その18.松風 (ヒカル 30歳)
5.ヒカル、モントワールのサン・ブリュー上を訪問
こうした風に何となく歯がゆい毎日を暮らしていましたが、さすがに心を落ち着けることができないので、人目を憚らずにモントワールを訪れることにしました。紫上にはサン・ブリュー上について、「これこれ」と詳しくは知らせていなかったので、「例のように他から聞いてしまったら」とあやうんで、侍女を通じて通知しました。
「ル・ロワール川のラヴァルダンで確認をしなければならないことがあるのですが、何だか気が乗らないうちに日が過ぎてしまいました。加えて訪れを約束した人がその近くに来ていて、私の訪問を待ってもいますので、気になっています。ラヴァルダンに建てたシャペルでも飾りつけを済ませていない聖母子像のお世話をする必要もありますから、二、三日の滞在になりますでしょう」と告げました。
紫夫人は「ラヴァルダンという場所に急にシャペルと山荘を造らせた、という話を聞きはしていましたが、そこにその女性を住まわせているのだろう」と面白くないようです。
「それはそれは。さぞかし待ち遠しかったことでしょう。樵の斧の柄が朽ちてしまうまでの長い滞在になりましょうね」と不機嫌な様子です。
「またいつものように、自分と競い合って邪推している。世間の人も『女好きだった昔の面影は跡形もない』と言っているのに」と何やかやと機嫌をとっているうちに、日が高く上ってしまいました。
ヒカルは人に気付かれないように、お供には顔見知りではない者は混ぜないように気をつけてル・ロワールに向かい、夕暮れ時にモントワールに着きました。旅姿に身をやつしていたサン・ブリュー時代の時ですら、世にも類ない御方のように感じていたのに、まして今回は相当な心遣いをしてきっちりと着込んだ姿なので、この上もなく優美で眩しい心地がしますから、思い迷いがつのっていたサン・ブリュー上の胸のつかえも晴れていくようでした。
中々サン・ブリュー上に逢うことができずにいたヒカルも愛しさがあふれ、まして若姫を見る思いは通り一遍のはずがありません。逢えずにいた今までの年月があきれるほど長く、口惜しいまでに思います。世間の人はアンジェの若君を「美男子だ」ともてはやしていますが、やはり権勢がある家柄の子ですから、そういう風に見なされるのです。
「この姫君こそ、人より優れた女性になる兆しをはっきりと見せている」と確信するほど、無邪気に笑う顔立ちは愛嬌がこぼれるばかりで、「たまらないほど可愛い」と感激します。乳母のマリアンヌもサン・ブリューへ下って行った時は痩せ衰えていましたが、今はふくよかになっています。マリアンヌがここ数か月来の出来事を親しげに話すのを聞いているとしんみりしてしまい、あんなサン・ブリューの塩小屋の間近で辛抱してくれたことをねぎらいます。
「ここでもシュノンソーからかなり離れていて、出向いて来るのが難しい。やはり私が望んでいる場所に移って来てください」とサン・ブリュー上に勧めますが、「もう少し落ち着いてから」との答えももっともなことです。
一夜をあれこれを約束し、睦み言を交わしながら明かしました。管理人や新たに加わった職員に修繕すべき箇所を指図します。「内大臣がお越しになった」と聞いた近辺の荘園の人たちがラヴァルダンに集まっていましたが、ヒカルの居場所を知って尋ねて来ましたので、前庭の草木が折れ臥してしまった所などの手入れをさせました。
「そこいらじゅうにある庭石も転がったり失せてしまっている。風情があるように置き換えてみたら、面白い眺めになるだろうが、こうしたひなびた山荘の庭をわざとらしく手入れをするのは不似合いである。あまり手をかけすぎてしまうと、ここから離れる際にかえって気になって、心残りで苦しくなってしまうだろう」などと先行きのことも話しながら、泣いたり笑ったり打ち解けているのは喜ばしいことです。
母の修道女もそっと覗いてみますが、老いを忘れて、これまでの物思いも晴れていく心地がしながら微笑んでいます。東の回廊の下から湧き出る水の流れをよくしようと指図しながら、なまめかしい下着姿でくつろいでいるのを「とてもめでたく、嬉しいこと」と拝見していると、ヒカルは聖水鉢などの道具類があることに気付いて、「修道女もこちらにおられるのか。こんなみっともない恰好をしていては」と言って、プルポワンを取り寄せて着込みます。
ヒカルはカーテンの側へ寄って行って、「娘さんを非の打ち所もなく育て上げてくれましたのは、日頃の勤行のお蔭と存じ上げます。清らかなお勤めに専念されていた住まいを捨てて、ロワールへ戻って来られたお気持ちは月並みなことではありません。それにまた、サン・ブリューに一人残られた修道僧はこちらのことをどんなに心配されているだろうか、とあれこれ気になります」ととてもなつかしげに話しかけました。
母君は「捨ててしまったロワールに今さら戻って来て、思い乱れている私の心を推し量ってくださり、長生きをした甲斐があったと存じます」と涙を流して、「荒磯に揉まれて育つことを心苦しく感じておりましたが、『二葉の松』のように可愛がっていた娘にも今は頼もしい未来が出来た、と祝っております。何分、親たちの素性が卑しいことですから、一体、どういうことになっていくことか」と話す気配は不安げです。母君の祖父親王がこの山荘に住んでいた模様など、昔話を語らせていると、手入れをした水の音が何かを言いたそうに聞えます。
(歌)昔住み慣れた邸に戻って来て 昔のことを思い出そうとしておりますが 湧き出る清水が
主(あるじ)顔で音をたてています
わざとらしくなく言い切らずにいる母君の様子を「さすがに気品がある」と感じながら聞いています。
(返歌)湧き出る清水が 昔のことを忘れずに 主顔をしているのは 元の主が修道女の姿に変えてしまったからでしょう
やるせないことですね」と溜息をつきながらカーテンの近くから離れていくヒカルの姿や匂いを母君は「世にも類ない御方」と拝みます。
ラヴァルダンのシャペルへ出向いて、毎月十四、十五日と月末の二回に行われる聖母子、聖ミシェルと聖カトリーヌへの祈祷三昧は言うまでもなく、それに加えるべきことなどを指図します。シャペルの飾りつけ、祈祷向けの用具なども順繰りに指示しました。
暗くなってから、月明かりの中をモントワールに戻りました。サン・ブリューにいた頃、女君に逢うために丘にある邸に通っていた夜のことを思い出していると、その様子を見て取ったのか、サン・ブリュー上はヒカルが形見に置いていったハープを差し出しました。何と言うこともなくヒカルは感慨が込みあがって堪え難くなりながら、ハープを掻き鳴らします。ハープの調子に変わりはなく、その当時の思いが今のように感じます。
(歌)ハープの調子が変わっていないように 約束を絶やさなかった 私の心がお分かりになりましたか
(返歌)交わしたお約束が 変わらないことを頼りにしながら 松の響きに音を添えてまいりました
と女君が返しましたが、二人が詠み交わしている光景が不釣合いに見えないのは、女君にとっては身に余る幸せのようでした。前よりも綺麗に立派になってきたサン・ブリュー上の容姿や気配を今はもう、見捨て去ることは出来ません。二人の間にできた若姫を飽きもせずに見守ります。
「それにしても、どうしたらよいだろう。日陰の隠し子のようにして育てていくのは心苦しいし、悔しくもある。シュノンソーに引き取って、思い通りに世話をやいていくなら、後々の評判も良く、他人からの批判も免れることができるだろう」と思うものの、実母であるサン・ブリュー上が悲しむのが気の毒なので、言い出しかねてつい涙ぐんでしまいます。
姫君は幼な心で初めは恥かしがっていましたが、次第にヒカルに打ち解けてきて、ものを言って笑ったりしながら馴染んでくるのを見ると、あどけなさが一塩で美しいのです。ヒカルが抱いている様子は見甲斐があり、親子の宿縁がこの上ないように見えます。
三日目になった翌日はラ・ロワールへ戻る予定なので、朝は遅くまで寝過ごして、ゆっくりしてから山荘を出ようとしたのですが、ラヴァルダンの方に大勢の人々が参集している上に、山荘にも王宮人が押しかけて来ます。正装に着替えていたヒカルは「非常に体裁が悪いことだ。ここはおおっぴらに出来るような場所でもないのに」と愚痴りながら、混雑する中、山荘を出ようとします。
立ち去るのが名残惜しい気持ちをさりげない風に装いながら、玄関口で立ち止まっているとマリアンヌが若姫を抱いて出て来ました。愛おしそうにヒカルは頭を掻きなでて、「見ないでいるのはとても苦しいのだが、身勝手というものだろうか。どうすべきだろう。ここは遠すぎる場所だし」と言いますと、マリアンヌが「ここより遙かに遠い所で案じておりました年月よりも、これから先、あまりお逢いできるかどうか、はっきり分からないのが不安です」と答えました。
姫君が手を差し出しながら立ち上がって慕って来ますので、つい膝をかがめて「不思議と気苦労が絶えない身になってしまった。しばしの別れでも苦しいことだ。母上はどこにおりますか。なぜ一緒に出て来て、名残りを惜しんでくれないのだろう。せめてそうしてくれるなら、人心地がつくというのに」と言いますと、マリアンヌがくすっと笑いながら、奥に入って女君にその旨を告げました。
女君はあれこれ物思いにふけながら横に臥していましたので、すぐには起き上がることができません。「あまりに貴婦人のようにもったいぶっているな」とヒカルはむっとします。侍女たちも気を揉みますので、しぶしぶ奥から玄関口に寄って行きます。カーテンの側に隠れた横顔は至極優美で、気品があります。しとやかな気配は王族の女性と言っても差支えありません。
ヒカルはカーテンの垂れ布を引きのけて、心をこめて語らった後、戸口から出た後もしばらくの間振り返っていますと、そんなにまで沈み込んでいた女君も玄関口に出て見送りました。それにしてもヒカルは何とも言えないほど、今が盛りの姿でした。背が高くすらっとしていましたが、すこし丸みをおびて貫禄がついています。「お姿など、このようにどっしりとしてこられた。プロポワンの裾まで艶かしく、愛嬌がこぼれ出ておられる」と言うのは身勝手な贔屓目だからでしょうか。
無官となってヒカルの従者としてブルターニュに下っていった、あの蔵人ステファンもロワールに戻ってから親衛隊の官位五位に復官して、今年は叙爵も賜わりました。ブルターニュにいた頃と打って変って得意気な様子でしたが、ヒカルが忘れた剣を取りに玄関口に戻って来ました。カーテン越しに人影を見つけて、サン・ブリュー上だと気付きました。
「サン・ブリュー時代のことを忘れたわけではありませんが、恐れ多いので遠慮をしておりました。あの浦風を思い出させる今朝の寝覚めの風でも、ご挨拶を申し上げる手立てがなくて」と意味ありげに声をかけますと、「幾重にも霞みがかかる山里の暮らしは、あの侘しい浦での暮らしに劣るものではありませんが、
(歌)誰を一体 親しい友人としようか この山荘の松の大木も 昔からの友人ではないのだから
という歌のように淋しく感じておりました。サン・ブリューを忘れておられない御方がおられるとは頼もしいことです」と返して来ました。
「ご立派になられたことだ。自分も思いをかけていないわけでもなかったのだが」などと興ざめな気持ちがしたものの、「ではいずれまた」ときっぱり挨拶をして、お供の列に戻りました。
威風堂々とヒカルが馬車へ歩いて行きますと、前駆の者が人垣を押しやります。ヒカルは馬車の隅にまだ若い官位四位の頭の中将と兵衛の督を同乗させました。
「こんな貧相な隠れ家を見つけられてしまって残念だ」とヒカルはひどく困惑していますが、「昨夜の月夜のお戻りではお供をすることが出来なかったのが口惜しかったので、今朝は霧がたちこめる中をかきわけて伺った次第です」、「山の紅葉はまだ早いようですが、野原の秋草は今が盛りで見所がございます」、「某君は鷹狩りに夢中になって遅れておりますが、どうしたことやら」と若い衆二人が話します。
6.勅使のラヴァルダン参向と姫君の養女問題
車中のヒカルは気が変わったのか、「今日は一日、ラヴァルダンで過すことにしよう」と言って馬車を向わせました。ラヴァルダンの山荘の管理人たちは急な饗応の仕度で大わらわとなりました。楽しんでいただこうと鳥使いも呼ばれましたが、鳥使いたちの話しぶりを聞いているとサン・マロの漁師のしゃべくりを思い出しました。鷹狩りで野営をした者たちがそのしるしとばかり、小鳥を結いつけた荻の枝などを土産にして参上しました。
何度となく酒盃が酌み交わされて、川のほとりを歩く足取りが危なげになるほど、皆酔いしれて一夜を過しました。各人が四節からなる定型詩を作り合い、月が花やかに射し出した時分に管弦の大合奏会が始まって、誠に華やかです。弾く楽器はリュートとハープだけですが、笛は上手な者が皆選ばれて時節に合った調子を吹きたてますと、川風が面白いほど吹き合わせてきます。
月が高く上がって、何もかもが澄み渡った夜が少し更けた頃、アンボワーズから王宮人が王さま付きの女官も含めた四、五人連れでやって来ました。
「王城に詰めておりましたが、管弦の催しがあった際に王さまが『今日は毎月六日の謹慎日明けの日であるから、必ず内大臣が参上しているはずだが、どうしたのだろう』と仰せになると、『ル・ロワール河畔のラヴァルダンに泊りがけで行かれている』との報告がありました。それを聞いて、女官の蔵人の辨に言付けを託されました」。
(歌)月とゆかりが深い ル・ロワール川の川辺にある里であるから 月の光りをゆっくり鑑賞できることだろう
羨ましいことだ」と王さまが詠んだ歌を蔵人の辨が伝えました。王宮人は王城での催しよりも、さすがに場所柄の凄さが添えられた管弦の音を賞美して、酔いの杯がさらに重なります。
ラヴァルダンには客人に贈る引出物の用意がありませんので、モントワールへ「わざとらしくない贈呈用の品はないだろうか」と使いを送りました。折り返し、モントワールの山荘から有り合わせの物が届きました。衣裳用の櫃二荷でした。王さまの使いの辨はすぐに引き返さねばならないので、櫃から女性用の衣裳を取り出して贈りました。
(歌)ル・ロワール川は 月とゆかりが深いと申しますが それは名ばかりで 朝も夕も 霧が晴れない山里です
王さまのラヴァルダンへの行幸を期待する気持ちがあるのでしょうか。
(歌)私が今いる里は 月にゆかりが深いと言いますから 月の光りのような藤壺女院のお越しを
お待ちしております
という歌を心の中でそらんじているうちに、あのジャージー(Jersey)島に浮んだ月を思い出して、「はるかに臨んだジャージー島に上った月も 今宵は間近に見えるのは 場所柄からだろうか」と 高名な詩人が訝しがって詠んだ歌を語り出すと、物悲しさから酔い泣きをする者もいたことでしょう。
(歌)時節がめぐり ロワールへ戻ってから見る 手に取るように鮮やかな月影は はるかに臨んだジャージー島に
上った月と同じものなのだろうか
とヒカルが詠むと、頭の中将が続きました。
(歌)災難に遭われて しばらく雲隠れをしていた月の光も 今はロワールに戻られて
澄みきったのどかな日々でありましょう
少し老いてはいますが、故桐壺院にも親しく仕えたことがある官位四位の右大辨がそれに続きました。
(歌)九重の雲に包まれた王城を 去られた故桐壺院は この夜半の月影の中 どの渓谷に姿を隠されたのでしょうか
他にも思い思いに詠んだ歌が数多く詠まれましたが、煩わしくなるので省略します。
その後は打ち解けながら、少ししんみりした話が相次いで、斧の柄が朽ちるまで千年の間でも滞在したい気持ちもわきましたが、「四日目となる今日こそは」と振り切って、急いでシュノンソーへ戻ることにしました。
お供の人々は身分に応じて引出物の衣裳を頂戴して身につけますが、霧の絶え間に見え隠れしているのが、前庭に咲く花々に見間違えてしまうほどの色模様で、非常に美しい。近衛府の役人の中で芸達者な者たちが物足りなさそうに「草を乞う馬」などの賛美歌を歌い踊りながら、頂戴した衣裳を脱ぎ脱ぎしている色々は「秋の花の錦が風にひるがえっている」ように見えます。
浮かれ騒ぎながらラ・ロワール川に戻っていく一行の響きをモントワールの山荘でも遙かに聞きながら、サン・ブリュー上は名残り惜しげに遠くを眺めています。内大臣も「言付けもせずに去ってしまった」と気になりました。
シュノンソーに戻って、しばらくの間休息をしてから西館に行って、紫夫人にラヴァルダンのシャペルや山荘の話などをしました。
「約束した日数より帰りが遅くなってしまい、心苦しい限りです。好き者どもが尋ねて来て、無理やり引き止められてしまいました。今朝はすっかり疲れてしまった」とヒカルは寝室に入ろうとします。紫上は例のように不機嫌な顔つきに見えましたが、それに気がつかない振りをしながら「肩を並べるほどでもない身分の女性と較べてしまう、というのは悪い癖ですよ。自分は自分だとお考えなさい」と教え諭します。
日が暮れていく頃、王宮へ上がろうとしますが、隠すように走り書きをしているのは、あちらへの手紙なのでしょう。横目で見ても、細々と書き込んでいるのが分かります。使いの者にひそひそと囁いているのを侍女たちは憎らしそうに見ています。
その夜は王城に宿直をする予定でしたが、機嫌が悪そうだった紫上が気になって、夜は更けていましたが、自邸へ退出しました。すると使いの者が先刻の手紙の返信を携えて戻って来ましたので、隠そうともせずに開けて読んでみます。
とりたてて紫夫人の気持ちを損ねる箇所もないので、「これは破り捨ててください。面倒なことになるからね。こんなものが散らかっているのは不似合いな年頃になってしまいました」と言って肘掛けにもたれましたが、内心ではサン・ブリュー上のことをしみじみ恋しく思いつつ、灯火をじっと見つめながら、何も言わずにじっとしています。
返信は広げたままでしたが、夫人が見ようともしないので、「何だか見ないようにしている、その眼つきが気になりますね」と笑うヒカルの顔には心憎いほどの愛嬌がこぼれています。夫人の側に寄って行って「本当のことを申しますと、可愛い子を見ると宿縁が浅いとは見えません。我が子を見ていると、目が覚めるような新鮮な思いがします。とは言うものの、おおっぴらにするのも問題が多いので、どうしたらよいか困っております。私と同じ気持ちになって考えてみてください。どうしたらよいでしょうか。ここに引き取って育てていきましょうか。じきに三歳になるのですが、あどけない顔を見ていると、放っておくわけにはいきません。まだ幼いうちから貴女が育て上げてくれるなら、身分の低さも薄れていくだろう、と思ったりもします。気に食わないと思わずに、その子の満三歳の祝いをしてくれませんか」と心境を話しました。
すると紫夫人は「こちらが思ってもいない邪推をされる身勝手さをわざと気がつかないように振舞っていましたが、あどけないような心のある子なら、私にもなついてくれますでしょう。どんなに可愛いお子さんなのですか」と少し微笑が浮んでいました。夫人は無闇と子供好きの性格でしたから、「その子を引き取って養育してみたい」と思ったようです。
「そうなるとすると、どうやってあの子を迎え入れようか」と逆にヒカルは思い悩んでしまいます。
モントワールへ出向いていくのはかなり難しいことでしたが、ラヴァルダンのシャペルでの祈祷などを口実にして、月に二度ほどの出逢いになったようです。わし座のアルタイル(彦星)とこと座のペガ(織姫星)の年に一度の逢瀬よりはましなので、贅沢は言えませんが、サン・ブリュー上の物思いはいかほどのものだったでしょう。
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