その39.夕霧 満50歳
6.夕霧、遂に落葉上を靡かす
一行はル・リヴォ城に到着しました。城内は悲しそうな様子もなく、人の気配が多くてこれまでとは様子が異なっています。落葉上は馬車を寄せて下りようとしたものの、住み馴れた我が家に戻って来たとは思えず、よそよそしく異様に感じて、すぐに下りようとはしないでいました。侍女たちは「何ておかしな仕草をされる」、「子供っぽい振る舞いですね」と見守りながら困惑していました。夕霧は東の対屋の南面を仮の自室にしつらえて、すっかり主人気取りでいました。
アゼイ・ル・リドー城では「急に情けない人になられてしまった。落葉上との関係は、いつ頃から始まったのでしょう」と人々は驚いています。「色っぽい戯れ事を好んでこなかった人でも、時にはこういった思いがけないことを実行してしまうものです。けれども噂にもならず気配も漏らさずに、何年も前から続けてこられたのだ」とばかり思い込んでしまって、「落葉上はまだ不承知で許してはいない」とまで気付く人はいません。いずれにしても落葉上にとっては、とても気の毒なことでした。
服喪中のことなので、通常と違って婚儀の最初の食事に精進物が供されるのは、縁起が悪いようにも見えました。食事などが終わり、辺りが静まった時分に夕霧は落葉上の住まいに渡って、少将の君に落葉上の寝室への案内を強く求めました。
「本当に末長い契りをお望みなら、今日と明日だけでもやり過ごして下さい。自分の住まいに戻って来られたものの、まだまだ色々なことで沈み込んでおられて、死んだ人のように臥されております。どのようにとりなししても、ご本人は『ただただ悲しい』とばかり思っております。機嫌を損ねてしまったら、私どもの身も立ちませんので、そんな煩わしく面倒なことを申し上げるのは出来かねます」と少将の君が答えました。
「何とも妙なことだ。想像していたこととは違って、子供じみた理解しがたい人なのだ。私の求愛は落葉上にとっても自分にとっても、世間から非難を受けるはずはない」と夕霧は言い張りましたが、「いえいえ、目下のところ、ひょっとしたら死人のようになってしまうのではないか、と気が気ではなく、私も気が転倒しまっていて何の判断もつきません。ご主人様、とにかく我を張って一途に乱暴な行為はなさらないで下さい」と少将の君は手を合わせて懇願しました。
「何とも聞いたことも見たこともない扱いなのだ。『憎くて気にくわない』と過去の夫よりも格段にさげすまれているのは情けないことだ。世間がどのように判定するだろうか」と失望しているので、少将の君もさすがに気の毒になってしまいました。
「聞いたことも見たこともない扱いだとおっしゃるのは、男女の色恋をあまりご存じではないからではありませんか。世間に判定してもらったら、理はどちらにあると答えることでしょう」と薄笑いしたものの、少将の君がいくら強情に言い張ったところで、今は婚儀を済ませているので、夕霧は拒み続けることはさせずに、結局、少将の君を引き連れて見当をつけて寝室に入りました。
落葉上は非常に心外で、「思いやりもない浅薄な心の人だった」といまいましくも辛くもあるので、「大人げないと言い騒がれてしまっても」と思い詰めて、物置部屋に敷物を一つ置かせて、中から錠を掛けて籠ってしまいました。「いつまでこんな風にしていられることだろう。頼みにしていた侍女たちまで、浮足立ってしまったのか」ととても悲しく悔しい思いでいました。
「目に余るひどい仕打ちだ」と夕霧は恨みながら、「このくらいのことでどうして断念できようか」と気長に構えて、色々なことを思案しながら夜を明かしました。オスとメスが夜は別々に過ごす山鳥の夫婦のような気がしながら、ようやく明け方になりました。こうしてばかりいると、直接顔を向かい合うことも出来ないので、「去らざるをえまい」と思いつつ、「ちょっとだけでもドアを開けてください」としきりに語りかけましたが、落葉上は何の反応もしないでいました。
(歌)怨んでも怨みきれない 胸の思いを晴らすことができない冬の夜に 物置部屋の戸まで
関所の岩門のように固く閉ざしてしまうとは
「何とも言いようもない、冷たいお心ですな」と、夕霧は泣く泣くル・リヴォ城を立って行きました。
夕霧はヴィランドリー城に立ち寄って、花散里の町で休息を取りました。
「あのアントワン太政大臣あたりでは『ル・リヴォ城の落葉上と結ばれた』と噂しているようですが、一体どういったことなのですか」と花散里はおっとりとした口調で尋ねました。内カーテン越しの対面でしたが、端からちらちらと顔が見えました。
「そんな風な噂も、なきにしもあらずです。亡くなったル・リヴォ夫人は私と落葉上との関係をとても気丈に、とんでもないことのように言い放されていましたが、『もうこれ限りだ』と気持ちが弱り、その上、私以外に落葉上を託する人がいないのを憂えたので、『私の死後は後見役を』といったような話をされました。元々、故柏木から『死んだ後の後見役になって欲しい』といった遺言もあったので、落葉上への思いはありました。定めし世間の人は色々と脚色して、噂しているのでしょう。それほどのことでもないようなことでも、世間は妙に口やかましく言うものです」と夕霧は一笑しました。
「と申しましても、当の本人は今なお、『浮世には住むまい』と深く覚悟して、『修道女になってしまいたい』と思い詰めているようなので、さてどうなることやら。落葉上と私との関係について、あちらこちらで聞き苦しいことを言われていることでしょう。落葉上が修道女になるとすると、二人への嫌疑は晴れることになりますが、私としては『あくまで夫人の遺言に背かないように』と考えてお世話をしております。父上がこちらに来られた際は、何かのついでにそのように伝えて下さい。『これまで堅物で通して来たのに、とどのつまりは不料簡なことをしでかしてしまった』と思われはしないか、と気になっていますが、なるほどこうした恋愛事は人の忠告にも自分自身の心にも従わないものですね」と声を小さくして答えました。
「噂は他人の作り事と思っておりましたが、なるほどそういった事情があったのですね。そうしたことは世間にはよくあることですが、それにしても雲井雁がどう思われているか気の毒です。これまでは平穏無事に過ごされて来たのですから」と花散里が話すと、夕霧は「愚妻をいかにも可愛らしい姫君のように話されますが、まるで鬼のような口やかましい人物ですよ」と夕霧は言い返しました。
「それでも正妻を決して疎略にはしておりません。恐れ入りますが、この城で貴女が置かれている立場からもお察しください。女という者は穏やかにしているのが、とどのつまりは勝者となるのです。口やかましく嫉妬深いと、しばらくの間は何となく面倒で煩わしいので自重してしまうこともありますが、いつまでもそうしているわけにもいきません。何か波乱が起きてしまった場合、自分も相手も憎しみ合って嫌気がさしてしまいます。やはり正妻でおられる南町の紫上の心構えこそ、色々とまたとないものと感じていますが、それに加えて、貴女様の心掛けもご立派なものだと、しみじみ感心しております」と養母である花散里を賞讃しました。
すると花散里は一笑して、「そうした例に引き出されてしまうと、私はヒカル様からあまり愛されてはいないことが浮き出てしまいますよ。それはそうとして、おかしなことにヒカル様は自分の多情な女癖を誰も知ってはいないかのように棚に上げて、貴方のちょっとした浮気を、さも重大事のように考えて説教をされています。私としては陰口を叩くような人こそ、賢そうに振る舞いながら、自分の行いを知っていない気がします」と話しました。
「全くその通りです。父上はいつも品行について教訓を垂れますが、そんなことは父の教えを聞くまでもなく、十二分に気を付けているのに」と夕霧はヒカルのおかしな矛盾を思い浮かべました。
夕霧がヒカルの住まいに挨拶に行くと、ヒカルは落葉上と婚儀を済ませたことをすでに聞いていたものの、「何も知った顔をすることはあるまい」と思いながら、ただ息子の顔をじっと窺っていました。満二十八歳の若さで元帥にまで上り詰め、清く美しく、ちょうど今が男盛りの絶頂でした。今回のような恋愛沙汰を引き起こしたとしても、人がとやかく非難するほどのことでもなく、鬼神でも罪を許さざるをえないほど、際立って立派で美しく、若々しい匂いが散り零れています。もはや無分別な若者ではありません。未熟なところもなく、立派に成熟していることが頷けます。
ヒカルも「なるほど、これなら女にとっても恋慕せざるをえまい。自分でも鏡を見れば、得意の念を起こさずにいられないだろう」と我が子でありながら納得しました。
昼過ぎに夕霧は自邸に戻りました。館内に入ると、可愛いらしい子供たちが次々にまつわりついて来ました。雲井雁は仕切りカーテンの中で横になっていました。夕霧が中に入っても目を見合わせようともしません。
「きっと私を恨んでいるのだろう」と感じるのももっともなことですが、気にもしていない風をしながら、ドレスの端を引っ張ってみると、雲井雁は「ここをどこと思って来られたのですか。私はとっくに死にました。私のことをいつも『鬼だ』と言われていますから、いっそのこと鬼になってしまおうと考えています」と告げました。
「貴女の心は鬼以上ですが、姿形は憎らしくもないので、すっかり嫌いになることは出来ないよ」と何くわぬ顔で話すと、雲井雁は癪に触ってしまいました。
「綺麗で色っぽく振る舞う人たちに混じって生きてはいけない私ですから、どこへなりとも消え失せて行きます。もう決して私のことを思い出さないで下さい。つまらない年月を過ごしてしまったことだけが口惜しいのです」と言いながら起き上がる様子は大層愛嬌があり、上気した顔にも魅力がありました。
「こうやって子供っぽく腹を立ててしまう鬼は見馴れてしまって、もう今は恐くもない。神々しい感じを付け加えて欲しいものだね」と冗談事にしてしまおうとすると、「何をおっしゃいます。いっそのこと死んでください。私も死にますから。見ていると憎らしくなりますし、聞いていても魅力がありません。貴方を見捨てて死んでしまうと、何をしてしまうのかが気になりますが」と立腹している様子が愛らしく見えます。
夕霧はにこやかに笑って、「私を近くで見るのが嫌になったとしても、私の噂は耳に入らざるをえないでしょう。貴女が言おうとしていることは、貴女と私の契りの深さを思い出させたい気持ちからなのでしょう。確かに一人が死んだら、もう一人もすぐに後を追って死ぬ、といった約束をしたね」とさりげなく言ってから、あれやこれやと言葉巧みに慰めました。
雲井雁はまだまだ若々しく、心も素直で無邪気なところもある人なので、「いい加減なことを言っているだけだ」と分かりながらも、段々と気分がなごんで来ました。夕霧は愛しい人だと思いながらも、心は上の空で落葉上に飛んでいました。
「あの人もそう我を張って、意地を強く張り通すようには見えないものの、万が一、どうしてもこちらの本意に同意できずに、修道女になってしまったなら、ばからしい目にあってしまう」と考えると、「しばらくの間は、訪問が途切れないようにしなければならない」と落ち着いてはいられない気になりながら、日が暮れて行くにつれ、「今日もあの人からの返信すらなかった」との思いが心に引っかかったまま、ひどく物思いに耽っていました。
雲井雁の方は、昨日今日と何一つ取らなかった食事を少しだけ口にしました。
「子供の頃から貴女に対して言い尽くせない愛情を寄せて、貴女の父大臣から冷酷な扱いを受けたり、世間から愚かな男と言われたりしたものの、じっと堪え忍び、あちらこちらから申し込まれた多くの縁談話も皆聞き流したので、『女でもここまではしないものだ』と皮肉を言う人もいました。今考えてみても、『どうしてあそこまで辛抱できたのか』と、我ながら若い時分から自重心があったのだと思い知っている。今はこうやって私を憎んでいるが、見捨てることの出来ない子供たちが大勢揃っているのだから、貴女一人の判断で邸を出て行くことも出来ない。まあともかくも、長い目で見ていなさい。寿命だけは定めがない世の中だが、貴女への愛情は変わらないよ」としんみりと涙を流しもしました。
雲井雁も昔のことを思い浮かべて、「あの頃は辛くとも仲睦まじく、さすがに宿縁の深さを約束し合っていたのだ」と思い出しました。
夕霧が萎えた普段着を脱いで、特別な衣服を重ねて香を薫きしめ、丹念に身繕いをしているのを火影に見ていると、堪えようもなく涙が込み上げて来るので、夕霧が脱ぎ置きした服の袖を引き寄せて、雲井雁が詠みました。
(歌)長年連れ添って 古びてしまった我が身を恨むより いっそのこと修道女の衣装に着替えてしまおうか
「やはり世俗の人間として過ごしてはいけない」と独り言を言っています。
夕霧は出掛ける足を止めて、「何とも情けないことを考えているね」と言いながら、
(返歌)自分の身が古びてしまったと言って 夫の私を見捨てて 修道女になってしまった
との評判が立って良いのだろうか
と詠みましたが、気がせいているので、平凡な返歌でした。
夕霧がル・リヴォ城に戻ると、落葉上はまだ物置部屋に引き籠っていました。侍女たちは「いつまで閉じ籠っているのでしょう」、「子供じみたおかしなことをしている、と人から言われてしまいますよ」、「いつもの場所に戻って、夕霧様にしかるべきことを話されたら良いのでは」などとあれこれ説得しました。
落葉上は「もっともなことだ」と思うものの、今から後の世間の悪い噂も、これまでの自分の気苦労も、心が引かれないあの恨めしい人との関わり合いからなのだ」と肝に銘じていたので、その夜も夕霧と対面しないでいました。夕霧は「取りつきようもない珍しい人だ」と言いながら語り続けるので、侍女たちも「お気の毒に」と見守っていました。
少将の君が「落葉上は『少しでも人心地がつくようになるまで、私のことを忘れずにいてくれましたなら、何なりとご挨拶をいたします。母の服喪期間の間は、一心に思い乱れることなく供養をして過ごしていきたいのです』と深く決心されております。また、こんな具合にお二人のことで生憎な噂が立って、知らない人もいないまでになってしまったことを、やはりひどく辛いようにも話しております」と報告しました。
「落葉上への私の愛する思いは、普通の人と違って先行きに不安がないものなのに、心外な扱いをされるとは」とため息をつきました。物置部屋に閉じ籠っている落葉上にドア越しに「いつもの部屋に出て来られるなら、物越しにでも私の貴女への気持ちだけでも話して、貴女の意に背くことなどしませんよ。何年でも待ち続けますよ」と際限もなく話し続けましたが、「今もなお、思い乱れているのに、それに加えて何とも堪え難い無理を言われるのがとても辛く感じます。私について人があれこれ、どんな風に評しているのかと、並々ならない思いをしている我が身の辛さは申すまでもないのに、その上に何て浅ましい心構えなのでしょうか」と落葉上は重ねて恨みながら、二人の距離はほど遠いことを言い返しました。
「そうは言っても、こんな状態でいると、人の噂になってしまうのも当たり前のことだ」と夕霧は侍女たちの手前もきまりが悪いので、「服喪中であるから、という落葉上の心構えに納得をしたふりをしながら、当面は情は通じた、ということにしておこう。婚儀を済ませたものの、独り身のままでいる、というのでは私の立つ瀬がない。こんな風に私を拒むからと言って、これっきり通わなくなってしまうと、私に捨てられたようになって、本人の評判が気の毒なことになる。それにしても一方的に思い詰めて、大人気もなく拗ねているのは困ったことだ」と少将の君を責めると、少将の君も「それもそうだ」と感じつつ、夕霧の今の様子が気の毒で見てはいられないので、物置部屋の奉公人専用の北の入り口から夕霧を中に入れました。
「何て浅ましく情けないことをするのでしょう」と落葉上は侍女たちを恨みました。「こんな風に侍女たちもあてにならなくなったので、もっとひどいことをされかれない」と頼れる人もいなくなってしまった我が身を返す返す悲しくなりました。
夕霧は落葉上が納得するように様々な道理を尽くして話しました。言葉数も多く、哀れっぽく気を引くような言葉を尽くしますが、落葉上はただただ「辛くて気に食わないことばかり話している」と感じているだけでした。
「こうしたように、何とも言いようもない男のように思われていると、我が身がこの上もなく恥ずかしくなります。あってはならない恋を始めてしまったのは思慮が浅かったことだった、と悔やんでもみますが、取り返しがつかないうちに噂が立ってしまいました。もはや気丈のままでおられることはありえません。もう仕方がないことだ、と諦めてください。思い通りにならない時に身を投げてしまう例はありますが、私の志を深い淵になぞらえて、私に身を捨てたと考えて下さい」と話しました。
落葉上はドレスに頭を埋めながら、やっと出来ることは声をあげて泣くだけでした。その様子が女性らしく愛おしいので、「まったく困ったことだ。どうしてこんな風にまで嫌がっているのだろう。かたくなに操を守ろうとする人でも、ここまで来れば自然と心が緩んで来るものだが、岩や木よりも靡かないというのは、私との縁が薄くて憎いからだと思っていて、そんな態度をとっているのだろうか」と思い寄ると、あまりのことに気が塞いでしまいました。
雲井雁がどう思っているだろうか、昔の無心に恋し合っていた日々の事、結婚してから今まで隠し立てもなく信頼し合って来た有様を思い浮かべていると、自分の意思で始めた落葉上への恋も味気ないように思うようになってしまい、無理をしてまで落葉上をなだめようともしないで、ぶつぶつぼやき続けました。
とはいうものの、いつもこうした具合に間が抜けたように出入りするのもみっともないことなので、この日はここに留まってゆっくり構えることにしました。こうまで一途な夕霧に落葉上は呆れてしまって、ますます疎ましい様子を強めました。「理解しがたい心持ちだ」と夕霧は恨む一方で、哀れにも感じました。物置部屋には格別細々した物は多く置いてはなく、香を入れるイタリア製の櫃や置き棚などが置かれているだけでした。そうした品々を隅に片寄せて、間に合わせの場所に落葉上は座っていましたが、とうとう夕霧に身を任せました。
薄暗い感じがする部屋でしたが、朝日が射し出て来た気配が漏れて来ました。夕霧は羽根布団をかぶっている落葉上の夜着をはらって、ひどく乱れた髪を掻き上げたりしながら、そっと落葉上の顔を見やりました。王女らしく大層上品で艶めいた気配をしていました。一方の夕霧の様子は真面目くさっている時よりも、くつろいでいる時の方が限りなくすっきりした美男子です。落葉上は亡き柏木が特別な美男子でもないのに、この上もなく思い上がっていて、自分の顔や形が不十分だと、何かにつけて気に入らない気配だったことを思い出しました。
「まして当時よりもひどく衰えてしまった自分の様子を、夕霧様は少しの間でも我慢できるだろうか」と思うと、たまらなく恥ずかしくなっていました。そしてあれやこれやと思案を巡らしながら、夕霧の婦人となった自分を納得させるように努めました。ただ心苦しいことは、あちらこちらの人が聞いて苦々しく思ってしまったなら、申し開きもできないし、その上、喪中の期間でさえあるのが心配の種になってしまい、気持ちの慰めようがありません。
いつもの居間の方で手洗いや朝食の用意がされていました。喪中なので通常と異なる色合いで飾り付けがされているのは縁起でもないようなので、東面には屏風を立て、本館の境は吉を示す薄紅色の香染めの布で仕切り、大げさに見えない物や沈木造りの二段棚を配置して、いかにも婚姻を祝うようなしつらいにされていました。これはパリ知事の差し金でした。侍女たちにも派手ではない色合いの渋みの黄色の肌着や濃い紫色や青鈍色の衣服に着替えさせ、朝食の給仕も喪中には見えないように、紫の薄物から渋みがかった黄緑色に替えさせました。
柏木の死後は女性だけの住まいとなっていたので、諸事の規律が乱れてしまった城内の様子を引き締め、数少なくなっている使用人をうまく使いこなしたのもパリ知事一人の切り盛りでした。
「このように思いも寄らない高貴な客人が住み着くようになった」と聞きつけて、現金なことにこれまで出仕してこなかった職員なども急に参上して、事務所に詰めて仕事をするようになりました。
7.雲井雁、嫉妬と失意で実家に戻る。副女官長エレーヌの慰問
こうして夕霧はとにかくもル・リヴォ城に住み馴れた顔をして住むようになりましたが、それを知った雲井雁は「もう夫婦仲はこれ限りとなった。こんなことがあるだろうか。まさかと願っていたが、『真面目人間は心変わりがすると別人のようになる』と聞いていたのは本当のことだったのだ」と夕霧との仲が終焉した気持ちがしました。
「何としても夫の無礼ぶりを見ていたくはない」と感じたので、「厄除けの方違いに」と言って、実家のソーミュール城に行きました。たまたま冷泉院の貴婦人である姉のアンジェリカが里帰りしていたので、姉と対面して少しは憂さを晴らしながら、いつものようにアゼイ・ル・リドー城に急いで戻ろうとはしないでいました。
それを聞いた夕霧は「そうだろうな。せっかちに行動してしまう性格だから。父親のアントワン大臣も同じように思慮深くゆったりした所がなく、ひどく気短に派手に騒ぐ人だから、さぞかし『気に食わないことだ。もう会いもしないし聞きもしない』などとみっともない騒ぎをしでかしているかもしれない」と驚いて、急いでアゼイ・ル・リドー城に戻りました。四男四女の子供たちの半分は残っていましたが、残りの姫君や幼児は雲井雁が連れて行っていました。残った子供たちは父親を見て、喜んでまとわりつく者もいれば、母親を恋しがり悲しんで泣いている者もいました。
夕霧は雲井雁宛てに何度も手紙を送り、迎えの馬車も出しましたが、返信すらありません。「何て頑固で軽率なやり方なのか」と不愉快になりましたが、アントワン太政大臣の手前もあるので、夕暮になってからソーミュール城に迎えに行きました。
「雲井雁はアンジェリカ様と一緒に本館におられます」と知らされたので、とりあえず行き慣れた部屋へ行ってみると、侍女たちが控えていて乳母が幼児に付き添っていました。
夕霧は侍女を取次ぎ役にして、雲井雁に苦言を伝えました。
「何を今さら姉妹で子供じみた無駄話をしているのです。ここにもあちらにも子供をほったらかしにしておいて、娘時代に戻った気でいるとは。そんな性格は理解しがたいことだと前々から承知していたものの、宿命であったのか、子供の頃から貴女のことを忘れ難い存在だと思い込んでいたし、今に至っては煩わしくともいたいけな大勢の子供も出来たので、お互いを見捨てることはないと信じていた。それなのにちょっとしたことが起きてしまったと言って、こんな行動を見せるとは」とひどく咎めたり恨んだりしました。
すると雲井雁は「今となっては何もかも愛想をつかされてしまった身ですから、今さら私の性格を直しようもありません。頑是ない子供たちを見捨てないでいただけるなら、嬉しいことです」と答えて来ました。
「無難な答えだね。煎じ詰めると誰が不名誉なことになるのだろう」と夕霧は無理に「一緒に戻ろう」とも言わず、その夜はソーミュール城で独り寝することにしました。「妙なことに中途半端なことになってしまったな」と思いながら、子供たちを側に寝かせながら、「あちらの人はどう案じていることか」と思いやると、心中穏やかではなく気ももめてしまいます。「一体、どういった人が恋というようなものを風流なことと考えたのだろうか」と、懲り懲りしたという気もしました。
夜が明けてから、夕霧は侍女を仲介役にして雲井雁との交渉を再開しました。
「若い夫婦のように言い争っているのを人に見聞きされたら笑われてしまう。『もうこれっきり』ということなら、私もそのようにしよう。アゼイ・ル・リドー城に残っている子供たちもいじらしく貴女を恋しがっている。選んで残したのはそれなりの理由があってのことだろうが、放ってはおけないから、ともかく私が面倒を見ることにする」と脅してみると、一本気な性格の雲井雁は「こちらにいる子供たちすら、知りも知らないル・リヴォ城に連れて行こうとしているのか」と不安になりました。
「とにかく姫君たちを本邸に戻してください。子供たちの顔を見るのにこちらに来るのは体裁が悪いことだし、度々やって来ることもできない」と夕霧は続けました。こちらに連れてこられた子供たちはまだ幼く、いかにも愛らしくしていました。夕霧は「とても愛おしい」と子供たちを見つめながら、「母上が話すようにしてはいけませんよ。あんな風に情けなく、物事の分別も判断できないのは大変悪いことなのだよ」と言い聞かせました。
アントワン太政大臣は二人がごたごたやり合っているのを聞いて、世間の人に笑われてしまうと歎きました。
「しばらくは、このまま様子を見ていなさい。元帥殿も考えがあってされていることだろうから。女があまりに性急に行動してしまうと、かえって軽率に見えてしまう。仕方がない。貴女がやり始めたことなのだし、何もこちらから折れておめおめと戻るというのも、どうだろうか。そのうち自然と落葉上の様子や考えが見えて来るだろう」と雲井雁を諭しながら、落葉上の様子を知りたくて、次男の蔵人少将ロランをル・リヴォ城に差し向けました。
(歌)ご縁があって 貴女のことを いつも気にとめています
夫を亡くして気の毒な方と思う一方で 夕霧元帥とのことで 恨めしい方だとも耳にしています
「今でも私どもを思い捨ててはおられませんね」といったアントワンの手紙を携えて、ロランはずかずかとル・リヴォ城に入って行きました。
ロランは敷物が置かれた南面のベランダに招かれましたが、侍女たちは応対に困っていました。それ以上に落葉上は「困ったことだ」と感じていました。ロランは兄弟たちの中でも顔形がよく、感じもよい人でしたが、城内をゆっくりと見渡しながら、兄の柏木がいた頃を思い出している様子でした。「こちらには始終やって来た気がして、久しぶりの気もしませんが、もう私と会ってみたいとは思われていないのでしょうか」などと、それとなく嫌味を言ったりしました。
落葉上は返信をしたくもなく、「どうしても私はうまく書けません」と言い張りました。「それでは相手を不快にさせますし、子供じみたように思われてしまいます」、「やはり代筆では失礼にあたります」と侍女たちは寄ってたかって返信を促しました。
落葉上は涙を浮かべて、「母上が存命していたなら、たとえ『私が気に食わない』と思いながらも、罪をかばってくれたに違いない」と母を思い出すと、涙ばかりがペンより先に筆跡に伝わってしまう気がして、書き進めることができません。
(歌)ものの数にも入らない 私一人について どうして 気の毒だとも思われ
悲しいこととも聞かれるのでしょうか
とだけ、思い浮かぶままに書いたものの、書き終えることができないまま、返信を折りたたんで侍女に渡しました。
「こちらには時々伺っていましたが、このようなベランダでの応接はふさわしくないでしょうか。義兄と婚姻されたのですから、ご縁が再び出来たと存じますので、これからはしばしば伺うことになりましょう」とおもわせぶりに言いながらロランは帰って行きました。
こうした出来事もあって、落葉上はますます気分を損じているので、夕霧はひどく落ち着かないままでいました。一方の雲井雁は日が経過していくままに、思い嘆きが深まって行きました。副女官長エレーヌはその様子を聞いて、「雲井雁は夕霧様の愛人である私を許せない者とおっしゃっていたが、私以上に侮りがたい女性が出現してしまった」と同情して、時々、見舞いの手紙を送るようになりました。
(歌)私が人並みな身分の者だったら 夫の浮気を知ると悲しくなります
貴女様のことを思うと 涙で袖を濡らします
雲井雁はエレーヌの手紙を読んで、「あてつけがましいことを」と感じましたが、物悲しい思いのまま手持ち無沙汰でいる時に、「エレーヌも平静ではいられないだろう」と少しは心が動いて返信を送りました。
(歌)私は今まで他の夫婦仲の不幸を 可哀想だと感じていましたが
我が身にふりかかってしまうとは 思ってもいませんでした
とだけ書かれていましたが、「思っていることをありのままに詠まれたのだ」とエレーヌは哀れみを感じました。
夕霧の青春時代、雲井雁との仲が遠ざけられていた間、夕霧はエレーヌをひそかな愛人として思いを寄せていました。雲井雁と結婚した後は、まれにしか出逢うことはなくなってしまいましたが、それでも四人の子供を産んでいました。
夕霧は雲井雁と結婚してから十一年間で太郎君・三郎君・四郎君・六郎君・大君・中の君・四の君・五の君の四男四女の子宝に恵まれました。エレーヌとの間にも二郎君・四郎君・三の君・六の君の二男二女が誕生しており、すべてで十二人の子供がいました。幸運なことに十二人とも出来の悪い者はなく、とりどりに大層可愛らしく育っていました。中でもエレーヌが生んだ四人は器量もよく、性格も利発で優れていました。四人のうち三の君と二郎君は花散里に引き取られて、とりわけ大切に養育されていて、ヒカルも日頃から見馴れて可愛がっていました。
夕霧にとっての悩みは雲井雁と落葉上との関係でしたが、どうおさまりが付くのか、語り尽くすことは出来ません。
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