その35.若菜 下
1.柏木、煩悶の結果、山桜上(第三王女)のペルシャ猫を入手撫育 ヒカル 四十歳
ドニーズが返信で書いてきたことは「理に適っている」と柏木は思うものの、「嫌味なことを言うものだ。いやしかし、お付きの侍女のこんな通り一遍の受け答えを慰めにして、どうして過ごしていけようか。こうした者を介してではなく、本人と一言でも話を交し合える時があるだろうか」と思うにつけても、常日頃、「もったいないほど立派なお方だ」と尊重しているヒカルに対して、大それたけしからぬ気持ちを抱くようになりました。
四月が終わる日に、数多くの人たちがヴィランドリー城を訪ねて来ました。柏木は何となく気が進まず、落ち着かない気分でしたが、「あの恋しい人がおられる辺りの花でも見れば、気持ちが慰むだろう」と思い直して出掛けてみました。王宮で毎年二月に物品を賭けて催される弓の競射会が中止となって残念に思っていた人たちも、「ヴィランドリー城でそうした催しがあるらしい」と伝え聞いて、例のように集まっていました。近衛府のヒゲ黒左大将と夕霧右大将がヒカルの養女の婿と息子といった身内の関係で出席していたので、近衛府の中将・少将が競い合う小弓会が予定されていましたが、大弓に勝れた歩兵も参加していたことから、呼び出してその腕前を披露させました。
王宮勤めの役人の中で弓が達者な者が皆、前組・後組の奇数と偶数の二組に組み分けされて競い合ううちに、日が暮れて行きました。四月の終りの日らしい霞の気配も、気ぜわしく乱れ吹く夕風に、(歌)春を思う時は 今日限りと考えると この花蔭を立ち去りにくい といったように、人々は立ち去りにくく感じながら、酔い過ごしをしてしまいます。
粋で洒落た賞品の数々から、提供したあちらこちらの婦人方の趣味を窺えますが、「柳の葉でも百発百中させてしまう下級役人が我が物顔で射止めてしまうのは面白くない。少し雑な腕前の者でも挑んでみよう」と二人の大将を始めとして場内に下りていきますが、衛門督の柏木だけは他の人とは違って、目立って物思いに耽っているのを、事情を薄々承知している夕霧の眼に止まりました。
「やはり、ひどく様子が変だ。何か厄介なことが起きてしまうのではないか」と自分までもが物思いの種を背負ってしまった気がしました。
柏木と夕霧は格別の仲良しでした。柏木が夕霧の義兄で従兄弟同士というだけでなく、気心を打ち明け合える親密さでしたから、柏木が物思わしげに気が紛れそうでもないのを気の毒に感じました。柏木自身は、ヒカルを面前に見ると何より恐ろしく、目を伏せたくなるような感じがして、「こんな気持ちを抱いてよいものなのか。どうでもよいことですら人から非難されてしまうような、けしからぬ振る舞いはしまいと思っているのだが。まして身のほど知らずな大それたことを」と思い悩んだ末に、「せめて、あの時目撃した小猫でも手に入れてみたい。切ない胸の内を小猫に打ち明けることはできないものの、独り寝の寂しさを慰めるためにも、てなづけてみたい」と思いつくと、物狂おしい気持ちになって、「どうしたら小猫を盗み出せるだろうか」と思案するものの、それすら難しいことでした。
そこで、四方山話などをして気を紛らわせてみようと、王宮の妹アンジェリク貴婦人の間を尋ねました。ところがアンジェリクは気後れがしてしまうような応対をして、部屋の奥に引き込んだまま、直に対面をしないままでした。
「兄妹の間柄ですら、こうやって距離を置いているのだから、山桜上が不用意にせよ姿を見せたことは尋常ではなかったことなのだ」とさすがに気付いたものの、真底恋心に染まってしまった心では縁が浅いできごとであったとは思えません。
その後、柏木は安梨王太子の住まいを訪れました。
「腹違いの兄妹ではあるにせよ、定めし似通っているところがあるのではないか」と柏木は目をこらして王太子を注視しました。輝くほどの美しい容貌とは言えませんが、さすがに高貴な様子は普通とは違っていて、上品で優雅な顔をしていました。王宮で飼われている猫がたくさんの仔を産んで、あちこちにもらわれていき、王太子もその一匹を引き取っていました。その仔猫がとても可愛げに動きまわっているのを見て、柏木は山桜上の小猫を真っ先に思い出しました。
「ヴィランドリー城の山桜上が飼われておられる猫こそ、あまり見かけない珍しい顔をしていて、可愛らしげでした。ちらっと見ただけですが」と王太子に話すと、王太子は大変な猫好きでしたから、詳しく尋ねました。
「あの小猫はペルシャ猫ですから、こちらの猫とは種類が違います。同じようなものですが、性質が愛らしく、人にも馴れやすくて妙に心が引かれます」などと、柏木は王太子が欲しくなるように巧みに説明しました。
柏木の話を忘れずにいた王太子はサン・ブリュー貴婦人を仲介して、妹の山桜上に所望したので、小猫は王太子に引き取られました。
「なるほど大層可愛らしげな猫ですこと」と侍女たちが興じていましたが、「猫好きの王太子だから、あの小猫をきっともらい受けることだろう」と察していた柏木は、少し日が経ってから、王太子の住まいへ行きました。子供の時分から朱雀院がとりわけ眼をかけて召し使っていましたから、朱雀院が修道院に入った後は、王太子の住まいを親しく訪れても不自然ではありません。
柏木はハープなどを指導するついでに「猫がたくさん集まっているが、さて、私が見た小猫はどこだろう」と見つけ出しました。可愛くてたまらない気がして、掻き撫でてしまいます。
「確かに愛らしい恰好をしている。気立てがまだなつきにくいのは、人見知りをしているのだろうか。とは言っても、私のところにいる猫たちもそう見劣りはしないよ」と安梨王太子が話しますので、「猫というものは普通、そのような人見知りはしないものです。もっとも利発な猫は自然と思慮判別がつくのかもしれませんが」などと答えた後、「この小猫より勝っている猫がこちらには何匹もいるようですから、しばらくこの小猫は私が預かせていただくことにいたしましょう」と申し入れました。もちろん、心中では「強引でさしでがましいが」という気はしていましたが。
とうとうこの小猫を手に入れて、柏木は夜も近くに寝かせました。夜が明けると、大切に世話を焼いて、撫でたりしながら飼いならしました。初めは人見知りをしていましたが、次第によくなついていって、ともすると服の裾にまつわりついたり、寄り添って寝たりするので、心から可愛いやつと思います。物思いをしながら横になっていると、寄って来て「寝よう、寝ようとばかり、ニャーニャー」と可愛げに鳴くので、掻き撫でながら、「いやに愛撫を催促する小猫だ」と思わず苦笑してしまいました。
(歌)恋わびている人のよすがと思って 飼い馴らしているが お前はどういうつもりで
そんな声で鳴き声をたてるのだろう
「これも昔からの縁があったからだろうか」と小猫を見ながら話しますと、ますます愛らしく鳴くので、懐中に入れて物思いに耽りました。
柏木に仕える侍女たちは、「どうしたわけか、急に猫を寵愛なさるようになられた。こういったものには無関心でおられたのに」と訝しんでいました。柏木は王太子から返却の催促があっても、手元から放さずに話し相手にしていました。
2.蛍兵部卿、真木柱を娶ったものの疎遠の仲に
ヒゲ黒左大将の正夫人である玉鬘は、腹違いの兄弟である太政大臣の息子たちよりも、夕霧右大将を以前通りに親しく感じていました。玉鬘は心遣いが利発で、親しみやすい女性ですから、夕霧と対面した時も、親身に他人行儀をする気配もなく振る舞うので、腹違いの妹サン・ブリュー貴婦人などが他人行儀で、近づきがたい態度をするのが心外なので、玉鬘とは一風変わった姉弟のような親密さで付き合っています。
ヒゲ黒は以前にも増して、あの元正妻との関係はすっかり縁が切れていて、肩を並べる者がいないほど玉鬘を大切に扱っています。玉鬘が産んだ子供は男子ばかりなのが物足りなく、ヒゲ黒はあの真木柱を引き取って、大事に世話をしたいのですが、祖父の式部卿などがそれを許すはずはなく、「せめてこの姫君だけは世間の物笑いにならないように世話をしよう」と公言していました。当人の真木柱にとっても、玉鬘は母の幸せを奪った、憎むべき女性でしかありませんでしたから、玉鬘に引き取られて世話になる気持ちなど、もうとうもありませんでした。三十数年後の宗教戦争の中で、この二人が国家の行方を決めるライバル関係になろうとは、誰が予測したでしょう。
式部卿は冷泉王の母の実兄であり、娘の一人は王さまの貴婦人として王宮に上がっていることから、王宮でも格別な人として大事に扱い、冷泉王も卿に対する信頼は比類がないほどですから、式部卿が「これこれ」と奏上することを断ることもできずに、一目置いていました。式部卿は何事も派手好みの性格でしたが、ヒカルと太政大臣アントワンに次いで、人々も多く参上して仕えていますから、世間の人々も重く見なしていました。加えて黒ヒゲも左大将として、将来の重鎮となるべき地位にいましたから、真木柱を軽んじる者がどうしておりましょうか。
何かにつけて、真木柱との縁組を申し入れる人々が多いのですが、決定するまでには至っていません。式部卿は柏木に、「結婚の気持ちを匂わしてくれたなら」と望んでいるようですが、当の柏木は結婚など猫ほどには思っていないのか、真木柱との結婚など思いも寄らないようなので、残念がっていました。
真木柱は実母が今も普通とは違ってまともではなく、常人の暮らしぶりでなく廃人同様になっているのを口惜しく思っていましたから、割り切って継母の玉鬘を慕ってみようか、という現代っ子らしい打算を抱くこともありました。
蛍兵部卿はいまだに再婚相手が見つからず、独り身でした。意中にあった玉鬘などを逃してしまい、世の中が味気なく、世間の物笑いになっていると思いながら、「そうと言っても、このまま甘んじているわけにもいかない」と真木柱に気配をほのめかしてみました。すると式部卿は「それは結構なことだ。大切に思っている孫娘なのだから、王さまの貴婦人として王宮に上げる次に、親王たちにこそ娶せるべきである。当節の人が、臣下の身分で、真面目で無難な男ばかりを有難がるのは品のない考え方だ」と語って、蛍兵部卿をそう大して焦らすこともせずに、申し入れを承諾しました。
「あまり口説き甲斐もなく進んだのが物足りない」と蛍兵部卿は感じたものの、何と言っても式部卿を侮辱することも、あれこれ言い逃れすることもできずに、式部卿のヴィルサヴァン城へ通って行くようになりましたが、式部卿たちは丁重にもてなしました。
「幾人かの娘をもうけて、色々と嘆く折々が多かったから、いい加減懲りてもよいものだが、やはりこの孫娘のことは放っておくことができない。母親が奇妙な変人に年とともになって行っている。それに加えて父親のヒゲ黒大将は『自分の言う通りにしないから』といい加減に見放してしまっているようだから、本当に可哀想だ」と式部卿は言いながら、真木柱の部屋の飾りつけやちょっとしたことなども、自分で采配しながら、もったいなくも何から何まで入念にしてあげました。
ところが婿になった蛍兵部卿は亡くなった正妻をいつまでも恋い慕っていて、「亡き妻の面影に似通った人を妻にしたい」と単純に考えていました。「真木柱も悪くはないが、何か感じが違っている」と、それが残念なのか、ヴィルサヴァン城へ通うのが億劫になったようでした。
「何とも心外なことだ」と式部卿は嘆きます。あれほどまともでなくなっている母親も正気に戻っている時は、「口惜しい嫌な世の中だ」とこぼしていました。父親のヒゲ黒大将も「やはりそうであったか。あの親王は浮気っぽいことでもあるし」と、当初から二人の結婚に同意していないこともあって、不快に感じていました。
女官長である玉鬘も、こうした頼りがいのない様子を身近に聞くにつけ、「私が蛍兵部卿と結婚して、同じような目にあっていたら、養父のヒカル様も実父のアントワン様も、どんなに思い煩ったことだろう」と何となくおかしくも、また懐かしくも思い出していました。
「あの時分でも、打ち解けて親しくしようとは思い寄らなかった。ただいかにも思いやりがあって、情愛が深い言葉をかけてくださった。仕方なく黒ヒゲに縁づいてしまったので、軽薄な女のようだ、とさげすんだのではないか」と、あれ以来、とても恥ずかしく思い続けていましたから、「継娘がそんな経緯を聞いてしまうのが気掛かりだ」と心配していました。
それでも継母として、しかるべき世話をしてあげました。夫婦の仲が疎遠なことなど知らぬ顔をして、真木柱の兄たちを介して、継娘は悪くはないように伝えたりしますので、蛍兵部卿も心苦しく感じて、真木柱を見捨てる気持ちはありません。
ただ例の口やかましい式部卿夫人がいつものように許すことなく、恨み言を止めずにいました。
「王族の親王がたというものは、おとなしく浮気などせずに、一人の夫人をいとしがってこそ、華やかさはないものの、気楽に暮らせていけると考えているべきだ」と陰口を言っているのを蛍兵部卿も漏れ聞きました。
「何とまあ、聞き捨てならないことを。かって最愛の妻がいた時でも、やはりちょっとした浮気ごとは絶やすことはなかった。こんな手厳しい恨み言など、別段面白くもない」と気に入りません。なおさら、亡き妻と過ごした昔を恋しく思って、自邸のル・リュード城に引き籠って、物思いに沈んでいました。
そうは言いつつも、縁が結ばれてから二年ばかりが経過すると、そういった疎遠な関係にも馴れて、ただそれだけの淡い関係の夫婦として過ごすようになりました。
3.四英傑の揃い踏み。白菊と三十五年ぶりの再会。 ヒカル 四十歳~四十五歳
(白菊とヒカルのカンブレイ和平と白菊の死)
夕霧や柏木たちがヴィランドリー城で球蹴りに興じていた四月、オランダの白菊総督からヒカル宛てに密書が届きました。時候の挨拶、ロッテルダムの尊師など西ヨーロッパの主要なユマニストの動向などが長文で書かれていましたが、最後に「そろそろ貴国との戦争を終わらせなければ」と走り書きのように書かれていました。
ヒカルは白菊の真意を読み取ることもできず、読み流していましたが、翌月五月に入って、オスマン・トルコのスレイマン一世軍が、ハンガリー侵攻に向けてコンスタンチノープルを出発した報を知って、白菊総督が神聖ローマ帝国とフランスとの和平交渉を進めたい意図に気付きました。早速、冷泉王と太政大臣アントワンに内密で白菊総督の意向を伝えましたが、王宮内では昨年下半期のナポリとジェノヴァ撤退の雪辱を期して、ミラノ公国奪還をめざす動きが進行していたことから、「その成り行きを見定めるまで保留にしておこう」との結論となりました。
イタリア再進出を目論んだフランス軍は、ミラノを直前にしたランドリアノ(Landriano)戦で六月二十一日に敗退した報が王宮に入り、交戦派は意気消沈してしまいましたが、その間隙をつく形で、冷泉王と太政大臣の了承を得て、ヒカルは和平をめぐる具体的な折衝を白菊総督と始めました。スレイマン一世軍が七月二十日にハンガリー入りしたことから、「帝国側が焦り出して、フランス側に好都合な条件を引き出せそうだ」と外交筋も和平に前向きになったこともあって、カール五世と冷泉王は出席せずに、白菊総督と太政准王としてのヒカルを代表とした和平会議が、八月五日にフランスと国境を接するフランドル地方のカンブレイで開催されることが決まりました。
「振り返ってみると、白菊との再会は四歳の時以来、三十六年ぶりのことになる。四歳時の記憶はうっすらとしたものだが、白菊との別れを悲しんで泣きじゃくったことは、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている」と、カンブレイに向かう馬車の中でムーラン太公妃の邸で見た、憂い顔の白菊の少女時代の肖像画を思い浮かべていました。
迎賓館でヒカルを迎えた白菊総督はオランダ総督としての凛とした貫禄をかもし出しながら、王家の貴賓さとあふれ出る知性を合わせ持っていました。とても五十歳手前の婦人とは思えない若々しさでした。近づくと、白菊が放つ香りにはっと息をのみました。
「確か、サン・マロで受け取った手紙からも同じ香りが漂っていたが、幼い頃から無意識に探し求めていた匂いの持ち主は白菊だったのだ。自分の青春時代の恋の遍歴は、亡き母ではなく、この女性の面影を追い求めてのことだったのだ。だからこそ、白菊とほぼ同年齢のメイヤン夫人に惹かれてしまったのだ」ととっさに悟りました。
動揺した表情を隠せないままのヒカルに向けて、にこやかな表情ながらも、「相変わらず女漁りがお盛んなようですね」と上品なフランス語で開口一番に皮肉を言われて、先手を取られてしまったようでした。少女時代に将来のフランス国女王の座から引きづり下ろされて母国のフランドルに戻った後、スペイン王家に嫁入りしたものの、夫君の若死にと死産、再婚したサヴォワ公の急死、カール五世を筆頭にした甥と姪の養育と、辛酸を乗り越えて来た白菊はヒカルより一枚も二枚も上手であることを、ヒカルは認めざるをえませんでした。
ユニコーン(一角獣)を題材にしたフランドル製のタピストリーが飾られた瀟洒なサロンに招き入れられた後、「総督から漂って来る芳香に我が身が縛られてしまう思いです。不遇な身に落ちてサン・マロに流れた頃、励ましのお手紙をいただきましたが、その便箋からも同じ香りをしていたことを思い出しましたし、どういうわけか私の幼い頃から、馴れ親しんだ思いもします」。
「私が愛用している香水は幼い時分に他界した母が残してくれたもので、子供の頃から常用しています。フランスに滞在していた頃も、もちろん身に着けておりました。製法は秘伝ですが、これをつけていると、母がいつも私を見守ってくれている思いがします」。
「それにしても、理由は分かりませんが総督は私の動静をよくご存じのようですね。私がメヘレンに送った使いも総督が私の動静を詳しく承知されていることに驚いておりました。王城に貴女かカール五世のスパイが忍び込んでいるのではないか、と疑心暗鬼にもなりました」。
「種明かしをしますと、私がフランス王国の王妃候補の座を奪われた後、貴方と一緒に過ごしていましたが、貴方のヴァンドームの乳母が親身に支えてくれました。乳母は貴方と私の結婚を望んでいました。その願いは父皇帝の拒絶で実現はしませんでしたが、私がフランスを離れた後も、手紙でのやり取りが続きました。いつも貴方の動向を知らせてくれましたが、『恋愛事に奔放すぎる』と嘆かれていましたよ。乳母の亡くなった後は、息子の司祭さんが引き継いでくれました。ユマニストの方でしたから、時々、本人かお弟子さんがユマニストの国際会合でメヘレンにやって来たりもしました」。
会談は順調に進み、フランス側はフランドルとアルトワの宗主権とイタリア侵攻を断念すること、帝国側はブルゴーニュ・フランドル公国の発祥地であるブルゴーニュとオセール、マコンを断念することでまとまり、無事に約三年間続いた第二次戦役の幕が下ろされました。
晩餐会の後、あてがわれた部屋に戻ったヒカルが就寝しようとすると、書棚に仕掛けられた隠しドアがそっと開いて、灯りを手にした白菊が入って来ました。
「今夜はゆっくり語り合いましょう」。
白菊に手を取られながら、秘密の通路を通って白菊の寝室に入ったヒカルは、誘われるままベッドで共寝をしつつ、一晩を過ごしました。白菊の肌のぬくろみに安らぎを感じながら、初老を迎えた歳になって、少年の頃から追い求めていた面影の女性と添い寝をするなど、夢想だにしなかったことです。
「二人が結婚していたなら、どんな運命になっていたのだろう」。
「貴方の女癖の悪さに狂い死にをして、物の怪に化けてまとわりついていたかもしれませんよ」と白雪は冗談まじりに返しましたが、「まさかメイヤン夫人の物の怪まで承知しているのでは」とヒカルをヒヤッとさせました。
たった一夜の出逢いでは物足りなさを痛感しながら、次回の出逢いはヒカルがメヘレンへ行き、白菊自慢の蔵書と美術品コレクションを鑑賞する約束してロワールに戻りました。
カンブレイ和平の一か月後の九月八日、スレイマン一世軍はハンガリーのブダ(Buda)を占領し、トランスシルヴァニアの領主サポヤイ(Jean Zapolya)をハンガリー王に任命した後、オーストリア王国の首都ウイーンに向けて進軍し、九月二十七日から十月十四日までの間、ウイーンの目前に陣地をはりました。
白菊は急使を派遣して、ヒカルに援けを求めました。ヒカルはアントワンに相談して、ヒヤシンスの人脈を活用して、オスマン・トルコの後方を攪乱する作戦を思いつきました。
「まさに私にしかできない出番が到来した」とヒヤシンスは大はしゃぎしながら、オスマン・トルコのあちこちの知人に「ウイーンではペストが大流行していて、おまけに冬場の雪と寒さは過酷すぎる」とのデマを流しました。ヒヤシンスの奮闘が功を奏したか否かは定かではないものの、長雨が続いたこともあって、スレイマン一世軍は退却して行きました。
「私の活躍ぶりはまんざらでもないでしょう」と有頂天になったヒヤシンスは、「この功績を認めて、念願の女官長に推薦してください」と父のアントワンを攻め苦しめました。
年が明けて、ヒカルはもたもたしながらも、メヘレン行きの準備を進めましたが、いざ出発という矢先に、白菊総督が病に臥した知らせが入りました。総督の侍女が不注意で割ってしまったワイングラスの破片が白菊の脚に深く突き刺さり、運悪く体内に残ってしまった破片から悪化して壊疽(えそ)になり、脚を切断せざるを得ない羽目に陥ってしまいました。
白菊は切断の覚悟を固めて病床に横たわったものの、麻酔薬の過剰投与で、あっけなく十二月一日に命をたってしまいました。遺体は二度目の夫であるサヴォワ公を偲んで、ブルゴーニュ地方のブール・アン・ブレス(Bourg en Bresse)に自分自身で建立したブルー(Brou)修道院に埋葬されました。
白菊を継ぐオランダ提督には、カール五世などと共に白菊が育て上げた姪の、マリー前ハンガリー女王が決まりました。白菊の死から四か月後、マリーは兄カール五世とオランダを訪れ、ブリュッセルにオランダ宮廷と統括本部を置いたことから、オランダの首都はメヘレンからブリュッセルに移行することになりました。次第にスペインの官僚制度が導入されていき、ブルゴーニュ・フランドル公国は白菊で終焉したことが明白となったことから、公国時代をなつかしむ人々は動揺と戸惑いを隠せないでいました。
(神聖ローマ帝国のカール五世皇帝がイタリア半島を掌握)
カンブレイ和平を叔母の白菊総督に一任して出席しなかったカール五世は、叔母と密な連絡をとりながら、二年前のローマ虐殺で国際的な批判を浴びたイタリアでの勢力の立て直しを進めていました。
フランス軍がミラノ近郊のランドリアノで敗北し、イタリア再進出の目論見が挫折した八日後の六月二十九日、カール五世はメディチ家出自のローマ教皇とスペインのバルセロナで秘密条約を締結しました。教皇はカール五世のナポリ王国支配を容認する一方、カール五世はメディチ家のフィレンツェ復帰の支援を約束しました。
八月のカンブレイ和平の締結により、フランス王国との第二次戦役が終了したことを受けて、カール五世はイタリア北部の主要国の掌握を進めました。まず八月十二日にジェノヴァを訪れて、ジェノヴァ共和国の独立を保証しました。続いて十一月五日にイタリアのボーローニュで教皇と会見して、ローマ虐殺の後遺症の消却を試みながら、ミラノ公国を帝国の封地としつつ、本来の統治者であるスフォルツア(Sforza)公家を復帰させました。翌年二月にカール五世は念願の神聖ローマ皇帝戴冠式をボーローニュで実現しました。
カール五世はイタリア北部で最後に残る大国フィレンツェ共和国の掌握を進めました。十一か月間、封地としてフィレンツェ国内を整理した後、メディチ家を共和国の統治家に推し、新憲法を発効してメディチ家を正式に共和国継承の公家としました。
イタリア南部のナポリ王国、北部のジェノヴァ共和国、ミラノ公国とフィレンツェ共和国を傀儡国として固めたカール五世は、アフリカ沿岸を西進するオスマン・トルコ軍に対抗すべく、地中海戦略に本腰を入れていきました。
(ローマ教皇対スイス、ドイツのプロテスタント勢力)
イタリア半島をほぼ手中にし、地中海から新大陸へと支配地を拡大していくカール五世にとって頭痛の種はドイツのプロテスタント諸侯の存在でした。神聖ローマ帝国の盟主であるカール五世はいずれも根強いカトリックであるオーストリア王国とスペイン王国を基盤としていますから、いかにドイツのプロテスタント諸侯を手なずけていくかが、課題となっていました。
十数年前にマルチン・ルターが「95か条の声明」を公表した翌年に、ツウィングリ(Zwingli)がスイスで宗教改革を提唱した後、その影響はドイツや北欧諸国に波及して行きました。
ドイツでは北東部ザクセン(Saxe)、中部ヘッセン(Hesse)、南東部ババリア(Baviere)の三地方を中心にルター派の勢力が伸張して行きました。スレイマン一世が率いるオスマン・トルコ軍のウイーン侵攻の脅威が去った後、オーストリア・ドイツの統括を託されているカール五世の弟フェルディナンド一世は「アウグスブルグの議定書(Recès)」を準備して、プロテスタント派の六諸侯と十四都市への圧力を強めましたが、これに対抗して、プロテスタント派は「シュマルカルデン・リーグ(La Ligue de Schmalkaleden)」を結成しました。次いでドイツの自由を守る戦争の費用の三分の一をフランスが負担する「シェイエルン(Secheyern)条約(Traité)」をフランス王国と結ぶなど、カール五世兄弟とプロテスタント派の確執はくすぶり続けていきました。
(イングランド王の離婚劇とローマ教皇との反目)
イングランドとローマ教皇の対立は、王さまの離婚劇という、誰もが予想だにしなかった成り行きから始まりました。ヒカルと白菊のカンブレイ和平に向けた話し合いが進みだした最中、イングランド国王ヘンリー八世とローマ教皇の対立が表面化しました。原因はヘンリー八世の兄が他界した後、ヘンリー八世と再婚した、スペイン王家出自でカール五世の叔母でもあるキャスリン・ダラゴン(Catherine d’Aragon)との婚姻は、「実兄の未亡人との結婚に相当し、旧約聖書の教えにより無効となる」との裁判を始めたことにありました。
ヘンリー八世は離婚成立後に、フランスから帰国後、キャスリン女王の侍女として仕えていた虹バラと結婚する予定、という情報を得た秋好王妃が歓喜したことは申すまでもありません。冷泉王たちも、噂に間違いがなければ、イングランドとフランスの良好な関係をさらに深めることができる、と好意的でした。
ところがキャスリン王妃が離婚を拒否して、ローマ教皇に提訴したことから、話はこじれて行きました。教皇はヘンリー八世の宰相であるウルジー(Wolsey)とイタリア人カンペジオ(Campeggio)の二人の枢機卿を教皇特使に任命して処理を託しましたが、カール五世などからの横やりもあって、離婚調停に失敗してしまいました。立腹したヘンリー八世はウルジーを罷免して、ヒカルが尊敬し親交もあるトーマス・モアを大法官に昇格させ、ウルジーに代わる宰相に抜擢しました。
ヒカルと秋好女王は虹バラへの援護射撃を試みて行きましたが、ヘンリー八世は教皇との断絶を表明して、自らをイングランド国教会の最高位に位置付けてしまいました。これに対し、有能なユマニストで、且つ敬虔なカトリック教徒でもあるモアは、キャスリン・ダラゴンとの離婚を拒むと同時にヘンリー八世の行きすぎを批判して、宰相の座を捨て公的な生活から退いてしまいました。
離婚騒動が始まってから三年が経過した頃、新たなフランス・イングランド連合が締結されることになり、イングランド領のカレーに近いブーロニュ(Boulogne sur Mer)で冷泉王とヘンリー八世の会見が行われることになりました。ヒカルに加えて、「虹バラと再会できるかもしれない」と期待した秋好王妃も同伴しました。ヒカルが虹バラを伴ってロンドン入りして、ハンプトン・コートでヘンリー八世と会見したから六年が経過していました。ヒカルより二歳ほど年下で、四十歳台に入ったヘンリー八世は油が乗り切った精悍さにあふれていましたが、太り過ぎていることが気になりました。
残念なことに虹バラの姿は見えませんでしたが、ヒカルが虹バラとの結婚を祝福すると、教皇対策での協力を要請して来ました。野に下ったモアの動向をヒカルが尋ねると、言葉を濁して話題を変えて、冷泉王に話しかけました。
「まだ子供が生まれないようだが、貴殿はまだ二十代の若さだから、そのうち子宝に恵まれ、跡継ぎも誕生するだろう。私は王女が一人だが、何とか王子が欲しいと願っている」。
「残念ながら、まだ跡継ぎは生まれておりませんが、幸い、安梨王太子に男児が誕生しましたので、我が国はいざとなったとしても問題はありません。貴国はメリー王女に跡を継いでもらえば良いだけの話でしょう」。
「いや、そうなってしまうと、宿敵のカール五世にイングランドを乗っ取られてしまう恐れがある」と吐露したことから、冷泉王やヒカルはイングランド王がフランスと同盟関係を続けたい理由が分かった思いがしました。
その翌年一月、ヘンリー八世は妊娠の兆候を見せ始めた虹バラと極秘に結婚しました。四月にトーマス・モアの後任としてトーマス・クロムウエル(Thomas Cromwell)を大法官と王書記官に任命されました。続いて五月に「キャスリン・ダラゴンとの離婚は無効」との判決がなされて、虹バラとの結婚が宣告され、六月に虹バラの王妃戴冠式が実施されました。激怒したローマ教皇は七月にヘンリー八世の破門を宣言しましたが、これに歯向かう形で、ヘンリー八世はカトリック教会から離別したイングランド国教会を創始しました。こうした経緯で、ルター派に次いで、ローマ教皇とカトリック教会と確執する第二の勢力が登場しました。
九月に入って、虹バラはエリザベス一世を出産しました。その翌年三月、教皇は正式にヘンリー八世の最初の結婚の有効とヘンリー八世を破門を告知しましたが、イングランド議会はヘンリー八世とキャスリンの結婚否定を認証し、メアリー王女は王位継承リストから外されました。
著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata