その4橋姫      

 

4.カオル、柏木の悲恋をベネディクトに聞く。カオルのジュヌヴィエーヴとの贈答    (カオル 二十歳)

 ふいにこの老女が泣き出しました。

「出過ぎた者とお叱りを受けはしまいか、と控えておりましたが、昔の悲しい出来事を何かの機会がありましたなら話しをさせていただいて、せめてその片端でもお耳に入れたいと、長い間、祈りをする際にもその願いごとも込めておりました。その効験があって、こんなに嬉しい機会が出現したのだと思うと、言葉より先に涙が込み上がって来て、まともに話すことが出来ません」とぶるぶる震えている様子は、ひどく物悲しい話があるようなのです。

「年老いた老人は普通に涙もろくなる」と見聞きはしているものの、これほど思い詰めているのが不思議でした。「この山荘への訪問は度重なっていますが、あなたのように昔のことを知っている人もおらず、いつも独りだけで露に濡れながら帰って行きました。喜ばしい機会のようですから、言い残しをせずに打ち明けて下さい」とカオルが告げました。

 

「本当にこのような良い機会はございますまい。またの機会があるとしても、明日も分からない命を当てにすることも出来ません。ただ、こんな老女も世の中にいたのだということを知っていただけたら、と考えてお話しいたします。

 ランブイエ城の山桜上に仕えていたドニーズが亡くなったことは、ちらっとは聞いておりました。かって親しくしていた同じ年配の者も、多くはこの世を去ってしまいましたが、私ははるか遠くのピレネーの麓から上がって来まして、この五、六年ほどはこちらにお仕えしております。ご存じではないでしょうが、ただ今、藤大納言でおられるロラン様の兄で、権大納言に昇格してお隠れになった御方を、何かの機会にお聞きになったことがございますでしょうか。私などはその御方が物故されてから、幾らも経っていないような気がしてなりません。その時の悲しみも、まだ袖が乾く暇もないように思われます。指折り数えてみると、貴方様がこのように大人になられた年月が経過しているのが、夢のようです。

実を言いますと、権大納言で亡くなった柏木様の乳母はこの私、ベネディクトの母でございました。そうした訳で私は朝夕、身近に仕えておりました。物の数にも入らない身ではありましたが、柏木様は人には言えないけれども、心に仕舞い切れない心配事を時々、それとなく漏らすことがありました。もうこれ限りとなった病床に私を呼び寄せて、わずかばかりですが言い残された言葉がありますので、是非ともお伝えしなければと考えております。ここまで申し上げて『この続きを知りたい』というお気持ちがありますなら、いずれ改めて残らずお話しいたします。今は若い者たちが『余計な口出しはするな』と目配せをしているのも、もっともなことですから」とさすがに口をつぐみました。

 

 カオルは怪しげな夢物語か、古代ギリシャのシピュラ(巫女みこ)のような者が、問わず語りをしているようなのを不思議に感じながらも、これまで自分が本当の事が知りたいと気になっていたことに関した話なので、もっとよく知りたいと思いましたが、確かに人目が多く、いきなり昔話に関わって夜を明かしてしまうのも、無作法のようでした。

「はっきりと思い当たるふしはないが、その昔の話というものが胸に染みる。それではこの残りをきっと聞かせて下さい。霧が晴れると、見苦しくやつした姿を不面目にも見られてしまうので、思っていたほどゆっくりとは出来ないのが残念です」と立ち去ろうとすると、第八卿が籠っている修道院の鐘の音がかすかに聞こえて来ました。霧がひどく深く立ち籠っていました、

(歌)白い雲が幾重にも重なる 遠い場所へ行っても 貴女を思うこの気持ちを 分け隔てしないで欲しい といった歌のように、しみじみ哀れに感じました。ましてや、ここに住んでいる女君たちの心の内を察すると心苦しくなります。「何事も物思いのありったけを味わい尽くしているから、こんなにも引き籠っているのも納得がいくと感じました。

 

(歌)夜が明けて行くが 尋ねてきた道の樫(楢)の丘には霧が立ち込めていて 帰って行く家路も見えない

心細いことだ」と言いながら引き返して来て、立ち去り辛そうにしている優艶な姿を見馴れた都の人でも格別なものに感じるのですから、ましてここら辺りの人にとっては、どんなにか珍しい光景に見えることでしょう。

 侍女たちが返信の取次ぎをしづらそうにしているので、ジュヌヴィエーヴは恥ずかしそうにしながら、自分の声で詠み上げました。

(歌)雲がかかっている険しい山路を 秋の霧がますます隔てている 頃合いですからね

 少し溜息をつきながら、同情している気配が浅いものでなく、胸を打ちます。さほど情緒を感じさせるようなこともない港町でしたが、ここから立ち去るのが心苦しくて躊躇していました。辺りが明るくなって行って、顔をじっくり見られてしまう気がしたので、「中途半端になってしまい、あれこれ聞き漏らしてしまったことが多いことが心残りですが、残りはもう少し顔なじみになってから聞かせてもらいましょう」と世間並みの男のように話してみたのですが、何の反応もないので、「思ったよりお分かりになっていないのが恨めしいことです」と言った後、当直人が用意した西面の席に行って、セーヌ川の風景を眺めました。

 

「ブリーク漁で人々が騒いでいるが、ブリークや小魚が寄り付いていないのだろうか。皆つまらなそうな顔をしている」と漁に詳しいお供たちが話しています。刈った柴を積み込んだ貧相な小舟を眺めながら、それぞれの人がささやかな日常生活に追われながら、はかなげな水面を行き交っているのを見ていると、「誰もが同じように不確かで無常な世の中に住んでいるのだ。彼らに較べると自分は安楽な玉の台に暮らしていると思い込むのは間違っているのだろうか」との思いが続きました。

 カオルはペンを出して、ジュヌヴィエーヴに向けて詠みました。

(歌)橋のたもとに住む姫君たちの心を察して 川舟の棹の雫のように 涙が私の袖を濡らしてしま

「さぞかし物思いが多いことでしょう」と書いて、当直人に渡しました。当直人は寒そうに鳥肌が立った顔をして、奥に持って行きました。

 ジュヌヴィエーヴは「返信を書く紙に焚き染めた香りはいい加減なものでは」と思って恥じ入りながらも、「こうした場合は早くしなければ」と急いで返歌を詠みました。

(返歌)棹をさしてオワーズ川を行き来する渡し守は 朝夕の雫に濡れて 

    袖をすっかり朽ちさせていることでしょう

(歌)川にさす棹の雫に濡れる袖のように 自分の身まで涙で浮かんでしまう心境です といった歌のような心境です」と風雅に美しく書いてありました。

「何とも見事に整った筆跡だ」と心残りになりましたが、「馬車が到着しましたとお供の人々が騒ぎ立てるので、カオルは当直人だけを呼び寄せて、「第八卿が戻られた頃に、必ずやって来るから」と言って、濡れた衣服はすべて脱いでこの男に譲り、取りにやった衣服に着替えました。

 

 

5.カオル、ニオイ宮にコンフランの山荘の模様を語る    (カオル 二十歳)

 フォンテーヌブロー城に戻ってからも、老侍女の話が気にかかりました。さらに二人の女君が想像していたよりもこの上もなく優っていて、器量も良く美しい気配が眼に残っているので、「これだから世の中を捨て去るのは容易ではないのだ」と気弱な気持ちになりました。

 カオルは恋文めいたものではなく、厚手の白い色紙に使うペンを念入りに選んで、ジュヌヴィエーヴ宛ての手紙を、見所があるように美しく書きました。

「あまりにぶしつけになりはしまいかと、わけもなく躊躇してしまって、話し残した多くのことがまだ、胸に残っているのは苦しい限りです。ちょっと話したように、これからは気安く内カーテンの前に案内して下さい。卿の修道院籠りが終わる時分を承ってから、霧に鬱陶しく立ち込められてしまった思いを晴らしたいと存じます」と生真面目に書いています。

 使いにする官位六位の右近衛局の将監という者を呼んで、「コンフランの老女を尋ねて、この手紙を渡してくれ」と告げました。当直人が寒そうにうろうろしていたのを気の毒に思いだして、料理などを詰めた大きな重箱を多く持たせました。

 

 翌日には、第八卿が籠る修道院にも見舞い品を贈りました。「一緒に籠っている僧たちも、このところの嵐にとても心細がっていることだろうし、卿も滞在中にそういった人たちへお礼の品を渡す必要があるだろう」と察して、絹布や綿布などを沢山贈りました。たまたま卿が修道院籠りを終える日に当たったので、卿は一緒に勤行を務めた高僧たち全員に、絹・棉の布、法服や衣服などを一揃いずつ贈りました。

あの当直人はカオルが脱いで譲っていった、しっとりと美しい旅行着や何とも言えない白い綾織の衣服が柔らかで、例えようもない匂いを放っているのを着てみましたが、持って生まれた身体だけは変えようがありません。似つかわしくもない袖の香りを逢う人ごとに怪しまれたり、褒められたりして、かえって窮屈な思いをしました。自分の好き勝手に気軽に振る舞うことができなくなり、気味悪がれるほど人が驚く匂いをなくしたいと考えるものの、あまりに強い移り香を洗い落とすことが出来ずに持て余してしまいました。

 

 カオルはジュヌヴィエーヴの返信がよく整って若々しく書かれているのを嬉しそうに読みましたが、一方のコンフランの侍女たちは修道院から戻って来た第八卿に、「カオル様からこんな便りがありました」と報告して、手紙を見せました。

「何か色っぽい恋文のように解釈したら、不快に思われてしまう。カオル殿はありきたりの若い者に似てもいない、真面目な人なのだ。以前、『私が亡くなった後も』などと、一言漏らしたものだから、そういった気持ちで気に留めているのだろう」と卿は話しました。

 第八卿は自ら「様々の見舞い品が修道院に有り余るほどであった」などとの礼状を送ったので、カオルは「早速コンフランを訪ねていかねば」と思いながら、ニオイ卿の顔が思い浮かびました。

 

「ニオイ卿は『都会から奥まった忘れられた辺りに、佳人を発見したとすると面白いことになるだろう』と妄想しているから、コンフランのことを誇張して話して、気も揉ませてみよう」と思いついて、穏やかな夕暮れ時にヴァンセンヌ城を訪れました。

 いつものように世間話を交わすついでに、コンフランの第八卿のことに触れて、霧が深い夜明けに二人の女君を隙見した様子を詳しく話すと、ニオイ卿は「とても興味深い」と感じたようです。「やっぱりな」と顔色を見て取ったカオルは、「もっと動揺させよう」と話し続けました。

「それで、どうしてその女君の返信を私に見せてくれないのだ。私だったら、そんなことはしないが」とニオイ卿が恨むので、「そうですね。女好きの貴殿のことですから、あれこれ様々な女性からの手紙が届いていることでしょう。その片端程度でも見せてはくれないではないですか。あの奥まった辺りに住む女君は、私のような陰気くさい男が独り占めにしてしまうべきではないので、是非とも引き合わせてみたいと思うものの、貴方は王子の身分ですから、どうやって尋ねて行くことが出来ましょう。

 恋愛がしたければ、身分の軽い者ほど打ち込むことが出来るものです。概して、人から隠れた所に興味深いことが多いようです。それ相応に魅力のある女性が、物思わしげに世を忍んでいる住まいが、山里めいた片隅に偶然あったたりします。この女君たちの父親は世間から離れた僧のような人なので、彼女たちもそれなりの堅物だ、と長い間軽視していて、耳にも留めないでいました。あのほのかな月の光りで見た姿は他の女性に劣ってもおらず、十分整っていました。気配と言い、物腰と言い、ああいった女性こそ理想的だ、と申すのでしょう」とカオルは畳みかけました。

 

 ニオイ卿はしまいには本気で嫉妬心を起こして、「ありきたりの女性には心が惹かれそうもないカオルが、こうまで引き付けられてしまっているのは余程のことなのだろう」と異常なほどの関心を持ちました。「それなら、もっとよく様子を探って欲しい」とカオルに勧めながら、自由に外歩きが出来ない面倒くささがいまいましいほどもどかしい」と感じているようです。

 カオルはおかしくなって、「いやいや、そこまでする気はありません。しばらくの間でも、この世に執着心を持つまい、と考えている身ですから、いい加減なことは慎まなければなりません。吾ながら、抑えかねない料簡にとりつかれてしまったら、大きな思惑違いな事態が起きてしまいますから」と言い返しました。

「またまた大げさなことを言うね。例によって薄気味悪い僧侶言葉が出て来た。そのうちどうなるか、見届けよう」とニオイ卿は笑いましたが、カオルの心中では実際のところ、あの老侍女がほのめかした話で、前々からの疑問が浮上して来て、何となく物悲しい気分になっていたので、美しい女性を見ても、見た目が感じよい女性と聞いても、さほど気に留まらないでいました。

 

 

6.第八卿の父性愛。ベネディクトが柏木の秘密をカオルに語る  (カオル 二十歳 )

 十一月に入り、五日か六日過ぎに、カオルはコンフランへ出掛けました。お供の中には「今がブリーク漁の季節ですから、是非ご覧になりましたら」と進言する者もいましたが、「何と言うか、はかなさを虫けらや小魚と競う自分なのだから、ブリーク漁を見たところで」と断って、お供の数も絞って微行用の馬車に軽やかに飛び乗りましたが、細い絹糸で固く負った薄布でことさらに新しく仕立てさせた上着とズボンを身に着けていました。

 

第八卿はカオルを喜んで待ち受けて、コンフラン名物の料理などでもてなしました。日が暮れてからは灯火を近くに寄せて、前々から一緒に読みかけている聖書のユマニスト的な深い解釈を、モウブイソン修道院から呼んだ導師の意見を聞きながら進めました。夜が更けてからもカオルはまどろむことも出来ずにいると、セーヌの川風が大層荒々しく吹く上に、木の葉が散る音、水の響きなどがしみじみとした情感を通り越して、何となく物恐ろしく心細い様相になりました。「明け方が近づいて来たようだ」と思うと、いつぞやの夜明けの薄明りの中で隙見をしたことを思い出して、あのハープの音の物寂しさを第八卿との会話のきっかけにしました。

 

「先日、霧が立ち込めて難渋した明け方に、とても珍しい楽器の音をちょっとだけ聞かせてもらいましたが、その続きを何とか聞かせてもらえないものか、と気掛かりになってしまい、そればかりをずっと考えております」と話しました。

 卿は「色にも香りにも未練がなくなった後は、昔たしなんだハープのことなど、すっかり忘れてしまった」などと言いながら、人を呼んでハープを持って来させました。「ハープを弾くのは今の私にはひどく不似合いになってしまっている。合奏をして先導してくれるなら、弾き方も思い出すだろう」と言ってリュートを持ってこさせて、客人のカオルに勧めました。

 カオルはリュートを手に取って調子を合わせましたが、「どういうわけか、先日かすかに聞いた時とは同じ楽器とは思えません。あの妙なる音色は楽器の響きのせいなのか、と思っていたのですが、今思うに弾き手が優れていたからだと感じます」と言って、気を許して弾くことをしないでいました。

 

「いやはや、口の悪いことを言われますね。貴殿の耳に留まるような弾き方など、どこからこんな山里まで伝わって来ましょう。ありえないことをおっしゃいますね」と言いながら、卿はハープを搔き鳴らしました。その音色はとてもしみじみとしんみりしたものでした。その一因は(歌)ハープの音色に 丘の松風が通い合う どちらが先に奏で始めたのだろうか といったように、松風が伴奏をして引き立たせたからでしょうか。卿は覚束なく忘れた風をしながら、趣がある曲目を一つだけ弾いて止めました。

「確かにこの山荘辺りで、思いがけない時に折々ほのかに奏でているスピネットの音色は心得があるように聞こえることもありますが、娘たちに熱心に教えなくなってから久しくなっています。二人は気が向くままに搔き鳴らしていますが、それに音を合わせているのは川の波音だけです。言うまでもなく川の波音など、何の役にも立ちそうもない拍子だと存じますが」と言いながら、二人がいる居間に向かって「さあ、搔き鳴らしてみなさい」と声をかけました。

 

 ところが二人は「何も思いもかけずに弾いていた独りハープを聞かれてしまっただけでも恥ずかしいのに、こんな拙い技を披露するなんて」と尻込みして、聞き入れようとはしないでいます。父卿は度々催促しますが、何やかやと言い逃れをして弾こうとはしないので、カオルは残念でなりません。そんな二人の振る舞いを見るにつけ、「二人がこんな具合に世間馴れをしていない田舎者のように暮らしている有様は不本意なことだ」と卿は恥ずかしい思いでいました。

「二人の存在はなるべく人に知らせないように、と育てて来たが、私の方が今日か明日かも分からない、残り少ない身になってしまったので、さすがに若い二人の行く末がどうなってしまうのか、零落して彷徨うことになってしまうのか、とそれだけがこの世を離れる際の妨げになっている」と打ち明けるので、カオルは気の毒な思いがしました。

「とりたてた後見役をするほどの頼りになることは出来ませんが、私のことを疎遠な者ではないとお考えいただきたいと思っております。わずかな間とは言えども生きている限りは、ただ今、卿が申されたお言葉に背かないようにいたします」とカオルが明言すると、「何とも嬉しいことを」と卿は感激しました。

 

そうしてその夜の明け方、第八卿が勤行をしている間にカオルはあの老女を呼び出して対面しました。卿は老女を女君二人の世話役として付き添わしていて、ベネディクトの君と呼ばれていました。歳は六十に少し届かないくらいでしたが、仕草は上品で教養がある気配で語り出しました。ベネディクトは柏木権大納言が日夜、煩悶をした末に病気づいて亡くなった様子を一部始終話しながら、いつまでも泣き続けました。

「この話が他人の身の上のこととしても、哀れみを催してしまう昔話なのに、それ以上に長年知りたくてたまらず、『自分がどのように生まれて来たのかをはっきりと教えて下さい』とキリストにも祈って来た効験があったのだろうか、思いがけずにこうした夢のように悲しい過去の話を聞くことが出来た」と思うと、とめどなく涙が流れてしまいました。

 

「それにしても、当時の事情を知っている者が生き残っていたとは。何とも不思議で恥ずかしいとも思われる成り行きの話だが、この話を伝え知っている人たちも、まだ存在しているのだろうか。私は今日まで、この話の片端すら聞き及んだことがないのだが」とカオルが尋ねました。

「ドニーズと私を除くと、他に知っている者は誰もおりません。また一言も他人に話したこともありません。私はこのようにつまらない、取るに足らない身分の者ですが、柏木様の乳母の娘として、夜も昼もお側に付き添っておりましたので、自然と事の成り行きを見聞きしていました。柏木様の胸に納めかねるようなことが起きた折々には、ただドニーズと私だけが山桜上とのたまさかな手紙のやり取りの取次ぎ役を仰せつかいました。失礼なことになりますので、詳しくは話しませんが。

 ご臨終の間際になって、わずかですが言い残されたことがありました。私のような一人前でもない身分の者ではお伝えする方法もありませんから、気掛かりになり続けながら『どのようにして貴方様にお伝え出来るだろうか』と覚束ない祈りをする際にも望みをかけておりました。ようやくそれが実現したのを見ますと、『やはり神はこの世におられるのだ』と思い知りました。

 是非ともご覧に入れたい物がございます。これまでに、いっそのこと焼き捨ててしまおうか、と考えたこともありました。なぜなら、こうした明日の命も分からない身でそのまま残していって、人手に渡ってしまうことが気掛かりだったからです。そうした中、カオル様が時々この山荘に訪ねて来られるようになってからは、待ち望んで来た機会があるのではないか、と少しは期待が湧いてきて、『いつかはこうした機会もあるだろう』と念じる気力が出て来ました。やはりこれはこの世のことでないように感じます」と泣きながら、カオルが誕生した時のことをよく覚えていて、こと細かに話しました。

 

「柏木様がお亡くなりになった騒ぎがあってから、私の母も次第に病がちになってしまい、しばらくして亡くなってしまったので、私もますます嘆きに沈んでしまい、喪服が重なったことを悲しんでおりました。その時、数年来、私に思いを寄せていた、たいして身分もよくない男に言いくるめられてしまい、西の果てのスペイン国境にまで連れていかれてしまったので、都の様子は一切途絶えてしまいました。その男がその地で亡くなってしまった後、十数年ぶりに未知の世界に上がって来るような気持ちで都に戻って来ました。

 こちらの第八卿の奥様は私の父の母方の姪に当たることから、子供の頃からお出入りをさせていただいておりました。今はもう華やかな所にお勤めも出来ない身になっていますから、柏木様の妹に当たる冷泉院のアンジェリク貴婦人様は昔からおなじみにさせていただいていましたので、本来なら身を寄せてもらうことも出来たのですが、体裁が悪く感じてお願いをすることもしないで、今では

(歌)見た目の形は 山奥の朽ち木のようになっていますが 心中はどうにかして死んでしまいたい思いいです といった歌のようになってしまっております。

 ドニーズはいつ頃亡くなったのでしょうか。あの頃若い盛りでいた、と記憶に残っている人たちも数少なくなっています。段々と歳を取って行く中で、多くの人に先立たれてしまっている運命を悲しく思いながら、そうは言いつつ死にきれずにおりました」などとベネディクトが語っているうちに、いつものように夜が明けて行きました。

 

「分かった。この昔物語はいつまで聞いても尽きることはない。いずれまた、人が聞いていない安心できる場所で聞くことにしよう。そのドニーズという者はぼんやりと憶えているが、確か私が五歳か六歳の時に急に胸を患って亡くなった、と聞いている。こうやってあなたと出逢うことがなかったなら、実の父親を知らない罪が重い身で終わるところだった」などと告げました。

 ベネディクトはかび臭くなっている、書き損じた手紙を継ぎ合わせて、小さく巻き合わせたものを袋に縫い入れたものを取り出しました。

「これは貴方様の手で処分して下さい。『自分はもう助かることはないから』と柏木様は言われて、こうした手紙を取りまとめて私に渡しました。いずれドニーズに会う折りがあったら、間違いなく手渡そうと考えていたのですが、私がスペイン国境へ下って行ったこともあって、会えずじまいになってしまいました。私事ながら、柏木様の思いが貴方様へ伝わらなかったことをいつも悲しく思っておりました」とベネディクトは話しました。

 

 カオルはさりげないふうに袋を隠しました。「こういった年寄りは不思議な話の一例として、問わず語りに他人にしゃべってしまったこともあったのではないか」と気にかかりますが、「ベネディクトは繰り返し『他言はしていない』と誓っているので、まさかそんなことはないだろうが」と思い乱れていると、朝食としてポーリッジや焼いたパンなどが出されました。

「昨日は休日でしたが、今日で王宮での謹慎が明けて公務が再開しますし、冷泉院の第一王女ジゼル様の病気見舞いに必ず参らねばならないなど、何かと忙しくなります。一段落して、山の紅葉や黄葉が散らない前にまた参ります」と取次ぎを通して第八卿に伝えると、卿から「度々お越しいただく光栄で、物陰のこの山荘も少しは明るくなった気がします」との礼がありました。

 

 フォンテーヌブロー城の自室に戻ったカオルは、真っ先にベネディクトから譲り受けた袋を取り出しました。文様を浮き織りしたイタリア製の布を縫い付けて、「上様」という文字が書いてありました。袋の口を細い組紐で結び、その結び目に「柏木」という名の封を付けていました。カオルは袋を開けるのが恐くなりましたが、袋を開けてみると色とりどりの紙に、たまに交わした手紙の、山桜上からの返信が五、六通ありました。加えて柏木の自筆で「病は重く、今は限りの身になってしまいました。もう、ちょっとした便りすら難しくなりましたが、かえってお逢いしたい思いが増しています。修道女になられて姿も変えられたというので様々に悲しくなります」との書き損じが五、六枚の厚紙に、ぽつりぽつりと奇妙な鳥の足跡のように書かれていました。

 

(歌)この世を背いた貴女に 目の前でお逢いすることも出来ないまま 別の世界へ別れて行く 

   自分の魂が悲しい

 またその端に「めでたい知らせを承りました。生まれたばかりの幼な児を後ろめたく思っているわけではありませんが、

(歌)命があって生き続けていたら 人知れず岩根におとした種から生え出た 

   松の成長ぶりを見れるのだが

と、途中で書き止めたようにひどく乱れていて、上に「ドニーズの君に」と書きつけてありました。

 

 シミという虫の住み家のようになっていて、古びたかび臭さがありましたが、筆跡ははっきり残っていて、まるでたった今書いたものと違わないくらいの文章が、細々と明瞭に書かれています。「こんなものが世間に散逸していたなら」とカオルは後ろめたい思いがしますし、実父である柏木がいたわしいとも感じました。

「こういったことが、世の中に二つとあるのだろうか」と、人には言えない深い物思いにとらわれてしまい、王宮に上がる気持ちが立ち消えてしまいました。その代わりにランブイエ城に行って母上の部屋に寄ると、山桜上は無心な若々しい様子をしていて、読みくだこうとしていたギリシャ語の聖書を恥ずかしそうに隠しました。

「今さら、自分が秘密を知ったと気付かせることもない」とカオルは胸にじっと仕舞い込んで、あれこれと考え込んでいました。

 

 

               著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata