ロワールのヒカル・ゲンジ

 

巻1 藤と紫

 

その5.若紫     (ヒカル 17歳)  

 

1.ル・ピュイ・アン・ヴレイでの祈祷と、サン・ブリューの在俗修道僧の娘の話

 ヒカルは熱病を患ってしまい、あれこれ治療や祈祷などを受けましたが効果がなく、しばしば起こる発作に悩んでいますと、ある人が「オーヴェルニュ(Auvergne)地方のル・ピュイ・アン・ヴレイ(Le Puy en Velay)にあるシャペル(礼拝堂)に賢い聖がおられます。去年の夏も、この病気が流行りましたが、医者や僧たちがもてあましていた人々をたちまちに治癒した例が多くありました。こじらせてしまうと厄介なことになりますから、早いうちに試されてはいかがでしょうか」と勧めますので、使いを遣ってお召しになりました。

 すると「老体の身になって、戸外に出ることもままならなくなっております」との返答でした。「それでは仕方ない。お忍びで出向いていこう」と言って、お供には顔をよく見知っている四、五人だけを連れて、早暁にシュノンソーを発ちました。

 

 ムーラン(Moulin)、ヴィシー(Vichy)、クレールマンフェラン(Clermontferant)と上っていくうちに、マッシー・サントラル(中央山塊)特有の円錐状の死火山の山々が深まっていきます。四月二十三日過ぎでしたので、ロワール地方では桜やアンズの花は散っていましたが、山々では真っ盛りです。山路が進むにつれ、霞のたたずまいも面白く眺められて、こうした遠距離の外出はあまりないことなので、日頃の窮屈な生活から開放されて、何事も珍しく感じました。

 

 ル・ピュイ・アン・ヴレイはスペインの聖地サンジャック・ド・コンポステルへ向う四巡礼道の一つであるポディアンシス(Podiensis)街道の基点でした。コルネイユ岩山とサン・ミシェル岩山と呼ばれる三角棒のような二つの奇岩が突き出しており、コルネイユ岩山の頂上に隠者の聖が住むサン・ミシェル・デギル(Saint-Michel d'Aiguilhe)礼拝堂が聳え立っています。

 話しには聞いておりましたが、奇岩の上から天空に突き刺すような礼拝堂の容姿に驚嘆しました。奇岩の階段を息をきらせながら登っていきますと、頂上のシャペルの脇に隠者が住む庵がありました。

 

 ヒカルは自分が何者かを名乗らず、巡礼者をよそおって身なりもやつしていたのですが、さすがに何者かと分かる風采でしたから、「ああ、もったいなくも。先日、お召しになられた御方でございましょう。今はもう、私は俗世間については考えておらず、修験の療法も忘れておりますのを、どうして、わざわざお越しになりましたのでしょう」と驚きを隠さないものの、笑顔でヒカルを迎えました。

 一見でも、とても尊い高僧であることが分かります。聖が特別に調合した草薬を飲み、祈祷を受けているうちに、日が高く上ってきました。

 祈祷が終ってシャペルを出て、頂上からル・ピュイの街並みを見下ろします。巡礼街道の基点であるだけに、そこかしこに教会や僧坊が点在しています。「黒い処女マリア」で高名なノートルダム大聖堂がひときわ目立ちます。

 

 奇岩に登る階段の近くに、他の宿坊と同じヒイラギの生垣ですが美しく廻らせて、こざっぱりとした建物と回廊を上手に組み合わせ、木立も風情がある僧坊に目がとまりました。

「あの僧坊には、どなたがお住みになっているのだろうか」と問いますと、「あそこは某の司教がこの二年間、籠っておられる坊でございます」と現地の案内人が答えます。

「その司教については聞いたことがある。 気後れがしてしまうほど立派な御方がお住みになっておられるのか。今回はこんな身なりで来てしまったから、ご挨拶をすることはできないな」などと話します。

 

 清らかな女童が大勢、庭に出て来て、マリア像に聖水を献じたり、花を折ったりするのが、はっきりと見えます。

「おやおや、僧坊に女たちがいるのか」、「聖職者がまさか隠し事をされているのだろうか」、「どんな人なのだろう」とお供の人たちが口々に言い合います。階段を下って覗き込む供人もいて「美しげな女の児や若い侍女たちが見えます」と告げました。

 

 ヒカルはシャペルに戻って、祈りの勤めをします。日が高くなって、「そろそろ発作が起こる頃だ」と心配していますと、「こういう時は気を紛らわされて、病のことはお考えにならない方がようございます」と供人が申しますので、シャペルの裏手に廻って、眼下のラ・ボルヌ(La Borne)川を見やります。「あの流れがロワール本流に合流して、オルレアン、アンボワーズへと下っていくのか」と感慨深げです。

 ずっとはるかまで霞み渡って、四方の木立がほんのりと煙って見える風景に見とれて、「本当に絵に描いたような景色だ。こうした所に住む人は、心が洗われて思い残すこともなくなるであろう」と語りますと、「この景色はまだまだ浅いものでございます。ピレネー山脈、大西洋や地中海といった海山の有様などをご覧になりましたら、どんなに御絵がご上達なさるでございましょう。アルプスにはモンブラン、アイガーなどの高峰もございます」、それに加えて西国の面白い浦々や磯を言い出す者もいて、皆、ヒカルの気持ちを紛らわせようと気を使っています。

 

 供人の一人であるオリヴィエが「ロワールから近い所では、ブルターニュ地方のサン・ブリュー(Saint Brieuc)の浦がことにようございます。とりたてて、何の深い趣はありませんが、ただそこから大西洋を見渡す景色は、どことなく他所と似ておりませんで、ゆったりとした感じがございます。

 その地方の元知事で、今は発心して在俗修道僧となっている人の屋敷は大したものでございます。二代ほど前までは大臣だった家柄で、官位四位の近衛中将だったのですが、ひがみ者になってしまいました。道化戦争ではブルターニュ公側につきました。ブルターニュ公に気に入れられて地方知事になったのですが、道化戦争での敗北とブルターニュ公の死、桐壺王と紫陽花公女のご成婚の後、地元の人々からも侮られるようになってしまいました。

『何の面目があって、ロワールの都に戻ることができようか』と腹をくくり、頭を剃りあげて在家僧になってしまいました。ところがその後に、一人娘が生まれてしまいましたので、少し奥まった山里には住まずに、サン・ブリューの浦に屋敷を構えております。ブルターニュ半島には人が籠るのに適した場所があちこちにありますので、ひねくれているようですが、山深い里は人気がなく物寂しく、まだ若い妻子が心細がるだろうと考えて、サン・ブリューの浦の邸宅を気晴らしができる住まいとしております。

 先日、父に会いにサン・ブリューに出かけた折り、様子を見てみたくて屋敷に立ち寄ってみました。ロワールにおりました頃は、派閥争いに負けて所在なさげにしておりましたが、ブルターニュへ移って故ブルターニュ公から厚遇されていた時に、一財産を蓄えまして、余生は豊かに送れるような準備を十二分にいたしております。僧侶としてのお勤めも熱心に修行しておりまして、まさに在家僧たるにふさわしい御方でございます」と語りました。

 

「ところで、その一人娘はどんなかね」とヒカルは興味を抱いたようです。

「悪くはありません。容貌や心ばせなど申し分ありません。代々の県知事になった者などが、格別の敬意をはらって自分のものにしようと試みるのですが、在家僧は決して応じようとはいたしません。『自分はこのように不遇に身を沈めてしまったのだが、子供は一人だけであるし、この娘にはこうあって欲しい、という期待がことさらにある。もし私が先にあの世に行ってしまい、私が願っていた事が遂げられず、自分の思い描いていた人生と違ってしまったなら、海に身を投げなさい』と在世中から遺言をしているのでございます」と話しますと、ヒカルは「面白い話だ」と聞き入りました。

 

 供人たちは「その娘は海神ポセイドンの后になったらよかろう」、「親の望みが高すぎて、苦しいことだろう」と笑い合います。話をしたオリヴィエは現県知事の息子で、蔵人から叙爵して官位五位に出世した者でした。とても女好きの男でしたから、「その在家僧の遺言を破ってしまおうという腹づもりなのだろう」、「どおりでサン・ブリューへしばしば行くのだな」と冷やかされます。

「そうは言っても、どうせ田舎びた娘だろう。幼い頃から、そういう所に生い育って、その上、歳をくった親だけに教え込まれたのではね」、「いやいや、母親は高貴な家柄の人であるし、優秀な若い侍女や童女を縁故を頼りに都のしかるべき所々からかき集めて、眩いばかりにかしずかせておりますよ」、「県知事が心ない人に代ったら、自分のものにしようとして、その娘も安穏と暮すことができなくなるだろう」と言う者もあります。

 

「その在家僧は、どういうつもりで、海の底へ身を投げてしまえ、とまで思い詰めているのだろう。海の底は海草のミルメで、見た目でも濁っているだろうに」などとヒカルは言いながら、まんざら好奇心を示さない風でもありません。お供の人たちも「このような話でも、凡庸ではない変ったことに関心を抱く主君の性格からして、耳を留めることだろう」と察していました。

「暮れかけてまいりましたが、もう発作は起こらないようにお見受けします。早くロワールへ戻りましょう」と促す者もいましたが、高僧は「物怪などがお身体につかれていたようでもありますから、やはり今宵は静かに祈祷などをされて、その後にお発ちになられた方が良いでしょう」と申します。

「そうなさるのが、もっともなことです」と皆が同意しますし、こうした旅寝はめったにないことなので、嬉しく感じて「そういうことなら、出発は明朝にしよう」と決めました。

 

 

2.ヒカル、若紫を発見

 

 日はまだ長く、時間もありましたので、ヒカルは夕暮れの深い霞に紛れて、先刻のヒイラギの生垣の僧坊を見下ろせる場所に下りました。コンスタンだけを残して、他の供人は街に帰して、僧坊を覗きこんでみます。

 

 すぐ眼の下の西向きの居間に、キリスト像を据えてお勤めをする修道女がおりました。カーテンを少しはらって、花を供えています。中柱の近くに寄って、小机の上に聖書を置いて、ひどく大儀そうに読んでいる姿は、尋常人(ただびと)には見えません。四十余りの年恰好で、とても色白で、上品に痩せていますが、顔立ちはふくよかで、眼つきが美しく、髪を短く切り揃えているのも綺麗です。「長い髪よりも、中々、当世風で新鮮だな」と感心しながら見やります。

 清楚な感じの中年の侍女が二人控えていて、童女たちが出たり入ったりして遊んでいます。その中に「十歳ほどであろう」と見える、白いドレスの上に着馴らしてなよなよした薄黄色の表着を重ね着にして、こちらに走って来る女児が、他の大勢の童女たちと比較できないほど、大人になるとどんなにかと感じさせる端麗な容姿をしています。淡い栗毛色の髪は、扇を広げたようにゆらゆらと揺れ、泣いて手で顔をこすったのか、赤くなっています。

 

「何事ですか。童女と喧嘩でもしたのですか」と修道女が女児を見つめます。二人に似通った所がありますので、「修道女の子なのだろう」と見なします。

「イレーヌが雀の子を逃がしてしまいました。籐籠の中に入れていましたのに」と非常に悔しがっています。修道女の側にいた侍女が「また例の心なしが、こんなひどいことをして、叱られてしまうのですか、困ったことです。どこへ飛んで行ってしまったのでしょう。大層可愛く育っておりましたのに。カラスなどに見つかっていなければよいのですが」と言って、立って行きます。髪はゆったりとして、とても長く、見苦しくない人のようです。近くの人が「少納言の君」と呼んでいますので、この女児の世話役なのでしょう。

 

 修道女は「何て幼いことを。話すべきほどもないことをおっしゃって。私の命が今日か明日かと予測もできないのに、何とも心配してくれないで、雀の方を慕われているとは。雀を籠の中に閉じ込めてしまうのは、罪作りなことなのですよ、と日頃から言い聞かせておりますのに、困ったことです。こちらへいらっしゃい」と言いますと、側に寄ってきます。

 顔つきはとてもあどけなく、眉はほのかに伸びて、振りかかる髪の毛を子供らしくかき上げてある額つきなどがとても美しい。「どういうわけか、限りなく恋しく慕っている藤壺の宮によく似ていることから、思わず見守ってしまう」と気付いただけで、もう涙があふれてきます。

 

 尼君は女児の髪をかき撫でながら「髪を梳くことを嫌がっていますが、見事な髪ですね。ただ貴女があまりに子供じみておりますのが心配です。貴女くらいの歳になると、もっと大人びてくる人もおりますよ。貴女のお母さんは、満十一歳の時に父親を亡くしましたが、もうその時には物の分別を知っておりましたよ。それなのに、今、私が死んでしまったら、貴女はどうやって暮らせていけますでしょうか」と激しく泣くのを見ていると、ヒカルまでが悲しくなります。

 

 女児もさすがに幼な心地ながらに尼君をじっと見やりながら、伏目がちにうつむいています。額からこぼれる髪がつやつやと美しく見えます。

(歌)これから成長して どこに落ち着くようになるとも 分からない若草を 後に残していく

   はかない露の身は 心がかりで 死ぬにも死ねない

 すると、傍らにいた侍女が「ごもっともなことでございます」と涙を浮べて、返歌をします。

(返歌)まだ幼い初草が 大人になる行く末も ご覧にならずに なぜ露のように消えてしまうなどと 思し召すのでしょうか

 

 司教が居間に入ってきました。

「ここは外から丸見えですよ。今日に限って、どうしてこんなに端近くにおられるのです。この上の聖の庵に、ヒカル・ゲンジ中将が熱病の治療と祈祷で来られていることを、たった今、聞きました。随分とお忍びで来られたようなので、私はすぐ間近にいながら知らずに、挨拶にも伺っておりません」と告げました。

「それは大変なことです。こんな見苦しい様子をご一行に見られてしまったかもしれません」と慌ててカーテンを引きました。

「この機会に世間で評判の御方をご覧になったらよいでしょう。世を捨てた聖職者の身でも、あの御方の姿を見ると、世の中の憂いを忘れ、寿命が延びるような気がします。これからご挨拶をしてきます」と居間から出て行きますので、ヒカルは山上の礼拝堂に戻って行きました。

 

「何とも可愛い女児を見たことだ。女好きの供人どもがこうした外歩きをして、時には意外な掘出し物に遭遇する、というのはこういうことなのだ。たまに都から離れただけで、こうした思いがけないものが見れるのだ」と楽しくなります。

「それにしても麗しい女児だった。いったい何者なのだろう。思いをはせるあの御方の代りとして、手許に引き取るなら、明け暮れの慰みになることだろう」と思う心が深まっていきます。

 

 礼拝堂で一休みしておりますと、先刻の司教のお弟子がコンスタンに面会に来ました。狭い場所ですから、弟子の話はヒカルの耳にも入ります。

「こちらにお越しになられていることを、たった今、人から聞いて驚きました。当方がこの地に籠っておりますのをご承知でしょうに、内緒にされておられるのを残念に存じ上げます。今夜のご宿泊は是非とも、当方の僧坊に設けさせて下さい。誠に不本意なことではありますが」と、弟子は司教の伝言を伝えました。

「今月の十日過ぎ頃から熱病を患ってしまいました。発作が度重なって堪え難くなってしまい、人の勧めに従って急にこの地を訪れましたが、これほど尊い聖の治療と祈祷でも効験が出なかったとすると、不名誉なことになってしまいます。そうなると普通の僧侶よりもお気の毒になってしまう、と考えて、ごく内密にやって参りました。これからそちらに伺うことにしましょう」と返答しました。

 

 すると折り返して司教も礼拝堂に上ってきました。聖職者ですが、とても気が置けて人柄も格別で、世間でも尊ばれている人物ですので、巡礼のやつした軽装の姿をお見せするのがきまり悪く思います。

 司教は当地に籠っている生活などを話されながら、「ヒイラギの生垣の大した僧坊ではありませんが、庭の涼しげな水の流れをお目にかけたいので」としきりに誘いました。先刻、司教が自分をまだ見たこともない人たちに、自分のことを大袈裟に吹聴されていたことを思い起こして、恥かしい思いもありましたが、あの可愛いらしかった女児のことをもっと知りたくて、司教の僧坊を訪れることにしました。

 

 なる程、司教が自慢するだけあって、同じ木や草花であっても、趣深く植えてあります。月がない頃でしたから、水の流れの側に篝火を焚かせ、燈籠などにも灯をともしています。

 南向きの部屋をとても清らかにして、ヒカルの寝所としています。室内はどこかで焚く空薫物が心憎いほど薫り、供養で焚かれる名香の匂いが満ち溢れており、そこにヒカルの袖の香りが追風となって匂い渡りますので、奥の部屋にいる女性たちまでも晴れがましい思いをします。

 

 司祭は世の中の無情な話や、あの世のことなどを説いて聞かせます。ヒカルは「とうとう藤壺と不義を犯してしまった罪の恐さ」を自覚して、味気ない思いに心を奪われてしまいます。生きている限り、この事で思い悩んで行くことだろう。まして後に行く世界の苦しみはどんなになるだろう」と不安にかられて、こうした僧坊での生活を送ってみたいとの願いにかられました。

 

 とはいうものの、昼に見た童女の面影が心にかかって、恋しくなりましたので、「ここにおられる女性がたはどなた達なのでしょう。その方々をお尋ねしたい、という夢を見たことがあります。本日、こちらへ伺って、それが正夢だったことに思い当たりました」と切り出してみますと、僧都はうち笑って「唐突な夢物語でございますな。せっかくのお尋ねですが、それを知ってもがっかりなさるだけでございましょう。地方行政を管轄する次席大臣だった御方は亡くなられてから久しくなりますので、ご存じではないことでしょう。その御方の妻であったのが私の妹でございます。次席大臣の死後、在俗修道女となったのですが、この最近、患ってしまいました。頼りとする私が、ロワールを離れてル・ピュイに籠っておりますので、こちらにまいっております」と答えます。

 

「その次席大臣には娘たちがおられた、と聞いたことがありますが、どうなされているのでしょうか。好き心ではなく、真面目な気持でお尋ねいたします」と当て推量で問うてみます。

「娘はただ一人ございましたが、亡くなってから、もう十年あまりになりましょうか。故次席大臣は『王宮務めに出したい』と大事に育てていたのですが、その本意を遂げずに他界してしまいました。その後は、在家尼となった私の妹が一人で育てておりましたが、どういう人物の仲立ちなのかは知りませんが、兵部卿宮が忍んでお通いをするようになりました。卿の正夫人は身分の高い家の出ででしたから、一人娘は気苦労が多く、明け暮れ物思いに悩んだあげく、亡くなってしまいました。気苦労から病気となる様子を間近に見てしまいました」と述懐します。

 

「すると、あの童女は亡くなった娘の子なのだろう」と想定できました。「王族の血筋にあたる兵部卿の娘となると、兵部卿の同腹の妹である、あの藤壺の姪にあたるから、藤壺と似たところがあるのだ」と、童女に対する愛しさが一層増して行きます。

「人柄も上品そうで可愛らしく、変に利口ぶったところもない。あの童女と一緒に暮らして、心の行くままに教え育ててみたい」と気がせいてしまいました。

 

 

3.紫上の世話を申し込む、病全快してロワールへ戻る

 

「それは大変お気の毒な話しです。その御方には忘れ形見はおられなかったのでしょうか」と、あの童女の身の上をもっとはっきりと知りたくて尋ねました。

「亡くなります頃に出産いたしました。それも女の児でございます。妹は年老いてきておりますので、その児が苦労の種だと思い嘆いております」と申しますので、「やはり」とヒカルは頷きました。

 

「つかぬことをお願いするようですが、私をその女児の後見人にさせていただくように、お話ししていただけないでしょうか。女性についての理想が私にはありまして、すでに縁を結んだ女性はおりますものの、あまり心を通い合わせておりませんので、独り住みのように暮らしております。『まだ歳が釣り合わない』と常識的にご判断されて、 『失敬な申し入れ』などとお感じになるでしょうが」と切り出しました。

「それは誠に嬉しいお言葉でございます。でもまだまだ、一向に子供でございますから、ご冗談としても貴殿のお相手をすることはできないでしょう。もっとも女という者は、人から良い指導を受けて、一人前になっていくものですから、あながち早過ぎるお話しとも言い切れません。あの児の祖母にお話しを伝えましてから、お返事いたしましょう」とざっくばらんに答えたものの、堅苦しい様子をしていますので、若いヒカルは恥かしくなって、それ以上は話すこともできません。

 

「マリア像がおられます小教会で、所用を行わねばならない時刻になりました。まだ宵の口のお勤めも済ませておりませんので、それを済ませてから、戻って参ります」と言って小教会へ行きました。

 ヒカルは気分がすぐれず、雨が少し降り、冷やかな山風が吹いてきて、庭の水の流れの音が高まります。少し眠たそうに聖書を読む声がたえだえにしんみりと響いてきます。のんきな者でも物寂しくなってしまう場所柄でした。それにまして、思い巡らすべきことが多いヒカルはまどろむこともできません。通常は午後六時から八時頃に行われる宵の口のお勤めと司教は申しましたが、その時刻よりも夜はずっと更けているようです。

 

 奥の方の部屋にいる人たちも、まだ寝についていない気配がしますので、なるべく物音をたてないように気を配っていますと、ロザリオ(数珠)が小机に触れて鳴る音がかすかに聞えて、品がよさそうな女性の衣擦れの音が耳に入ってきます。

 壁を隔てた、すぐ隣の部屋からのようでしたから、寝所用の区切りとして立ててある二つの衝立の合わせを少し引き開けて、人を呼ぶために衝立の端を扇で叩いてみました。隣室の人は意外なことのように思ったようですが、「聞えないふりもできかねない」とドアに寄って来る気配がします。

 

「妙なことですね。聞き違えをしてしまったのかしら」と少し後戻りをして行くようなので、「キリスト様のお導きは暗い所でも決して間違えることはありません」と言葉をかけてみました。

 その声がひどく若々しく品が良かったからなのか、返答してくる声は恥かしそうでしたが、「何のお導きでございましょうか」と問いかけてきました。

 

「いかさま、突然のことで、ご不審になることはもっともなことですが、

(歌)初草のような 若い紫草(Grémil)を お見かけしましてから 恋しさのあまり 

   旅寝の衣の袖も 涙の露に濡れて 乾くことがありません

と、お伝え下さい」と語りかけました。

「そのような恋心のお言葉を頂戴する御方など、ここにはおられないことをご承知でしょうに。一体、どなたにあててのことなのでしょう」と答えてきます。

「自然な成り行きから、そのように申し上げなければならない理由がある、とお思い下さい」とヒカルが答えますと、ドアの向こう側にいる女はヒカルが詠んだ歌を尼君に取り次ぎました。

 

「まあ、今時の若い方は単刀直入なこと。私の孫がもう、色恋沙汰が分かる年頃と勘違いをされておられるようです。それにしても昼時の『若草』の歌をどうしてお知りになったのだろう」と不審になって、あれこれ思い乱れますが、「返歌が遅くなるのは失礼にあたる」と考えます。

(歌)あなたは 今宵 旅寝の草枕に お休みになって 露にお濡れになることでしょうが

   そんな一夜だけの 露けさを いつも深山に住んでいる 私ども聖職者の衣と お較べにならないでください  

「とても乾きにくい物ですから」と返しました。

 

「このような、人を仲介しての対話をしたことは、私にはまだ経験がありません。恐縮ですが、こうした機会にお目にかからせていただいて、真面目にお話をしたいことがございます」と請いました。

 尼君は「どうして聞き違えをされたのだろう。あの面映いような御方に、どうして御返事をすることなどできるものでしょうか」と言いますと、「冷淡にあしらわれてしまったとお思いになるでしょうから」と侍女たちが面会を勧めました。

「そうですね。若い人もきまずい思いをされてしまいますでしょうね。熱心におっしゃっておられるのも忝いことですから」と修道女は思い直して、ドアを開けさせてヒカルを招き入れました。

 

「突然のことで、軽々しいとお思いにもなるでしょうが、心の中では決して軽く思っているのではないということは『神さまもご存じのことです』」と言ったものの、落ち着いて取り澄ましている老貴女を前にすると、急には要望を言い出すことができません。

「本当に、思いもかけない折りに、そこまでおっしゃって下さいますのは、何か浅くはないご縁があるからでしょうか」と尼が返答します。

「初草の童女がお気の毒な身の上、と哀れに承りましたが、母親代りに童女を私に預けて下さいませんでしょうか。私自身、まだ頑是ない年頃で母や祖母に先立たれてしまい、何とも頼りない浮き草のように歳月を重ねて参りました。同じような境遇の御方がおられると聞きまして、私のお仲間に入ってもらいたいと、是非ともお願いしたのです。こんな良い折りは中々ありませんので、何とお思いなされるかを憚りもせずに、申し入れをさせていただいた次第でございます」と率直に告げました。

 

「それは非常に嬉しいお話ではありますが、何か聞き間違いをされておられるのではないか、と戸惑ってしまいます。確かに私のような取るに足らない身一つを頼りにしている児がおりますが、何しろ、まだ言う甲斐もないほどの幼稚な者で、とても大目に見ていただけるほどの者でもありませんので、お申し入れは受け入れかねます」と尼が拒みました。

「そうした事情はすべて承知の上でございます。何もそう窮屈にお考えなさらずに、通常とは異なる思いを抱いております私の心の内をご理解下さい」と重ねて許しを請います。

 修道女は「全く釣り合いそうもないことを知らずに、話されているのだ」と解釈して、それっきりヒカルの願いに対する返答をしません。

 

 司教が戻ってきましたので、「とにかく、ここまでお願いの糸口を作りましたから、これ以降も宜しくのほどを」と言って、寝所がある部屋に戻って行きました。

 

 もう明け方になって、聖書を読みながら罪を懺悔する小教会の祈りの声が、山下ろしの風に乗って聞えてきますのが非常に尊く、庭の水の流れと響き合います。

(歌)吹き降ろす 深山下ろしの 風に伝わって 懺悔の声が聞えて来ます 迷いの道が覚めて

   庭の水の流れの音までが 感激の涙を催させます

(返歌)あなたが 俄かに涙を催して 袖をお濡らしになった この山水も 長年 行いすましている

    私の心は 動じません 

もう耳馴れをしております」と司教が話しました。

 

 明けて行く空はうすぼんやりと霞んで、山に棲む鳥どもがどこで鳴くとはなしに囀りあいます。名も知らない木草の花々が色々に散り混じって、模様を織り込んだ錦を敷いたように見える中を、野ウサギが少し佇んで走っていくのを珍しい光景だと見惚れていますと、病の悩ましさも紛れていきます。

 山上の隠者は身動きも容易ではないのに、司教の僧坊に下りて来て、ヒカルのために病み上がりの健康を期する祈祷を行います。しわがれた声で、所々消え入るように呪文を唱える姿が身に沁みて、いかにも功徳を積まれた御方ように思われます。

 

 街中の宿坊に泊っていた供人たちがやって来て、病の全快を喜び合います。王宮からも使者が到着しました。

 司教はロワールでは見られないような果実などを、何やかやと渓谷の底までからも見つけ出しきて、一行をもてなしました。

「今年中は山篭りの誓いを固くたてておりますので、お見送りを十二分にはできませんのが、今となっては残念でございます」と言いながら名高いワインを勧めます。

 

「ル・ピュイの風景に魅せられてしまいましたが、『王さまが心配されておられる』と使者が伝えました。畏れ多いことですから、戻らねばなりません。山の花の盛りの頃にまた訪れることにいたします」。

(歌)この山桜を 吹き散らす 風が来ないうちに 訪ねてみるように 都に帰って 王宮の人たちに話しましょう 

と歌う様子や声使いがまばゆいばかりです。

(歌)あなた様の お美しいお姿を 拝みますと 三千年に一度咲かせるという

   優曇華(うどんげ)の花を 見たような心持ちがしまして 深山桜などには 目移りもいたしません 

と司教が応じますと、ヒカルは微笑して、「三千年に一度しか咲かない花を見ることは難しいものです。私とは違います」と返しました。

 

 聖も盃を受けました。

(歌)奥山の松の下 庵の中に 籠っている身が めったに開けない戸を 今日珍しくも開けて

   まだ見たこともない 花のような お姿を拝みました 

と言って、聖は涙を浮かべながらヒカルを見つめています。

 聖はル・ピュイにちなんで、サン・ジャック(聖ヤコブ)を象徴する銀製のホタテの貝殻を贈りました。それを見た司教は、聖ルイ王がパレスチナから入手したと伝えられるルビーの玉飾りがついた金剛子(田麻科)の実のロザリオを、その地から持ち込まれた時のままのオリエント風の箱に入れ、その箱を透かしのある袋に収めて、五葉の松の枝につけて贈ります。合わせて、薬などを入れた紺瑠璃(深紫がかった紺色)の壺に藤や桜の花をつけたものや、ル・ピュイ名産の特別な器具を使って糸を組み編んだレースやカンタル・チーズなどを差し上げました。

 ヒカルは聖を始めとして、シャペルで聖書を読まれた聖職者たちにお布施や用意していた品々を贈りました。雑用係の下級職の者にまで贈り物をした後、祈りをしてもらったお礼の寄進をしました。

 

 司教は奥に入って、妹の尼に昨晩のヒカルの依頼事を取り次ぎましたが、尼は「どうにもこうにも、今のところは返事のしようがありません。お志が続くようならば、あと四、五年を過ぎた時分に改めて、おっしゃって下されば」と説明します。司教がその旨をヒカルに伝えますが、尼がヒカルに語ったことと同じでしたので、「私の真意が理解されていない」と残念な思いをします。 

 

 ヒカルは僧坊にいる小さい童女に尼君への歌を託しました。

(歌)昨日の夕暮れに ちらりと花のようなお人を見ましてからは それが心残りとなって 

   今朝の霞の空の下 私は出立しかねております

 尼君からの返歌は、貴女らしい品のよい立派な筆跡ながら、無造作に書かれていました。  

(返歌)花の辺りを 出発しにくいと 仰せられますのは 真実でしょうか そういうあなたの 

    霞の空のようなお心持ちが いつまで続くものか そのご様子を見ておりましょう

 

 ヒカルが馬車に乗り込もうとすると、「どこへとも伝言もなさらずにお出掛けになりましたから」と言いつつ、左大臣の息子たちや宮廷人などが大勢、僧坊にやって来ました。頭中将アントワンや蔵人辨から左中辨となった弟ガストンを筆頭ににヒカルを慕って、「こうした周遊のお供は喜んでいたしますのに、心外にもお知らせもしませんで」と恨み言を言います。「こんな見事な花陰で一休みもせずに都へ戻って行くのは惜しすぎます」と口々に申します。

 

 一同は庭の岩隠れの苔の上に居並んで、酒宴を始めました。側を流れる水の流れに趣があります。アントワンは懐中から笛を取り出して吹き澄まします。ガストンは扇で拍子を打ち鳴らしながら、流行りの恋歌を歌います。二人とも人よりも優れた貴人でしたが、ヒカルがさも悩ましげに岩に寄りかかっている姿は、世に類がないほどの美しさで、人目を惹かずにはいられません。いつものようにピッコロを吹く随身やバグパイプを持ち込んで来た風流人もおりました。

 司教が自らスピネット(小型ピアノ)を運んで来て、「ちょっとだけでも、これをお弾きになって、山の鳥を驚かせてやりましょう」とせつに所望しますので、ヒカルは「まだ病み上がりで、気分はあまりすぐれませんが」と言いながらも、ほどほどにスピネットを弾き鳴らしました。

 

 一行はその日、ル・ピュイ周遊を楽しんだ後、ロワールへ戻って行きました。

「何とも名残り惜しい」と僧侶たちや童女たちが涙を落とし合いました。まして坊内にいる年老いた修道女たちは、これまでこのような美男な貴人の有様を見たことがなかったので、「この世のものとも思えないようでしたね」と評し合いました。

 司教も「何の約束事があって、このようなめでたい御方が、某の占星術師が『末の世』と説く、こんなせちがらいフランスにお生れになられたのか、と思うと悲しくなってしまう」と涙でうるんだ眼を拭います。

 

 ヒカルが見初めた童女も、子供心に「結構な御方でした」と感じて、「父宮のご様子よりも勝っています」と称えます。「それなら、あの方の子になってしまいましよ」と侍女が言いますと、「そうなっても良い」というように肯いています。人形遊びでも、絵を描いても「ヒカル・ゲンジの君」をこしらえて、清らかな衣裳を着せて、大事にしています。

 

 

4.ヒカルの若紫への思慕

 

 シュノンソーに戻ったヒカルは、まず王宮に上って病中の出来事などを報告します。王さまは「ひどく痩せてしまったではないか」と気にかけていました。ル・ピュイ・アン・ヴレイのコルネイユ岩山の聖の尊さなどについて尋ねます。詳しく説明しますと「大司教に任じられてもよい高僧の御方なのだね。そんな名誉を求めず、修行の功を積んでこられたようだ。世間にはあまり知られていないが」と敬意を表します。

 

 左大臣も王宮に上っていて、「私もル・ピュイまでお迎えに行こうと思いましたが、お忍びでのお出掛けのようでしたので、迷惑をかけてしまったら、と思って差し控えました。一日、二日でもゆっくりと静養なさい」と言って、「アンジェまでお送りいたしましょう」と申し出ました。

 ヒカルにはその気はなかったのですが、左大臣の申し出を断わりきれずに、アンジェへ行くことにしました。左大臣は自分の馬車の上席にヒカルを座らせて、自分は身体を縮めて隅の方に座りました。そこまで大事に扱ってくれるねんごろなお気持ちに触れると、さすがに心苦しくなってしまいます。 

 アンジェ城でも「今日こそ、お出でになることでしょう」と心待ちにしていました。久しく訪れなかった間に、ヒカルの部屋はさらに玉のように磨き上げられて、すっかり用意が整っていました。

 

 女君はあいも変らず奥に隠れて、すぐには出てきません。左大臣がしきりと宥めすかして、ようやく居間にやって来ました。絵に描いた物語のお姫様のように、かしこまってみじろぎもしませんが、うっとりするほどの美人でした。

 ヒカルは心中の思いをそれとなく話したり、ル・ピュイ行きの山道の話を聞かせようとします。話し甲斐があるほど、興味を示して手ごたえがあれば情愛もわきますが、さっぱり打ち解けずに恥かしげによそよそしくしています。年が重なっていくほど、心の隔たりが増していくのが苦しくなります。

 

「時々は世間並みの妻らしくして下さい。私は堪え難いほど患っていたのですから、『いかがでしたか』という程度でも問うてくれないのは珍しいことではないものの、やはり恨めしく思います」と愚痴りました。

 女君はようやく口を開いて「久しく訪ねて下さらない 私の辛い気持ちをお分りでしょうか」とよく知られた歌の一節を引用しながら、流し目でヒカルを見る眼差しが気恥ずかしげですが、気高く美しい顔立ちでした。

「たまに話をされると、心外なことをおっしゃる。『訪ねて下さらない』という言葉は、私どものような、ちゃんとした夫婦には使わないものですよ。心憂いことです。時がたてば経つ程、貴女はぞんざいなもてなしをされます。もしや思い直される折りもあるのではと、あれこれ試みているのですが、貴女はますますよそよそしくおなりになっています。まあ、いいでしょう。命は長いものですから、そのうちには」と寝所へ入りました。女君はヒカルに続いて寝所に入ろうともしません。

 

 ヒカルは促してみても聞かない人をもてあまして、溜息をつきながら就寝します。夫人の閨(ねや)入りに骨を折る気にならなかったのでしょう。眠そうなふりをしながら、色々な物思いに浸ります。

 あの若草が成長していく様子を側で見守ってみたいものだが、「まだ歳が不似合いだから」と尼君たちが考えるのも一理ある。先方がそんな気持ちでいるから、言い寄り難くなってしまっている。何らかな手立てをして、シュノンソーに快く迎えて、明け暮れの慰みにしたいものだ。父親の兵部卿の宮は王族らしい気位の高さと優雅さをお持ちだが、顔立ちの方はそれほどでもないのに、どうしてあの若草は叔母にあたるあの御方に似ているのだろう。兵部卿と藤壺は同腹の兄妹だからなのだろうか」などと連想していくと、若草と藤壺を結ぶ糸がつながって、何としてでも、あの若草を手中にしたいとの思いを深めていきます。

 

 翌日、ヒカルはル・ピュイに手紙を送りました。司教への手紙には、それとなく童女の件をほのめかしたことでしょう。尼君への手紙には「あまり真剣に取り扱って下さいませんでしたので、こちらの思いを充分に言葉で言い表わすことはできませんでした。これ程お願い申し上げているのは、並々ではない志であるからとご理解いただけますなら嬉しく存じます」などと書きました。

 手紙に恋文のような小さく結んだ文が添えてありました。

(歌)あの山桜の 美しい面影が 今も身に添うて 片時も離れません 私の心はすっかり

   そちらに残して来たのですが   

「夜の間の風が、あの山桜に吹きつけると思うと気になりますが」などと書いてありました。

 

 ヒカルの筆跡の立派さは別としましても、手紙をそれとなく押し包んだ体裁も、盛りの歳を過ぎた尼君の眼には眩く好ましく見えます。

「まあ、困ってしまう。何と返事をしたら」と当惑します。尼君の返信にはこう書いてありました。

「先日のお話は通りすがりのことと思っておりましたが、わざわざお便りをいただきまして、どうお答え申し上げたらよいのか。孫はまだ文章の手習いの初歩であります『ル・アーヴル(Le Havre)の港』の歌ですら、満足に書けない幼さですので、甲斐ないことです。

 それにしましても、

(歌)激しい山風が吹いて 峰の桜が散ってしまう前に お気持ちが 散ってしまうだろうと

   頼りなく思われます

とても心配でございます」。

 

 司教からの返信も似たような内容でしたので、悔しくなったヒカルは二、三日して、コンスタンをル・ピュイに遣りました。

「僧坊に少納言の乳母と呼ばれているセリーヌという女がいるはずだ。出会って、私の思いを詳しく伝えてくれ」などと言い含めました。

「さてもさても、油断も隙もないご主人だ。あの童女はまだまだ頑是無い幼い気配だったのに」と真正面からではないものの、ちらっと見掛けた童女を思い起こしました。

 

 司教はわざわざ官位五位の人物を手紙の使いとして遣られたことに恐縮してしまいます。コンスタンは面会を申し込んでセリーヌに出会いました。ヒカルからの事付けを詳しく伝えた上に、シュノンソーでの日頃の様子などを語りました。コンスタンは多弁な男なので、もっともらしくあれこれと語り続けますが、「若草の童女があまりに幼い年頃なので、どうされるお積りなのか」と誰も誰もが薄気味悪く感じます。

 

 手紙には引き取る申し入れがねんごろに書かれていました。手紙に添えた結び文には「若草が手習いをした筆跡を是非ともお見せ下さい」とありました。

(歌)手習い始めの歌「浅香山」の井戸のように 浅い気持ちで 思っているのではないのに 

   どうして私を 疎んじようとされるのでしょう 

(返歌)お気持ちを汲んで 馴れ親しむと 後悔するようなことがあると 聞いております

     御心の浅さを知りながら 何として お逢いできましょう

 

 ル・ピュイから戻って来たコンスタンも同じような報告をしました。「ご病気がよろしくなって、しばらくしてから、ロッシュ(Loches)の屋敷に戻ります。その後、改めてご返事をいたします」との少納言セリーヌの伝言を聞いて、ヒカルは心もとない思いがしました。

 

 

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