巻1 藤と紫
その3.空蝉 (ヒカル 16歳)
1.ヒカル、ポンセの邸より帰り、煩悶
眠れないままに、「私はこれまで、こんなに人に憎まれたことはないのに、今宵になって初めて『憂い』という世界を知った。もう恥かしくて、生きていけない気になってしまう」などとヒカルが愚痴りますと、ジュリアンは涙すらこぼしながら臥しています。
「何て可愛い児だろう」と思います。
手探りで感じたほっそりした小柄な身体、髪はそれほど長くはなかった気配が思いなしか似ているように感じますのも、愛おしいのです。「無闇に付きまとって、女の許にたどりつくのも体裁が悪いようだし、真底恨めしい」と思い明かしながら、例のように小君に言伝をすることは止めてしまいました。
夜がまだ深いうちに帰っていきますので、小君は「非常にお気の毒だ、空しいことだ」と悔みます。女君は「通り一遍ではなく気が咎める」と思いますが、それっきりヒカルからの便りは絶えてしまいました。「さすがにお懲りになられたのだ」と思うものの、「このまま冷たくなって止んでしまったら、やるせない。そうかと言って、あの忌まわしい振舞いが絶えないのも嫌である。このままで、決着がついてしまうのが良いのだ」と思いこませながらも、ただならない思いに耽るのでした。
ヒカルは「面白くない」と思いながら「このままでは終らせるものか」と意地になって、不体裁なほど思案をめぐらせます。ジュリアンに「ひどく辛く悲しい思いがするから、強いて忘れようとしているが、自分の心がそれに従ってくれないから苦しいのだ。いい折を見て、もう一度逢えるようにしてくれ」と繰り返し頼みます。ジュリアンは困惑しながらも、こんな事であっても構ってもらえるのを嬉しく思っています。
2.ヒカル、空蝉と軒端荻を垣間見る
子供心に、「どうにかよい機会を」と待ち構えていますと、トロワ知事が任地に赴いていって、邸内が女性だけになったある日、のどやかな夕暮れの道が暗くなっていくのに紛れて、ジュリアンは自分の馬車にヒカルを乗せて、ポンセの邸に戻ってきました。
「やはりこの児はまだ幼いから、どうなることか」と不安はありましたが、そう慎重になって案じるほどのこともない、と目立たない服装で、邸の門に錠がかけられない前に、と急ぎました。人目がつかない通用門から人が馬車を引き入れて、ジュリアンはヒカルを降ろしました。子供のことですから、警備人なども取り立てて注意を払わなかったので安心できます。
ジュリアンは北側の勝手口の所にヒカルを残して、自分は西側に回って大広間のよろい戸を叩いて、声を上げながら中に入りました。ヒカルはジュリアンを追って大広間の手前の控えの間の戸口の所まで忍んでいきました。
「そんなに開けてしまいましたら、中が丸見えになってしまいます」と侍女が注意します。
「こんなに暑いのに、どうしてよろい戸を閉めてしまったのですか」と問いますと、「お昼から西館のお嬢様が来られて、二人でチェッカー(西洋碁。Dames)をされております」との答えでした。
ヒカルは女君と継娘が碁盤をはさんで向かい合っている様子を見たいと思って、控えの間の戸口からそうっと歩み出て、ジュリアンが入った大広間のよろい戸に近付きました。幸い、よろい戸はしっかりとは閉じられておらず、そこから隙見ができます。大広間を見通しますと、よろい戸の側に立てていた屏風は折り畳まれて端の方に置かれ、目隠しになるカーテンなども暑いせいか打ち掛けられていて、鮮明に覗き見ができます。
座っている人々の近くにロウソクが灯っています。大広間の中柱に寄りかかって横向きになっている女性が私の思い人であろう、と真っ先に目を留めました。濃い紫の綾織のドレスを着て、その上に何かを羽織っています。頭つきがほっそりした小柄で、あまり見栄えがしない姿です。顔などは正面に座った人からもわざと見られないようにしています。手許もひどく痩せぎすでドレスの袖で引き隠すようにしています。
もう一人は西向きに座っていましたから、すっかり見えました。白い薄いブラウスの上に、淡い藍色の上着を無造作に着て、紅色のスカートの紐の結び目の所まで胸元をはだけ出している、というあまり嗜みがない恰好をしています。とても色白で、丸々と太っている大柄な女性で、頭つきや額つきがはっきりしています。目元も口元も大層愛嬌があって、花やかな顔立ちです。髪はふさふさとしていて、長くはありませんが、二つに分けて顔から肩へかかる辺りが清げで、「どこにも欠点がない美人」に見えます。「これだったら、父親が自慢げに思うのも当然だろう」と興味をそそられました。この上に心持ち、「しっとりした側面を添えてみたら」と、ふとそんな気がしました。才気もあるようです。
勝負は終盤にさしかかったようです。若い方の女がはしゃぎながら「この一手で私の勝ちですよ」と相手の駒を一つ越えて奪いますと、左側の女は落ち着き払って「お待ちなさいな。そうはいきませんよ」と相手の駒を三つも越えてしまいました。継娘は「ああ、負けてしまった」と大袈裟に悔しがるのが、少し下品な印象を与えます。
継母の方は、つつましげに袖で口を覆って、顔をはっきりと見せませんが、目をこらしてじっと見つめていると、次第に横顔がよく見えてきました。瞼は少し腫れぼったい印象を与え、鼻筋などもくっきりとしておらず、年寄くさくて花やかさがありません。言ってしまえば、不細工の部類に入る顔立ちですが、とても気品があって「器量が勝った継娘よりも引き付けられる)」と、目から離せない有り様です。
賑やかで愛嬌があり美しい継娘の方は、ますますお調子に乗って笑いはじけます。匂い立つ花が多いように見えて、これはこれなりに興味を引かせる人様です。「軽すぎるかな」と思いながらも、浮気性の御心では、継娘も捨て難い気がします。
これまでヒカルが見知っていた女性は、打ち解けた様子を見せず、行儀正しく表面を装った側面だけしか見せません。こうやってくつろいだ女性の有り様を垣間見たことなどは、これまでなかった事でした。隙見をされていることに気付かない女性たちには気の毒でしたが、もっと長く見続けていたかったものの、ジュリアンが寄って来そうな気配がしましたので、しぶしぶ立ち退りました。
控えの間の戸口に戻って立っていると、ジュリアンがやって来ました。すまなそうな顔をしながら、「珍しいお客が来ておりまして、姉の近くに寄れません」と言い訳します。
「今宵もこのまま、むざむざと帰そうとするのか。それはひどい。辛い仕打ちだ」と舌打ちすると、「どうして、そんなことを。客人が帰っていってから、うまく手立てをいたします」と答えます。
「何とか成功させる自信があるようだ。子供ながらもしっかりしていて、人の顔色を読んだり、目端が利く児だから」とヒカルは機嫌を直します。
チェッカーを打ち終えたようです。室内がざわつく気配がして、お付きの人々が下って行く様子です。
「若君はどこにおられます。このよろい戸は閉めてしまいますよ」とガタガタと音をたてます。
「これから寝静まっていくだろう。それでは上手くやってくれ」と言います。この児も姉の心が折れそうになく、話をつけるすべもないことは承知していますので、姉と言い合わせなどせずに、「人が少なくなった折りに、寝室にヒカルを案内しよう」と考えていました。
「トロワ知事の妹も、こちらにいるのか。私に覗き見させてくれないか」と仰せになりますと、「とてもそんなことは。よろい戸の側に衝立が立ててありますから」と言い返します。「確かにそうだな」とおかしく思いますが、「実はとっくに見ていた」とまでは、さすがに教えません。「そこまで言ってしまうのは可哀想だろう」と思いながら、「夜更けまで待つのは心もとないな」と申します。
ジュリアンは控えの間のドアを叩いて、中に入ります。侍女たちは、皆、寝静まっています。
3.空蝉逃避。ヒカル、軒端荻と契る
ジュリアンは「私はこの戸口の所で寝ますよ。風通しがよいから」と言って、薄マットを広げて横になりました。侍女たちは東の控えの間に大勢で寝ているようです。先刻、ジュリアンのためにドアを開けた童女も同じ間に入って臥したようです。しばしの間、寝入ったふりをした後、ジュリアンは屏風を灯火が明るい方に広げて、影で暗くなった場所へヒカルを引き入れ、そうっと寝室へ案内しました。
「どうなることだろう。何かまずいことも起きるかもしれない」と不安にかられて、足がすくむような思いをしますが、導かれるままに寝室のカーテンの垂れ幕を引き上げて、そっと中に入ろうとします。皆が寝静まった夜のことですから、着ているしなやかな布地の衣擦れする音が、かすかながら響きます。
女君はヒカルが自分のことをすっかり忘れてしまってくれたことを「嬉しく」思うように努めはしますが、怪しく夢のようであった、あの夜の事が心から離れることがない日々でしたので、気を許して寝ようとしても寝付くことができません。
「夜はまんじりとすることもできず 昼間はぼんやりと外を眺めて暮らしている 春の木(こ)の芽のように 途切れることはない」と歌にあるように、自分のこの目も途切れることなく歎いてばかりいます。
チェッカーの相手をした継娘は「今夜はここで寝かせてもらいます」と言って、若い女性らしい屈託のない話をしながら、女君の横で寝入ってしまいました。
女君は誰かが寝間に近付いてくる気配を感じ、ひどく香ばしい匂いも漂ってきましたので、頭をもたげて、はずした二枚重ねのショールをうちかけてある衝立の隙間から覗いてみると、暗闇の中に身じろぎながら近寄ってくる気配を悟りました。とにもかくにも分別がつかないまま、静かに起き上がって、上側のショールを引っ掛けて、寝間から抜け出していきました。
ベットに近付いたヒカルは、女が一人で臥しているのを見て安堵しました。下段の間に侍女が二人ほど臥していました。上に被った掛け布団をそっと押しやって寄っていくと、あの夜の時よりも、気配が大柄のように感じましたが、まだ別人だとは思いつきもしませんでした。ただ寝姿がいぎたなく、勝手が違うので、ようやく別人であることが分って、情けなく悔しくなりましたが、「人違えだった」と言って出て行ってしまうのも馬鹿げているし、「怪しい」と疑われるだろうと躊躇しました。意中の女を尋ね捜しても、ここまで逃げようとする気持ちが強いのですから、追っていく甲斐はなく、侮蔑されるだけだ」と観念しました。
「この女があの火影で見た若い方であるなら、どういうことになるだろうか」と気になってしまうのも悪い浮気心が浅くはないからでしょうか。
ようやく目を覚ました女は、何とも言えない浅ましさに呆れ果てた様子で、何の気構えも愛らしい仕草もありません。まだ男を知らず、男女の関係は初めてのことでしたが、歳の割にはませていましたから、うろたえることはなく、ヒカルに抱かれるままにしていました。
ヒカルは「自分であることは教えまい」と思いましたが、女が後になって「どうして、こんなことになってしたったのか」と詮索して、義母との関係が明らかになってしまうと、自分にとっては差支えはないものの、あの辛らつな人が世間の批判を浴びて、世間を恐れるようになってしまうのも、さすがに可哀想なので、「度々の方違いでの訪問は、貴女に逢いたいがための口実だった」とうまく取り繕いました。
継母のベットに寝ているわけですから、少し気がまわる人なら、察しがつくでしょうが、ませているようでも、まだ若い娘心ではそこまで思い至りません。この女に失望した、というわけではありませんが、心が惹かれてしまう理由もない心地がして、なおも逃げて行った薄情な人の心を恨めしく思っています。
「どこに紛れ込んで、私を『愚かな者よ』とせせら笑っていることだろう。こんなにしぶとい人はざらにはいない」と思うはものの、悔しいながらも忘れ難さがつのります。とは言うものの、この若い娘が無心で、初々しい気配も可愛くなって、しっかりと情愛を込めて約束をします。
「公然とした関係よりも、こうした忍んだ仲の方が、愛おしさが深まるものだ」と、昔の人も言っております。貴女も私のことを思っていて下さい。私は世間体を気にしなくても済む身分ではありませんから、自分の思った通りにできないこともあります。貴女の方も、周りの人たちが二人の関係を許しはしないだろう」と思うと、胸が苦しくなります。それでも忘れずに私を待っていて下さい」など、もっともらしく語らいます。
「周りの人がどう思うだろうか、恥かしくもありますから、こちらからお便りをすることはいたしません」と若い女は素直に答えました。
「とにかく、人には知られないようにしましょう。この邸にいる小さな近習などを通じてお便りをします。それまでは、そ知らぬ風を装っていて下さい」などと言い残して、かの女が脱ぎ捨てていった下側のショールを手にとって、寝間から出ました。
4.暁月夜、ヒカルの帰邸
控えの間の戸口で寝ていたジュリアンを起こしますと、ヒカルのことを気にしながら寝ていましたので、はっと驚いて目を覚ましました。
ジュリアンが戸口をそうっと開けますと、年老いた女の声がして、「どなたでいらっしゃいます」と大袈裟に声を上げました。煩わしいと思いながら「私ですよ」と答えます。
「こんな夜中に、どちらへ行かれますの」と不審がって、渡り廊下から外に出てきました。憎らしく思ったジュリアンは「何でもないよ。ちょっとそこへ出るだけだ」と答えながら、ヒカルを戸口から外に押し出しますと、夜明け近くの明るい月が隈なく射しこんでいて、ふと人影が見えましたので「もう一人おられるのはどなたですか」と老女は問いかけてきました。
「きっとマリオンさんでしょう。マリオンさんはすばらしく背が高い方ですから」と申します。マリオンは背が高いことを、いつもいじられていました。
老女は「ジュリアンがマリオンを連れて歩いている」と思い込んで、「ジュリアンさんも直にマリオンさんと同じくらいな背丈になりますよ」と言いながら、渡り廊下から近寄ってきました。ヒカルは困惑しながら、老女の眼から離れるようと、戸口の北角に身を寄せて隠れ立っていますと、老女が寄ってきて「貴女も今夜はお勤めでしたの。私は一昨日からお腹の具合が悪くなって、里へ戻っていたのですが、『人手不足だから』とお呼びがかかって、昨晩、上ってきたのですよ。けれどもお腹の痛みに堪えられません」とこぼします。返事も聞かずに「ああ、お腹が痛い。それでは後ほど」と言って立ち去りましたので、かろうじて窮地を脱することができました。
「やはり、こうした忍び歩きは軽々しくて、危なっかしい」と肝に銘じました。
5.ヒカルの帰邸。空蝉に消息し、空蝉煩悶す
ジュリアンは自分の馬車にヒカルを乗せ、自分は馬車の尻に乗ってシュノンソーに戻りました。ヒカルは昨夜の顛末を話して、「お前はまだ幼いね」と愚痴を言って、思い人の心を咎めながら、恨み言をもらしました。ジュリアンは気の毒に感じながら、返事をすることもできません。
「ここまで深く嫌われてしまうと、私自身も厭わしくなってしまう。そうではないか。逢ってはくれなくとも、せめて返事くらいはしてくれて良いのではないか。私をミラノ副公使よりも劣っていると見なしているのだ」と「いまいましい」と思いながら苦言を吐きます。
それでも持ち帰ったショールを夜着の下に引き入れて就寝しました。ジュリアンを側に寝かせて、恨み言を言いつつ、話を続けました。
「お前は可愛いが、恨めしい人の弟だから、いつまでも目をかけて上げることにはいかないよ」と真顔でおっしゃいますので、ジュリアンはとても悲しい思いがします。
ヒカルはしばしの間、臥していましたが、寝入ることができません。やおらインク壺を取り出して、あらたまった手紙ではなく、下書きのように書きました。
(歌)蝉が殻から抜け出して どこかへ飛んでいってしまった その木の下に取り残されて
なおもその人柄を なつかしく感じている
ジュリアンはヒカルが書いた紙を持ち帰ろうと懐に入れました。
「あの若い娘も、何と思っているだろう」と愛おしく思い浮かべましたが、あれこれ考えめぐらせて、言付けを遣るのはやめました。
あの薄手のショールには、なつかしく思う人の薫りがしみついていますので、側に置いて、じっと見つめ続けます。
ジュリアンはポンセに戻って、姉の所へ顔を出しました。姉は待っていたかのように、ジュリアンをひどく叱りました。
「昨夜は、とんだ目にあいました。何とか逃げ隠れしましたが、誰がどんな想像をしてしまうか分かりませんから、ひどく迷惑なことです。お前のように、まだ子供じみた心ばえの者を、あちら様も何とお思いになっていることでしょう」と恥じかしめます。こちらと向うの双方にはさまれてしまったジュリアンは、苦しい思いをしますが、ヒカルが下書きのように書いた紙を差し出しました。
女君はさすがに、二つ折りの紙を開いて読みました。持ち帰ってしまったショールが「海女が着る衣」のように、しおれていて汗臭くなっていただろうかと思うと、一方(ひとかた)ならず千々に思い乱れました。
西館に住む若い娘も、気恥ずかしい心地で、自室に戻ってきました。近くに寝ていた侍女など、誰にも気付かれなかったようですが、人知れず物思いに耽っています。ジュリアンが行き来する姿を見ると、胸がふさがりますが、何の便りもありません。「これが男の冷淡さか」とまでは思い至りませんが、しゃれっきがある性分でもやるせない思いがします。
つれなくした女君も、平静さを装っているものの、そう浅くもないらしい相手の気持ちを「私が一人身であったなら」と元には戻れない身の上がたまらなくなって、二つ折りの紙の端に、こんな歌を書きました。
(歌)蝉の羽についた露が 木々に隠れて 人には見えないように 私も人に隠れて 忍び泣きで
袖を濡らしています
著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata