邪馬台国吉備・狗奴国大和外史 補遺2.
No.3 大和の日本統一に関わった氏族
――260年代から320年代の約60年間の五段階――
(参照)自説の要旨―古事記の吉備津彦二兄弟の吉備征服の逸話が、大和国が邪馬台国ではなかったことを
明白に語っている
邪馬台国大和説は渡来系漢籍学者の想定にすぎなかった
大和天動説と大和地動説の相違点
〔その1〕概略
今回の連載「大和の日本統一に関わった氏族」は、大和葛城地方の狗奴(葛)国が飛躍を始めた2世紀末から、日本統一事業が完成し・大和支配体制が整い・日本神話の原形がまとまり・伊勢神宮が建立される320年代までの、「支配側の氏族」と「大和に征服された被支配側の氏族」の動向を対比させたものです。
特筆すべきことは、「欠史八代説」に立脚される方々がないがしろにされて来た、現代の日本人にまで繋がる氏姓の源を知ることができることです。
ことに第九代開化天皇の末期にあたる260年代から第十代崇神天皇を経て第十一代垂仁天皇前期の220年代までの約60年間を五段階に分けて、整理してみました。
(安芸国と周防国の初代国造)
きっかけは、「投馬国広島湾説」の可能性を調べていくうちに、安芸国と周防国の征服者として、アマテラス五男神のアマツヒコネ(天津日子根)が浮上してきたことです
(参照:投馬国・広島湾説 その4.)。
アマツヒコネは私が投馬国の首都の候補地の1つに挙げている太田川の支流、安川の中流の沼田町伴(とも)にある岡崎神社の祭神ですが、古事記で確認すると隣国の周防国造の祖神となっています。
そこで平安時代に編纂された国造本紀(先代旧事本紀 第10巻)で紹介されている国造初代と始祖を調べていくと、安芸(広島県)国造と波久岐(はくき)国造(山口県山口市、宇部市・防府市の一部)の始祖は古事記や日本書記には登場していないアマノユツヒコ(天湯津彦)でした。アマツヒコネは古事記と同様に周防国造の祖神でしたが、関門海峡に接する穴門(あなと)国造の始祖はアマツヒコネとする説もあるようです。
ということは、大和は吉備邪馬台国を破った後、伯耆と出雲への山陰側はアマテラス五男神のアメノヒホ(天穂日)、山陽側は同じく五男神に属すアマツヒコネを始祖とする氏族が進攻していった図式となります。古事記や日本書記をじっくり読んでいくと、大和は吉備を破った後、比較的短い期間で奴国と伊都国を含める筑紫国を傘下におさめた気配がみえてきますが、その進攻を担ったのはアマツヒコネを祖神とする氏族だった可能性が出てきました。アマノユツヒコは記紀や風土記などの文献には出てきませんが、ホノニニギの天孫降臨に附随した32神の一神とする説もありますから、アマツヒコネの同族か部下から派生した氏族か、河内に先住していた物部氏との関連も推定できます。
さらに驚いたことはアマツヒコネ族とアマノユツヒコ族は東国へも移住していたことです。
茨城県の茨城国造初代のツクシトネ(筑紫刀禰)はアマツヒコネの孫でした。福島県の石城国造初代タケコロ(建許呂)の祖もアマツヒコネでしたが、タケコロの8人の息子のうち6人が福島県、茨城県、千葉県と神奈川県にまたがる6国の国造になっています。
アメノユツヒコの子孫は福島県3国、宮城県2国、新潟県の佐渡国と6国の国造初代となっています。6国とも当時の大和勢力の北の辺境地帯にあたりますから、アマツヒコネ族と連動しながら、辺境の地を進攻していったことが分かります。
注目したのはアマツヒコネの孫ツクシトネの存在です。ツクシトネはひょっとすると、筑紫を征した後、東国への進攻に転じたのではないか、と解釈すると、伊予、大分、阿蘇経由で火(肥)国を征したカムヤイミミ(神八井耳。神武天皇皇子で第二代綏靖天皇の兄)を始祖とするオオ(意富)族が常陸国に転じたことと連動していきます。
私は、主に各国の一の宮に祀られる神さまの分析を主体に、大和側と大和に敗れた被支配側の人々の移動の流れを推測し、東国では大和に敗れた吉備人の一部が常陸国の開拓、出雲人が武蔵の開拓に徴発されたと推定してきましたが、その流れに安芸人と周防人も加わったことになります。国造本紀は平安時代の編纂ですから、3世紀後半の大和の東西日本の統一にはあまりつながらないと軽視してきましたが、予想以上に東西日本の統一に関わった氏族の子孫が国造、豪族として権勢を維持し続けたようです。
(大和が日本を統一できた理由は、被征服民取り込みの巧みさにあった)
3世紀末に日本統一を成就する大和の動きを古事記、日本書記、風土記、古い神社の由緒に加えて国造の始祖を追っていきますと、大和が日本統一を達成できた理由は、征服した側の氏族をうまく取り込んで、東国への進出と開拓に活用していったことが挙げられます。
欠史八代説に沿って第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までは実在しなかったとする推測で3世紀を追うことは、考古学的な発見物以外は、闇の中を探っていく作業となりますが、狗奴国王として実在したと判断して、文献類を追っていくと、伊勢サルタヒコ族、阿波忌部族、物部氏を大和が取り込みながら蓄積していったノウハウを、吉備・讃岐・安芸・周防・伊予の住人の東国徴発にもうまく活用していったことが分かります。抵抗や反乱をおこす被征服者を外地に移し、空いた部分に大和の氏族が入り込み、支配体制を確立していく手法です。
以下、第五代孝昭天皇から第十一代垂仁天皇の時代までの、大和側氏族と被支配側氏族の動きを要約してみます。
プレ統一時代(180年頃~260年頃 第五代孝昭天皇~第九代開化天皇)
―第五代孝昭天皇
:伊勢サルタヒコ族を破った後、伊勢、美濃、尾張を支配し、尾張氏が尾張地方に拠点を置く。
―第六代孝安天皇
:大和盆地全体を初めて支配(和邇氏)。大和盆地西北部、登美国の物部氏を取り込む。登美国の領域は物部氏に
代ってアマツヒコネ族が治めるようになり、物部氏の主力は尾張地方に移動し、東境にあたる三河地方と遠江地方へ
の勢力拡大に貢献。
河内・和泉と淡路島を支配。瀬戸内海東部の影響を受けた庄内式土器の誕生。纒向が市場として発展。
―七代孝霊天皇
:阿波を征服(伊勢サルタヒコ族が尖兵となる)。近江、越前、丹波、摂津を攻略(丹波尾張氏、アマツヒコネ族が主
導)。房総半島に逃亡した阿波人のルートに沿って、尾張氏勢力が上総にも進出(千葉県市原市の神門古墳群)。
―第八代孝元天皇
:東部播磨を征服。吉備邪馬台国への攻撃を開始(オオキビモロスス)。
―第九代開化天皇
:吉備邪馬台国とのこう着状態が続いた後、吉備を征服(吉備津彦兄弟と尾張氏)。
第一段階 吉備邪馬台国征服 (260年代)
1.吉備邪馬台国の滅亡
:吉備邪馬台国の最後の女王トヨが后候補として大和入り。
2.山陰道への進攻
:伯耆の後、東出雲へ進攻(アメノホヒ族)したが、西出雲の神門王国に西進を阻まれる。
3.山陽道・西海道への進攻
(1)アマツヒコネ族とアマノユツヒコ族
:安芸、周防を制覇した後、関門海峡を越えて筑前を制覇した可能性がある。
(2)カミヤイミミ・タケヲクミ族
:九州制覇の第二陣として、伊予経由で大分、阿蘇を経て火(肥)国(肥前と肥後)を制覇。
第二段階 四道将軍 (270年代)
母系がアマツヒコネ族に属すタケハニヤス(崇神天皇の異腹の叔父)の天下取りの失敗とアマツヒコネ族の衰退
1.西道将軍(吉備津彦兄弟):九州支配の固め。筑後川流域(筑後、比多)の制覇。
2.丹後将軍(ヒコイマス):丹後王国を征服。
3.北陸道将軍(オオビコ):日本海沿いに越地方を経て、福島県会津に至る。
4.東山道(タケヌナカハワケ):東山道を経て、福島県会津で父オオビコと再会。
第三段階 東国支配と開拓 (280年代)
1.意富氏タケオクミとタケカシマ
:火(肥)国から常陸国に転じて、常陸国、下野、上野を制覇。
2.物部氏・和邇氏
:大和側の引率者。
3.アマツヒコネ族
:周防国等の西国から転じて、 カムヤイミミ族(意富氏)に合流して東国各地に広がる。オオビコ・タケヌナカハワケ親
子の勢力を分断する意味もあって、タケヌナカハワケが筑紫国に移動。
4.アマノユツヒコ族
:安芸国から転じて、 カムヤイミミ族に合流して東北地方南部(福島県・宮城県に広がる。
第四段階 西出雲王国征服で日本統一事業が完成 (290年代)
1.タケミカヅチ、フツヌシとアメノトリフネ(天鳥船)
:常陸国にいた中臣タケカシマが派遣される。
2.吉備津彦、タケヌナカハワケと物部氏
:西出雲王国を制覇した後、石見や九州各地に転じる。
第五段階 大和支配体制の確立(300年代~320年代)
1.武蔵野の開拓
:アメノヒホ族が引率者となって、出雲人が移住。
2.富士山麓の開拓
:三河と遠江の物部氏が引率者となって、伊予人が移住。
(表)大和の支配側氏族と被支配側の比較と分布
支配側氏族 |
国造所在地 |
|
被支配側氏族 |
徴発地 |
|
尾張氏 |
尾張国、斐陀国 丹波国 |
→ |
伊勢サルタ彦族 阿波忌部族 |
大和盆地 大和盆地、一部は安房へ移住 |
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ワニ(和邇)氏 |
武社国 |
→ |
物部氏 |
大和軍の尖兵 |
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吉備津彦兄弟 |
吉備5国 国前国、葦分国 |
|
|
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カムヤイミミ(神八井耳) オホ(意富)族 |
伊予・大分・阿蘇・肥国 仲国・印波国・科野国 |
→ |
吉備人 讃岐人 |
常陸国 印波国 |
|
五 男 神 系 |
アメノホヒ (天穂日) |
出雲、波岐、二方国 武蔵国と東国9国 |
→ |
出雲人 |
武蔵 |
アマツヒコネ (天津日子根) |
周防国と穴門国 茨城国と東国7国 |
→ |
周防人 |
東国 |
|
アマノユツヒコ (天湯津彦) |
阿岐国と波久岐国 陸奥5国、佐渡国 |
→ |
安芸人 |
陸奥 |
|
トヨキイリヒコ (豊城入彦) |
下毛野国、上毛野国 浮田国 |
|
|
|
|
阿倍氏 (オオビコとタケヌナカハワケ親子 |
若狭国、高志国 那須国 筑紫国、末羅国 |
|
|
|
|
物部氏 |
久自国 参河国・遠淡海国 久努国・珠流河国 伊豆国 |
→ |
伊予人 |
富士山麓 |
[その2]九州西部から東北地方南部まで視野を高めての邪馬台国論争
1.ナイーブな邪馬台国論争からの脱皮
(参照:自説の要旨―邪馬台国大和説は渡来系漢籍学者の想定にすぎなかった)
ある方から「広畠はけしからん」と叱られたことがあります。「邪馬台国論争は国民の夢であり、永久に解決されないのが正しい。それを広畠は正解を出してしまい、国民の夢を崩してしまった。それがけしからん」というのが、その方の主張です。苦笑いというよりも、人それぞれで色々な考え、発想があるものと感心させられました。
1960年代から約半世紀の間、「欠史八代説」という誤った視点・切り口から古代日本が論じられてきたこともあって、邪馬台国論争は相変わらず、大和説と九州説を中心にナイーブ(無邪気)な水掛け論が続いています。謎の3世紀を見る視点を標高1000メートルから3000メートル以上へ高め、九州対大和、吉備対大和、阿波対大和、出雲対大和といった狭い視野ではなく、 九州西部から東北地方まで俯瞰すると、欠史八代説も騎馬民族説も大間違いだったことが歴然としてきます。残念なことは「欠史八代説は誤りだった」ことに気づいておられる方々は、学会、研究者、マスコミなども含めて、ごくごく少数にすぎないことです。
その一方で、神道と神社の世界は江戸末期以来、儒教の影響が強い漢籍学派の天子思想を主体にして、むりやりアマテラスを頂点とする構図を作り上げてしまいました。私の推定では、アマテラスと伊勢神宮を頂点とする体制が成立したのは320年代です。神道にはそれ以前からの長い歴史があり、それは日本全国の神社の歴史の中に埋まっていますが、それに気づいておられる方々もごく少数にすぎません。
要するに、双方とも片眼で論じられているだけて、相互交流が希薄なことが現代日本の不幸と言えます。どちらとも、確立している権威が崩れてしまうと、面子の問題、生活の糧を失ってしまう、など現実的なせちがらい話にもなっていきますので、視点や意識を切り替えていくには時間がかかりますが、何とか、文献、考古学、神社史の3点を合わせて考察する視点が一般化して欲しいものです。
私が2002年以来、公表している「邪馬台国吉備・狗奴国大和説」はまだ理解者が一握りにすぎない状況です。「天皇家の先祖が朝鮮半島から渡来した、としても問題はないが、邪馬台国ではなく狗奴国であったはずはない」という暗黙の了解がいまだに支配的だということでしょう。ところが、ハーバード大学とかオクスフォード大学など世界的な権威筋の教授が「邪馬台国吉備・狗奴国大和説」を発表すると、「あれれ!」とびっくりしてしまうほど、世間の風向きが一変します。
それを見越しているわけではありませんが、視野がより高い方々が増えていくことを待ちながら、フロンティア精神を貫いていくしかないと、諦観しています。
2.邪馬台国九州説と大和説の根本的なイリュージョンと誤解
(邪馬台国九州説のイリュージョン)
九州説の基点は「邪馬台国は北部九州から南にある」とする三国志・魏志倭人伝にありますが、「南」を「東」に置き換えると、九州説の根拠は消滅します。九州説はナイーブ邪馬台国論のクラシック(古典)として記録には残るでしょうが、史実としてはありえません。
南下すると距離的には沖縄諸島に行き着きますが、倭国の住民は揚子江南部の住民と風俗がよく似ている、との理由から沖縄諸島と本州・瀬戸内諸島とを混同してしまった、と見なすのが正しい見方です。魏と対立していた呉は揚子江南部にあり、倭国が呉の東海上にあるとすると、呉を牽制する役割を果たすことになりますから、魏の首都である洛陽には倭国を期待する風潮がありました。
この点に目をつぶり、欠史八代説どころか応神天皇以前の天皇は架空の人物、という推論をいまだに掲げておられる方もおられるようです。大和説等での推定年より約50年遅い年代で想定されており、崇神天皇は340~350年、あるいは神武天皇と崇神天皇は同一人物で300年頃に九州から大和に遷都した、となりますが、そこから具体的な切り込みへと進んでいけません。
以上に加えて、九州説の幾つかの弱点を挙げてみます。
1.鉄製品が多いからと言って、お腹が膨らむわけではありません。九州は山岳部と火山が多く、水田ができにくい地勢で
す。ですから鉄製品が多いとしても、米の生産量は少なく、出雲や吉備などから米を輸入する必要がありました。弥生中
期と後期とを混同されており、北部九州と出雲・吉備の力関係は弥生後期には逆転しています。
2.肥前国と肥後国風土記を含め、古事記、日本書記をじっくり読みこなすと、270年代に大和は西部九州の肥国まで支配
下に置いています。270年代まで大和地方で普及していた庄内式土器が九州で出土しますし、大和型前方後円墳が
300年以前に筑紫や日向に登場しています。
3.アマテラスが籠もった天石戸の儀式を仕切った神々は中臣氏と忌部氏です。中臣氏は吉備、忌部氏は讃岐・阿波の神
で、九州の神ではありませんから、天石戸神話が九州で発生したと考えるのは誤りです。
(大和説のイリュージョン)
大和説でのイリュージョンは、、大和は最初から大和盆地全体を把握していた、と推定されている方が多いことにあります。これに「欠史八代説」を加えると、話がこんがらがっていきますが、現在もそのこんがらがった渦中にあると言えます。
大別すると、
①土着勢力が大和邪馬台国に膨張していき、九州まで本州西部勢力を破っていった、
②倭国大乱の後、吉備を主体とした西部勢力が大和盆地に入り纒向に邪馬台国を建国して、ヒミコを共立した、
の2つに整理できます。纒向勢力に対抗して、 4世紀後半から登場する葛城氏の前身である葛城王朝が存在した、と推測する説もありますが、これも欠史八代説に沿った推論にすぎません。
これに対して、1世紀後半(80年頃)に神武天皇が南葛城地方に建国した葛(狗奴)国が膨張しながら3世紀後半に日本統一を達成した、とするのが自説です。
「吉備を主体とした西部勢力が纒向に邪馬台国を建国した」説では、魏志倭人伝が記す「ヒミコの前に男王が数代続いた」ことを考慮しますと、「前期邪馬台国」は吉備にあったが、倭国大乱の後、大和に遷都されて、ヒミコを女王とする「後期邪馬台国」となった、と推定することもできます。この考え方は吉備で誕生した特殊器台が大和へ移行していった流れと合致しますから、考古学を主体とする視点をお持ちの方々の支持を集めています。
邪馬台国吉備・狗奴国大和説の支持者の中にも、吉備邪馬台国と大和狗奴国が最終的に協調・合同して、大和に新邪馬台国が誕生した、とする提唱も出てくるでしょう。この考え方は「和をもって尊しとなす」日本の伝統精神に合致しますから、かなりの支持を集めていく可能性もあります。
3.焦点は特殊器台・特殊壺の年代基準の確定
新井白石・本居宣長以来、3世紀以上にわたり、めんめんと続いてきた邪馬台国論争は、「吉備王国の弧帯文と特殊器台文化が、西暦何年頃、どのような形で大和に入ったか」に焦点が絞られてきています。
特殊器台は、①立坂(たちざか)形・中山形、②向木見(むこうぎみ)形、③宮山形の3段階に類別されています。
立坂形・中山形は備中にほぼ集中していますが、中国山地を越えた出雲の西谷墳丘墓からも出土しています。
向木見形は備中だけでなく、備前・美作に拡散し、大阪府八尾市からも1点出土しています。
宮山形は吉備に2か所、八尾市に1か所、大和では箸墓、中山大塚、西殿塚、弁天塚など初期前方後円墳から出土しています。
3段階の年代区分はまだ明確ではありません。最近では、箸墓の宮山型特殊器台は250年頃に製造された説が出されていますが、まだ確定したわけではありませんし、「箸墓ヒミコの墓説」を証明したいがための勇み足の印象があります。忘れてはならないことは、ヒミコの時代の邪馬台国は衰退期、ことに238年以降は狗奴国の攻撃にさらされています。常識的に見て、ヒミコの死の前後に数千人の農民を徴発して、尾根の活用ではなく、平地から巨大墳墓を造成する余裕があったとは考えられません。人民のヒミコへの崇高がそれを可能にしたと見る方もおられでしょうが、農民が離れた隙をついて狗奴国が村々を襲撃する恐れも充分にあります。
特殊壺・器台文化は吉備から大和川の河口流域だった八尾市を経由して大和に流入したと判断できます。八尾市は物部氏(石切神社)、中臣氏(枚岡神社)との関連もありますが、アマツヒコネ族に属す凡河内(おうしかわち)国造の本拠地でした。
国造の系図を調べるまで、私はアマツヒコネは三重県桑名郡の多度大社の祭神、といった程度の知識しかありませんでしたが、元々は河内湾を望む信貴山・生駒山麓が地盤で、大和の中国・九州地方の西征と東国の開拓に重要な役割を果たしていたことに初めて気がつきました。
「晋の武帝の秦初(たいしょ)2年(西暦266年)10月、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむという」(神功皇后紀66年、晋の起居)に登場する女王をトヨと見なした場合、トヨは大和にいたのか吉備にいたのかが、大和説と吉備説の分かれ目になりますが、私は晋に遣使を送った時点は吉備にいて、吉備が大和に破れた後、人質兼第九代開化天皇のお后候補として、大和入りしたと考えています。
このストーリーは小説版「箸墓と日本国誕生物語」で詳しく描写していますが、被征服民となった吉備の兵士や住民はアマツヒコネ族の監視下で、大和川河口に送られ、一部は和泉も含む河内平野の開拓に、一部は堺市陶(すえ)などの陶器村に、兵士は意富族タケヲクミの九州征伐の尖兵役として徴兵されていった、という連想となります。
特殊壺・器台文化が大和に移入するのは、第十代崇神天皇がヤマトトビモモソヒメと呼ばれるようになったトヨに助言を仰ぎだした270年代からで、『オオモノヌシの勧請―弧帯文・特殊器台(宮山形)―布留式土器―三角縁神獣の模造鏡』は連動していると考えます。
4.吉備は倭国、大和は大倭国の盟主
勝者が敗者の文化を取り入れることはありえない、とする反論もありましょう。事実、開化天皇が吉備邪馬台国の征服に成功した後、崇神天皇も当初は吉備の文化を取り入れる意向はなかったようです。
ところが父王の急死で崇神天皇が即位してからしばらくの間、天災・病厄・棄民が相次ぎ、王国は崩壊の危機に直面します。また瀬戸内海地域を中心にした敗者側の残党ゲリラにもてこずり、叔父タケハニヤスビコなどの不穏な動きもありました。ヤマトトビモモソヒメ(トヨ)の神がかりにより、纒向を見下ろす三輪山に瀬戸内海の神オオモノヌシを勧請すると、大和は平穏となり、日本統一の上昇気流に乗っていきます。オオモノヌシの祭祀を司るオオタネコは和泉の陶村にいましたが、その行方を崇神天皇もヤマトトビモモソヒメも知らなかったことは、オオタネコは行方が分からなくなった被支配者側の人間だったことを示しています。
それ以降、大和が吉備の弧帯文と特殊壺・器台文化を取り入れていきますが、これは征服地も含めて混乱した国内をまとめあげるためには、倭国の盟主のシンボルを大和が取り入れる必要があったことを意味しています。吉備の王族が大和入りして、吉備から継続して使用した、とする考え方もできますが、その場合、醍醐天皇が始めた菊花紋のように、大和の王家のシンボルとして末永く使用されたはずです。ところが、大和での使用は崇神天皇時代の約20~30年に限られ、垂仁天皇時代に入ると、円筒埴輪が主体となって弧帯文が消えていきます。これは東西日本を統一して、大倭国の盟主となった大和にとって、もはや弧帯文を使用する必要がなくなったことを示しています。
〔その3〕プレ統一時代 前編
(180年頃~215年頃 第五代孝昭天皇~第六代孝安天皇)
奈良県御所市にある「葛城の道歴史文化会館」の案内文をネットで読みますと、「御所市は神話の時代から大和朝廷につながる時代に大きな影響力を及ぼした葛城氏にまつわる遺跡や寺社が点在しており、神話のふるさととも呼ばれています」と、御所市の遺跡は葛城氏の手によるといまだに解釈されており、がっかりします。第五代孝昭天皇と第六代孝安天皇の王宮跡と陵墓が存在する御所市は「神話のふるさと」と言うよりも、「大和朝廷のふるさと」であることに地元の方々も認識され、誇りを持たれるようになるのは、いつになることでしょう。
以下、大和は「邪馬台国」ではなく、「狗奴(葛)国」として葛城地方から膨張していった過程を氏族の動きを中心に描写していきます
( 参照:広畠輝治の邪馬台国吉備・狗奴国大和説 大和狗奴国の歴史第5章3.~7.)
第五代孝昭天皇 (推定在位:170~195年頃)
―鍵となる氏族は、尾張族―
1世紀後半、西暦80年代に神武天皇が建国した葛国の輸出品は地元産の葛粉と宇陀野産の水銀朱でした。南葛城地方は現在でも葛粉の名産地ですが、金剛山系から流れる川や湧き水が豊富で、水田耕作にも適していました。
御所市は現代の感覚では大和盆地のはずれにありますが、当時は瀬戸内海側に出る主要街道の基点でした。金と同じ価値があった水銀朱は、宇陀野から磯城(桜井市)を経由して御所市に運ばれ、風の森峠を下って五條市から吉野川(下流は紀ノ川)を下っていきます。このルートは大坂峠(穴虫峠)や竹内街道の峠越えよりも楽で、大和川はまだ難所が多く危険でした。神武天皇から第四代まで正后は磯城族から出ていますが、これは水銀朱交易路をおさえる意味合いもあります。
第五代孝昭天皇となって、正后は初めて磯城族から離れ、尾張氏のオキツヨソ(奥津余曾)の妹ヨソタホビメ(余曾多本毘賣)となり、尾張氏はその後も王家の外戚として景行天皇の時代まで影響力を保っていきます。天孫降臨の主人公であるアマテラスの孫神ホノニニギの兄(但し日本書記では息子)アメノホアカリ(天火明)を祀る尾張氏は愛知県が本拠地のイメージが強くありますが、元々の根源地は御所市高尾張で、「葛城の道」の入り口に位置する笛吹(笛吹神社)辺りです。神武天皇と共に日向から大和入りした一族の一人が祖先で、御所市への入り口の警護を担っていた氏族だった、と想定できます。
国造本紀では、
尾張国造:(成務朝)初代はオトヨ(小止与。アメノホアカリの13世孫)(成務は第13代天皇)と記されています。古事記の景行天皇記のヤマトタケルの東伐篇では、尾張国造の祖はミヤズヒメ(美夜受比売)ですが、熱田太神宮縁起では小止与の子の稲種公の妹ですから、ミヤズヒメはオトヨの娘になります。
尾張氏が御所市から尾張へ移住した時期は、尾張一宮の真清田(ますみだ)神社の由緒では「アメノホアカリの息子神アメノカヤマが神武33年に大和葛城国の高尾張邑から尾張に来て建国・開拓を行った」、と伝えますが、私は尾張氏が外戚となった第五代孝昭天皇の時代と想定しています。それ以後、木曽川の伏流水が湧き出す真清田神社周辺を開拓をしながら、尾張国に定着していったのでしょう。
私が、葛国の膨張は、伊勢サルタヒコ王国を撃破したことから始まったのではないか、と着想したのは、伊勢高原の椿大神社(つばきおおがみやしろ)と木曽川下流の真清田神社を訪れた時でした。
椿大神社の奥宮の磐座(いわくら)群は、縄文時代からの信仰があったことを彷彿させます。伊勢高原から伊勢湾にかけての一帯には弥生遺跡が多く、サルタヒコ族は伊勢高原から伊勢湾に至る地域を根城にしていました。その面影は古事記の天孫降臨篇の記述からでも想像できます。後に猿女君となるサルタヒコとサルメ夫妻が伊勢王国の王族だったようです。
真清田神社がある尾張一宮市の周辺には、猫島遺跡、八王子遺跡、元屋敷遺跡。三輪神社などの弥生遺跡があり、近くに大規模な朝日遺跡があります。尾張一宮市は尾張の中心地で、応神朝から熱田神宮に移行する。
それ以前から、古事記の天皇記を読みながら、第三代安寧天皇の皇子シキツヒコ(師木津日子)の息子二人のうち、一人は伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置の祖と、伊賀(奈良県北東部)、名張(三重県西部)、美濃(岐阜県)が出てくるのを常々、不思議に感じていましたが、宇陀野(水銀朱)―名張―伊勢高原―木曽川を結ぶ線がつながっていきました。伊勢、美濃、尾張の東海3国の制覇は、シキツヒコの息子と尾張氏のオキツヨソが主力だった、と思い浮かびました。
宇陀野の水銀朱を手中にしようとサルタヒコ族が攻め込みましが、葛国が逆に押し返してサルタヒコ王国に侵攻します。サルタヒコ軍も強靭で、伊勢高原に立てこもって、反撃します。
「神風の 伊勢の海の 大石に 這ひ廻(もとほ)ろふ 細螺(しただみ)の い這ひ廻(もとほり) 撃ちてし止まむ」
(意訳:神風が吹く伊勢の海の大岩を這い回る巻貝のように、伊勢高原にたてこもった敵を打ち破ってしまおう)
この歌謡は神武天皇の大和入り篇に挿入されていますが、サルタヒコ王国軍を打ち破っていった時の心境を吐露している印象を与えます。天孫降臨神話では、サルタヒコが天地の境でホノニニギを出迎えますが、これは伊勢サルタヒコ族が恭順したことが、葛国から大和国へと飛躍していくきっかけだったことを物語っています。
その勢いに乗じて、葛国は一挙に美濃と尾張まで攻め込んだ、という図式になります。
第六代孝安天皇 (推定在位:195~215年頃)
―鍵となる氏族は和邇氏、物部氏、アマツヒコネ族とハエイロネ姉妹の父ワチツミ―
思いもかけずに東海3国を手中にした葛国は大和盆地の諸国の中で抜きん出た存在となり、盆地内の諸国を飲み込んで、初めて盆地全域を把握します。この時点から葛国は大和国に成長した、とも言えます。倭国大乱が終結し、ヒミコが女王に就任した頃ですが、ヒミコ政権はまだ不安定だったことも大和国にとって幸運でした。河内(和泉も含む)と淡路島へと西への進出を達成します。
(和邇氏、穂積氏と物部氏)
孝安天皇の兄アメオシタラシヒコ(天押帯日子)は和邇氏となり娘オシカヒメ(忍鹿比売)は叔父にあたる孝安天皇の正后となります・これにより、王権の純度が強まります。
和邇氏は天理市和邇を拠点に、大和盆地北東部を中心に、春日臣、大宅臣、栗田臣、小野臣、柿本臣、壱比葦臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣等16氏に発展しますが、大和盆地の生え抜きの名族として、景行・成務朝の末期、神功皇后側につき、応神朝でも重鎮となります。
大和盆地の北西部は物部氏の領域でしたが、北東部は春日、佐保など小国群が分立していたようです。穂積氏は通常、物部氏の一族と見られていますが、その小国の一つの王だった印象があります。ウツシコヲ(内色許男)の妹ウツシコメ(内色許女)と娘イカガシコメが第八代孝元天皇の后となり、イカガシコメは孝元天皇の死後、第九代開化天皇と再婚し、第十代崇神天皇を産みます。
物部氏は神武天皇の大和入りする以前から奈良県西北部と大阪府東部にまたがる生駒山麓部に登美(とみ)国を築いていました。「とみ」の名から、弥生中期後半から後期初めにかけての吉備邪馬台国の膨張時に、スサノオの子神オオトシ系と分銅型土製品の流れと共に近畿地方に入った「富(とみ)族」が建国したものと考えられ、吉備邪馬台国の分家筋とも言えます。物部氏は神武天皇の大和入りの際にニギハヤヒ(邇藝速日)と息子ウマシマヂ(宇摩志麻遅)が恭順したことから、神武天皇は最初から大和盆地全域を支配した印象を与えますが、登美国はその後も存続して、孝安天皇の時代に大和葛国に組み込まれていきました。
( アマツヒコネ族と大和川河口)
葛国が登美国を飲み込んだ後、アマツヒコネ族が生駒山・信貴山の東麓にある河内湾沿岸に進出し、葦原のデルタ地帯だった大和川河口流域(八尾市)を開発して、新生大和の西進に向けた港に発展させます。アマツヒコネはホノニニギ、アメノホヒに次いでマテラスの五男神の三番目に位置します。
国造本紀を見ますと、アマツヒコネ族は河内湾東部から淀川・木津川を上って山城へと進出していったことが分かります。
凡河内(おおしこうち)国造(大阪府八尾市・東大阪市)
:(神武朝)初代はヒコユソホリ(彦己曾保理)(アマツヒコネの裔孫)。
山城国造(京都府南部)
:(神武朝)初代はアタフリ(阿多振)またはアメノメヒトツ(天目一)(アマツヒコネの子神)。
山背(やましろ)国造(京都府南部)
:(成務朝)初代はソノフリ(曾能振))(凡河内氏と同族)。
古代の大和川河口流域に位置する八尾市の信貴山・高安山麓には、以前から注目していました。理由は恩智神社(元春日。中臣系)、岩戸神社(太陽神)、玉祖神社(周防)など、吉備や中国地方を連想させる神社が集まっているからです。心合寺山古墳を中心とした楽音寺・大竹古墳群、高安古墳群などがあり、特殊器台も向木山型と宮山型が出土しています。徴発された吉備の敗者はこの地域に運ばれてから、河内・和泉の湿地帯や荒野の開墾に散っていった、と連想していました。
国造の氏族を調べだしてからこの地がアマツヒコネ族の根源地だったことが浮上して、合点がいきました。アマツヒコネ族に関連する神社を探してみると、古墳群の近くに佐麻多度(さまたど)神社 がありました。アマツヒコを祀る三重県の多度大社と関連性があるかもしれません。大和軍が吉備に続き、安芸、周防を破っていきながら、アマツヒコネ族が海路と陸路で捕虜や徴発民をここまで運んできた、と推測できます。
佐麻多度神社、恩智神社、岩戸神社、玉祖神社の4社とも、創建は応神朝移行と伝えられており、弥生終末期・古墳前期とのつながりはないように見えますが、アマツヒコネ、吉備、太陽神信仰、周防と糸がつながっており、今後、さらに掘り下げていく予定です。
アマツヒコネ族は大和の日本統一に大きな役割を果たしながら、古事記や日本書記ではあまり登場しない理由は、一族に属すタケハニヤスビコ(建波邇夜須毘古)が崇神天皇に対して反乱をおこしたため、朝廷中枢部では没落したからでしょう。
(ワチツミ(和知都美)と淡路島)
第三代安寧天皇の皇子シキツヒコ(師木津日子)の息子二人のうち、一人は尾張氏と共に東海三国の支配に関係しましたが、もう一人のワチツミ(和知都美)は第五代孝昭天皇か第六代孝安天皇の時代に、淡路島の御井(みい)宮に在住するようになります。娘姉妹は第七代孝霊天皇の后となり、姉ハエイロネ(蠅伊呂泥。別名オオヤマトクニアレヒメ)はヤマトトトビモモソヒメや吉備津彦兄、妹ハエイロド(蠅伊呂杼)は吉備津彦弟を産みます。
御井宮は南あわじ市の淡路国分寺跡付近に推定されていますが、紀ノ川から瀬戸内海に出る水銀朱交易ルートを手中におさめるため、河内と紀伊川から大和軍が攻め込んだ、と推定できます。
(纒向が市場として発展)
大和の領域は東は東海3国、西は河内・淡路島、北は山城へと膨張しました。自然発生的に東西と南北を結ぶ十字路にあたる纒向が市場として発展していきます。十字路は正確にはJR桜井駅辺りですが、初瀬川の水深の加減で纒向巻向が適地でした。
この頃、瀬戸内海東部の影響を受けた庄内式土器が大和盆地に登場します。南あわじ市を歩いていた時に、淡路島西岸の津井に良質な粘土が産出し、日本三大瓦の産地であることに気づきました。庄内式土器は淡路島の陶工人が大和盆地に徴発されて製造したのではないか、とする仮説が浮かんできました。
〔その4〕プレ統一時代 後編
(215年頃~260年頃 第七代孝霊天皇~第九代開化天皇)
第七代孝霊天皇 (推定在位:215~239年頃)
―鍵となる氏族は、尾張氏、伊勢サルタヒコ族とアマツヒコネ族―
(阿波攻略)
淡路島を征した大和は、阿波王国と水銀朱交易に絡む利権争いが高まっていきます。共に水銀朱の産出国ですが、瀬戸内海の水銀朱交易は阿波が握っており、大和の水銀朱は紀ノ川を下ってから瀬戸内海に入るためには鳴門海峡経由で阿波の交易路に乗せる必要がありました。大和が淡路島を確保したことにより、大和は紀ノ川と大和川から淡路島を経由して、阿波の仲介なしに水銀朱をさばけるようになり、利益率が高まります。先に攻めたのは阿波側だったでしょう。
阿波国一の宮の大麻彦神社を訪れた際、意外だったのは忌部系のアメノヒワシとオオアサヒコに加えて、伊勢のサルタヒコも合祀されていることでした。大麻彦神社の奥宮と言える背後の大麻山の神もサルタヒコでした。淡路島に攻め込んだ阿波軍を返り討ちにして、伊勢サルタヒコ族を尖兵とする大和軍は鳴門海峡を越えて、阿波国の中心部に攻め込んだ光景が浮かんできました。これは尾張軍が備前の中心部を征服して高倉山にアメノホアカリを祀った図式に符号します。徳島県には、尾張氏に関連する海部郡もありますから、尾張勢も加わった可能性もあります。
大和軍は阿波忌部氏を吸収し、一部は大和盆地や大和川河口へ徴発します。攻撃を逃れた一部は房総半島へ逃亡して安房国を建国しますが、それを追う形で尾張族も房総半島の上総へ進出します。
(参照:補遺3-2.千葉県市原市の神門古墳群)
大和の阿波制覇は吉備邪馬台国にとっては脅威となりますが、下降線を辿っているため口出しをする余裕がありません。巧みに大和との関係を強めていったのは、北部九州の響灘に拠点を置く宗像族でした。宗像族は神武兄弟を吉備邪馬台国に紹介した縁もありましたが、とりわけ水銀朱の交易で利害が一致しました。
(大和川と纒向の開発)
欠史八代説では存在を否定されていますが、第七代孝霊天皇は御所市を離れて唐子・鍵遺跡に近い黒田に王宮を構え、陵墓は御所市や纒向から遠く離れた大和川中流に位置する王子の丘に造営します。
大和が阿波を征服した後、孝霊天皇が着目したのは、吉野川の治水工事と石工の技術です。阿波の工人を使って大和川の治水工事、ことに急流で岩礁が多い王子から河内の柏原までの工事を行います。これにより、大和川河口からより大きな舟が大和盆地まで遡上できるようになり、河口地域が港町として発展します。同地を支配するアマツヒコネ族は淡路島の海人を手中にし、宗像族からもアドバイスを得ながら、船舶・航海技術を習得して水軍を育てていきます。
問題は唐子・鍵遺跡が接する寺川は水深が浅いことでした。そこで孝霊天皇は水深が深い大和川の本流に近く、前王の時代に自然発生した纒向に着目します。纒向は商業・産業都市として再開発され 荷揚げ用の運河が掘られ、大型倉庫群も造られ、唐子・鍵遺跡の商業と産業が移転します。
阿波の石工は石を積んで石室を造る技術も伝え、大和型前方後円墳が始まります。阿波王国の忌部神道の影響を受けて、大和式の祭祀作りと建国神話造りが始まります。
(ナイーブ邪馬台国論にすぎない纒向邪馬台国首都説)
纏向遺跡は第七代孝霊天皇が大和川の治水工事に合わせて、父王の時代に自然発生した市場を整備開発して「大市」に拡張し、唐子・鍵遺跡の機能が移転した、と話はきわめて単純なのですが、孝安天皇と孝霊天皇の実在を否定する欠史八代説に立つと、纏向は大和朝廷の最初の首都とする、文献では伝えられていない奇妙な筋書きとなります。
纒向首都説は、吉備で誕生した特殊壺・器台が箸墓など大和の初期大型前方後円墳から出土したことを根拠に、倭国大乱が終了した後、200年前後に吉備を主体とした西日本勢力が大和入りして、吉備出身のヒミコを女王に共立して、纒向を邪馬台国の首都とした、とするのが代表例ですが、いくつか疑問があります。
まず第一に、古事記や日本書記の文献では、4世紀前半の第十一代垂仁天皇(玉垣宮または珠城宮)と第十二代景行天皇(日代(ひしろ)宮)の王宮は纒向にあったと伝えますが、3世紀に纒向に王宮が存在したとは伝えておらず、第十代崇神天皇の王宮は数キロメートル南の金屋です。
第二に唐子・鍵遺跡は古墳時代の初め頃に衰退しますが、外部からの侵入者に攻撃・破壊された痕跡はなく、放棄された印象を与えます。機能が唐子・鍵遺から纒向に移行したと見なす方が素直です。
第三に、纒向から出土した大型建築物は「祭祀施設」であると、中国の道教や儒教の聖廟のようなものが3世紀前半の日本に出現した、とするようなイメージを描かれていますが、これは神社史の無視か無知から派生した仮説にすぎません。日本の祭祀は当然なことに神道にもとずきますが、その頃の神道は、神が天から舞い降りる神奈備山(神体山)か磐座(いわくら)への崇拝で、大和盆地で神社建築物が建てられるようになったのは、崇神天皇時代に三輪山を遥拝する拝殿として山麓に大神(おおみわ)神社が建立されたのが最初です。
第四に、御所市の第五代孝昭天皇と第六代孝安天皇の王宮跡が実証されたら、纒向首都説はあっけなく崩れ去ります。
以上の理由から、数多くの方々から袋叩きにされることは承知の上ですが、「纒向首都説」は20世紀末から21世紀初頭にかけて、考古学を主体にした研究者が着想された創作、勇み足にすぎない、と言い切ることができます。あたかも纒向遺跡が「邪馬台国の首都で決定」と報道するマスコミも、若干の味付けはあるものの、大半はプレスリリースを垂れ流しているにすぎません。
(近江攻略)
阿波を攻略した後、大和の膨張は北の近江に向かいます。伊勢遺跡などからうかがい知れるように、近江では琵琶湖を囲むように安(やす)王国が弥生中期から栄えていました。
軍勢は尾張氏とアマツヒコネ族と想定します。まず初めに尾張氏が関が原を越えて米原に入ります。安王国の首都は近江富士と呼ばれる御上山(みかみやま)山麓の野洲川流域(伊勢遺跡)にありましたが、軍勢の主力は防戦のため米原に進みます。その隙をついて、アマツヒコネ族がオオキビノモロスス(大吉備緒進)の援けも得て、山城と伊賀から安王国の首都を襲い、安王国は壊滅します。
御上山と御上神社の祭神はアマツヒコネの息子神アメノミカゲ(天之御影)となります。アメノミカゲの後裔は安国造の御上祝(みかみのはふり)で、崇神天皇の息子ヒコイマス(日子座)の后となった息長水依比売(おきながみずよりひめ)の父とされます。
(越前と丹波攻略)
安王国の陥落を見届けた尾張氏は琵琶湖東岸沿いに敦賀へと進出します。越前を征した後、左軍は丹波に進出(元伊勢籠(もといせこも)神社)しますが、丹後半島の丹後王国は侵入を阻み、独立を維持します。
丹波国造
:(成務朝)初代はオオクラキ(大倉岐。尾張国造と同祖・タケイナダネ建稲種の4世孫)。元伊勢籠神社の海部氏本系図
には、オオクラキは第16代目として記されています。
右軍は越後まで北上します(弥彦(やひこ)神社の祭神はアメノホアカリの息子神で、尾張に進出した神)。以後、尾張氏は、尾張、丹波、北陸地方を地盤にして中央勢力の氏族として影響を与えていきます。
第八代孝元天皇 (推定在位:239~247年頃)
―鍵となる氏族はオオキビノモロスス―
尾張氏とアマツヒコネ族の進撃を中央で指揮したのは、孝霊天皇の兄オオキビノモロスス(大吉備緒進)でした。その名は「吉備に向かって一緒に進む」という意味にも解釈できます。
加速度がついた大和軍は丹波と河内側から摂津を攻略して東播磨に入り、吉備邪馬台国に近づきます。大和軍は東播磨の加古川に拠点を置き、吉備攻略の機をうかがいます。オオキビノモロススの甥にあたる少年の吉備津彦兄弟も従軍しますが、この時の姿が桃太郎の鬼征伐伝説につながった、と見ることもできます。
大和勢力と吉備勢力の境界線は揖保川だったように感じます。龍野市の揖保川沿いの丘に吉備スサノオ系の中臣印達(いだて)神社(祭神はスサノオの子神イソタケル)があり、それに対峙するかのように、揖保川河口の御津町には3世紀前半に築かれ、大和の発生期の古墳と類似性がある最古級の古墳である綾部山39号墳ありますので、揖保川河口はすでに大和軍の領域に組み込まれていた印象を与えます。
吉備邪馬台国は238年に初めて魏へ遣使を送り、帯方郡を経由した魏との外交・交易が高まっていきます。245年に魏は帯方郡を通じて倭に黄色軍旗の授与を約束しますが、これは大和との抗争の緊迫度が増してきたことを示しています。2年後の247年、倭の女王ヒミコが狗奴国との交戦状況を説明し、帯方郡は張政らを派遣して、檄文(触れ文)を作って両者に停戦させた、と魏志倭人伝は伝えます。
大和側にとっては、しぶしぶ休戦せざるをえなかったことになりますが、その頃、孝元天皇が他界し、開化天皇が即位します。吉備側もヒミコが亡くなり、男王が即位しましたが、各国は承服せず、互いに殺戮が行われ、千人あまりが殺されます。ヒミコの一族の13歳のトヨ(壱与)を王に立てると国中が安定しました。以後、大和と吉備は揖保川を境ににらみ合う状況が続きます。
第九代開化天皇 (推定在位:247~267年頃)
―鍵となる氏族は吉備津彦兄弟、尾張氏とアマツヒコネ族―
(吉備邪馬台国を制覇)
吉備とのにらみ合いが続く中、老齢の将軍オオキビノモロススが亡くなり、吉備津彦兄弟が将軍となります。吉備津彦兄弟はトヨと同世代で年齢は30歳台前後と油が乗り始めた頃でした。
晋の起居(日記体の政治記録)によると、武帝の秦初2年(266年)10月に倭の女王が貢献した、とありますが、266年が大和と吉備の攻防のターニング・ポイントであるように感じます。
大和軍は10数年間、吉備王国を攻めあぐんでいましたが、宗像族のアドバイスを受けた海からの奇襲作戦が成功します。
総指揮は吉備津彦兄弟、水軍はアマツヒコネ族、陸軍は丹波尾張氏が主体でした。開化天皇は丹波の大縣主・ユゴリ(由碁理)の娘・竹野比売を后に迎えていますが、ユゴリは丹波尾張氏と推定できます。
尾張氏進軍の足跡は、播磨の龍野市の粒座(いいぼにます)天照神社(祭神は天照国照ヒコホアカリ)―赤磐市の高倉神社(祭神はアメノホアカリ)―岡山市の尾針神社(祭神はアメノホアカリ)とつながり、高松市の田村神社に至ります。
(吉備津彦兄弟の実在性)
大和軍が吉備邪馬台国を制覇した後、吉備津彦兄弟は吉備地方に定着します。 欠史八代説では吉備津彦兄弟は架空の人物となりますが、国造本紀の吉備地方を一覧すると、実在していたのは明白です。吉備中山の頂上にある吉備津彦陵墓(吉備中山茶臼山古墳)の科学的調査が可能になれば、より史実に近づくことができるでしょう。
上道(かみつみち)国造(岡山市)
:(応神朝)初代はタサオミ(多佐臣)(吉備津彦の子孫、ミトモワケ(御友別)の子・中彦の子)。
三野(みぬ)国造(岡山市)
:(応神朝)初代はオトヒコ(弟彦)(ミトモワケの末子・中彦の弟)。
下道(しもつみち)国造(総社市・倉敷市)
:(応神朝)初代はエヒコ(兄彦。別名イナハヤワケ稲速別)(ミトモワケの長子)。
加夜(かや)国造(総社市・岡山市)
:(応神朝)ナカヒコ(中彦)(ミトモワケの子。子孫は賀陽かや氏で、吉備津神社の神主)。
笠臣(かさのおみ)国造
:カサミヒラノオミ(笠三枚臣)(ミトモワケの弟カモワケ(鴨別)の8世孫)。
ヒミコとトヨの宮殿は吉備津神社の場所にあったと私は推定しています。吉備津神社は室町時代の再建ですが、本殿の外陣、中陣、内陣の構成はヒミコ・トヨの王宮の面影を伝えているように感じます。王宮は大和が征服した後、吉備津彦一族が使用し、仁徳天皇時代の頃から神社となります。
〔その5〕第一段階 吉備邪馬台国征服 (260年代)
―鍵となる氏族は、吉備津彦兄弟、尾張氏、アマツヒコネ(天津彦根)族とアマノユツヒコ(天湯津彦)族 、
意富氏タケヲクミ(建緒組)・、アメノホヒ族―
1.吉備邪馬台国の滅亡
(吉備は大和により滅亡したと考える理由)
吉備邪馬台国の地元である岡山県では、「特殊壺・器台が吉備から大和入りした」ことを根拠として、吉備勢力が大和に移動して邪馬台国建国から日本統一に至った、とする「吉備勢力の大和朝廷起源説」に自尊心がくすぐられるのでしょうか、吉備邪馬台国は大和によって滅亡したとする考えに抵抗がある方々が多いようです。
それは郷土愛に根ざしたものなのでしょうが、「吉備勢力の大和入り説」を検討してみますと、「特殊壺・器台」が大和に流入したことだけに視点が集中して、その後のことをあまり考慮されておられない印象を受けます。
3世紀前半に吉備を主体とした西日本勢力が協力して大和入りして、邪馬台国を建国した、とするなら、3世紀後半に大和勢力が吉備や吉備以西の諸国を攻撃する必要はなかった、と考えるのが普通です。大和入りした吉備の分家が吉備に残った本家を破ったことも考えられますが、吉備津彦兄弟の本家は吉備だったとは、文献や伝承では触れておりませんし、大和の西征に関わったアマツヒコネ族やアメノホヒ族は大和盆地土着の豪族で、吉備とは無縁です。
文献や伝承に登場する吉備津彦兄弟の実在性やウラ(温羅)伝説を全く考慮されていない点も疑問です。ウラ伝説は第十二代垂仁天皇時代とする説もありますが、吉備津彦兄弟は第七代孝霊天皇の皇子であることを考慮すると、第九代開化天皇時代頃が将軍としての成熟期であった、とするのが無難です。ウラ伝説は備中の鬼城山と鬼が嶽温泉、備後の神辺と鬼が城山、安芸・広島市の二か所の鬼住山、讃岐の鬼が島(女木島)、伯耆・溝口の鬼住山に残る鬼伝説と線でつながっており、単なる民間伝承と捨て去ってしまうことはできません。ちなみにウラの弟はオニ(王丹)です。
視点を吉備対大和ではなく、中国・四国・九州地方までを見渡す高さに引き上げると、近畿・北陸地方での膨張に続いて、吉備を征服した後、瀬戸内海と日本海の二方向で西進を継続していることは、国造の系図から,より明らかとなります。
(特殊器台を大和にもたらしたのは、吉備勢力か大和勢力か)
〔その3〕第六代孝安天皇の稿で触れましたように、 古代の大和川河口流域にあたる八尾市は特殊壺・器台文化が大和盆地に入る通過点でした。八尾市で出土した特殊器台は、吉備勢力か大和勢力のどちらがもたらしたものでしょう。
結論はいたって簡単で、八尾市がアマツヒコネ族の根拠地で、古墳群はアマツヒコネ族の遺跡であったとするなら、アマツヒコネ族の首長の意思で戦利品として吉備から運び込まれたか、捕虜となった吉備の陶工に造らせて古墳に祀った、と解釈できます。八尾市の特殊器台が3世紀の何年頃に吉備から流入したかはまだ明らかではありませんが、270年代前半と推定できるアマツヒコネ族に属すタケハニヤスビコの反乱とのつながりも考えられます。
八尾市は大和による西征の水軍の出発点でした。八尾市の高安山麓には、南側に吉備とつながる恩智神社(元春日。中臣系)と岩戸神社(太陽神)、北側に周防とつながる玉祖神社があります。中央部に向木見形と宮山形の特殊器台が発見されている古墳群とアマツヒコネとつながる佐麻多度神社があります。
この点から類推していくと、この地域は西征で生じた捕虜が船で運ばれてきた後の引き入れ場所で、南側は吉備の敗者、 北側は安芸や周防の敗者が滞在したと考えられます。そこから河内・和泉の河内湾に注ぐ河川の湿地帯の開拓向けに、各地に分散していきました。その中にオオモノヌシの祭祀を司るオオタタネコも混じっていた、と想像します。
(讃岐とヤマトトトビモモソヒメの関係)
史実としての実態を伴った邪馬台国論争をひもといていく糸口の一つは、ヒミコかトヨではないか、と古くから推測されているヤマトトトビモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)の存在です。
ヤマトトトビモモソヒメの父は第七代孝霊天皇、母は淡路島出身のハエイロネ(絚某姉。または阿禮比賣アレヒメ)で、吉備津彦兄弟の兄ヒコイサセリビコ(彦五十狭芹彦)は同腹の弟ですが、不思議なことにモモソヒメの伝説が色濃く伝えられている讃岐と深い結びつきがあります。
伝承は①幼少の頃に讃岐にやってきた稲作を伝えた、②吉備を攻めた吉備津彦兄弟を激励するために讃岐にやってきた、の二種類があります。讃岐一の宮の田村神社を筆頭として、東かがわ市の水主(みなし)神社、田村神社近くの船岡神社の祭神はモモセヒメで、船岡神社の近くにはモモソ(百相)の地名があります。
田村神社を訪れた際、ヤマトトトビモモソヒメに加えて弟の吉備津彦兄弟も祭神でしたが、それに加えて尾張系のアメノカヤマ・息子神アメノイタネ(天五田根)の親子と伊勢系のサルタヒコも祭神に連なっているのが不思議に感じました。
その後、各地での取材調査を続けるうちに、大和軍の吉備邪馬台国攻略の最終地点は田村神社ではなかったか、とする仮定に至りました。ヒミコの妹が讃岐に嫁いで生まれた息子(ヒミコの甥)の娘がトヨと私は想定しています。トヨは、吉備津の王宮陥落寸前に、生まれ故郷の讃岐に逃れ、実家の田村神社に隠棲します。そこを吉備側から尾張氏、阿波側からサルタヒコ族が攻め込んで、トヨは人質となり、開化天皇の后候補として大和入りをして、吉備津彦兄の姉ヤマトトトビモモセヒメとして遇されます。
神がかりをしたモモソヒメは崇神天皇にオオモノヌシを三輪山に勧請するように説きますが、讃岐の塩飽諸島と金毘羅宮のオオモノヌシと三輪山のオオモノヌシに加えて、吉備と大和の弧帯文と特殊器台がモモソヒメを通じてつながります。
2.山陽道・西海道への進攻
大和は吉備邪馬台国を征服した後、一挙に九州西部まで配下に治めた後、東日本も征服して日本統一を成し遂げた、とする自説の「邪馬台国吉備・大和狗奴国説」は、これまで気がつかなかったアマツヒコネ族とアメノユツヒコ族の登場で、より具体的に深まっていきます。
266年頃の吉備攻略を指揮した開化天皇は数年後に急逝しますが、吉備以西への進攻は崇神天皇が即位した後も継続されます。吉備津彦兄弟の陣頭で、瀬戸内海沿いに沿って筑紫国まではアマツヒコネ族が、中国山地を越えて伯耆、出雲への日本海側はアメノホヒ族が担当します。
(1)アマツヒコネ(天津彦根)族とアマノユツヒコ(天湯津彦)族
備後の福山市から安芸、周防にかけては山岳部が多く、陸より海からの方が進攻しやすかったためでしょう、大和軍の瀬戸内海地域の西征は、水軍のアマツヒコネが主力となります。宗像海人族の援けもあって、一気に関門海峡を越えて筑紫まで勢力下におさめますが、その後は筑後川勢力(筑後国、比多国)に南下をさえぎられます。
(アマノユツヒコと安芸・投馬国)
アマツヒコネに付随する形で、これまで存在さえ知らなかったアマノユツヒコが浮上してきました。
アマノユツヒコは①ホノニニギの降臨に付随した32神の一神。日向から神武兄弟に同行した兵士が祖先、②物部氏の祖ニギハヤヒの従神として降臨した、の2説があります。
アマノユツヒコを祀る神社として、安芸の宮島に近い廿日市市上平良(かみへら)に速谷(はやたに)神社がありました。速谷神社は平安時代までは名神大社285社として宮島の厳島神社と同格の格式がありましたが、厳島神社が平家一門の信仰を集めて繁栄したのに対し、衰退します。 広島市安佐南区祇園の安神社の近くにある安芸津彦神社の祭神もアマノユツヒコの5世孫アキハヤタマ (飽速玉)でした。
アマノユツヒコ系は安芸国造に加えて、山口県山口市、防府市と宇部市にまたがる波久岐(はくき)国造(JR宇部線に岐波駅があります)、愛媛県今治市の怒麻(ぬま)国造の祖となっていますので、恐らくアマツヒコネ族配下の忠臣の一族だったのでしょう。
安芸投馬国にも大和に抵抗した痕跡が残っています(参照:補遺1-1.投馬国・広島湾説)。吉備側に立った勢力と宗像族の説得で大和側に着いた勢力との間で内部分裂と激しい抵抗がありましたが、アマノユツヒコ族が押さえ込んで頭角を現したような印象を受けます。
阿岐国造(安芸)
:(成務朝)初代はアキハヤタマ (飽速玉)(アメノユツヒコの5世孫)。
波久岐国造(防府市、宇部市周辺)
;:(崇神朝)初代は豊玉根(阿岐国造と同祖・金波佐彦)。
怒麻(ぬま)国造(愛媛県今治市)
:(神功)初代はアキハヤタマの3世孫ワカミオ(若彌尾)。
(アマツヒコネの西征)
アマツヒコネは広島市安佐南区伴(とも)の岡崎神社の祭神であることからも、アマノユツヒコ族との密な関係がうかがえます。安芸国と波久岐国の間にある周防国造の祖となっていますが、関門海峡周辺の穴門国造の祖もアマツヒコネ族との説があり、周防国造と同祖とされる茨城国造の初代はアマツヒコネの孫ツクシトネ(筑紫刀禰)であることから、奴国と伊都国も含めた筑紫まで落とし入ったのではないか、と想定できます。
周防国造(光市周辺)
:(応神朝)初代は加米乃意美(茨城国造と同祖)。
穴門国造(下関市周辺)
:(景行朝)初代は速都鳥(アマツヒコネの子孫との説がある)。
(2)カミヤイミミ・タケヲクミ族(九州征服の第2ルート)
アマツヒコネ族による瀬戸内海西部と筑紫への進攻より、数年遅れて、伊予から豊後を経て肥後・肥前まで支配下に置いた九州征服の第2ルートがあったようです。開化天皇か、即位したばかりの崇神天皇の意向が反映しているのかも知れません。
豊後国風土記では景行天皇の土グモ退治の伝承が登場します。景行天皇は球珠(くす)の郡の禰疑野(ねぎの)、宮處野(みやこの)の土蜘蛛、大野の郡の土蜘蛛、網磯野(あみしの)の土蜘蛛を次々と破っていきますが、大分市から熊本市に向かうJR豊肥線に沿っています。
肥前国風土記では、熊本県益城町福原で、タケヲクミ(健緒組)が朝来名(あさくな)の土蜘蛛を破る。肥国に入ります。都に戻ってから崇神天皇に八代の不知火(しらぬい)を報告したことから、火(肥)君の称号を拝受します。
景行天皇とタケヲクミの両者の伝承を読みながら、景行天皇の九州行きは明らかに後世の創作ですから、タケヲクミを将軍とする九州制覇の第2部隊は伊予経由で大分市に上陸し、強敵が待ち構えている久大本線の筑後川沿い(大分市と久留米市を結ぶJR久大本線)を回避して、阿蘇山を越えて肥国(肥後と肥前)を制覇していった、と連想していましたが、国造本紀の一覧を見ると、私の連想とぴったりと一致しており、わが意を得た思いです。
タケヲクミが属す意宇(おう。または多)氏の祖は神武天皇の息子、第二代綏請(すいぜい)天皇の兄カムヤイミミ(神八井耳)です。根拠地は十市(田原本町周辺)で、同じく十市出身の第七代孝霊天皇の正后との関係は分かりませんが、古事記を編纂した太安万侶は子孫となり、田原本町には多神社があります。
伊予国造(愛媛県伊予市)
:(成勤朝)初代は速後上(敷桁波の子)。
大分国造(大分県大分市・別府市)
:(不明)初代は不明(志貴多奈彦の後裔)。
阿蘇国造(熊本県阿蘇市)
:(崇神朝)初代は速瓶玉(カムヤイミミの孫)
火国造(肥前と肥後)
:(崇神朝)初代は遅男江(志貴多奈彦の子)
3.山陰道への進攻
吉備から山陰へはアメノホヒ族が進攻しますが、伯耆の妻木晩田(むきばんだ)遺跡と因幡の青江上地寺遺跡の終焉、溝口の孝霊天皇と鬼伝説とつながります。
アメノホヒの進攻は東出雲の意宇郡で足止めとなりますが、東出雲の熊野大社・神魂(かもす)神社と西出雲の出雲大社の関係も含めて、〔その8〕西出雲王国征服で詳しく触れることにします。
波伯国造(伯耆・鳥取県西部)
:(成務朝)大八木足尾(武蔵国と同祖・兄多毛比の子)。
出雲国造(島根県)
:(崇神朝)初代は宇伽都久努(アメノホヒの11世孫)。
二方国造(兵庫県美方郡)
:(成務朝)初代は美尼布(出雲国造と同祖・遷狛一奴の孫)。
〔その6〕第二段階 タケハニヤスビコの反乱と四道将軍 (270年代)
―鍵となる氏族:吉備津彦兄弟、ヒコイマス、オオビコ・タケヌナカハワケ親子―
1.崇神天皇とヤマトトトビモモソヒメ
日本書記は「崇神天皇の治世5年、国内に疾疫多くして、民死亡れる者有りて、且大半ぎなむとす。同6年、百姓流離へぬ。或いは背判く者あり。其の勢い、徳を以て治めむこと難し。是を以て、晨に興き夕までに惕りて、神祇に請罪る。是より先に、天照大神、倭大国魂、二の神を、天皇の大殿の内に並祭る。然して其の神の勢いを畏れて、共に住みたまふに安からず」と記します。
この描写も欠史八代説に沿うと、飛鳥時代の創作となりましょう。実話とすると、「父王の死後、即位はしたものの、大和盆地では伝染病が蔓延し、田畑は荒れ果て、流浪者となる農民や一揆が続出し、大和王国は滅亡の危機に直面した。崇神天皇は早朝から夕刻まで政務に励み、神々に祈りを捧げたが、宮中に祀られていたアマテラスとヤマトオオクニタマの二神は折り合いが悪く、二神とも宮中から出ていただくしかなかった」、という話になります。
開化天皇は吉備邪馬台国を撃破した後、アマツヒコネ族を主力とした水軍の速攻で瀬戸内海全域と九州北部までの支配に成功しましたが、軍事費の増大に伴う重税で大和の農民は疲弊し、そこに伝染病が襲い、一揆が多発し棄民が増えます。期待していた戦利品も、瀬戸内海でのゲリラ攻撃によるためか、都にもたらされるのはごくわずかで、ゲリラ対策のためにますます軍事費がつのっていく、という戦勝国の悪循環に陥ります。
そこで登場するのが、吉備邪馬台国の最後の女王トヨであると私が判断している、崇神天皇の大叔母ヤマトトトビモモソヒです。大げさだと笑われる方々もおられるでしょうが、「日本の底力の強靭さ、天皇家が約1,900年間、世界最古の王家として健在な理由は、破った国の王さまと敗れた国の女王さまが精神的にしっかりと結ばれたことにある」と感じており、二人を主人公にした「邪馬台国吉備・狗奴国大和説」の小説版「箸墓と日本国誕生物語」を書きました。
崇神天皇とモモソヒメの関係は①オオモノヌシを三輪山に勧請、②崇神天皇の叔父タケハニヤスビコ(武埴安彦)の反乱をモモソヒメが察知、の2点が焦点となります。
(大和はなぜオオモノヌシを勧請する必要があったのか)
崇神天皇はモモソヒメの助言(神がかりの託宣)を聞き入れて、オオモノヌシを三輪山に勧請すると、危機を脱出して日本統一への隆盛が始まります。
オオモノヌシは大和土着の神さまではなく、スサノオ神話の系譜に属し、大和域外のどこかから大和に勧請された神さまです。その「どこか」はどこでしょうか?
オオモノヌシとオオクニヌシは同神だから、「出雲」と答える方もおられるでしょうが、オオクニヌシは出雲と日本海、オオモノ主は吉備と瀬戸内海の神の違いがあります。三輪山の神はオオクニヌシの子神コトシロヌシ(神武天皇紀)とする説もありますが、出雲人が警備役として大和入りをするのは崇神天皇の次の垂仁天皇の時代で、その後にオオモノヌシとコトシロヌシを混同する説が派生したようです。
大和は九州西部まで西日本をほぼ征服したものの、「鬼伝説」が伝えるように、備中、備後、伯耆、讃岐、安芸など、瀬戸内海を中心に旧吉備邪馬台国勢力のレジスタンスが続きます。大和は、被征服諸国に対して、新しい盟主は大和であることを明示する必要が生じたことが、吉備からオオモノヌシと弧帯文・特殊壺・器台を取り入れることにつながり、その橋渡しをしたのが、崇神天皇の父王の后候補として大和入りしていた、吉備邪馬台国の最後の女王トヨであった、とするのが私の持論です。吉備と瀬戸内海中部の神オオモノヌシの大和入りは、弧帯文と特殊器台の大和入りと表裏一体の間柄にあります。この点を踏まえて八尾市を経由して弧帯文と特殊壺・器台が大和盆地に入るのは、200年前後でもヒミコの死亡時期にあたる250年頃でもなく、270年代とするのが自説です。
(オオモノヌシとオオタタネコ)
崇神天皇はモモソヒメが名指ししたオオモノヌシの祭祀を司るオオタタネコ(大田田根子)を探しますが、行方が分かりません。このことからも、オオタタネコは大和生え抜きの人物ではなく、捕虜となって河内に連行されてきた吉備集団の中に紛れていたことが類推できます。ようやく探し出した場所は和泉の陶邑(すえむら)でした。「陶」がつく地名から、堺市と大阪狭山市の境界にある陶器山辺りだったろうと推測します。
大和には先行して阿波の忌部氏の祭祀が入っていましたが、これ以後、吉備の中臣氏の祭祀も大和に影響を与えていくことになります。中臣氏の神は忌部氏系の神々と共に天石戸儀式を司るアメノコヤネに加えて、軍神タケミカヅチと剣神フツヌシ、の三神です。大和は破った阿波と吉備から政(まつりごと)のノウハウを取り入れていったのでしょうが、これ以後、中臣氏と忌部氏は祭祀を担当するライバル関係となります。
(タケハニヤスビコの反乱)
オオモノヌシが大和に勧請された後、旧吉備邪馬台国勢力のレジスタンスが鎮火し、大和国内も上昇気運に乗っていきます。崇神天皇は西日本と東日本の日本列島統一に向けた準備を始めますが、タケハニヤスビコ夫妻の謀反をモモソヒメが察知します。
崇神天皇の叔父にあたるタケハニヤスビコは、オオビビが開化天皇の同腹の兄であるのに対し、異腹の兄弟ですが、これまであまり考察はなされてきませんでした。
タケハニヤスビコの母は河内の青玉繋(あおたまかけ)の娘ハニヤスビメ(埴安媛)ですから、河内のアマツヒコネ一族のようです。反乱軍は、妻のアタヒメ(吾田媛)が大坂(穴虫峠)から攻め入ろうとして敗れ、本軍は木津川で決戦をして破れた後、祝園(京都府精華町)、河原(京都府田辺町)、樟葉(くすば。大阪府枚方市)へと敗走していることからも、地盤は八尾市ではないにしても河内湾沿いにあったことが推定できます。
瀬戸内海と大和川を結ぶ港町だった八尾市には中国・四国・九州からの戦利品が集まりますが、開化天皇の急死と、まだ20歳前後にすぎなかった崇神天皇即位のドサクサをついて、タケハニヤスビコ一派が戦利品の横取りをして、富を貯えます。崇神天皇がタケハニヤスビコの謀反に気がついた頃には甥の崇神天皇を押しのけて、天下取りを狙うための充分な資金力と兵力がありました。モモソヒメがタケハニヤスビコの反乱を察知した理由は、政権取得に向けてトヨ(モモソヒメ)を利用しようと、一派が崇神天皇より先にモモソヒメに接近を試みていたからでしょう。
2.四道将軍
タケハニヤスビコの謀反を鎮圧したした崇神天皇は、東西日本の統一をめざして西道、丹波道、北陸道、東山道に四道将軍を派遣します。
(1)西道(吉備津彦兄弟)
吉備津彦兄弟が吉備を征服したのはこの時点、と解釈する説もありますが、西道将軍は日本書記には記載がありますが、古事記にはありません。すでにこの時点で吉備と瀬戸内海西部は制圧されており、吉備津彦兄弟に与えられた使命は、ことに九州支配を固めることでした。
九州は東部は先祖の出身地である日向まで、北部は筑前まで、豊後から肥国に至る中央部もすでに支配下に置かれていましたが、筑前と豊後・肥後の間にある筑後川流域(筑後地方と日田国)の制覇が重点となりました。また豊前と豊後の間に位置する国東半島(国前国)も制覇され、西南部は八代市からさらに南へ領土を拡げていきます(葦分国)。日向国の南の大隅国、葦分国の南の薩摩国、いわゆる熊襲地方は、国造本紀で両国とも初任は仁徳朝であることからも、大和の領域に入るのは5世紀の応神時代からであることは明白です。
国前国造(大分県国東市)
:(成務朝)初代は午佐自(吉備臣と同祖・吉備都彦の6世孫)
葦分国造(熊本県水俣市)
:(景行朝)初代は三井根子(吉備津彦の子)
(2)丹波道(ヒコイマス)
丹波は崇神天皇の腹違いの弟ヒコイマス(日子座。母は和邇氏)が将軍となります。丹波は丹後半島の付け根辺りまではすでに孝霊天皇の時代に大和の勢力圏に組み込まれており、丹波道将軍は丹後半島で独立を継続していた丹後王国と以西の征服にありました。
丹後半島には浦島太郎伝説、羽衣伝説など、独自の神話が存在し、近年では赤坂今井墳丘墓を代表とする弥生後期から終末期にかけての墳丘墓や遺跡が続々と発見されており、かなり高度な文化をもった王国が存在したことを裏づけており、ヒコイマスが関わる鬼伝説も残っています。
出雲のオオクニヌシは6人の后を持ちます。このうちトリミミ(鳥耳)との間に息子神トリナルミ(鳥鳴海)をもうけます。古事記ではトリナルミからトホツヤマサキタラシ(遠津山岬多良斯)に至るまで、十代の系譜を詳しく紹介しています。オオクニヌシから9代目のアメノヒバラオオシナドミ(天日腹大科度美)はアメノサギリ(天狭霧)の娘トホツマチネ(遠津待根)を后としてトホツヤマサキタラシをもうけますが、系譜はここで途絶えます。一代の治世と平均20年とすると、王国は約200年間、継続していたことになります。トリミミの王国は日本海から中国山地にかけてのどこかに間違いはないようですが、特定の場所が思い浮かばないままでした。
偶然なことに、開化天皇記のヒコイマスの系譜を読んでいた際、ヒコイマスから神功皇后に至る系譜の中に「遠津(とほつ)臣」が登場していることに気づきました。ヒコイマスの孫カコメイカヅチ(迦邇米雷王)は丹波の遠津臣の娘タカキヒメ(高材比賣)を后として息長宿禰王が生まれ、その娘が息長帯比賣(神功皇后)となります。ひょっとしたら、丹後王国はトホツヤマサキタラシの代で、ヒコイマス将軍に敗れ、それ以後は、地元の豪族「遠津臣」として存続したのではないか、と考えると、トリミミの系譜は丹後王国の系譜だった、と解釈できます。
ヒコイマス系は、垂仁天皇の最初の后サボヒメの兄サホビコが反乱をおこしますが、サボヒメの死後、従姉妹にあたる丹波道主(美知能宇剘)の娘たちが后となります。丹後半島の網野町にある、日本海側では最大の古墳である銚子山古墳はヒコイマスの息子である丹波道主の墓と伝えられていますが、ヒコイマス系近江から丹波、但馬、稲葉にかけて勢力を維持します。
但遅馬国造(兵庫県北部)
:(成務朝)初代は船穂足尼(ヒコイマスの5世孫)
稲葉国造(鳥取県東部)
:(成務朝)彦多都彦(ヒコイマスの子)。
淡海国造(滋賀県南部)
:(成務朝)初代は大陀牟夜別(ヒコイマスの3世孫)。
三野前国造(岐阜県本巣市)
:(開化朝)八瓜(ヒコイマスの子)。
(3)北陸道(オオビコ)
東日本への進攻はオオビコ(大彦)とタケヌナカハワケ(武渟川別)親子が担当となります。オオビコは第八代孝元天皇の皇子で、開化天皇とは同腹の兄、反乱を起こしたタケハニヤスビコの腹違いの兄にあたります。娘は崇神天皇の正后となり、子孫は阿倍氏となって、根拠地は伊賀となります(敢国あえくに神社)。
北陸地方はすでに孝霊天皇時代から尾張氏が進出していましたから、オオビコ軍は順調に越後まで北上し、阿賀野川をさかのぼって会津盆地に入ります。会津盆地は喜多方市に四隅突出型弥生墳丘墓が2基発見されているように、出雲文化が入っていますから、福島県南部にまで達していた日本海側の出雲文化圏を大和が支配下におさめたことになります。
若狭国造(福井県西部)
:(允恭朝)初代は荒砺(膳臣の祖・佐白米の子)。
高志国造(福井県福井市)
:(成務朝)初代は市入(阿閉臣の祖・屋主田心の3世孫)。
高志深江国造(新潟県十日町)
:(崇神朝)素都刀奈見留(道君と同祖)
(4)東山道(タケヌナカハワケ)
日本書記では「東海」、古事記では「東の方十二道」とありますが、遠江、駿河から相模に入る東海道ではなく、美濃から信州を経て上野(群馬県)に入る東山道であったようです。その面影は那須国造に残っていますが、会津で父と感激の再会をします(伊佐須美いさすみ神社)。
那須国造(栃木県太田原市)
:(景行朝)初代は大臣(タケヌナカハワケの孫)。
大和勢力が北関東以北に入るのは初めてでしたが、まだ本格的な支配ではなく、東山道を通過しながら、和製の銅鏡(三角縁神獣鏡)を各国の首長に贈っていったに過ぎなかったようです。表面的には、猪苗代湖がある福島県南部までは大和の領域となりましたが、関東平野は手付かずでした。ことに武蔵野と下総の弥生人は強力で、孝霊天皇時代に阿波族を追う形で上総に入っていた尾張氏は下総への北上が阻まれていました。
〔その7〕第三段階 箸墓と東国支配 (280年代)
―鍵となる氏族:意富氏、中臣氏、アマツヒコネ族とアマノユツヒコ族、和邇氏と物部氏、トヨキイリヒコ―
(参照)箸墓と日本国誕生物語――女王トヨと崇神天皇――
1.ヤマトトトビモモソヒメと箸墓
箸墓の埋葬者はヒミコかトヨか、孝霊天皇の皇女で吉備津彦兄弟の姉ヤマトトトビモモソヒメだがヒミコやトヨと別人なのか、女性ではなく王家に属す男性なのか。
箸墓埋葬者論争は、邪馬台国所在地論争も絡んで、ますます高まっていくことでしょうが、埋葬者は人質ないし開化天皇のお后候補として大和入りしてモモソヒメと呼ばれるようになった、吉備邪馬台国の最後の女王トヨである、とする自説で話を進めていきます。
崇神天皇はオオモノヌシの三輪山への勧請とタケハニヤスビコ謀反の察知を通じて、モモソヒメ(トヨ)に信頼感を強めていきます。四道将軍も使命を果たして凱旋し、大和は上げ潮に乗っていきます。そんな中で、浮かぬ顔をしていた人たちもいました。ことに崇神天皇の正后ミマキヒメ(御間城姫)親子でした。ミマキヒメは崇神天皇のいとこにあたり、父はオオビコ(大彦)、兄はタケヌナカハワケ(武渟川別)です。オオビコは北陸将軍、タケヌナカハワケは東国将軍として、成果をあげましたが、崇神天皇は義父と義弟に警戒心を抱いていました。タケヌカハワケは初めて東国に足を踏み入れたことを吹聴していましたが、どうも上滑りの印象がぬぐいえません。
モモソヒメは崇神天皇よりも一回りほど年上でしたから、崇神天皇がモモソヒメを后に迎え入れる心配はさほどありませんでしたが、オオビコ親子にとっては吉備邪馬台国の女王だったモモソヒメの重用が不安でした。ミマキヒメは跡継ぎとして垂仁天皇を生んでいましたが、崇神天皇は紀伊出身の后マクハシヒメ(眼妙媛)が先に生んでいたトヨキイリヒコ(豊城入彦)を跡継ぎとする素振りを見せていることも懸念でした。
(モモソヒメが自害した理由と箸墓)
モモソヒメの自害と箸墓築造は日本書紀では四道将軍の凱旋の前に位置していますが、凱旋の後と解釈した方が妥当です。
オオビコ親子や同じく崇神天皇の后を出している尾張氏のトヨに対するいじめがひどくなります。頼みとしていた吉備津彦兄弟は吉備永住となって大和を離れ、トヨは一人ぽっちになってしまいました。いじめに耐えていくよりも、吉備邪馬台国の女王としての誇りから自害の道を選びます。トヨが40歳代半ばの頃です。
自害の理由は、表面的には、夫となった三輪山の蛇神を恥かしめため、と日本書記が伝えますが、これはオオビコ親子等が創り上げ、巷に流した噂話でしょう。
箸墓と同様に特殊器台が出土し、埋葬者は男性の印象を受ける中山大塚古墳の方が築造時期は少し早いようですが、 なぜ纒向の平地に女性の墓としては異常に大きい
大古墳を築いたのか、など多くの疑問があります。大和直系の女性であったとするなら、崇神天皇の母イカガシコメ(伊香色謎)が最も妥当です。築造年代は250年代か280年頃かをめぐって、話題は宮山型特殊器台だけに集中していますが、 ①邪馬台国の衰退期ではなく大和の上昇期の築造であること、②一緒に出土している土器は布留式一式(280年前後)であることからも、築造は280年頃とするのが正解です。
即位して間もない国家存亡の危機の頃、適切な助言をし、「あなたなら東西日本の統一を達成できる」と励ましてくれたトヨに対して、崇神天皇は最大の敬意を払ったのが箸墓、だと私は考えています。
2.吉備中臣氏の復活 ―オオタタネコとタケカシマ―
吉備の中臣氏が復権してきたこともオオビコ親子の懸念となります。中臣氏は和邇氏などのように天皇系譜と関係しませんし、穂積氏のような大和土着の氏族ではありません。中臣氏が祀る神々はアメノコヤネ、タケミカヅチ、フツヌシの3神ですが、3神は吉備邪馬台国神話に属す神々です。オオタタネコ(大田田根子)を通じてオオモノヌシとアメノコヤネ、タケカシマ(建借馬)を通じてタケミカヅチとフツヌシが登場してきます。敗れた国の氏族が再浮上することはありえない、とする意見もありましょうが、これこそ大和が日本統一を成し遂げたノウハウでした。
タケカシマは大和の東国支配の尖兵として常陸国風土記の行方(なめかた)郡篇に登場し、国造本紀では仲国造の初代として、意富族の人物と紹介されています。ところがタケマシマはどいうわけか肥前の杵島(きしま)山の歌垣で難敵を誘い出して倒した後、東国制覇の入り口にあたる水道の右側にタケミカヅチ(鹿島神宮)、左側にフツヌシ(香取神宮)を祀ります。タケカシマが天皇家を祖とする意富氏の出身だとしたら、祖先のカムヤイミミか大和系の神を祀るのが通常ですが、中臣系の軍神を祀ったのは、タケカシマが中臣氏の出身だったからです。
意富(おお)氏タケオクミの九州遠征軍の中に、タケカシマを含めた吉備の捕虜も混じっていて、肥国制覇で軍功を上げます。タケカシマと部下たちは熊本市から島原半島に渡り、有明海に臨む杵島山周辺に定着します。杵島郡に隣接して鹿島市があります。タケカシマと鹿島市が語源的につながっている確証はまだつかめていませんが、関連性がありそうです。
3.東国支配と開拓 第1陣 ―意富氏とタケカシマ―
箸墓が築造された後、大和による関東平野と東北地方南部への進出が本格化します。その露払いとして崇神天皇は九州攻略に功があった意富族を抜擢しましたが、その中にタケカシマを筆頭とする旧吉備勢力の兵士たちも組み込まれていました。
関東平野は上総まで進出した尾張族と東山道を会津まで通過したヌナカハワケが踏み込めなかった地域です。大和軍の関東平野攻撃は房総半島の銚子の犬吠埼から始まります。江戸時代に東京湾に注ぐ利根川と渡良瀬川が鬼怒川とつなげられたために、銚子は利根川の河口となりましたが、かっては北側に信太流海、西側に榎浦流海が広がる広大な内海につながる水道の入り口でした。
尖兵役を果たしたタケカシマは、国造本紀でも古事記と同様に意富氏と見なされてれていますが、タケカシマは出雲の国譲りでも活躍した後、中央に呼び戻され、仲国造は意富族が継いだようです。垂仁天皇25年に五大夫の一人となるオオカシマ(大鹿嶋)はタケカシマの息子とすると、辻褄が合います。
国造本紀の一覧を見ると、意宇族は大和の関東・東北地方支配で戦略的な場所である仲国、印旛、信濃の3国 に配置されています。香取神宮がある印旛国は内海へ至る水道をおさえています。仲国は常陸の国の中央で、下野の宇都宮へも近くです。信濃は東山道経由での関東と東北への入り口にあたります。また石城国造は、古事記ではカムヤイミミの子孫(意富族)、国造本紀ではアマツヒコネの子孫タケコロとなっていますが、まず意富族が支配した後、後からやってきたアマツヒコネ族と交替したのでしょう。
仲国造(茨城県水戸市・那珂市)
:(成務朝)初代はタケカシマ(伊予国造と同祖)
印波国造(千葉県佐倉市・印幡郡)
:(応神朝)初代は伊都許利(いつこり。神武天皇の皇子カムヤイミミの8世孫)
科野国造(長野県)
:初代は建五百建(たけいおたつ。カムヤイミミの孫)
4.東国支配と開拓 第2陣 ―アマツヒコネ族とアマノユツヒコ族―
崇神天皇の政策は、西国の征服地の住民を東国に移し、抜けた後を大和の将軍や兵士に領地として分け与えることでした。
治世17年に、諸国に船の建造を命じますが、これは常陸を拠点にした東国制覇が現実味を帯びてきたため、吉備、讃岐、安芸、周防の開拓民を大量移送するためでした。その担当を担ったのが、意富氏以上に瀬戸内海西部と筑紫攻略の立役者となり、船の航海にもたけたアマツヒコネ族とアマノユツヒコ族でした。関東平野開拓は、意宇氏とタケマシマが先行した後、物部氏や出雲族等を通じてトヨキイリヒコにつながると解釈していましたが、国造本紀を通じて、両者の間にアマツヒコネ族とアマノユツヒコ族が存在していることを知りました。
ここで崇神天皇は、アマツヒコネ族の替わりに不信感を抱いていた義弟ヌナカハワケと母が出自した穂積氏を九州に配置する、という巧妙な政策を行います。ヌナカハワケの勢力を東山道から筑紫へ移動させ、その牽制役を兼ねて穂積氏を唐津市の末羅(末盧)国に配置したことわけです。
筑紫国造(福岡県)
:(成務朝)日道(阿倍臣と同祖・オオビコの5世孫)
末羅国造(佐賀県唐津市)
:(成務朝)初代は矢田稲吉(穂積臣と同祖)
(アマツヒコネ系の国造)
アマツヒコネ族は意宇氏とタケカシマに合流して、大和支配の面を拡げていきます。茨城国造となった筑紫刀禰と石城国造となった建許呂は同一人物か親子の間柄かは不明ですが、建許呂の息子8人のうち6人が茨城県、千葉県南部、神奈川県西部、福島県で国造となります。
茨城国造(茨城県水戸市):(応神朝)初代は筑紫刀禰(アマツヒコネの孫)
石城(いわき)国造(福島県いわき市):(成務朝)初代は建許呂。古事記では祖はカムヤイミミ
道奥岐閇(みちのくのきへ)国造(茨城県日立市):(応神朝)初代は建許呂の子・宇佐比刀禰
馬来田(うまくた)国造(千葉県君津市、木更津市):(成務朝)初代は建許呂の子・深河意弥
須惠国造(千葉県富津市、木更津市):(成務朝)初代は建許呂の子・大布日意弥
師長(しなが)国造(神奈川県大磯町):(成務朝)初代は建許呂の子・意富鷲意弥
道奥菊多(みちおくのきた)国造(福島県いわき市):(応神朝)初代は建許呂の子・屋主乃禰
石背(いわせ)国造(福島県須賀川市):(成務朝)初代は建許呂の子・建弥依米
(アマノユツヒコ系の国造)
安芸国造の初代アキハヤタマはアマノユツヒコの5世孫にあたりますが、10世孫を主体に福島県、宮城県、さらに驚くことに佐渡島まで広がります。アマツヒコネ族と連携していますが、より辺境の地へと大和支配を伸ばしていきます。
アマノユツヒコ系の神社を探していくと、阿尺(あさか)国造の中心部だった郡山市清水台に安積国造神社(祭神はアマノユツヒコの10世孫比止禰 。元は赤木町)がありました。
白河国造(福島県白河市):(成務朝)初代は塩伊乃己自直(アマノユツヒコの11世孫)
阿尺(あさか)国造(福島県郡山市):(成務朝)初代は比止禰(アマノユツヒコの10世孫)
染羽(しめは)国造(福島県双葉町):(成務朝)初代は足彦(アマノユツヒコの10世孫)
伊久(いく)国造(宮城県角田市):(成務朝)初代は豊嶋(アマノユツヒコの10世孫)
思国造(宮城県大崎市):(成務朝)初代は志久麻彦(アマノユツヒコの10世孫)
佐渡国造(新潟県):(成務朝)大荒木直(久志伊麻の4世孫)
5.和邇氏と物部氏
大和の名族である和邇氏は房総半島の太平洋側の武社国の国造となっています。近くに神武天皇の母神タマヨリヒメ(玉依姫)を祀る上総一の宮である玉前(たまさき)神社があり、大和と東国北部を結ぶ海路の監視役だった印象を与えます。
「筑波」は物部氏に属す采女(うねめ)築簟(つくは)にちなんで名づけられたことから、物部氏も大和勢力の一員として東国進出に重要な役割を果たした、と想定していたのですが、東国での国造はわずか1国にすぎず、驚きました。物部氏の台頭は大和が西出雲王国を占領した崇神天皇末期頃からで、物部氏は出雲族の東国移住に伴う形で東国入りした印象を与えます。
武社国造(千葉県山武市):(成務朝)初代は和邇臣の祖・彦意祁都の孫)
久自国造(茨城県常陸太田市):(成務朝)初代は船瀬足尼(物部連の祖・伊香色雄の3世孫)
知々夫国造(埼玉県秩父市):(崇神朝)初代は知々夫(八意思金)の10世孫
6.崇神天皇の皇子トヨキイリヒコの東国入り
崇神天皇は治世48年、正后ミマキヒメの皇子である垂仁天皇を後継王と決め、紀伊のマクハシヒメが生んだ年長のトヨキイリヒコを関東平野と東北地方南部支配の最後の締めくくりとして、下野の宇都宮に送ります。その意義は東国を朝廷の直轄地として、朝廷の財政基盤とすることにあり、トヨキイリヒコを総帥に位置づけたことにあります。トヨキイリヒコ一族は数世紀を経て、関東武士へと発展していきます。
下毛野(しもつけぬ)国造(栃木県):(仁徳朝)初代は奈良別(トヨキイリヒコの4世孫)
上毛野(かみつけぬ)国造(群馬県):(不明)初代は彦狭嶋(トヨキイリヒコの孫)
浮田国造(福島県相馬市):(成務朝)初代は賀我別(かがわけ。崇神天皇の5世孫)
〔その8〕第四段階 西出雲王国征服で日本統一事業が完成 (290年代)
―鍵となる氏族:中臣氏、物部氏、吉備津彦、タケヌナカハワケ―
1.神話での「出雲の国譲り」と「天孫ホノニニギ降臨」
出雲の国譲り神話は、古事記ではオオクニヌシの半生を紹介した後に始まりますが、日本書記では出雲に定住したスサノオの子孫としてオオクニヌシが登場した後、半生を飛ばして本題に入りますが、本題のストーリーは古事記も日本書記もほぼ同じです。
(1) アメノホヒ
アマテラスは我が子アメノオシホミミ(天忍穂耳。五男神の長男)に水穂の国を治めさせようと、天下りを命じますが、アメノオシホミミが天の浮き橋から下界を覗いてみると、騒々しいので母親の元に戻ってきます。アマテラスは高天原の神々に相談して、次男のアメノホヒ(天菩比)を下界に送ります。ところがアメノホヒは3年経過しても高天原に戻ってきません。
(2)アメノワカヒコ
アマテラスはタカミムスビ(高御産巣日)、オモイカネ(思金)たちに相談して、アメノワカヒコ(天若日子)を出雲に派遣します。ところが、 アメノワカヒコは出雲国を自分のものにしようとして、オオクニヌシの娘シタテルヒメ(下照比賣)と結婚し、8年たっても高天原に戻ってきません。そこで神々は問いただすために雉ナキメ(鳴女)を送りますが、従者アメノサグメ(天佐具賣)の忠告でアメノワカヒコはナキメを射殺します。矢は天の安の河の河原まで届きますが、タカムスビがその矢を地上に突き帰すと、矢はアメノワカヒコの胸に刺さって、アメノワカヒコは即死します。
アメノワカヒコの葬式で后シタテルヒメは号泣しますが、参列したアメノワカヒコの両親は息子とそっくりのシタテルヒメの兄アヂスキタカヒコネ(味耜高彦根)を見て、息子はまだ生きていると感涙します。死人と間違えられたアヂスキタカヒコネは怒って喪屋を切り捨てて立ち去ります。
(3)タケミカヅチ
アマテラスはオモイカネを筆頭にした神々の意見を受けて、アメノトリフネ(天鳥船)を付けて、タケミカヅチ(建御雷。中臣系の神)を出雲に派遣します。
(4)コトシロヌシの服従
出雲の伊那佐の浜に降り立ったタケミカヅチはオオクニヌシに国譲りを談判すると、オオクニヌシは息子コトシロヌシに意見を聞け、と答えます。美保岬で釣りをしていたコトシロヌシをアメノトリフネが探し出し、コトシロヌシは国譲りに合意して消えうせます。
(5)タケミナカタの服従
ところがオオクニヌシの別の息子タケミナカタ(諏訪大社の祭神)は国譲りに反対で、タケミカヅチとの力比べとなります。力比べに負けたタケミナカタは信濃国まで逃亡します。追い詰められたタケミナカタは命の保障と引き換えに国譲りに合意します。
(6)オオクニヌシの国譲り
オオクニヌシは隠棲する宮殿を建てることを条件に国譲りに合意し、タケミカヅチは高天原に戻って葦原中国の服従を報告します。
(7)アマテラスの孫ホノニニギの誕生
アマテラスが息子アメノオシオミミに天下りを命じますが、アメノオシオミミは国譲り騒動の間に誕生した子息ホノニニギを推します。
(8)サルタヒコとアメノウズメ
ホノニニギを天下りさせようとしたところ、天と地上の境目にある分かれ道で光りを放つ神がおりました。アメノウズメ(天宇受賣)に偵察させると、天つ神の御子を迎えに参上した伊勢の国つ神サルタヒコ(猿田彦)だと名乗ります。
(9)天孫ホノニニギ降臨
まだ赤子だったホノニニギは五伴緒(アメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマノオヤ)、オモイカネ、アメノタヂカラヲ等に伴われて、日向の高千穂のくじふる嶺に降臨します。
(10)サルメ
アメノウズメはサルタヒコと結婚し、サルメ(猿女)君の祖となります。
(11)ホノニニギとコノハナノサクヤヒメの結婚
成長したホノニニギはオオヤマツミ(大山津見)の娘コノハナノサクヤヒメと結婚し、四代目に神武兄弟が誕生します。
2.日本書記が伝える、大和の出雲征服
<出雲については、神武天皇以降では、日本書記では崇神天皇の末期に初めて登場し、古事記では垂仁天皇から登場します。>
崇神天皇治世60年、「タケヒナテル(武日照。又はタケヒナトリ。アメノホヒの子で出雲臣の祖神)が天から持ち込んだ神宝が出雲大神の宮に収蔵されている。これを見てみたい」と命じます。そこで、矢田部造(みやっこ)(物部氏の同祖)の遠祖タケモロスミ(武緒隅)が出雲に派遣されます。
この時、神宝は出雲臣の遠祖フルネ(出雲振根)が管理していましたが、筑紫国に出掛けていて留守でした。弟のイヒイリネ(飯入根)は皇命を受けて、神宝を弟ウマシカラヒサ(甘美韓日狭)と子ウカヅクヌ(鸕濡渟)親子に託して崇神天皇に献上します。
筑紫から戻ってきたフルネは神宝献上の報告を受けて激怒し、弟イヒイリネを責めます。しばらくしてフルネは止屋(やむや)の淵にイヒイリネを誘い、だまし討ちでイヒイリネを殺します。
フルネを恐れたウマシカラヒサ親子は朝廷に参向して、詳細を報告します。崇神天皇は、吉備津彦とタケヌナカハワケ(武渟河別)を出雲に遣わして、フルネを殺します。この後、出雲臣等は、朝廷を恐れて、出雲大神を祀らなくなってしまいます。
3.西出雲王国の制覇
<国譲り神話と崇神天皇紀末期の記述から、私は以下のように解釈しています。>
260年代後半~270年代前半
大和軍は吉備邪馬台国を征服した後、日本海に向けてアメノホヒ族、瀬戸内海西部に向けてアメツヒコネ族・アマノユツヒコ族を送ります。
アメノホヒ族は伯耆を攻略した後、東出雲(意宇郡)へと進みますが、神門湾(出雲市)を拠点とする西出雲の王国(神門かむど王国)の勢力が強く、意宇郡で停滞します。アメノホヒ族は中央政府に出雲を制した、との報告をしますが、神門王国とのにらみ合いは長期戦となり、斐伊川沿いの出雲郡が両者の緩衝地帯となります。
270年代後半~280年代前半
アメノホヒ族の将軍が3年経過しても都に戻ってこないことから、朝廷は美濃出身のアメノワカヒコを出雲に派遣します。ところがアメノワカヒコは8年経過しても戻ってきません。朝廷が実情を調べると、アメノワカヒコは緩衝地帯で出会った神門王国の王女シタテルヒメと結婚して、神門王国の乗っ取りを目論んでいることが分かりました。
朝廷はアメノワカヒコを問い詰めるために密偵を送りますが、アメノワカヒコは密偵を返り討ちにしてしまいました。そこでアメノホヒ族はアメノワカヒコを暗殺しますが、その後もアメノホヒ族は神門王国を攻め切れません。
290年代前半
崇神天皇は晩年になって、出雲の神宝が献上されていないことに気づき、物部氏の矢田部造タケモロスミを派遣すると、神門王国はまだ独立を保っていることが判明します。
崇神天皇は常陸から中臣タケカシマを呼び寄せ、出雲説得を命じます。タケカシマは海路、神門王国に到着しますが、国王フルネは大和に対抗する伽邪・対馬・壱岐・出雲連合設立の協議で対馬国に出掛けていて、留守でした。
タケカシマはフルネの弟イヒイリネとウマシカラヒサを説得し、イヒイリネは出雲の神宝を献上します。出雲に戻ってきたフルネは激怒してイヒイリネを殺し、ウマシカラヒサ親子は東出雲の大和陣営に逃げ込みます。
崇神天皇は吉備の吉備津彦と筑紫のタケヌナカハワケに神門王国への進軍を命じ、神門王国は滅亡します。アメノホヒ族は本拠地を意宇郡(松江市の神魂かもす神社)から西出雲(出雲市)に移して、崇神天皇の日本統一事業が完成します。
4.出雲の国譲り神話の3要素の順番
出雲の国譲り神話の筋書きは、「出雲の国譲り」→「伊勢サルタヒコ族の出迎え」→「ホノニニギの降臨」の順となっていますが、史実として3者の時代を検討してみると、
(1)出雲の国譲り:時期は崇神朝末期の290年代、
(2)伊勢サルタヒコの出迎え:第五代孝昭朝で伊勢を制圧した190年代、
(3)ホノニニギの降臨:神武天皇の祖先伝承で、時期は西暦0年頃、
と時代的には順序は逆となります。時期が異なる3要素が接合されて国譲り神話としてまとめられた時期は吉備津彦とタケヌナカハワケの神門王国攻撃の後の290年代以降となります。
また葦原中国である出雲を押さえたことが九州も含めた西日本ないしは日本列島全体の掌握につながった、とする筋書きは、国譲り神話が成立した時代の政治的な情勢を反映している、と判断することができます。
5.アメノホヒ族、フルネ兄弟と物部氏
国造本紀を見ると、アメノホヒ族は出雲国に加えて伯耆国と二方国の国造となっており、その子孫は出雲大社の神主(千家・北島家)として続いていますから、アマツヒコネ族と同様に実在したことは確かです。
出雲フルネは出雲国風土記健部郷で、「神門臣古祢」として登場しています。この扱いは独立を保った丹後王国の遠津臣と共通しており、神門王国が実在したことを示しています。フルネに殺された弟イヒイリネの神格化がアヂスキタカヒコネ(オオクニヌシの子神)のような気もします。
物部氏として矢田部造タケモロスミが登場し、石見国の一の宮も物部神社であることから、子孫が出雲周辺で繁栄したイメージを与えますが、石見国造の祖は先住系のカミムスビの末裔となっており、物部氏の影響力はさほどではないようです。むしろ物部氏は東海道開発が進んだ第11代垂仁朝の東海地方に多くの国造を出しており、タケモロスミあたりから浮上した氏族のようです。
波伯国造(鳥取県西部):(成務朝)初代は大八木足尼(无邪志国造と同祖。兄多毛比の子)
出雲国造(島根県東部):(崇神朝)宇伽都久努(アメノホヒ)の11世孫)
石見国造(島根県西部):(崇神朝)大屋古命(紀伊国造と同祖。蔭佐奈朝命の子)
二方国造《兵庫県北部):(成務朝)美尼布命(出雲国造と同祖。遷狛一奴命の孫)
6.武蔵野の開拓
出雲征服の後、アメノホヒ族に伴われて出雲の民が関東平野に移住し、武蔵野を中心とした南関東地方の開拓が始まります。
大和の関東平野への進出は常陸国から始まり、西北は群馬県、東北は宮城県南部まで進みましたが、利根川以南の武蔵、下総の弥生人は強靭で、最後まで大和に抵抗していました。
アメノホヒ族と出雲の民は、まず常陸国の新治に入り、利根川を越えて鷲宮町(鷲宮神社)、さいたま市(氷川神社)へと南下していきます。また後続部隊は常陸国の久慈川沿いから福島県南部に入ります。
関東地方の出雲系の神社は3系統に類別できます。
(1)氷川神社系:祭神はスサノオ。埼玉県と東京都が中心。
(2)杉山神社:祭神はイソタケル(スサノオの子神)。神奈川県鶴見川流域。
(3)都々古別(つつこわけ)神社系:祭神はアヂスキタカヒコネ(オオクニヌシの子神)。福島県南部。
国造本紀を見ますと、武蔵野周辺だけでなく、意外なことに房総半島南部へも拡散しています。
新治国造(茨城県土浦市):(成務朝)初代は比奈羅布(アメノホヒの8世孫・美都呂岐の子)
无邪志国造(埼玉県・東京都):(成務朝)初代は兄多毛比(出雲臣の祖・二井之宇伽諸忍神狭の10世孫)
胸刺国造(埼玉県・東京都):(不明)初代は伊狭知直(兄多毛比の子)
相武国造(神奈川県高座郡):(成務朝)初代は弟武彦(武刺国造の祖・伊勢都彦の3世孫)
高国造(茨城県日立市):(成務朝)初代は弥佐比(弥都侶岐の孫)
下海上(うなかみ)国造(千葉県銚子市):(応神朝)初代は久都伎直(上海上国造の祖の孫)
上海上(うなかみ)国造(千葉県市原市):(成務朝)初代は忍立化多比(アメノホヒの8世孫)
菊麻国造(千葉県市原市):(成務朝)初代は无邪志国造の祖・兄多毛比の子)
阿波国造(千葉県館山市):(成務朝)初代は大伴直大瀧(アメノホヒの8世孫・弥都保岐の孫)
伊甚国造(千葉県いすみ市):(成務朝)初代は伊己侶止直(安房国造の祖・伊許保止の孫)
〔その9〕第五段階 大和支配体制の確立 (300年代~320年代)
―鍵となる氏族:物部氏、伊予オオヤマツミ族、トヨキイリヒコ一族、阿倍氏、尾張氏―
(参照)「広畠輝治の邪馬台国吉備・狗奴国大和説」第7章)
1.サホビコの反乱と出雲対策
3世紀末に第十代崇神天皇が他界し、第十一代垂仁天皇に代が替わります。
アメノホヒ族が率いる出雲の民による関東平野南部の開拓は継続しますが、中央の朝廷ではサホビコ(沙本毘古)の反乱が発生します。サホビコは丹波(丹後)将軍となった崇神天皇の腹違いの弟ヒコイマス(日子座)が沙本のオオクラトメ(大闇見戸賣)ともうけた皇子で、妹サホビメ(沙本毘賣)は垂仁天皇の愛后となっています。サホビメは夫側につくか、兄側につくかで悩みますが、最後は兄側について討ち死にします。反乱が一段落した後、垂仁天皇はサホビメの遺言を守って、サホビメの腹違いの兄タンバミチヌシ(丹波道主)の娘たち3人を后に迎え入れます。
垂仁天皇の悩みは、サボヒメの遺児ホムチワケ(本牟智和氣)がひげが生える年齢に達しても、しゃべることができないことでした。原因は出雲の大神をきちんと祀っていないためのタタリだったことが判明し、神の宮(出雲大社)を建立します。さらに出雲への配慮として、鴨氏を山城(京都)へ移動させ(賀茂神社)、大和盆地西南部の警護を出雲の民に抜擢し(高鴨神社と鴨都波神社)、出雲出身の野見宿禰は相撲と(形象)埴輪の祖となります。
2.富士山麓の開拓と東海道の開通
垂仁天皇は東国経営の締めくくりとして、富士山麓の開拓事業に着手します。富士山は第六代孝安天皇の頃から、度々噴火して富士宮市、三島市など山麓は火山灰や溶岩でおおわれ、富士山と箱根山の間を抜けて相模に入る東海道は開通していませんでした。
富士宮浅間神社の社伝は「(第五代)孝霊天皇の御世に富士山が噴火して鳴動常ならず、人民は恐れて逃散し、国中が荒廃したので、垂仁天皇が治世三年に山麓に浅間大神を祀り山霊を鎮められた」と伝えますが、伊豆国一の宮である三島大社の祭神は伊予の大三島を根源地とするオオヤマツミで、駿河国一の宮である富士宮浅間神社の祭神はオオヤマツミの娘で皇孫ホノニニギの后となるコノハナノサクヤヒメと、伊予とつながることから、伊予系の民が開拓民として送られたことが類推できます。
東海地方は尾張氏の影響が強いはず、とのイメージを描いていましたが、国造一覧を見てみますと、意外にも東海8カ国のうち、駿河国と伊豆国も含めた5カ国を物部氏系が占めています。遠江国一の宮の1社である小國(おくに)神社(森町)、三河国一の宮である砥鹿(とが)神社(豊川市近くの一呂町)の祭神は国土開拓神オオナムチですが、遠江国と三河国の国造も物部氏系ですから、垂仁天皇朝の伊予の開拓民をを率いたのは物部氏だった、と推定できます。
なぜ物部氏が三河、遠江に進出したか、の理由は、第六代孝安天皇時代に葛国が大和盆地全域と河内地方を占拠した際に、生駒山周辺を本拠地としていた物部氏の主力は尾張国に送られ、大和勢力の三河、遠江等への東征の前線を担ったことによります。物部氏に代ってアマツヒコネ族が生駒山周辺の支配者となりました。
静岡市東部の盧原国造の初代は第十二代景行天皇の皇子ヤマトタケルに随行したキビタケヒコ(吉備武彦)の子となっています。ヤマトタケルは焼津で土地の首長から野焼きにされそうになりますが、垂仁朝の後でもまだ大和への抵抗勢力があった様子を窺い知ることができます。反乱をおこしたサホビコの3代孫が甲斐国造の初代となっていいることも意外です。
気になるのは掛川市です。掛川市は素賀国の中心部で、国造の初代は神武朝起源とされ、遠江国の2つ目の一の宮である事任八幡宮(掛川市)の祭神はムスビ系のコゴトムスビの后神コトノマチヒメと八幡神となっています。物部氏が進出する以前から、掛川市は紀伊半島と房総半島を結ぶ海路の中継地として堅固な国が成立していた、という気がします。
(東海地方の物部氏系国造)
参河国造(愛知県岡崎市):(成務朝)初代は知波夜(物部連の祖・出雲色大臣の5世孫)
遠淡海国造(静岡県西部):(成務朝)初代は印岐美(物部連の祖・伊香色雄の子)
久努国造(静岡県磐田市):(仲哀朝)初代は印幡足尼(物部連の祖・伊香色雄の孫)
珠流河国造(静岡県富士市):(成務朝)初代は物部連の祖・大新川の子
伊豆国造(静岡県伊豆市):(神功摂政)初代は若建(物部連の祖・天蕤桙の8世孫)
(東海地方の物部氏以外の国造)
穂国造(愛知県豊川市):(雄略朝)初代は菟上宿禰(生江臣の祖・葛城襲津彦の4世孫)
素賀国造(静岡県掛川市):(神武朝)初代は美志印
盧原国造(静岡県静岡市東部):(成務朝)初代は思加部彦(吉備武彦の子)
甲斐国造(山梨県):(景行朝)初代は臣知津彦(狭穂彦の3世孫)
3.五大夫
日本書記では、垂仁天皇の治世25年に5大夫が登場します。5大夫は阿倍臣、和邇臣、中臣連、物部連、大伴連の5氏族となっています。5氏族のうち阿倍氏と和邇氏の二臣は天皇家の出身、中臣氏、物部氏の三連は天皇家の出ではなく、武人系の新興勢力と解釈できます。
①阿倍臣の遠祖タケヌナカハワケ(武渟川別)。
初代は第八代孝元天皇の皇子オオビコです。オオビコと息子タケヌナカハワケは四道将軍として、オオビコが北陸道、 タケヌナカハワケが東山道を進軍して、会津で再会します。 タケヌナカハワケはその後、九州の筑紫国に転じ、吉備の吉備津彦と共に西出雲の神門王国攻撃をします
オオビコの娘ミマツヒメ(御真津比賣)は崇神天皇の正后となり、次男に垂仁天皇が生まれます。オオビコの死後も、タケヌナカハワケが垂仁天皇の外戚の地位を保ったことを示します。
②和邇臣の遠祖ヒコクニブク(彦国葺)
和邇氏の初代は第五代孝昭天皇の長男アメノオシタラヒコ(天押帯日子)で、天理市和邇を拠点に子孫は大和の名族として繁栄します。ヒコクニブクはタケハニヤスビコの反乱の際に活躍します。
③中臣連の遠祖オオカシマ(大鹿嶋)
自説では、中臣氏は旧吉備邪馬台国勢力で、崇神天皇の時代に復活します。まだ実証できてはいませんが、オオカシマの父は常陸国風土記に登場するタケカシマと見なしています。
④物部連の遠祖トヲチネ(十千根)
大和盆地西北部と河内湾沿岸にあった登美国の支配者だった物部氏は、第六代孝安天皇の時代に大和勢力に組み込まれて、下級兵士となります。上層に浮上してきたのは崇神朝の後半からのようです。
⑤大伴連の遠祖タケヒ(武日)
大伴氏はアメノホヒ、アマツヒコネ等と同類の、神武兄弟に随行して日向から旅立った兵卒に属します。大和の日本列島統一事業に関わったアメノホヒ、アマツヒコネ等が地方に転出した後、中央で台頭していきます。
4.出雲の国譲り神話の創作と日本神話の原形の成立
日本列島は3世紀後半に、西日本を中心とした「倭国」の時代から東日本も加わった「大倭(大和)国」の時代に脱皮して、今日にまで至る日本国の基盤が確立しました。それに伴い、大倭国としてふさわしい神話をまとめる必然が出てきました。
大倭国神話の編集は、大和朝廷の語り部に阿波忌部系と吉備中臣系が加わって編集されました。日本神話のストーリーは、垂仁天皇の治世前半期の政治・社会情勢を背景として、非常に巧妙に構成されているため、解き明かしていくのは容易ではありませんが、「邪馬台国吉備・狗奴国大和説」から日本神話の構成を分析しますと、「吉備邪馬台国神話」と「大和建国神話」が合体し、両者の接着剤として「出雲の国譲り」が創作されたことになります。
邪馬台国神話はイザナギ・イザナミの国生みから太陽神オオヒルメと嵐神スサノオの対立を経てスサノオの子孫に至る内容です。この神話圏は、吉備で発生した分銅形土製品の分布(西は九州の奴国から東は大和の唐古・鍵遺跡まで)と共通しています。
大和建国神話は初代神武天皇の祖先の紹介が主体で、2つの神話は全く異種のものです。2つの異種のストーリーをつなげる役割を果たしているのが、出雲の国譲り神話です。前述したように、出雲の国譲りは、3世紀末の崇神天皇による西出雲の神門王国の征服が直接の素材ですが、皇孫ホノニニギの天下り、サルタヒコの出迎え、出雲の国譲りの順序を逆にすることで、2つの異なるストーリーを接着する細工をしています。
同様の細工として、太陽神オオヒルメと神武天皇の祖神アマテラスが合体されて「アマテラスオオヒルメとなり、アメノウズメとサルメ(猿女)も合体します。五男神は元々は中国山地の神々でしたが、ホノニニギの父神アメノオシホミミと日向から神武兄弟に伴った従者の子孫で大和の日本統一に貢献した氏族(アメノホヒ、アマツヒコネ、イクツヒコネ、クマノクスビ)に交換されます。
天石戸に隠れこんだオオヒルメを地上に呼び戻す儀式で登場する中臣・忌部系の五神(アメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマノオヤ)が、五伴緒としてホノニニギ降臨のお供となることは、吉備・讃岐・阿波が大和に帰順したことを示しています。
出雲の国譲りは出雲だけでなく、日本海側の出雲オオクニヌシ文化圏と関東地方に移住した出雲人に対して、オオクニヌシが大和に国譲りしたことを告知するメッセージです。このメッセージを通じて、出雲圏に属す民の大和政権に対する不満や反乱をおさえこむ意図があります。
5.トヨキイリヒコ・中臣氏と尾張氏・阿倍氏の対立
関東平野の南部も勢力下に入り、東山道と黒潮ルートに加えて東海道が開通したことから、朝廷の直轄地である東国(関東地方と東北地方南部)は朝廷の財政を支える地として重要性を増していきます。
崇神天皇は3人の后を持ちます。
―木(紀)国造アラカハトベ(荒河刀辨)の娘トホツアユメマクハシヒメ(遠津年魚目目微比賣)はトヨキイリヒコ(豊木入日子)とトヨスキイリヒメ(豊鉏入比賣)の一男一女、
―尾張氏のオオアマヒメ(意富阿麻比賣)はヤサカノイリヒコ(八坂の入日子)、ヌナキノイリヒメ(沼名木の入比賣)など二男二女、
―オオビコ(大毘古)の娘ミマツヒメ(御眞津比賣)はイクメイリビコイサチ(伊玖米入日子伊沙知。垂仁天皇)など三男三女を生みます。
治世48年、崇神天皇はイクメイリビコイサチを跡継ぎの皇太子、腹違いの兄トヨキイリヒコを東国の統率者と決めました。トヨキイリヒコの母は紀伊国造家の出身ですから、イクメイリビコイサチの母よりも身分が低く、穏当な選択と言えます。
東国に移住したトヨキイリヒコは下野の宇都宮に拠点を置いて、東国を統括するようになりますが、東国の利権を巡って、阿倍氏・尾張氏とトヨキイリヒコ一族との対立が強くなっていきます。
阿倍氏は四道将軍として、オオビコが北陸から、息子が東山道から会津に至る街道を進軍したいきさつから、東国の利権は自分たちのものと見なしていました。尾張、丹波と北陸地方に勢力を張る尾張氏も阿倍氏よりも先に房総半島に進出した自負がありました。
これに対し、東国に拠点を置いたトヨキイリヒコは意富氏、復権した中臣氏、アマツヒコネ族・アマノユツヒコ族、新たに東国に移住してきた出雲人を取り込んでいくと、阿倍氏・尾張氏に対抗しうる一大勢力となります。
6.伊勢神宮の建立(大和支配体制の象徴)
伊勢神宮の成立については、伊勢地方に元々から太陽信仰があった、など諸説紛々としていますが、阿倍氏・尾張氏とトヨキイリヒコ・中臣氏・意富氏の対立の構図の中で誕生した、とするのが自説です。東国は大和王室の直轄地として、王室を支える財政的な基盤です。そこを押さえることが垂仁天皇体制を支える阿倍氏と尾張氏の政治的な狙いとなります。
アマテラスの斎宮となっていたトヨキイリヒコの妹トヨスキイリヒメはアマテラスを祀る場所を探して、紀伊の奈久佐浜宮、吉備の名方浜宮、丹波の与佐宮と西日本を巡りますが、垂仁25年に、アマテラスの斎宮は垂仁天皇の皇女ヤマトヒメに引き継がれます。ヤマトヒメは大和から伊賀、近江(米原付近)、美濃、伊勢と巡りますが、この地域は安倍氏と尾張氏の領域にあたります。着目する点はいずれも東国へ進む東山道と東海道の入り口に相当することです。ヤマトヒメは最後は東海への入り口に当たる桑名に着きますが、富士山麓の開通工事がまだ完遂していなかったこともあってか、さらに伊勢国を下っていきました。
ヤマトヒメはアマテラスを祀る場所として、東国統括の海路での出発点に位置し、太平洋から朝日が昇る伊勢の五十鈴川を選びますが、背景には阿倍氏と尾張氏の意向があります。平安時代に編纂された延喜式で規定された「神宮」は伊勢神宮、東国への入り口に位置する常陸国の鹿島神宮と下総国の香取神宮の3社しかなかったことも、東国統括が大和朝廷にとって重大であったことが分かります。伊勢神宮は大和国が東西倭国の統合を初めて達成した記念碑的な存在、日本国誕生の象徴である、と言うこともできます。
伊勢神宮と結びつきが深い氏族に渡会(わたらい)氏がいます。渡会氏は伊勢神宮外宮の豊受大神宮の禰宜家ですが、祖である大若子(おおわくご)は垂仁天皇の時代に越国の賊を退治し、その封地を伊勢神宮に寄進し、その見代わりで伊勢国造になり、弟が伊勢神宮の神主になります。渡会氏は尾張氏系で、丹波と丹後の境にある元伊勢籠神社の海部氏も尾張系です。垂仁朝から百数十年後の雄略天皇の時代に、元伊勢籠神社に祀られていたトヨウケが外宮に迎えられることも、尾張氏との結びつきの強さを語っていると言えます。
―大和の日本統一に関わった氏族― 完
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