その15.蓬生 (ヒカル 27歳~28歳)
5.ヒカル、末摘花を訪問
五月末にリヨンの花散里を訪ねた後、ブルターニュからの帰還と内大臣昇進の報告も兼ねて、ムーランの大公后を訪問しました。
ブルボン公国の首都であるムーランの街は、元帥としてイタリア戦争終結の立役者の一人となった大公后の娘婿シャルルのお蔭もあって、空前と言えるほどの繁栄振りでした。それを象徴するかのように、案内された応接室には一角獣(ユニコーン)、モーゼの十戒、アレキサンダー大王を題材にした豪奢なタピストリーが飾られていましたが、端の方に以前、ヒカルが注視した白菊皇女の少女時代の肖像画がかかっていました。
「大公后は今でも白菊総督を自分の愛娘のように思われているのか」とじっと見入っていると、「おなつかしい。かれこれ十年ぶりになりますかねえ」と言いながら、大公后が入って来ました。五十歳代半ば過ぎの初老になっていましたが、血色もよく、桐壺王がまだ少年だった時代に夫君と共に摂政役としてフランス王国を担った威厳と風格を保っています。そりが合わないと噂されていた娘婿との仲も順調で公国は前途洋々の様子ですが、「ただ一つの心配は跡取りになってくれる孫が中々誕生しないこと」と愚痴ったりします。
ヒカルは白菊の肖像画を指差して「ネーデルランドの総督とは手紙のやり取りをされておられるのですか」と尋ねますと、「それはありません。敵対する国の皇女でおられる御方ですから、下手にやりとりをするとあちらにも迷惑をかけてしまいますから」との返しでした。
ムーラン大公后邸を出てアリエール川に出ますと、数日来降り続いた名残りの雨が少しぱらついた後に晴れた空に月が差し出て来ました。川沿いに下って行きますと、一昔前の青春時代の忍び歩きを自然と思い出します。なまめかしい夕月夜になって、馬車に揺られながら、あれこれと回想に耽っていると、見る影もない程に荒れ果て、木だけがうっそうと繁って森のようになっている屋敷の前を通り過ぎました。大きな松に咲き遅れの藤の花がもたれかかって、月光の中に花がなびいて、風に乗ってさっと匂いて来るのがなつかしげで、何とたとえることもできない薫りでした。リヨンで見たオレンジの花と違った興趣があるので、車窓から覗いてみると、柳の枝が長くしだれて崩れた石塀に乱れ臥しています。
「何だか見たことのある気がする木立ちだな」と思いをめぐらせてみると、まさしくすっかり忘れていた末摘花の邸でした。ひどく胸を打たれて、馬車を停めさせました。
いつもようにお付きのコンスタンはこうした私的な忍び歩きに外れたことがなく、今日もお供をしていました。ヒカルはコンスタンを呼んで、「確かここはコンピエーニュ卿の屋敷だったな」と尋ねますと、「さようでございます」と答えます。
「ここに住んでいた人はまだここにいるのだろうか。訪ねてあげるべきだったが、わざわざ出掛けて来るのが億劫で訪ねて来ることはなかった。この機会だから、中に入って消息を確かめて来てくれ。住み主を確認してから、私の事を口にするのだよ。人違いだったら、おかしなことになってしまうからね」と指示しました。
その時、末摘花はいつもより物悩ましさがひどく、ぼんやりと過していました。昼間にうたた寝をした時の夢に父のコンピエーニュ卿が現れて、眼が覚めてからもとても名残惜しく悲しい思いでした。「しっかりしなければ」と気を持ち直して、雨漏りがして濡れた玄関口の端の方を拭かせたり、あちらこちらの貴賓席を片付けさせながら、いつもと違って世間並みの女性のように歌を詠んでみました。
(歌)亡き父を思い慕って泣く涙で 袂が乾く暇もないのに おいうちをかけるように 荒れた軒から
雨の雫(しずく)が降りかかる
と、心苦しい胸の内を嘆いていました。
コンスタンは藪屋敷の中へ入ってあちらこちらを巡りながら、人がいそうな物音が聞える所を捜しましたが、人気がありません。
「所用でムーランを行き来する際にこの邸を見ているが、やはり人が住んでいる気配がしない」と思って引き返そうとすると、月が明るく射し出して来ました。辺りを見回すと、よろい戸を二つほど開けて、カーテンが揺れている様子がします。
「ひょっとしたら幽霊なのか」と気味悪い気すらしましたが、近くに寄って声をかけてみると、ひどく老いぼれた声で、まず先に咳払いをしてから「そこにおられるのはどなたでしょう。何人ですか」と問うてきます。コンスタンは自分の名を告げてから、「侍従と申す人にお眼にかかりたい」と告げました。
「スザンヌはもう余所へ行ってしまいましたよ。けれども侍従と同じと思ってくださってもよい人はおりますが」という声は、すっかり歳をとっていましたが「確かに聞き覚えがある老女の声だ」と分かりました。
室内にいる者は思いも寄らない旅装姿の男が音もなく現れて、物腰が穏やかな口調で話しかけてくるなどに馴れてはいなかったので、「もしかしたら狐などが化けて来たのか」と不審に感じます。男はさらに近くに寄って来て「確かなことを伺いたいのです。コンピエーニュ卿の姫君が昔と変わりなくお暮しなら、私の主人が尋ねて来たい意向を今でもお持ちのようでございます。今宵も通り過ぎることができずに馬車を停めておりますが、どう伝えたらよいでしょうか。遠慮なくおっしゃってください」と問いかけますと、女たちは打ち揃って笑い出しました。
「お変りがあったとするなら、こんな雑草が生い茂った場所から移らないでおられましょうか。それをお察しになって、宜しいようにお伝えください。私どもの年寄りですら『こうした類のことがあるだろうか。珍しい世の中だこと』と感じながら過しております」と段々と打ち解けてきて、問わず語りにもっと話したそうでしたが、面倒なので「分かりました。とりあえずその旨を報告してきます」と言って馬車に戻りました。
「随分と時間がかかったではないか。どんな塩梅だったのか。それにしても昔の面影をとどめないほど蓬が生い茂っているな」と話しますので、「しかじかこうこうで、ようやく人が住む所を捜し当てました。侍従の叔母で少将と申す老女が以前と変わらない声で話してくれました」とその模様を伝えました。
ヒカルはひどく不憫な気持ちになって、「こんな草深い中で、どんな心地で過して来たのだろう。どうして今日まで便りなどで知らせてこなかったのだろう」と自分の薄情さも思い知りました。
「どうしたものか。こうした私的な忍び歩きは今は容易ではなくなっているのだから、こんな機会でなかったなら立ち寄ることもできないだろう。以前と変わらない有様というのもありえる人柄なのだから」と言いながらも、「ふいに入っていくのもどうかな」と躊躇します。まず趣がある歌でも遣って反応を見てみようとも考えますが、かってのように返歌を詠むのに時間がかかってしまうようなら「使いの者が待ちくたびれてしまうのも可哀想だ」と思いとどまりました。
コンスタンが「とても踏み分けて行くことができないほど、露が蓬にびっしりとかかっております。露を少しでも払わせてから、お入りになられた方がよいのでは」と申し上げると、
(歌)誰も尋ねてこないようだから 私くらいは訪ねてあげよう 道もないくらいに深く茂った蓬の宿を
女主人の変わらぬ心を求めて
と独り言を言いながら、やおら馬車から降りましたので、コンスタンはお先の露を馬の鞭で払いながら案内していきます。
降った雨の雫が木々の枝から、秋の時雨のように降り注いできますので、「お供の人よ 傘をさしてあげなさい 藪林の下に落ちる露は 雨以上に濡れるから」とコンスタンがよく知られた歌を口ずさみます。
ヒカルのショース(タイツ)の裾がびしょびしょに濡れてしまいます。昔ですらあるかなきかに見えた中門などはましてや跡形もありません。こんな姿で邸の中に入って行くのも体裁が悪いのですが、目撃するような人はいませんので、気は楽でした。
末摘花は「いくらなんでもお見捨てにはならないだろう」と信じていたことが期待通りになって、「待ち続けていた甲斐があった」と嬉しいのですが、「こんなひどい恥かしい恰好で対面するのは気が引けてしまう」と思っています。アキテーヌ州知事夫人が置いていった衣裳類は「不愉快な人からの進物だから」と見向きもしようとしませんでしたが、香を収める櫃(ひつ)に入れて非常に良い香りがしていましたので、侍女たちがそれを取りだして来ました。どうにも仕方なく、末摘花はそれに着替えて、例の煤けた内カーテンを引き寄せて座っています。
するとヒカルが室内に入って来きました。
「長い間、ご無沙汰してしまいましたが、私の心だけは変わらずに貴女を思いやっておりました。貴女が一向に便りをくれず、私を引きつけようともされないのが恨めしく、今まで様子を見ていたのですが、一本杉ではありませんが、こんもりした木立ちが目印になって素通りができず、私の方が根競べに負けて訪ねて参りました」と言いながら、内カーテンの垂れ布を少しかきやると、例によって非常にきまり悪そうに、すぐには返答をしません。それでも蓬藪の中を掻き分けてお越しになった情け深さを思い起こしたのか、意を決したかのようにほんの少しは口を開いてお礼を言います。
「こうした草隠れのような所で私を待ちながら過してこられた年月のおいとわしさは、一通りのことではありません。私は心変わりはしておりませんし、貴女の胸中を確かめもせずに、こうやって露けさの中を分け入って参りましたのを、どう思われますのでしょうか。長い間、疎遠にしてしまいましたが、やはり官位剥奪や遠地への流浪などの諸事情があったからだと思って、お許しください。今後は貴女のお心と違うようなありましたら、言ったことに背いた罪を負いましょう」などと、それほどには思っていないことを情け深げに語ったこともあったでしょう。
泊っていくこともできましたが、みすぼらしい邸の様子に較べて、まぶしいほど立派な内大臣の身でしたから、ほどよい加減で口実を作って出ていこうとします。自分が植えたものではありませんが、松の木が高く伸びている歳月の長い隔たりがせつなくなって、夢のように過ぎた自分の身の上を思い続けます。
(歌)松にかかった藤の波を 素通りできないように見えたのは 待ちわびている人の宿の 目印だったからでしょう
「離れていた年月を数えてみると、随分久しくなりますね。都のロワールにも変化が多くありましたが、物悲しいことが様々とありました。『親しい人たちと別れて 遠い田舎で弱りはて 漁師の網を引いて 漁をするようになるとは 思いもしなかった』といった歌もありますが、いずれゆっくりとブルターニュを流浪した頃のことをお聞かせしましょう。貴女が長年過してこられた春秋の暮しがどんなに辛かったことなどを訴えることができる人は、私を除くと誰もおられないだろう、と何気なく感じてしまうのも不思議なご縁です」などと申しますと、
(歌)長い歳月 お待ち申し上げても その甲斐がなかった私の宿を 訪ねて来られたのは
ただ藤の花を見るためにだけだったのでしょうか
と、末摘花は低い声で、せめてもの嫌みな歌を詠みましたが、みじろぎする気配も袖から漂ってくる香りも、「昔よりは成長されたようだ」とヒカルの心が動きます。
月が入り方になって、邪魔になるような屋根付きの渡り廊下のような建物がなく、軒先も残っていなかったので、西向きのよろい戸が開いた箇所から月光が大層花やかに射し込んで、室内の様子が見渡されます。昔に変わらない部屋の飾りつけの様子などは、忍び草が生い茂った外見よりも風雅に見えます。古い物語に、親が建造した供養塔を壊してしまった娘がいたことを思い合わせてみると、親が残したままを長く保ち続けてきたことは殊勝であると、ヒカルは感心します。
一途に引っ込み思案の気配はあるものの、「さすがに宮家の者らしく、優雅で奥床しいところがある」と心憎くなります。「そうした取柄もあるから、忘れ捨ててはならない」と意を固めていたのに、ここ数年は様々な心配事があって、ついうっかり距離を置いてしまい、「さぞ辛かったことだろう」と可哀想に思います。「リヨンの花散里も際立って美しいわけでも、当世風な花やかさもないのだし、末摘花は目移りをしてしまうほど劣っているわけではないし、容貌の欠点もうまく隠せるだろう」と思ったりします。
6.末摘花邸の修理と後見
トゥールの葵祭だの斎院による新王即位の儀式などがあった季節ですから、人々が献上した物が色々と多くありますので、しかるべき人たちに分配していきます。その中でも、末摘花には細やかな配慮をして、気心が知れた職員に命じて雑用係を遣わして蓬を刈り払わせ、崩れた石塀が見苦しいので板塀で修繕させます。
それでも「こうして再び訪れるようになった」といった噂が立ってしまうと、内大臣である自分にとって不名誉なことになりますので、本人自らが末摘花邸を訪れることはありません。手紙だけは大層情愛細やかに書いて、いずれシュノンソーに近い改修中のシセイ城に迎えるので、今のうちから、感じが良い女童などを集めて育成しておきなさい」などと仕える人たちのことまで思いやってお見舞いをしますので、あの怪しいまでの蓬の邸では侍女たちがはばかりもせずに空を仰いで、シュノンソーの方を向いてお礼を申し上げます。
「かりそめの戯れであっても、ヒカル殿はありふれた普通の女性に目を留めて相手にされることはなかった。『これなら少しは』と思わせ、興味を抱かせるような辺りを物色されておられる」と誰もが承知していたのに、これとは打って変わって、あらゆる点で人並みな者より劣っているような人を、ひとかどの御方として扱っておられるのは、どんな心境からなのでしょうか。これも前々からの約束事なのかもしれません。
「もう、これ限り」とあれこれと迷いながらも見切りをつけて散っていった上級や下級の奉公人たちは再雇用をしてもらおうと、競うように願い出て来ます。心ばえなどが底知れないほど善良な女主人に遠慮することもなかったのに、特に勝れているとも言えない生半可な地方官の邸に雇われた者は、馴染むことができず、気まずい心地がしていたので、軽率だったことを反省しながら戻って来ます。
ヒカルは以前よりも一層増した権勢を持つようになった上に、物事に対する思いやりも深まりましたので、細やかに指図をしました。荒廃していた邸は明るく活気づいて次第に人影が増え、すさまじいほど生い茂っていたわしく見えた草木も刈り込まれ、池の水の流れも浚渫され、前庭の植え込みの根本もさっぱりと整備されます。勝れたところがなく、あまり目をかけてもらえない下級職員で、何とか使ってもらいたい者は「ヒカル殿がこれほど心に留めて思いやっておられるのだから」と見て取って、ご機嫌を伺ったり、こびへつらったりします。
末摘花は二年ばかりはムーランの邸に住んでいましたが、ヒカルが約束した通りにシセイ城に移り住みました。ヒカルが面と向って末摘花に逢うことは中々難しかったのですが、シュノンソーの近くなので、何かの用でシセイ城にやって来る折りは、ちょっと覗いたりして、そう軽んじた扱いはしません。
あのアキテーヌ州知事夫人がロワールに上がって来て驚いた様子や、スザンヌが嬉しく思う一方で、「あの時、どうしてもうしばらく辛抱しなかったのか」と恥かしく思ったことなどをもう少し語りたいのですが、頭痛がひどく、面倒で気が塞ぎますので、いずれ別の機会に思い出して語ることにしましょう。
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