見事に成功した。

「敵に包囲されてしまった」

 

侍従たちの大声で目覚めたトヨは、狐につままれた思いだった。

「まさか、まさか。そんなことはないだろう」

日が明けると確かに狗奴国軍に遠巻きにされていた。唖然としたまま、自害することも忘れていた。もはや宮から脱出することは不可能だった。もはやこれまでだ。邪馬台国は私でお仕舞いになってしまうのか。ご先祖さまにどうお詫びをしたらよいのだろう。

 

 伊勢阿波軍が船岡宮包囲の狼煙を上げると、女木島沖で待機していた尾張オオマツが率いる尾張勢が高松港に突入し、吉備讃岐船団と衝突した。船の数で圧倒する尾張勢が次第に有利になっていく。港で待ち構える吉備讃岐勢を背後から伊勢阿波軍が襲った。板ばさみとなった吉備軍は壊滅した。中将ヤシマヒコは討ち死にした。坂出港も大和軍に占領され、トヨの弟も憤死した。

 

 

四.大和入り説得

 

 船岡宮に残ったのは吉備津から一緒に避難してきた従者五人と兵士五人だった。田村宮には二人の警護兵がいたが、阿讃山脈の背後からの急襲は想定になく、船岡宮の警護は手薄だった。

 

船岡宮を包囲したのは阿波伊勢軍の中核をなす伊勢サルタヒコ族のようだった。首領のスズカが船岡宮に入り、侍従のハタツミが応対した。伊勢なまりが強くて何を話しているのかハタツミたちにはよく理解できない。少なくとも虐殺されることはないようだ。 

しばらくして阿波伊勢族の首領イタハマが王宮を訪れた。イタハマはまず船岡宮に残った兵士たちに危害は加えないことを確約し、ハタツミにトヨとの謁見を求めた。「トヨさまはここにはおられない」とハタツミはシラを切ったものの、大和側は確証をつかんでいた。押し問答が数日続いた後、イタハマはようやくトヨの部屋に招き入られた。

 

トヨさま、私どもは大和に征服された阿波王国の忌部一族です。阿波王国は大和に滅ぼされましたが、阿波の忌部族は滅びることなく、大和、伊勢、東国へと拡がりました。トヨさまにとっては悔しいことでしょうが、時代の流れは吉備から大和へと移ったことは間違いありません。大和の王はトヨさまを是非とも大和にお招きしたいと申しております」

「私は吉備讃岐の女王です。この地で骨を埋めます。大和に行くつもりはありません」

 包囲された時、すぐに自害すべきだった、とトヨは悔んだ。もの騒ぎもなく、気づいた時は大和軍に遠巻きにされていた。自害するタイミングを失ってしまったのが、返す返す口惜しかった。

 

 数日して、イタハマの案内でワカタケヒコ将軍と尾張オオマツが船岡宮を訪れた。物腰は柔らかだった。

「西播磨、備前、美作の兵士や住人は無事でしょうか?」

「何の危害も加えておりません」

「しかし周匝の街は大虐殺で全滅したと聞いております」

「確かに周匝は初戦であったため、興奮して我を失った兵士たちが統率を乱したと聞いております。しかし周匝は例外中の例外です。大和の軍勢は規律がとれております。周匝を除けば吉備の住人には危害を加えておりません」

 

 その言葉を信じてよいものかどうか。トヨは半信半疑で聞いた。ワカタケヒコは重ね重ね、トヨに大和入りを要請した。

「なぜ私が大和に行かねばならないのですか」

「倭国の盟主が吉備から大和に移ったことを示すために、是非、大和にお越しを願いたい、というのがオオビビ王のご意向です」

「要するに人質として大和に連れていく、ということでしょ。大和入りして、しばらくしたら私は殺されるだけでしょ?」

「いえ、トヨさまを粗末に扱うことは決してありません。倭国の首都の移転が首尾よく完了すれば、トヨさまは吉備にお戻りになることもできます」

トヨは返事をためらった。ワカタケヒコの言葉を信じてよいものか否か。ワカタケヒコはオオビビ王の二代前のフトニ王の皇子でオオビビ王の叔父にあたるという。嘘をついているわけでも、騙そうとしているわけでもなさそうだ。

 

ホトトギスとクマゼミが鳴き騒ぐ中、庭の橘の白い花を見つめながら、トヨは行く末を案じた。夜半にホトトギスのけたたましい鳴き声で目を覚ます度に苛立ちがつのっていく。吉備の兵士は、妻子たちは、住民たちは一体、どうなるのだろう。虐殺されていくのだろうか。自害するのは簡単だが、あとに残された吉備と讃岐の住人はどうなるのだろうか。私が人質として大和に入れば、虐殺はまぬがれるかもしれない。ワカタケヒコたちの言葉を信じて、大和入りを承諾してしまったとしても、その後はどうなってしまうのだろう。

 

ワカタケヒコが兄のイサセリビコを伴って船岡宮に入り、トヨに紹介した。イサセリビコが大和軍の総帥らしい。イサセリビコは播磨在住が長く、吉備の言葉が通じた。自分とほぼ同じ代前半のようだが、総帥らしい落ち着きと信頼感を感じた。

「是非とも大和にお越しください。私が後見役としてトヨさまを必ずお守りいたします。私をご信じください

 

晋への遣使はすでに帯方郡に着き、今頃は晋の都の洛陽に向かっているのだろう。しかし帯方郡からの援軍はまだ到着していない。もう手遅れだ。 

イサセリビコの瞳を見つめながら、次第に兵士達の命を保証してくれるなら、私が人質となって大和に行っても構わないという気持に傾いていった。この人物は信用しても間違いないようだ。

「私が人質として大和に行けば、吉備や讃岐の兵士や住民の虐殺はしないという約束をかたく誓ってくれますか」

「お約束します。私はオオビビ王の叔父にあたります。オオビビ王にも確約させます」

「ほんとうに、ほんとうにですよ」

  思わず、トヨはイサセリビコの両手を握りしめていた。分厚いイサセリビコの手から熱のようなものが伝わってきた。

 

ヒグラシが鳴き、なでしこの花が咲く頃、トヨはついに大和入りに同意した。トヨは大和の兵士に警護されながら船岡山に上った。屋島と三角錐の山々、石清尾山も見納めだ。

 

 

五.トヨの大和入り

 

二六六年十月末

トヨの大和行きでもめたのは従者の数だった。ハタツミは最低でも三人を言い張ったが、大和側は数名しか認めない。結局、吉備津の王宮から随行したハタツミ,トリヲ、タケカシマ、アヤメ、スミレの五人に決まった。アヤメとハタツミは四代半ば、トリヲは二代後半、タケマシマは六歳、スミレは五歳だった。わずか五人の従者では心もとなかったが仕方ない。 

「くれぐれもオオモノヌシをお守りし続けてください」

 トヨは船岡宮に残る兵士たちに、塩飽の本島を発った時と同じ言葉を何度も繰り返した。

 

高松の港からの船立ちは、まだ沖合の島々に吉備の残兵がゲリラとなって残っていて危険だったため、内陸部の街道が選ばれた。イサセリビコが帯同して田村宮から三木、石田を経て東讃岐の水主(みずし)の御殿に向かった。隠密な密行だったものの護衛も含めて総勢百人ほどの行進となった。 

吉備の王宮から着の身着のままで讃岐に逃げてきたトヨだが、讃岐に滞在するうちに田村宮の収蔵品、衣服や飾り物の差し入れもあり、女王としての貫禄を保つことができた。トヨは可能な限り大和に携行するように侍女たちに命じた。田村宮に残っていた幼い頃の着物も荷に詰め、かなりの分量となっていた。

 

トヨは大和軍に囲まれて徒歩で水主宮まで進んだ。沿道では大和の兵士の視線から隠れるようにしながら讃岐の住民がトヨに別れを告げる。トヨは歩くのに疲れた。足にマメもできた。物陰から垣間見る住民の視線を感じるたびに、女王の身をさらしている自分が情けなかった。 

女王トヨが下僕のように徒歩で歩かされている。その噂は瞬く間に、東讃岐の住民に伝わった。

「トヨさまを奴隷扱いしている」

「トヨさまを狗奴国に行かせてはならない」

トヨは東讃岐の住人にとっては神さまだった。大内池の建造で旱魃から救ってくれた恩人だった。大内と三本松の住民が反乱を起こし、水主手前で幾度か足止めになった。一行は水主宮に着いたものの、しばらく滞在せざるをえなくなった。

 

 イサセリビコ王は、窮余の策で籠を急ごしらえした。トヨを籠に乗せ、自ら籠の側に寄り添い、引田に向かった。住民は地べたに頭をついてトヨを見送る。

 台風の前で陽射しがきつく蒸し暑かった。小休止となった三本松を出る際に、松の小枝にかけた衣を忘れてしまった。一行が去った後、衣を見つけた住民はトヨの忘れ形見として大切に保存した。

 

引田の安戸港で台風が過ぎるのをしばらく待った後、船団は淡路島の湊へ船出した。丘の上から引田や三本松の住人が総出でトヨ一行を見送った。

安戸のから東はトヨにとって未知の世界だった。淡路島へ行くのも初めてだった。淡路島に向かう船中から大麻山がよく見えた。後ろを振り返ると遠くに屋島が見える。どうとでもなれ。運命の流れにまかせるしかない。シギチドリの群れが同じ方向に飛んでいく。

 

淡路島の湊で一泊となった。船着場には大和の兵士がウロウロしていた。物珍しげに邪馬台国の女王を取り巻いた。さらし者になった敗者の惨めさを味わう。翌日、トヨのたっての希望で多賀浜で停泊し、トヨはイザナギを祀る岩陵に詣でた。陽射しはよい。潟ではシギチドリの群れが砂地をついばんでいた。昨日のシギチドリだろうか。正面に小豆島、右手に西播磨、左手に讃岐。これが見納めとなるだろう。 

 明石海峡を過ぎて、大阪湾に入った。浪速潟でもシギチドリの群れを見る。シギチドリが讃岐から追い駆けてきた讃岐の人たちに思えた。これから山国に入る。あなたたちともお別れだ。浪速から河内湾に入り、浪速の港で一泊した。大和は山の中にあると聞いている。トヨは津山盆地の中心にある津山の町を連想した。

 

翌朝、一行は三艘の舟に分乗した。すでにトヨたちの荷物は舟に運び込まれていた。一艘にサセリビコ、トヨと侍女二人、二艘目に大和の兵士とトヨの荷物、三艘目に従者三人と大和の兵士が乗船した。ハタツミたちはトヨと同じ舟に乗ることを言い立てたが兵士達に遮られてしまった。

 

浪速の港を出た後、どうしたわけか三人の従者を乗せた三艘目の船が次第に遠ざかっていく。三人が大和の船乗りや兵士と押し問答をしているようにも見えた。 

「ハタツミたちの船はどうしたのだろう」

「潮の流れで遅れているだけです。じきに追いついてきますよ」

 

そのうちハタツミたちの船が見えなくなった。トヨがいぶかしんでいるうちに、船は数十人が出迎えている八尾の湊に着いた。「この御方はオオビビ王の弟でおられるタケハニヤスビコ(武埴安彦)さまでございます」とサセリビコが、一目で一群の統領と見受けられる貴人を紹介した。

川用の舟に乗り換えてトヨ一行は大和川に入ったが、柏原を過ぎると流れがきつくなった。台風で大雨が降ったせいなのか、濁流に肝をつぶす。青谷から亀瀬岩の峡谷の急流、難所で何度も大岩にぶつかりそうになった。ようやく日が暮れる頃、流れが緩やかになった王子に着き、一泊する。トヨたちは従者三人の到着を夜通し待ちわびた。

 

 翌朝になっても従者たちは到着しなかった。

「王子の手前の難所で暗礁に乗り上げて、河口まで引き返したようですよ」とイサセリビコは説明するが、トヨは半信半疑で聞いていた。

翌朝、トヨたちはせかさられるように舟に乗り、平端(ひらはた)の船着場を過ぎて、佐保川を上り、途中から徒歩で奈良の春日に入った。狗奴国の首都は海から遠く離れた盆地にあると聞いてはいたが、本当に山奥にあることに驚いた。見回すと周囲は四方とも山々の青垣で囲まれていた。これでは逃げるの容易ではない。

 これから一体、どういう生活が待ち受けているのだろうか。吉備国再興をめざすなら、どうすべきなのだろう。

 

到着した地は春日山の麓だった。緩やかな坂の途中にあり大和盆地が一望できる。盆地の先に生駒山と信貴山の連山が見える。

「那岐山が見える津山盆地に似ています。でも吉井川のような大河がありませんね」とスミレが口にすると、「津山よりもっともっと田舎ですよ」とアヤメがつぶやいた。

確かにこれが都かと疑うように、吉備津の町並みに較べると村のような都だった。なぜこんな貧相な国に吉備が敗れてしまったのか、不思議でならなかった。

 

木の柵で囲まれた円形の敷地だった。これで御殿か、とトヨたちが驚いたほど、上げ床式の高殿ではなく、竪穴式の茅葺き住居だった。入り口に番人の家らしきものがあり、奥に大小三軒の住居があった。 

「これでは私たちは土民ですね」

自嘲気味にトヨがため息をついた。涙も出なかった。

 

 夕刻、春日の山から鹿のうら寂しい鳴き声がこだましてくる

「春日には何もないけど、紅葉だけは吉備津よりもきれいですね」

高原育ちのスミレはつとめて明るく振舞おうとしていた。

 

トヨは竪穴式の住居で侍女二人と肩をすり合わせて最初の夜を過ごした。イサセリビコを猜疑する気持が強まった。イサセリビコにうまくはめられたのではないか。トヨは眠れぬまま、悪夢を見続けた。王宮の召使いとなり皆から辱しめを受ける。このまま、ほったらかしにされて野垂れ死にする。西播磨、美作、備前の住人が虐殺されていく。吉備、讃岐との連絡をどうするか。この山国から脱出する方策はないか。いっそのこと自害するのが賢明かもしれない。しかし残されたアヤメとスミレはどうなるだろう。あれこれと思いが浮かんでは消えていく。

 

 

六.オオビビ王の接見

 

二六六年一一月下旬

 翌日、イサセリビコ一行がトヨを訪問してきた。無理にお愛想笑いを浮かべているのが分かる。

「ヒメ、山国はいかがですか。必要なものがありますなら、何なりとお申し出下さい」

 

うわついたお世辞が癪にさわる。

「土民になりに大和に来たようですね」と皮肉の言葉を返した。

「住めば都とも申しますから」

「ハタツミたち三人の行方は分かりましたか」

「河内湾で潮に流されて、迷ってしまったようです。浪速の港に戻って一泊したとのことです」

「昨夕は大和川の暗礁に乗り上げて河口に引き返したとおっしゃいましたね。もちろん、間違いなくここにやって来るのでしょうね」

「時間はかかりそうですが、お約束します」

 

 本当だろうか。イサセリビコへの不信感がますますつのっていく。

「オオビビ王が是非ともトヨさまにお目にかかりたいと申しております。これから王宮にご案内いたします。ちなみにトヨさまは、こちらでは讃岐の百相から招かれたモモソ姫と呼ばれております」 

 トヨにウンともハイとも言わせぬまま、半ば強制的に王宮に案内された。ふくよかだったトヨも、讃岐からの船旅と気疲れで、さすがに少し面やつれしていた。

 

 王宮は坂を下った猿沢の池の近くにあった。

 しばらく待たされた後、オオビビ王の接見となった。

 

オオビビ王はニコニコした顔で現れた。得意満面の様子が見てとれる。色黒、細長の顔つきで、脊は一七0センチメートルくらいの大柄だった。年齢は四代に入ったころだろうか。元気な盛りのようだが、トヨにとっては邪馬台国を破った敵将、山国の無骨な武将にしか見えなかった

 

オオビビ王は即位直後の頃を思い出した。父の遺志を継いでヒミコの邪馬台国に挑んだものの、撤退せざるをえなかった。しばらくして、ヒミコの死、争乱を経て十三歳の少女が女王に即位したことを知った。後から考えると、その時に無理をしてでも吉備に攻め込むべきだった、と後悔することもあった。 

「その少女がこの女性か。あれかれ二年近くたってしまったわけだ」

さすがに邪馬台国の女王は美しい。小柄だが品が良い。一遍でトヨを気にいった。

 

モモソ姫は齢はいくつになるかね」

「なぜ、私のを聞かれるのですか」

トヨは三十二歳になっていた。

 

「中国では、王国は魏から晋という国に代わったと聞いているが、我が国も新しい国の晋に遣使を送るべきか、どうしたらよいのだろう」

どうしてオオビビ王が中国の政変を知っているのだろう。トヨはいぶかった。イサセリビコも知っているようだ。どこから情報が漏れているのだろうか。吉備の中枢部に裏切った者がいるのだろうか。

 

「半世紀に渡って統治されたヒミコさまはどんなお方だったかね」

「さあ、私は一度だけ、遠くから拝見しただけですので、よく分かりません」

 オオビビ王はお付きに白濁の酒を命じる。

「ヒメも私と一緒に飲みましょう」

「いえ、私はあまり飲みません」

「ところで式はいつあげることにするか」

 

唖然としながらトヨはイサセリビコをにらみつけた。オオビビ王は自分が吉備から輿入れしてきたと思い込んでいるようだ。私に年齢を尋ねたのは、その意味を含んでのことなのかもしれない」

イサセリビコはバツが悪そうに、その場を何とか誤魔化そうとしているのが分かる。しぐさを見るとその話はまだ早いとオオビビ王に示しているようでもある。

 

オオビビ王がトヨさまを后にする意向を持っていたとは初耳だ。なぜ、事前に私に知らせなかったのだろう。どこかでボタンの掛け違いがあったのだろう。后にされるならされるで、もう少し時間を置いて周到に準備すべきだ。オオビビ王はあまりにせっかちすぎる。

 肝心なことは大和への禅譲を近隣国に周知させることにある。それが先決のはずだ。トヨがオオビビ王の后になる、ならないは、私の知ったことではない。しばらく様子を見るしかない。イサセリビコの思惑もあって、オオビビ王とトヨの次の対面は引き延ばされた。

 

オオビビ王は絶頂だった。タケコロが率いる水軍の迅速な攻撃で、安芸勢と伊予勢は身動きができなくなっている。危惧していた帯方郡や伽耶国からの吉備への援軍もない気配だった。オオビビ王は将軍たちを一同に集め、宗像族を道先案内人として水軍をさらに西下させ、一挙に北九州の伊都国まで攻め入ることを命じた。イサセリビコは西下将軍として吉備に戻っていった。

 

 

七.冬の春日

 

春日での侍女二人との幽閉生活が始まった。従者三人はいつになっても到着しない。イサセリビコもオオビビ王との謁見以来、顔を出さない。門番のナガヒコに問い詰めると「イサセリビコ将軍は吉備に戻られました」と答えるだけで、口を濁してしまう。

イサセリビコは後見人として私たちを守ると約束したが、偽りだったのか。三人きりで冬を迎えるのか」

さすがに心細くなった。紅葉が散っていく。柿の実も数えるだけになり、枯れススキだけが目立っていく。終局に向かう自分を見ているようだった。

 

春日はオオビビ王の後見役ワニ(和珥)氏の地盤で、トヨたちの住居もかつてはワニ氏の一族が住んでいたという。警護の兵士もワニ氏の配下のようで、常時、三人が警護していた。トヨが住む家、召使いの家が二軒、入り口に門番一家の住居があった。中央に小さな池があり、菖蒲の枯葉が寂しげに漂っていた。門番のナガヒコはイサセリビコの直属の部下と名乗った。播磨に従軍していたとも言う。妻アザミ、息子コイワと娘カエデの四人一家だった。

 

春日山の南東の山麓で、大和盆地を見晴らすと正面に生駒山・信貴山、左手遠方に二上山・葛城山・金剛山の山々が連なっている。見晴らしだけはよかった。しかし吉備中山から見る瀬戸内海の島々の風景がなつかしい。 

激動の二六六年の最後は身に染み入る山国の寒さとなった。底冷えの寒さがこたえた。熊の冬ごもりと同じ気持がした。舞い落ちる泡雪に白い花を毅然と咲かせている山茶花を見るのが唯一のなぐさみだった。朝晩の料理はアヤメとスミレが作り、火を囲んで三人で食べるようになった。粗末な食事だった。トヨはあまり食欲がなく、二人を心配させた。

従者三人はどこに行ったのだろう。なぜ狗奴国にいともあっさりと負けてしまったのだろう。吉備津に較べて、狗奴国の都は貧弱だ。船団を使っての奇襲攻撃はよほど穴海の地勢に詳しい者でないと分からない。何度も何度も反問を繰り返した。

 

年が明けると兵士の監視は次第にゆるやかとなった。三人に逃亡の意思がないことを承知したのだろう。トヨは町に出ることはできなかったが、アヤメとスミレは門番の妻アザミと護衛が同伴すれば、佐保川河畔の市場に買い物に出かけることが許されるようになった。  

イサセリビコが話していたように、佐保の市場でもトヨは讃岐の百相からやって来たモモソヒメと呼ばれていることをスミレを通じて知った。スミレはトヨがオオビビ王の后になる噂も聞いてきた。巷では邪馬台国の女王がオオビビ王のお后になるために大和入りされた、というが広まっているという。 

「私がこんな貧相な山国の王さまの后になるのですか。とんでもない噂ですね」

トヨは苦笑する。

 

 宗像族が寝返っていたこともスミレが市場から聞き込んできた。

「大和が吉備を征服できたのは、俺たちのお陰さ」と市場に出店を出している宗像族が自慢話を吹聴しているという。

やはり、塩飽諸島のシワクヒコの話は本当だったのだ。宴の時の胸騒ぎも当たっていた。魏から晋への禅譲も宗像族が狗奴国側に教えたのだろう。

 

なぜもっと早く宗像族の離反に気づかなかったのだろう。宗像族はそれほど伽耶や帯方郡の交易人や海人に不満を抱いていたのだろうか。シワクヒコたちの進言を受けて、備後に逃れるべきだったのかもしれない。あれこれと悔いが浮かんでくる。結局、イサセリビコにうまく言い含められてしまってこんな山国に来てしまった。吉備、讃岐での虐殺だけはしない、という約束だけは厳守してくれるだろうか。

 

「トヨさま、せっかく、山国まで来られたのだから、后になられてもよいのでは。召使いに身を落とすよりはよいかもしれませんよ。中国では女王から卑賤の身に落とされた例が多いと、帯方郡の者から聞いております」

アヤメが冗談まじりに口にした。冗談だとは分かっていても、トヨの癇(かん)に触れてしまった。

「誰が敵国の王の后になるものですか。あなたは、何かにつけて諭すように話されますが、ヒミコさまだったら敵国の后になっていたのですか。私は后になるために山国に来たのではありません。吉備と讃岐の人たちを救う人質として大和にやって来たのです。后に強制されるなら、死を選びます」

珍しくトヨが激昂した。アヤメはトヨの激昂に驚いた。初めての経験だった。トヨさまを慰めるつもりが、言い過ぎてしまった。アヤメは黙り込んだ。

 

 その夜、トヨの気分は落ち込んだ。何度も寝返りをうつ。ウラのシャレコーベに大和の兵士たちが唾を吐きつける。その下で吉備の住人が虐殺されていく。悪夢の中で悲惨な光景が重なっていく。炎に包まれるスサタケヒコの末期の叫びが聞こえてくる。

 

 その後、オオビビ王からの招請はなかった。不気味なほど静かで、不安な冬が続いた。

 

 

[その四] 大和狗奴(葛)国の歴史    

一.狗奴国建国 

 

日向からの旅立ち  (七五年頃)

大和盆地の南西部の南葛城地方に狗奴(葛)国を建国したイワレビコ王の祖先ホノニニギの故地は九州の豊前の英彦山(ひこさん)の東麓でした。一族は北九州から日本海、瀬戸内海へと東下していった、ムスビの神々を祖神とする倭族に属していました。豊前に定着した一族の未亡人首長アマテラスを祖母と仰ぐホノニニギは成人してから独り立ちして、弥生時代中期にあたる前一世紀に豊前から日向に移住し、伊予のオオヤマツミ族の娘を妻に迎えます 

二代目ヒコホホデミ(山幸彦)が山の民族と融合してクニを打ち建てましたが、まだ弱小国で、火山灰を多く含む荒地の水田の開墾事業順調には進みませんでした。西には熊国、南には襲国の強力な勢力がいて脅威となっていました。三代目ウガヤフキアエズはクニを存続させるのがやっと、という状態で、四代目の当主ヒコイツセは祖父、父から引き継いだ王宮を建て直す資金造り必要としていました。

 

折りよく、宗像族から出稼ぎの話がヒコイツセに舞い込みます。瀬戸内海中央部で勃興中の吉備国が交易路の警護役を募集しているということです。報酬も悪くはありません。一族で数年務め上げれば、王宮の建て直しの資金できそうでした。倭族は小柄でしたが、日向育ちのヒコイツセたちには熊襲の精悍さが混ざっており、屈強な体格をしていた点を宗像族は評価していました。

ある日、長兄のヒコイツセは弟たちを王宮に呼びつけます

「筑紫の宗像族から遠賀川河口の警護役をしないか、という誘いがきたが、お前たちはどう思う。報酬はかなりよい。一年で石(一石は一八0キログラムで約二~三人の一年分の生活費)の米の報酬となる。宗像族の話では、瀬戸内海の中央にある吉備邪馬台国の勢力が伸張して、いずれ奴国と伊都国も飲み込んでしまう勢いのようだ。時代が変わってきている」。

末弟のイワレビコが真っ先に護衛役を承諾します。イワレビコは阿多の小椅(をばし)君の妹アヒラヒメと結婚し、息子タギシミミとキスミミをもうけていました。

 

 ヒコイツセは親族や大伴族など人を引き連れて宇佐に向かいます。ヒコイツセは三十二歳、イワレビコは二十二歳でした。イワレビコはまだ四歳の長男タギシミミを同伴しましたが、幼いタギシミミは部隊のマスコット的な存在として可愛がられます 

 宇佐で宗像族からウサツヒコ・ウサツヒメ夫妻、中臣族のアメノタネ(天種)を紹介された後、関門海峡を抜け、響灘の遠賀川河口の岡の湊で警護役を務めます。折から吉備王国は出雲王国等と連合して、奴国と伊都国を攻撃中でした。

 

 吉備連合が奴国、伊都国の制覇に成功した後、ヒコイツセ集団は実力をかわれて、安芸投馬国の大田川河口と周辺の警護役を依頼されました報酬も上積みとなりました。太田川河口域は筑紫と瀬戸内海西部、伊予と出雲など日本海側を結ぶ中継貿易国として栄えていました。

 安芸に滞在した後、邪馬台国の首都がある穴海の警護役の大任に抜擢されます。報酬倍増となり、ヒコイツセをしたってオオヤマツミ族に属す伊予の大三島の海人たち(久米族)も警護団に加わわります

 一行は吉井川、旭川、高梁川に至る吉備邪馬台国の中枢部沿岸の警護を任されました。ヒコイツセは吉井川河口に近い水門湾の奥に拠点を構えました。報酬は米か鉄てい、青銅、衣服でもらいます。吉備王国の勃興期で、吉備王国の羽振りはよく、ヒコイツセ達の日向の一族への仕送りが増えました

 

大和入り

朝鮮半島との交易の窓口である伊都国を制覇した後、吉備王国は水銀朱が貴重な輸出品であることに気づきました。金や銀は日本列島ではまだ産出していない時代の中で、水銀朱は金と同等の価値がありました吉備邪馬台国は鉄などの輸入品を購入する資金源として水銀朱に目をつけました。主要産地は阿波国の阿南の那賀川中流の若杉山周辺にありましたが、需要をさばききれない状況でした。時折、河内湾と紀ノ川からも水銀朱が運ばれてきました。どうやら河内湾と紀ノ川の奥地に有望な水銀鉱山があるようです

 

吉備王国と宗像族は水銀朱の交易路確立を計画し、警護団として評判が高く、遠賀川、太田川、吉備の穴海で実績をあげている日向集団に白羽の矢を立てました。大和地方の水銀朱鉱山と吉備との交易路を開拓すれば、かなりの報酬が期待できそうです。日向を出てからすでに八年の歳月が過ぎていました。ヒコイツセは安芸や吉備に滞在しながら、大工事で開墾された水田風景を見て、日向に戻った後は荒地を開墾していくことが夢となっていました。水銀朱の交易路を切り開けば、荒野を開墾していく資金もできる。出稼ぎの総締めとして大和との交易路を切り開いてみよう。ヒコイツセはそれまで貯めこんだ財宝を日向に送り、出稼ぎの最後の旅の準備を始めました

 

歳となったヒコイツセは総勢百五十人の遠征隊を束ねました。日向勢が五人(部隊長は大伴氏)、大三島勢が五人(部隊長は久米氏)、吉備で加わった下級兵士が五でした。弟のイワレビコは三歳、息子タギシミミは二歳に成長していました。

八三年、遠征隊は艘の船を連ねて吉備を出発します。案内役として明石出身のサヲネツヒコを雇います。播磨、明石海峡、難波津を過ぎて河内湾に入ります。とうとう瀬戸内海の東端の浪速までやってきたのだ。イワレビコは感慨無量でした

船団は日下(くさか)の白肩之津に到着します。宗像族の話では、登美(とみ)王国にはすでに連絡済みで、水銀朱が産出する場所まで道案内をしてくれる手はずがついている、ということです。登美王国は吉備のトミ(富)族の流れをくんでおり、ヒコイツセ一行を友好的に迎え入れるはず、と宗像族も吉備の王家も安心していました

 

しかし登美族の案内役の姿が見えません。とりあえず生駒山の山麓を南下し、大和川の峡谷沿いに龍田に向かいます。しかし峡谷沿いの道は難所が多すぎました。サヲネツヒコは河内湾までの海路には精通していましたが、生駒山山麓から大和に至る陸路は初めての経験でした仕方なく生駒山越えに切り替えることを決め、日下に引き返していきます。突如、登美国のナガスネビコ軍が襲撃してきました。ふいをつかれてヒコイツセたちは動転します。登美国軍はヒコイツたちが登美国を侵略しに上陸したと勘違いをしたのではないか。ヒコイツセたちは事情を説明しようとしましたが、ナガスネビコは問答無用でした。一斉に矢を放ちます。不幸にして、流れ矢がヒコイツセの肩に刺さります。毒矢でした。ヒコイツセは苦しみにもだえます

 

幸い、潮が満潮でした。艘の船団は素早く日下を発ち、河内湾を抜け出します。ヒコイツセは喘ぎながら、「南下して別のルートを探し出せ」と指示を出しますが、毒は体内に浸透していきます

「このまま、むざむざと吉備に戻ることができようか」

大阪湾に出た一行は陸沿いに南下します。途中で和泉国の血沼(ちぬ。茅渟)海の山井水門に立ち寄り、ヒコイツセは手の血を洗い、治療を受けますが、すでに手遅れでした。 

さらに南下して紀伊の紀ノ川河口男(お)の水門に入った時、ヒコイツセ息をひきとります。享年四歳での非業の死でした。イワレビコは兄にすがりつき号泣します。いつかは登美族に復讐をはたすことを誓います。

 

紀ノ川河口の名草山麓を支配する名草族は一行が吉備から来たと聞いて好意的でしたが、目的が水銀朱交易路開拓にあることを知って、態度を豹変してイワレビコたちを警戒しだしました。こうなったら先手をうつしかない。名草邑の女首長ナクサトベを殺し名草族を破った後、ヒコイツセを名草山の北麓の竈山に葬りました。

紀ノ川沿いに大和入りを目指そうとしますが、紀ノ川の中流の橋本に強力なクニがあることが分かります。橋本の周辺でも水銀朱が産出されているようで、名草が中継地の役割を果たしていました。橋本の軍勢が紀ノ川を下って攻撃してくる気配も察知しました。百五十人の軍勢から落伍者は出ませんでしたが、橋本勢との一騎打ちではに劣り、負け戦が予想されます

 

兄に代わって統率者となったイワレビコは判断にいます吉備に引き返すのが穏当のようです。しかしこの姿でむざむざと吉備に戻れようか。兄の仇を討つ必要もある。イワレビコは兄の意思を引き継ぐことを決めました。どうやら水銀朱の大産地は紀ノ川の上流、吉野川水源地域にあることが分かってきました。吉野川に至るには、難路ですが熊野越えの道があることを知ります。熊野灘の新宮には吉備王国と宗像族に友好的なタカクラジ(高倉下)がいて、迎え入れてくれるはずだ。イワレビコは占拠した名草を引き払い、紀伊半島沿いに熊野川河口の新宮まで船団を進めます

 

憔悴しながら、ようやく新宮の湊に着いた一行を、タカクラジは吉備からの客人として迎え入れたものの、そっけない態度でした。「吉備王国と宗像族の後押しがある、と言い張っているが、どうせ一攫千金を狙った野盗もどきの集団にすぎない」とタカクラジは見くびっていました。

 イワレビコは神邑(みわむら)の天磐盾(ゴトビキ岩)に登り戦勝を祈願します。ゴトビキ岩が鎮座する絶壁から沖合を流れる黒潮をじっと眺めます。私も黒潮と同じで、東へ、東へと移動してきた。黒潮の先には根国があるという。兄のヒコイツセも黒潮にのって根国に向かっているのだろう。イワレビコは黒潮に向かって兄の冥福を祈りました。

一行の居場所に戻ると、部下の幾人かが「吉野入りは熊野市から奥吉野への峠越えが最も近道という」という話を聞きこんでいました。しかし「土民のニシキトベ族は吉備と宗像族に敵対的だから」と、タカクラジは熊野市経由を勧めませんでした。依怙地になったイワレビコ一行は、タカクラジの助言を無視して、熊野川河口から熊野市の有馬に進み、イザナミの陵墓と伝わる花の窟(いわや)がある七里御浜に上陸します。荒坂津で待ち構えていたニシキトベ族を破り、熊野越えを開始しました。ところが鬱蒼とした樹林に入ってまもなく、巨大な月の輪熊が一行に襲い掛かります。イワレビコをはじめとして全員が震え上がり、気を失ってしまいます。意気消沈しイワレビコ勢は新宮に引き返します 

 

「こうなったら仕方がない。吉備王国に支援を求めるしかない」と、イワレビコは吉備王国に支援要請の使者を派遣しました。鬱々とした気分で、吉備からの支援を待っていると、ある晩、イワレビコは吉備の軍神タケミカヅチと剣神フツヌシが加勢をを伝える夢を見ました。

「これは吉備の支援隊到着を知らせる吉報に違いない」。確かに正夢だったのか、数日後、大量の武器を積んだ船が吉備から到着しました。ところが兵士の姿は皆無だったことから、イワレビコは落胆してしまいました。逆に、タカクラジは吉備王国は吉野の水銀朱確保に本腰を入れていることを悟り、全面的に支援していく腹を固めました。タカクラジは、吉野へは迂回路となるものの、より安全な十津川沿いの熊野越えを勧めました。道案内にヤタガラスと呼ばれる男を手配しました。さらにタカクラジは配下の兵士五人もあてがい、部隊は二人に増強されます

 

ヤタガラスの先導で十津川をさかのぼっていきます。ヤタガラスは熊野のきこりで、二本の棒で竹馬をつくり、三つ目の棒で巧みに重心をとりながら三メートルを越える高みから確実な道判断して誘導していきます

ようやく吉野川中流の五條に出ました。鵜飼をしている漁師の阿陀族に出会いますが、純朴な民で一行に好意的で川魚をわけてくれました

「ここから風の森峠を上がっていくと、大和盆地に入りますが、強敵ぞろいですから、脇道を上っていきます。橋本の集団が襲撃してこないうちに先を急ぎましょう」と、ヤタガラスは吉野川沿いの難路をずんずんと進んで行きました。すると、尾がついたままの野獣の毛皮をまとう山の民に遭遇します。吉野首(おびと)部のイヒカと名乗ります。さらに先に進むとイワオシワク族に出会います。ヤタガラスを信用したのか、宇陀野への道を教えてくれ、イワレビコ軍はついに宇陀野の宇賀志に到達しました。

 

宇陀野はエウカシとオトウカシ兄弟が支配していました。弟のオトウカシはイワレビコ軍に恭順しましたが、兄のエウカシはイワレビコ軍を撃退しようと兵士を徴集します。ところが兵士りません。そこでエウカシは大殿を建て、踏むと打たれて圧死する押し機を仕掛けます。その様子を目撃したオトウカシがイワレビコに通報します。イワレビコからエウカシの策略を聞いた大伴と大久米の二人はエウカシの家に押しかけます。押し問答の末、エウカシ先に大殿に追い込まれ、自分が仕掛けた押し機に潰されて即死します。宇陀野はイワレビコ軍の手に落ちました。イワレビコはオトウカシを招き、部下たちを交えて盛大な祝勝会を催しました。

(歌謡)

宇陀の高城に シギわなを仕掛け じっと待っていたら どでかい鷹が捕れてしまった 

これは大物だ

古女房は獲物をくれと言ったら ソバの木のように 実がない部位を削ってやれ

若女房が獲物をくれと要ったら 榊のように 実が多い部位をたくさん削ってやれ

 

 イワレビコは兵士といっしょになって故郷の戦勝の歌謡を歌い、酔いしれました。

 

さて、はたして宇陀野に水銀朱が産出しているだろうか。宇陀の血原、榛原の朝原、丹生川と探察していくと、期待通り水銀を含む辰砂鉱山が数か所に見つかりました。辰砂を捏ねていくと硫化物が蒸発して、段々と朱色に変わっていきます。平皿にして川に落とすと、水銀に麻痺した魚が次々と水面に浮かんできました。間違いなく水銀朱だ。兄の願いを達成できた。辰砂の砂粒を手にしながら、イワレビコは感涙しました。

 

 次の問題はいかに水銀朱を瀬戸内海に運び出すかにありました。宇陀野から東吉野の峠を越えて吉野川に出るルートは険峻すぎました。オトウカシに訊ねると、宇陀野から女坂(女寄峠)を越えて大和盆地に出て、南葛城から風の森峠を下り吉野川の五條に出るルートが最適ではないか、との答えでした。

 しかし大和盆地の東の入り口は磯城族が支配していました。イワレビコたちは伊那佐山に登り、西方を遠望します。大和盆地に入るには女坂と男坂の二ルートがありました。二ルートとも、尾のある毛皮をまとった山の民ヤソタケル族と磯城族がイワレビコ軍を警戒して強固な守りを固めていました。大和盆地攻撃は慎重に進める必要があります。オトウカシ一族もイワレビコ軍に加わり、軍勢は約五人に膨れ上がりました。

 

 大和盆地の征服を達成するためには、まず盆地の象徴である香具山の土を採ってきて、神々を祀る必要があるとオトウカシがイワレビコに説明します。イワレビコはサヲネツヒコを老人、オトウカシを老女に扮装させ、偵察をかねて香具山の土を採りに行かせます。女坂を警護するヤソタケル族と磯城族の兵士は老人夫婦を見くびって、嘲弄しながら関所通過を許可します。二人は難なく香具山の土を採って宇陀野に戻ってきました。

 

 イワレビコは香具山の土でヒラカとイツヘを作り、丹生の川上に上がって天つ神と国つ神を祀ります。まずはヤソタケル族の退治だ。大伴氏が一計を案じました。大伴氏は部下の久米に大穴を掘らせます

「これからヤソタケル族を饗宴に招くが、お前たちは大穴にひそんでおれ。私が歌い始めたら、大穴から飛び出してヤソタケルたちを撃ち殺せ」

 

饗宴が始まり、大伴氏が歌いだした。

(歌謡)

忍坂の大きな室屋に 人が大勢やってきた 人が大勢いても

勇猛な久米族よ 頭椎くぶつつい太刀 石椎いしつつい太刀で 打ちのめしてしまえ

 しめし合わせたどおり、大穴から飛び出した兵士たちはヤソタケルをまたたく間に打ちのめしました。

 

 次は磯城族との戦いです。イワレビコは磯城族の拠点にヤタガラスを送りこみます。磯城族兄エシキは矢を放ってヤタガラスを威嚇しましが、弟オトシキはイワレビコに恭順する意思を示しました。

 エシキが率いる磯城軍は女坂と男坂を強固に守っていました。男坂の入り口にあたる榛原の墨坂には真っ赤におこした炭を敷き詰めていました。サヲネツヒコが秘策を練ります。イワレビコの正規軍は女坂に進軍し、磯城族と一進一退の激戦となります。その間にサヲネツヒコが率いる機動部隊は宇陀川の水を運んで墨坂に敷き詰められた炭火を消し難なく男坂を通過して忍坂(おさか)に出た後、女坂に上り背後から磯城軍に襲いかかります。前後から挟み撃ちにされた磯城軍は壊滅します

 

 大和盆地に入ったイワレビコ軍を待ち受けていたのは、兄の仇ナガスネビコが率いる大軍でした。さすがに手ごわい敵でした。戦いは決着がつかず、一進一退の攻防が続きます

 戦局を見守っていた登美王国のニギハヤヒ王はイレビコ軍の背後にトミ族の本家筋にあたる吉備王国がいることにようやく気づきました。内偵すると、吉備王国から宗像族を通じて、水銀朱の交易路の確立を目的にヒコイツセ団を派遣する旨の伝令が登美国に届けられていましたが、ナガスネビコが伝令を握りつぶしていたことが判明します

 ニギハヤヒ王はナガスネビコの妹ミカシキヤヒメ(トミヤビメ)をめとって跡継ぎのウマシマヂをもうけていましたが、ナガスネビコはウマシマヂをさしおいて、王位を狙っていることも家臣たちの証言で明らかになりました。 

ニギハヤヒ王とウマシマヂはひそかにイワレビコと出会い、登美王国も吉備のトミ族の出身である証しの天羽羽矢(あめのははや)とかちゆき(やなぐい)を示して恭順し、ナガスネビコを暗殺しますこれで兄の仇を討つことができました。

 

 イワレビコ軍は、大和盆地の南東部から南西部の畝傍山麓へと進軍していきます。層富(そほ)県のニヒキトベ、和珥の坂下のコセノハフリ、ほそみの長柄のイノフフリと土グモ三族が次々と襲ってきましたが、もはやイワレビコ軍の敵ではありませんでした。畝傍山周辺を制覇した後、南葛城の御所市に入り、高尾張邑の土グモを破ります。ヤタガラスの先導で風の森峠を下って五條に出たイワレビコ軍は、吉野川を下り一気に橋本族を打ち破ります。さらに紀ノ川下流へと進み、名草と男の水門を再び支配下に置き、竈山のヒコイツセの墳墓に仇討ちを報告しました。男の水門で宗像族水銀朱を渡し、南淡路島か鳴門海峡越えで吉備に水銀朱を運ぶ交易路が確立しました。

 

葛王国誕生

八七年、イワレビコは畝傍山の東南の橿原に王宮を構えました。吉備を出発した時は予想だにしなかった四年間の艱難辛苦を経て、ついに目標を達成できした。兄ヒコイツセの仇も討た。日向を旅立ってから二年にもなる。振り返ってみると、故郷の戦勝歌と同じように、シギを捕ろうとしていたら大物の鷹が捕れてしまい、自分の国を打ち建てていた。今さら日向に戻ってやり直しをするより、自分が征服した国に永住しよう。イワレビコは南大和の地に永住する決意固めました。イワレビコは三五歳、息子のタギシミミは六歳になっていました。 

 イワレビコは忠臣たちに領地を分け与えます。日向から同道した大伴氏を道臣(みちのおみ)として畝傍山の東麓の築坂邑(橿原市鳥野町)、大三島出身の大久米には畝傍山の西の川辺(久米川)、オトウカシには十市郡猛田(たけだ)邑をそれぞれ与えます。サヲネツヒコを磯城の北の倭国(天理市)造、ツルギネを葛城国造、ヤタガラスを葛野主殿県主、オトシキを磯城県主に任命しました。

 

イワレビコは掖上の本間山に登って国見をします。右手に畝傍山が見えます。前方には南葛城の平野が広がり、左手に葛城山と金剛山が聳えています。水が豊富で肥沃な盆地でした

「ここが私が打ち建てた国なのだ。兄にも見せたかった」 。

 イワレビコは名草山の竈山の兄の墓を立派に飾り立て、吉備王国への報告に派遣した使いに、兄の現地妻と兄との間に誕生した子の世話を託しました。日向の一族には大量の水銀朱を送りました。

 

 

翌八八年、重鎮たちはイワレビコ王に后を迎えることを進言します。后を迎えるとすると、戦略上、宇陀野と南葛城を結ぶ線上をおさえる三輪山麓の磯城族から選ぶのが妥当でした。 

大久米が后探しの役をおおせつかいます。大久米が磯城に出かけると、七人の乙女が高佐士野(たかさしの)で遊んでいました。大久米が乙女たちに近づくと、先頭に立った乙女が目の周りに入れ墨をしている大久米に気づきます 

(歌謡)アマドリ、ツツドリ、千鳥、シシトドリのように 鋭い目をした男がやってきた

(返歌)乙女の気をひこうと 目の周りに入れ墨をしただけですよ

 

大久米がイワレビコ王七人の乙女を報告すると、イワレビコは先頭に立った乙女がよい、と答えます。調べると先頭の乙女はイスケヨリヒメという名前でした。母はミシマノミゾクヒの娘セヤダタラヒメ、父は三輪山の神でした。美しいセヤダタラヒメに惚れた三輪山の神は、丹を塗った矢に化けてセヤダタラヒメのホトをつきました。驚いたヒメが矢を床の間に飾ると矢は聡明な男に変身し、セヤダタラヒメと結ばれます。生まれたイスケヨリヒメは神の子と呼ばれ大事に育てられました。

イハレビコは三輪山の麓の狭井川にあるイスケヨリヒメの家を訪れ、一夜の契りを結びます。

(歌謡)葦原に建つ 荒れた小屋に 真新しい菅の畳を敷いて 二人で寝よう 

イスケヨリヒメはタギシミミと同い年の七歳でしたが、イワレビコとの間にカムヤイミミとカムヌナカワミミの二王子まれます

 

南葛城地方は葛粉の大産地でした。宇陀野から運ばれる水銀朱と共に葛粉が重要な交易品となり、いつしかイワレビコが建国した国は葛の国、吉備ではなまって狗奴(くぬ)国と呼ばれるようになりました

 

平穏に時が流れていきます。治世は九年続き、一0六年にイワレビコ王が五四歳を過ぎて他界します。陵墓は畝傍山の北に造られました。イスケヨリヒメは三十五歳で未亡人となり、カムヤイミミ王子は五歳、カムヌナカワミミは三歳になっていました。

 

 

二.第二代~第四代  (一一0年~一七0年頃)

 

第二代カムヌナカワミミ(靖天皇)

 初代イワレビコ王の死後、第一王子のタギシミミが暫定的に王権を握ります。タギシミミはすぐにでも王位を継承して第二代王の座を目論んでいましたが、磯城族を主体にして反対の声が強くあがっていました。幼い頃からイサセリビコの子として兵士たちに甘やかされて育ち、うぬぼれが強いこともあって人望が薄く、日向出身の大伴氏も大三島出身の久米氏も第二代目王に担ぐことに躊躇しました。大伴氏と久米氏の外来系氏族と土着の大和系氏族はしばらく様子を見ることで合意します

 タギシミミはすでに二人の后がいましたが、父王の遺言だと言い張って、実家がある磯城の狭井川に戻っていたイスケヨリヒメに結婚を迫ります。イスケヨリヒメは二人の王子が王位を継承するには若すぎたこともあり、王家を守るためにしぶしぶ承諾しました。

 

タギシミミの暫定政権は三年が経過して、義兄弟のカムヤイミミ王子は八歳、カムヌナカワミミは六歳になっていました。 

そろそろ手を打たないと義兄弟に王位を奪われてしまう。タギシミミは焦りだし、ひそかに二人の義弟を抹殺する機会をうかがっていました。気配を感じ取ったイスケヨリヒメは、歌を使いに託して息子たちに警告します

(歌謡)

狭井川の方角から 雲がわきおこり 畝傍山の木の葉がサヤサヤと鳴り騒ぎ始めました

大風が吹こうとしています

畝傍山 昼間は雲が流れていますが 夕方になると風が吹き荒れると 木の葉が騒いでいます

 母の歌を受け取った兄弟はタギシミミのたくらみを悟ります。義兄の殺害を決め、ひそかに弓矢を準備しました。

 

 ある日、タギシミミは北葛城に住む后の元に通った後、片岡の丘にある大きな窟で昼寝をします。二兄弟が大窟にしのび寄ります

「私が窟の扉を開けたら、兄はすかさず矢を射ってください」

 打ち合わせどおり、カムヌナカワミミが扉を開きます。しかし兄のカムヤイミミは怖気づき、手足が震えて矢を射ることができません。カムヌナカワミミは兄の弓矢をもぎとり、一発でタギシミミを射殺しました。

 

意気地のなさを恥じ入ったカムヤイミミは王位を弟に譲り、カムヌナカワミミは六歳で王位を継承しました。イスケヨリヒメと実家の磯城族は安堵し、実質的に葛国の政治を司っていきますカムヤイミミの子供たちは皇別氏族の意富(おお)氏となって、王朝を陰で支えていきます。

カムヌナカワミミ王は母の姪で従にあたる師木縣主の娘カハマタビメを正后に迎え入れます。第二代王即位し、御所市森脇に王宮を構え、跡継ぎの長男シキツヒコタマデミが誕生しました。

 

葛国は磯城族と縁戚関係を続けながら、大和盆地の西南部で地盤を固めていきます。宇陀野で採掘され、磯城、イワレを経て御所市に運ばれ、風の森峠を下って五條から舟で橋本、紀伊川河口に至る水銀朱街道が賑わっていきます。宗像族は紀ノ川の上流の橋本まで上ってくるようになりました。

 

第三代シキツヒコタマデミ(安寧天皇)   

 カムヌナカワミミ王を継いで第三代王を即位したシキツヒコタマデミ王は高田市三倉堂に王宮を構えます。母カハマタビメの姪磯城縣主ハエを父とする従のアクトヒメを正后に迎え、長男トコネツヒコイロネ、次男オオヤマトヒコスキトモ、三男シキツヒコの三人の王子が産むます

 

第四代ヒコスキトモ(懿徳天皇)  

第四代目はタマデミ王の次男オオヤマトヒコスキトモが継いで、橿原市大軽町に王宮を構えます。磯城族のフトマワカヒメ(イヒヒヒメ。日本書紀ではオキソミミの娘アマトヨヒメ)を正后に迎え、長男ミマツヒコカエシネ、次男タギシヒコの二王子が生まれます 

 ヒコスキトモ王の弟シキツヒコは二人の息子をもうけます。二人は従兄弟の第五代カエシネ王を支えて、葛国膨張の重責を担っていきます。長男は伊賀の須知、名張等の稲置、美濃稲毛の祖となります。次男ワツミは淡路島の御井宮に住み、長女ハヘイロネ(アレヒメ)と次女ハヘイロドをもうけますが、二人の王女は第七代フトニの后となります

 

 西日本の盟主となった吉備邪馬台国は第三代タマデミ王と第四代ヒコスキトモ王の時代に絶頂期にさしかかっていました。水銀朱の需要がどんどん高まっていき、葛国は水銀朱の輸出国として栄え、大和盆地の国々の中で最も豊かな国の一つとなっていきます

 

 

三.東海への進出   (一七0~一九五年頃)

第五代ミマツヒコカエシネ(孝昭天皇)

 

東海地方征服  

 葛国が大和盆地の南葛城地方の中小国から近畿地方の大国へと浮揚していく転機は、ヒコスキトモ王を継いで第五代王となったミマツヒコカエシネ王の時代に訪れます

 

きっかけは伊勢のサルタヒコ族の宇陀野攻撃の試みでした。その背後には、阿波王国の忌部氏の存在がありました。倭国の盟主である吉備の楯築王の急死後に勃発した倭国大乱で、出雲王国を背景にした北勢力に押され、形勢が不利となった南勢力に属す阿波の忌部氏は、資金力を増やすために、宇陀野の水銀朱に目をつけ、サルタヒコ族をけしかけました。

サルタヒコ族は宇陀野の入り口にあたる榛原に攻め込みます。カエシネ王は従兄弟にあたる叔父タギシヒコの長男を榛原に進軍させます。サルタヒコ族軍を迎え撃った従兄弟はサルタヒコ族軍を押し返していき名張、伊賀へと葛国の勢力を広げていきました。

 

サルタヒコ族は伊勢湾から鈴鹿山脈一帯に伊勢サルタヒコ王国を築いていました。榛原と宇陀野への進出を阻まれ、逆に葛国に王国の西端の名張、伊賀を侵食されてしまいましたが、執拗に反撃を仕掛けてきます 

カエシネ王は、葛城山麓の高尾張邑を拠点とする尾張オキツヨソを将軍として、サルタヒコ王国討伐軍を送り込みます尾張族の祖は初代イワレビコ王のと遠縁にあたり、ヒコイツセ・イワレビコに従って日向を出立した由緒ある一族でした。オキツヨソ将軍は上野、亀山などとサルタヒコ王国の拠点を連破し、ついに伊勢湾に到達します。サルタヒコ族は鈴鹿高原にたてこもって抵抗を続けます。縄文時代以来の歴史を誇るサルタヒコ族はしぶとい集団でした。鈴鹿高原攻略は長引き、オキツヨソ将軍が率いる尾張軍の兵士たちも戦いに疲れ、厭戦的になっていきます

 

(歌謡)

神風が吹く 伊勢の海の大石に 這いまわるシタダミ(巻貝)のように 我が軍団よ

鈴鹿高原を這いまわって 敵を撃ちまかしてしまえ

 

オキツヨソ将軍は兵士にゲキをとばしながら、鈴鹿高原のサルタヒコ族の砦を一つづつ攻め落としていき、ついにサルタヒコ族降伏します。勢いに乗った尾張軍は海沿いに伊勢湾の付け根へと進撃し、木曽川と長良川の河口を席巻しました。オキツヨソ将軍は木曽川河畔の一ノ宮に拠点を置いて、尾張地方と美濃地方の開拓を進めていきます。祖先はイワレビコの遠縁にあたることから、尾張族は祖神としてホノニニニギの兄神アメノホアカリを真清田(ますみだ)神社に祀ります

 

王家の外戚は磯城族から尾張族に

御所市掖上に王宮を構えたカエシネ王は磯城族のヌナキツヒメ、サヲネツヒコを祖とする倭国のトヨアキサダヒメの娘オオイヒメ、尾張オキツヨソ将軍の妹ヨソタホビメ(紀ではヨソタラシヒメ)の三人を后に迎えていましたが、オキツヨソ将軍の伊勢、尾張、美濃の征服成功により、王家に対する尾張族の発言が強まり、ヨソタホビメが正后となりました。王家の外戚は初代イワレビコ王から四代継続した磯城族から尾張族へと移行したことになります

 

ヨソタホビメは、長男アメノオシタラシヒコ、次男オオヤマトタラシヒコクニオシビトの二王子を産み、次男のクニオシビトが王位継承者となります

 

 

四.葛国の領土拡大

 

第六代クニオシビト(孝安天皇)  (在位推定一九五年~二一五年)

カエシネ王の死後、第六代王を即位したクニオシビトは御所市室(むろ)に秋津嶋宮を構え、兄アメノオシタラシヒコの娘で姪にあたるオシカヒメを正后とします。オシカヒメは長男オオキビモロスス、次男オオヤマトネコヒコフトニの二王子を産みます

 

 吉備王国では一八0年頃に楯築王が他界した後、後継者争いから倭国大乱が発生し、数年継続する内乱となっていました。東端の山国の葛国が東海地方に領土を拡大したことに大和盆地北部や摂津、山城、近江のクニグニは警戒心を強めましたが、淡路島以西の国々は倭国大乱の余波で気にかける余裕はありませんでした。 

葛国は大和盆地での勢力拡大を進めていきます。先兵役はクニオシビト王の兄アメノオシタラシヒコが担います。アメノオシタラシヒコは盆地の北東部、北西部のクニグニを次々と飲み込んでいき、大和盆地東北部に拠点を構え、ワニ(和珥)氏の祖となります。生駒山周辺をおさえる登美王国の物部氏も支配下に置き、河内湾に出る交易ルートの扉を開けました。葛国は大和盆地全域を初めて統一し、大和国に発展する土台が固まります

生駒山を囲んだ大和側と河内側にはアマテラス五男神の一神であるアマツヒコネを祖とする一族が移り住み、先住の物部氏の主力は尾張に送られ、尾張氏の指揮下で、三河、遠江進出の先鋒となりました。大和葛国は河内湾を支配下におさめたことにより、吉野川・紀ノ川ルートに続く第二の瀬戸内海へのルートが万全となり、大和は瀬戸内海に本格進出していく糸口を作ることに成功します

 

王室に語り部がもうけられ、初代イワレビコの大和入りと伊勢サルタヒコ王国征服を主体とする大和国建国神話や伝承歌謡作りが始まります 

東海地方と南葛城地方を結ぶ横軸が発展し大和盆地には、東海地方の産物や土器が大量に流入するようになります。これに山城と大和盆地を結ぶ縦軸が加わり、横軸と縦軸が交差する三輪山麓、初瀬川畔の纒向が尾張、美濃、伊勢、山城、河内、紀伊、瀬戸内海を結ぶ交易都市として成長を始めます。

 

富士山噴火と淡路島への進出

 しかし好事ばかりが続くことはありません。駿河の富士山の大噴火という想定外の天災が降りかかってしまいました。駿河と伊豆の住人が陸路で遠江から、三河、尾張へ、海路で伊勢に避難してきます。活気あふれる纏向の市場にも食い詰めた難民が大量に流れ込んで来ました。困り果てたクニオシビト王と兄アメノオシタラシヒコは、伊勢のサルタヒコ族と東海地方の難民を淡路島進出に活用することを思いつきました。

淡路島攻略はワチツミに託されます。ワチツミは第三代タマデミ王の第三王子シキツヒコの次男で、兄は尾張族と共に伊賀、伊勢、美濃の征服で活躍しました。ワチツミを将軍とする大和軍は紀ノ川河口から淡路島南部に上陸し、あまり抵抗もなく淡路島を支配できました。ワチツミは御井宮を建設し、東海の難民が淡路島南部に送り込まれます

 

淡路島南西部の津井周辺は良質の粘土が産出するため、陶工業が発展していました。大和に徴発された淡路島の陶工人は、大和独自の庄内式土器(二00~二七0年代)の製作を始めます。さらに河内のアマツヒコネ族は傘下に組み入れた淡路島の船乗りから、造船・航海技術を吸収していき、水軍の基盤を固めていきました。

 

大和の淡路島攻略に泡を食ったのは、鳴門海峡の対岸にある阿波王国でした。倭国大乱の間に阿波王国は独立性を高めて繁栄を謳歌していましたが、水銀朱ルートである鳴門海峡を大和におさえられてしまう恐れが出てきました。

 

 

第七代オオヤマトネコヒコフトニ(孝霊天皇)  (在位推定二一五年~二三九年)

阿波攻略

クニオシビト王の次男フトニが第七代王に即位した時には、葛国はもはや大和盆地の小国ではなく、西日本の東に位置する新興の大国となっていました。大きな羽翼を広げ始めた大和はとどまることを知りません

 

クニオシビト王の死を知った阿波軍は淡路島南部の湊と福良に攻め込みます。しかしワチツミが率いる伊勢サルタヒコ族と東海の兵士に逆襲され、逆に吉野川河口を大和軍に制圧されてしまいます。阿波王国は吉備王国に救援を求めましたが、ヒミコ政権はまだ不安定な状態で救援を派遣する余裕はありませんでした。 

即位間もないフトニ王は阿波征服の号令をかけます。阿波王国は再度、吉備王国に助けを求めますが、ヒミコ政権は中立を保ちます。大和王国と吉備王国の仲をうまく取り持ったのが、宗像族でした。宗像族はヒミコ政権に、大和国の前進である葛国は吉備王国の要請を受けて大和盆地に進出したイワレビコが打ち建てた国であることを説明しました。吉備王国は大和から産出する水銀朱を必要としていまし。その一方で、独立性を高める阿波王国の伸張を警戒していました。宗像族の仲介で大和王国と交易を継続していくことは阿波王国の台頭に釘をさすことにもなります

 

 伊勢サルタヒコ軍を中核部隊とした大和軍は吉野川と支流の鮎喰川流域を次々に攻め落とし、吉野川中流域の住民は山脈を越えて讃岐に逃亡します。二二0年までに吉野川の広大な沖積平野は制圧され、サルタヒコ軍は大麻山に祖神サルタヒコを勧請します。その後、大和軍は阿波南部の勝浦川、那賀川へと進軍しました。一部の住民は黒潮に乗って、伊豆半島を経て東国の房総半島に逃亡し、半島の先端の館山に安住の地を見出します

 

吉備王国は大和が阿波王国を撃破し、阿波を占領するほどの実力があるとは予想だにしていませんでした。大和の阿波征服により、新たな脅威が誕生しました。ヒミコ政権は公孫氏の帯方郡と親交を結んだばかりでしたが、狗奴国の阿波征服が、吉備の帯方郡への接近を促しました。漁夫の利を得たのは、大和と阿波の水銀朱交易を独占できる宗像族でした。

 

大和川の水運整備

 フトニ王には十市県主オオメの娘クハシヒメとワニ氏系の春日チチハヤマワカヒメの二人の后がいました。クハシヒメはオオヤマトネコヒコクニクルの一男、チチハヤマワカヒメはチチハヤヒメの一女を産み、クニクル王子が跡継ぎとして大事に育てられます

 

阿波征服に成功したフトニ王は、次に大和川の水運改良工事に着手します。瀬戸内海に出る第二の交易ルートを確保したものの、大和川は王子から河内湾に至る峡谷が難所で、座礁する舟が絶えなかったからです。フトニ王は王宮を御所市から、大和川の支流の寺川が流れる十市の黒田に遷して陣頭指揮をとります。吉野川の洪水対策で河川の工事と石工にたけていた阿波の工人を徴発して改良工事が進められました。

小舟だけでなく中型船も纒向まで上がれるようになり、河内と瀬戸内海がぐっと身近になります。東西南北を結ぶ纒向市場がさらに発展し、計画的な都市開発が進められ、産業の中心も川幅が狭い寺川沿いの田原本町の鍵・唐古から纒向に移ります。阿波の吉野川の青石(藍閃片岩あいせんへんがん)と赤石(紅簾片岩こうれいへんがん)が友島水道、浪速、河内湾、大和川のルートで纒向にも運び込まれるようになります 

畝傍山の北方に移住した阿波の忌部族は王族や豪族の御陵の造成にも徴発され、大和盆地に石積みと前方後円の阿波の技法を取り入れた初期の前方後円墳が築かれるようになります

 

フトニ王は中年を過ぎてから、淡路島の御井宮からワツミの長女オオヤマトクニアレヒメ(ハヘイロネ)と次女ハヘイロドの姉妹を后に迎えました。アレヒメはヒコサシカタワケ、ヒコイサセリビコ(大吉備津彦)、ヤマトトビハヤワカヒメの二男一女、ハヘイロドはヒコサメマ、ワカヒコタケキビツヒコの二男をもうけます。二姉妹が産んだ王子たちは吉備王国を征服した後、吉備と西播磨に定住していきます

 

近江攻略と西征開始

 冨士山の噴火は度々続き、伊豆、駿河、遠江からの難民が途絶えませんでした。フトニ王は兄のオオキビモロススや尾張族と協議を重ねます。難民を先兵に使った淡路島と阿波攻略の先行事例が成功したこともあり、周囲は近江攻略を進言します

 近江は安(野洲)王国が支配していました。安王国を打ち破ることはたやすいことではなく、生半可な攻撃では逆襲を受けるだけでした。フトニ王は兄たちと入念な戦略を練っていきます。

 

 近江攻略は美濃の関が原(不破関)、伊勢の鈴鹿関、山城の宇治川の三方から同時に始まりました。真っ先に尾張軍が不破関を破り、米原と多賀を攻め滅ぼします。尾張軍は富士山麓からのハングリーな避難民が下級兵士を占めており、勲功を狙う者が多く、高い士気がありました。

 近江勢は多賀、米原奪還に動き出し、安王国の首都が手薄となります。そこに鈴鹿関から伊勢サルタヒコ族、山城の宇治からアマツヒコネ・アメノミカゲ族が攻め込み、あっけなく安(野洲)王国の首都が陥落します

 

安王国の滅亡を見届けた尾張軍は琵琶湖の右岸に沿って北上し、敦賀の国を占拠します。さらに若狭湾沿いに山城の丹後半島の付け根、天の橋立まで攻め込みます。しかし丹後半島には強力な独立王国が存在したため、アメノミカゲ系勢力と連動しながら丹波の西部へと駒を進めます。雪だるま式に戦力をふくらませた大和軍は摂津飲み込み、ついに東播磨まで支配下に置き、吉備王国の国境に迫りました。

 

その矢先、二三九年にフトニ王が亡くなります。大和川開発の功を称えて、大和川を見下ろす王子の馬坂丘に陵墓が築かれました。

 

 

五.吉備への侵入

 

第八代オオヤマトネコヒコクニクル(孝元天皇)  (在位推定二三九年~二四七年)

 フトニ王の死後、正后の息子クニクルが王位を継いで第八代王となり、王宮は、橿原市軽(かる)に置かれます。父王が進めた拡大政策を小休止して、膨張した帝国の内部固めを優先します

 

クニクル王は物部系の穂積臣ウツシコヲの妹ウツシコメを后として長男オオビコ(娘は崇神天皇の正后)、次男スクナヒコ、三男スクナヒコタケイゴコロ、四男オオビビ、長女ヤマトトトヒメの四男一女をもうけました。二人目の后、河内アマツヒコネ族の首長である青玉の娘ハニヤスビメはタケハニヤスビコを生んでいました。

 

東播磨と西播磨の国境線では、大和側と吉備側のいざこざが絶えず、緊張が続きますがクニクル王は好機到来をじっと待つことにします。クニクル王は三人目の后として正后ウツシコメの姪で穂積臣ウシシコヲの娘イカガシコメを迎え、イカガシコメはヒコフツオシノマコト(武内宿禰の祖父)をもうけます

 

ようやく二四六年になってクニクル王が動きました。宗像族から、朝鮮半島の馬韓諸国が帯方郡に反旗をひるがえしたとの報告を受けたクニクル王は意を決しました。今こそ吉備攻略の時機到来だ、と見定め、叔父オオキビノモロスス(大吉備諸進)を総帥として、東播磨の加古川の丘に前線基地を設けます。クニクル王の腹違いの弟であるヒコサシカタワケ、ヒコイサセリビコ、ヒコサメマ、ワカヒコタケキビツヒコの四兄弟はまだ少年でしたが、加古川に従軍します

大和軍は東播磨から総攻撃を仕掛けました。翌二四七年(正始八年)、ヒミコが帯方郡に急使を派遣し、狗奴国との交戦状況を説明します。クニクル王の期待に反して帯方郡は馬韓諸国の反乱を楽々と押さえ込み、余力がありましたので、即座に張政を将軍とする救援軍が派遣されます。そんな渦中にクニクル王が伝染病で急死してしまいます

 

 

六.吉備王国征服

 

第九代ワカヤマトネコヒコオオビビ(開化天皇)  (在位推定二四七年~二六七年)

 父王の急死で第九代王に即位したオオビビ王は、父の遺志を継いで吉備攻撃を続行します。しかし帯方軍の支援も得た吉備を攻略することは不可能でした。大和軍は揖保川河口の御津町まで支配下に置いたものの、揖保川沿いの龍野の粒丘(いいぼおか)に陣取る吉備国の前線基地を破ることができず、山陽道と出雲道には進めませんでした。海側でも赤穂の吉備水軍を攻めきることができませんでした。じくじくたる思いで休戦に応じざるをえませんでした。

 

オオビビ王はすでに尾張族の丹波県主ユゴリの娘タカノヒメを后に迎え、ヒコユムスミをもうけていましたが、父王の死後、若後家となった父の后イカガシコメを正后に迎え入れ、物部系との絆を引き継ぎます。イカガシコメはオオビビ王とほぼ同い年でした。イカガシコメはミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)、ミマツヒメの一男一女をもうけます。三人目の后となったワニ臣ヒコクニオケツノの妹オケツヒメはヒコイマス、四人目の后となった葛城の垂見宿禰の娘ワシヒメはヤケトヨハヅラワケをもうけます

 

膠着状態が数年続きます。その間にオオキビモロスス他界し、イサセリビコを中心として、四兄弟が東播磨に常駐ます

 

アメノヒホコの来朝

 その頃、朝鮮半島東南部の辰韓地方では二か国の中からシラ(斯蘆)国が勢力を強め、次々と他国を飲み込んでいました。敗北した国々から倭国へ亡命を試みる王族や貴族が増えていました。アメノヒホコの王国もシラから攻め込まれ、アメノヒホコは二人の従士を乗せて倭国に向けて脱出しました。うまくいけば倭国が援軍を送ってくれるかもしれない。しかし帯方郡の影響が強い対馬国、壱岐国はアメノヒホコに冷淡でした。北九州の国々も同様の冷淡さでした。仕方なくアメノヒホコは瀬戸内海に入り吉備王国をめざします長門周防、安芸を過ぎ、吉備にようやく到着しましたが、帯方郡や伽耶国の兵士や海人の意見もあって、無視されてしまいます。さらに東に進んだアメノヒホコ一行は西播磨の揖保川の河口で大和軍に囲まれ、イサセリビコ将軍の訊問を受けました。

 

報告はオオビビ王にもたらされます。オオビビ王は朝鮮半島の事情にうとかったものの、どうやら吉備王国に組する帯方軍、馬韓、弁韓とは別の地方から来たようです。吉備攻略の何かのたしになるかもしれない。オオビビ王は播磨か淡路島での滞在を認めましたが、アメノヒホコは諸国を巡ってから居住地を定めたいと申し出ます。都に上り、オオビビ王に謁見した後、一行は宇治川を上って近江の吾名(あな)邑(近江町)に滞留します。従者の数人は近くの鏡村で陶器の工人として定住を決めましたが、アメノヒホコは新天地を祖国の対岸にあたる日本海側に求めます。勢力をたくわえて祖国再興をめざす拠点を造るためです

 

アメノヒホコは若狭、丹波を経て、但馬国に至ると、自分と同じように辰韓からの渡来者、逃亡者が多く滞在していました。出石の首長フトミミはアメノヒホコの素性を知って王族として迎え入れ、自分の娘マタヲと結婚させ、但馬モロスクが生まれます。アメノヒホコが携えてきた七種の宝物は但馬の国の神宝となりました。

 

オオビビ王の再挑戦

二四七年に父王の急死で王位を継いだオオビビ王は吉備攻撃を続行したものの、揖保川をはさんで足踏みを余儀なくされました。王宮を山城との境にある木津川に近い春日に遷し、吉備征服と倭国の盟主の座の獲得を悲願として、力をたくわえていきます。即位年を経て三十歳代に入った頃から、東播磨に陣取るイサセリビコに進撃の命令を幾度となく送りましたが、播磨から朗報は届きません。軍事費の増大で増税に踏みきらざるをえなくなります。オオキビモロスス将軍の死後、自ら先頭に立って、吉備に攻め込むべきだったのかもしれない。

 

オオビビ王はイサセリビコを春日に呼び寄せた。

「こう着状態に入ってから、もう十数年もたつではないか。何とか妙案をひねり出せ」

イサセリビコもオオビビ王の焦燥を痛いほど理解できます自分も同じ気持ちでした。弟のワカタケヒコや陸軍の尾張氏、水軍の河内アマツヒコネ族と度々作戦会議を開いてはいるものの、妙案を思いつきません。阿波から讃岐を攻めた後、吉備を攻撃する手も考えましたが大和の弱点は水軍にありました。船合戦では吉備に負けてしまいます

 

宗像族の寝返りがターニングポイントになった

海からの奇襲攻撃の秘策を提案したのは宗像族の総領アシヤミミでした。宗像族は中立を保ち、行方を見守っていましたが、次第に狗奴国側に傾きつつありました。

「トヨさまはあまりに帯方郡に頼りすぎてしまっている。それに乗じて、伽耶国の海人とイソタケル族が対半島交易を独占するようになり、我々は先細りになるばかりだ」

 

朝鮮半島との交易が帯方郡と弁韓族に奪われていくのが不満でした。帯方郡のウラは吉備の女性と結婚して、勢力を絶大なものにしていました。これでは帯方郡の植民地になってしまったも同然ではないか。帯方軍と伽耶の連中がのさばりすぎている。イソタケル族は勝手にスサノオの子神であると名乗っているが、スサノオの子神の筆頭は我々だ。イソタケル族に対する不満は安芸、伊予、周防長門の地元交易人の間でも強まっていました。

 

狗奴国は阿波、北陸、近畿地方へと領土を拡大し、吉備に拮抗する一大勢力となっていました。将来性は吉備より狗奴国にあると、アシヤミミは最終判断を下します。元々、狗奴国を建国したイワレビコ王に大和入りを勧めたのは宗像族だった、との言い伝えも後押しをしました

 

吉備の沿岸を熟知している宗像族は吉備攻略案を練っていきます。秘策は赤穂と片岡の吉備水軍を出し抜いて、一挙に穴海に突入する奇襲作戦でした。二百艘の船で邪馬台国の本丸である穴海と吉備津に一挙に攻め込んでいく。

まず穴海の入り口にある吉井川と高島の砦を襲って児島と吉井川河口を分断し、備前の中心部の新市を攻略する。次に王宮軍を旭川におびき寄せ、笹ヶ瀬川に上陸する第二陣とはさみうちにする。手薄となる西播磨へは、但馬のアメノヒホコに山越えでの西播磨進軍を要請する。アメノヒホコにとっても大和への恩返しを示すと同時に祖国復興のよい機会となるはずだ。

 

宗像族の提案にイサセリビコやオオビビ王たちは慎重でした。海の事情には疎いこともありました。年前と同じように、帯方郡が吉備に援軍を送り込んでくることを懸念する声もあがりましたし、これ以上、軍事費をふくらますことは無理だ、とする意見も出ました。 

宗像族は、魏が司馬氏に禅譲する日が間近い。司馬炎は中国統一が最優先で、東北地方や朝鮮半島にはあまり関心を持っていない。今が吉備攻略の好機だとオオビビ王たちを説得していきます

 

女王トヨを殺さずに、大和に招き入れることも宗像族は強調しました。女王トヨの抹殺は大和にとって利にはならない。吉備や讃岐など邪馬台国圏の人々の女王に対する敬慕の念が強いことを宗像族は承知していました。吉備を征服した後、女王トヨを大和に迎えいれて禅譲の形にすれば、万事が丸くおさまる。吉備の反撃をなるべく軽度におさえこめば、軍事費の負担も最小限に抑えることができる。宗像族と開戦派は消極派を説き伏せていきます。

 

宗像族はひそかに安芸勢と伊予勢に働きかけて中立を約束させることも保証しました。両勢とも、宗像族と同様にイソタケル勢に押されて対半島交易が減っていましたから、説得に自信を持っていました。時代は吉備から大和に移っていると安芸と伊予も感知しているようです。

 

オオビビ王は意を決しました。宗像族の技術指導で播磨と紀伊で二百艘の船が建造されます。漁師や商人に扮した偵察者が吉備津に送られます。大和の国内は再び増税となり、農民は天をあおぎましだ。

 

年の末になって、宗像族の予告どおり、魏が司馬氏に禅譲となりました。吉備津の大窪の宗像山周辺に居住する宗像族は、筑紫の総領が重病になったと偽って吉備津を離れ、西ではなく東に向かい、播磨の加古川でイサセリビコ軍に合流しました。作戦遂行の時期は早春の明け方が満潮となる時期が選ばれましたが、直前になって吉備の晋への遣使が旅立つ日と重なることが判明した。天は大和に味方していました。

 

 

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