「邪馬台国の卑弥呼の鬼道は神道にすぎず、倭国に対する魏と西晋の視点も異なる」

 

【鬼道は神道のこと】

 

三国志の魏志倭人伝の一文に、ヒミコは「鬼道につかえ、能く衆を惑わす」との箇所があります。

この一節を鵜吞みにして「邪馬台国は神秘的な摩訶不思議な国であった」「ヒミコは幻術師であった」などと思い込み、ここから邪馬台国論争に進む方々がまだまだ多いようですが、何のことはありません。魏の支配下にあった帯方郡の役人か軍人が神道の儀式の一つである「神の託宣」を垣間見るか伝え聞いて、中国のいわゆる「鬼道」に相当するものと解釈したにすぎません。

能く衆を惑わす」とは「神意を受けたヒミコの言葉に周囲の者が驚き、動揺した」といった意味合いです。

  (参照)古代ギリシャの、主にアポロンの神託を受けるシピュラ(巫女みこ)との類似。

 

(神の託宣儀式。古事記の仲哀天皇記の例)

その大后息長(おきなが)帯日売(たらしひめ)は、その神をよせたまひき(神霊を招きよせて、神意を受けられた)。

故、(仲哀)天皇、筑紫の香椎宮に座しまして、熊曽国を撃たむとしたまひし時、天皇、御琴をひかして、建内宿禰大臣、沙庭(さにわ。忌み清めた祭場。そこにいて託宣を請う人をも「サニワ=審神者」と言った)にいて、神の命を請ひき。

 ここに、大后をよせたまひて、言(こと)教へさとし詔りたまひしく、「西の方に国有り。金銀を本として、眼の輝く種々(くさぐさ)の珍しき寶、さはにその国にあり。吾、その国をよせたまはむ」。

 

 

【倭国に対する魏と西晋の視点の相違】

 ――魏が残した倭国報告書を三国志の編纂チームが加筆・手直しをした箇所――

 

留意しなければならない点は、魏・蜀(漢)・呉の三国時代の魏の倭国に対する視線と、朝鮮半島や倭国の動静よりも、中国全土の統一を優先した西晋の視線は全く異なっていることです。

魏は晋の司馬炎(武帝)の手で滅亡し、西晋の時代(265年~316)が始まりますが、開始直後の266にトヨが西晋に朝貢して、三国志の魏志倭人伝は終了します。

 陳寿が三国志を編纂したのは280年~289(武帝の在位は265年~290年)と推定されていますが、266年から280までの倭国に関する記載がないのは、なぜでしょうか。

その理由として、以下の二点を考えます。

  魏を破った西晋は、中国全土の統一に全力を注いだため、朝鮮半島の南の倭国には無関心だった、

  倭国で何らかの出来事が生じ、トヨ政権が消滅したことから倭国からの朝貢が途絶えてしまったし、西晋も倭国に無関心だった。

自説では、「女王トヨの邪馬台国が大和狗奴国(葛国)に敗れ、倭国(西日本)の盟主の座が吉備から大和に移行した」となります。大和朝廷は国内統一が最優先で、国外の動向にはさほど関心を持たずにいました。ヒミコ・トヨの邪馬台国を援けた魏は敵側でしたし、魏が西晋に敗れて消滅したことも承知していなかった、とも考えられます。

 

 

(三国志の編纂と魏志倭人伝)

 

 三国志の編纂作業は、西晋が呉を破って、念願としていた中国統一を達成したと同じ280年に始まります。編纂チームはさほど倭国の動向には関心を持っていませんでしたが、西晋が成立した265年の翌年にトヨが即座に朝貢したことは、西晋の威光を誇示する証しにもなる、といった理由もあって、一章を設けることにしました。

 

 編纂に向けた史料は魏時代の帯方郡の役所が書き残したものでした。編纂場所は帯方郡から距離的に遠く離れている洛陽でしたが、編纂チームの誰かが、魏の史料を読んで行くうちに、

「(末盧国の人は)好んで魚鰒を捕らえ、水深浅となく、皆沈没してこれを取る」

「男子は大小となく、皆黥面文身す。古より以来、その使いの中国に詣るもの、皆、大夫と自称す。夏(の時代の)后少康の子、会稽に封ぜられしに、断髪文身し、もって蛟竜の害を避けき。今、倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕う。文身はまたもって大魚水禽を厭わしめしも、後にいささかもって飾りとなすなり」

の箇所を読んで、「倭国は洛陽がある黄河流域とは異なる、南東の越文化圏に位置する」と判断しました。これにより、「倭国は会稽(紹興市)から東の海上にある沖縄諸島である」と特定して、「その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし(あるはずだ)」と加筆しました。「夏后少康の子」の一文もその際の挿入だった、とも考えられます。武帝が会稽も含む呉を吸収して、全国統一を達成した勢いを鼓舞する意図もあったのではないか、と解釈することもできます。

さらにこの判断に添って、原文にあった「不弥国のに投馬国」「投馬国のに邪馬台国」を「不弥国のに投馬国」「投馬国のに邪馬台国」と書き直しました。

 

 この校正というか加筆・書き直しにより、「邪馬台国は神秘的な摩訶不思議な国であった」「ヒミコは幻術師であった」といったイメージに加えて、江戸時代の新井白石以来、三世紀以上に及ぶ「邪馬台国の所在地論争」が続いてしまうことになりました。

 

 いずれにせよ、魏志倭人伝を過大評価、絶対視するのは誤りですし、邪馬台国を「神秘な国」と捉えるのは沼にはまり込んでしまうだけです。倭国に対する視点は、魏と西晋とでは大きな違いがあったことを念頭にしながら、魏志倭人伝を読み込んでいく必要があります。