ロワールのヒカル・ゲンジ
巻1 藤と紫
その1.桐壺(きりつぼ) (ヒカルの誕生は1489年1月)
1.婚約者白菊公女と桐壺愛后への恩寵
ある王さまの時代のことです。王さまは父王の崩御に伴い十三歳で即位しましたが、治世者としてはまだ未熟な年齢でしたから、年長の姉ムーラン(Moulin)公后が夫君のムーラン公(Duc)と摂政役を担いました。
王さまにはすでに四歳の幼い婚約者がおりました。父王が死去する半年前に、ブルゴーニュ・フランドル公国(Duché)から招かれた白菊公女で、ムーラン公后の許で将来のフランス女王を託されながら同じ王宮に暮らしていました。
ブルゴーニュ・フランドル公国はフランス王国から分家した存在でしたが、フランドル公国から迎えた公后が公国の跡取り娘だったことから、本拠地のブルゴーニュ地方に加えて、国際貿易と毛織物産業で栄えるフランドル公国を併合して、イギリスとの百年戦争にあえぐ本家を凌ぐ繁栄を謳歌するようになりました。
ブルゴーニュ・フランドル公国は突進公として名を馳せた白菊公女の祖父の時代に頂点に達しました。突進公はフランドル地方からブルゴーニュ地方を経由して地中海に面するプロヴァンス地方に至る大公国化と神聖ローマ皇帝の座をめざして、プロヴァンス地方を支配下に置くアンジュ(Anjou)公国を果敢に攻め、アンジュ公国だけでなく、本家のフランス王国をも震え上がらせていました。
惜しいことに野望達成を目前にして、突進公はナンシー(Nancy)の戦いであえなく戦死してしまい、ブルゴーニュ・フランドル公国の命運は暗転してしまいました。敵から「狡猾蜘蛛(L'universelle Araignée)と揶揄されるほど、手練手管に長けた王さまの父王は、衰弱したアンジュ公国をすでに吸収していましたが、突進王の死後、ブルゴーニュ地方に攻め込んで占拠した上にフランドル地方にも踏み入れていきました。フランス軍の猛攻に恐れをなした突進公の一人娘で後継ぎのマリー公女は父公が生前に取り交わしていた婚約者であるオーストリア王国のマクシミリアン皇太子を急遽、フランドルに呼び寄せ、フランス軍の攻勢をなんとか食い止めることができました。
ブルゴーニュ・フランドル公国は本拠地のブルゴーニュ地方をフランス王国に奪われたものの、フランドル地方は死守することができました。マリー公女とマクシミリアン公太子は周りがうらやむほど仲睦まじく、フィリップ公子に続いて白菊公女が誕生し、公国の前途に再び光明が射しこんでいました。三人目の子がお腹に宿った時、マリー公女は取り巻きの反対を振り切って、夫君の野鳥狩りに同伴しましたが、乗っていた馬がつまづいたはずみに落馬してしまい、三週間、生死をさまよった後、非業の死をとげてしまいました。マリー公女の遺言により、嫡男フィリップ公子が公位を継承しましたが、公子が十五歳に達するまでは父マクシミリアン公太子が摂政を務めることになりました。しかしオーストリア王国の影響力が強まることを危惧した貴族や大商人たちは公太子に反発し、フランス側と手を組む者もおりました。
公国とフランス王国とのアラス(Arras)での協議により、フランス王国はフィリップ公子を後継ぎとして認める見返りとして、フランス北西部アストラ地方と北東部フランシュ・コンテ地方を手土産として、白菊公女をフランスの王太子の后に迎え入れることを強請しました。ほぼフランス王国に強奪される形で、故郷を発った三歳半の白菊公女は国境でムーラン公后に迎えられ、アンボワーズ王宮に入りました。
ムーラン公后は白菊公女の母親代わりとして、公女が結婚適齢期となる十二歳か十四歳になるまで、手塩をかけてフランス女王たるべき教育を施していきました。
王さまが十六歳になった時、ムーラン公夫妻も同伴して、パリ地方(イール・ド・フランス)の南端にある巡礼地ラルシャン(Larchant)に詣でました。ラルシャンは三世紀のローマ皇帝の王女の難病を治癒して名を馳せた聖人サン・マチュラン(Saint Mathurin)の故地でした。王さまはラルシャンに着く前から熱気味でしたが、サン・マチュランを祀る教会を詣でた晩から、ひどい熱でうなされ、生死の境をさ迷いました。僧侶たちの祈りや専属医者の処方も効果がありません。必死に看病をしたのが、ムーラン公后付きの侍女になったばかりの乙女でした。乙女は毎朝、坂道を上り、丘陵に湧き出る「サン・マチュラン泉」の聖水を汲んで王さまに飲ませました。
一週間ほどして、熱が下り回復しましたが、自分の命を救ってくれた恩人として乙女にぞっこんとなり、アンボワーズ王宮に戻ってしばらくして、乙女を初恋の愛人としたのもごく自然の成り行きでした。それに気付いた姉のムーラン公后も、大人になる筆おろしとして大目に見ていたのですが、一年ほど前に、隣国のブルターニュ公がムーラン公夫妻に反感を抱く国内の反動分子と結束して起こした道化戦争(Guerre Folle)の鎮圧に振り回されている合間に、王さまは乙女を侍女の身分から貴婦人(Grande Dame)に格上げし、「桐の間(桐壺)」を与えました。
王さまのご寵愛を受けるのは私、と思い上っていた貴婦人がたや女官たちは乙女をおとしめたり、妬んだりします。乙女と同格かそれ以下の侍女たちの気持ちもおさまりません。遠征の陣中でそれを知ったムーラン公后が「大事に育てている白菊公女をさしおいて何事ですか」と逆鱗したのも想像にかたくありません。
王さまは朝になく夕になく、しきりに乙女を自室に呼び入れますが、ムーラン公后の激怒を追風にした女官や侍女たちの悪感情や恨みが積み重なるうちに、乙女は心身ともに病みがちになって、実家があるヴァンドーム(Vendôme)に頻繁に戻ります。それを不憫に感じた王さまは、人の謗りも憚らずに、世の例(ためし)とはならない厚遇をして、王宮にほど近いシェール川に面したシュンノンソーの山荘をあてがいました。
さすがに上級貴族や高官なども、無愛想に目をそばだてながら「ここまでご寵愛になられるとは」、「古代ローマもこうした事から世が乱れ、悪くなっていきました」、「この女性が天下の禍の元凶になりましょう」と、クレオパトラの例を引き合いに出すほどになりました。乙女には辛いことばかりが多いのですが、王さまのかたじけないほどのご情愛が類ないほどなことを頼みにして、王宮生活を送っていました。爵位四位の子爵(Vicomte)だった父は亡くなっていましたが、母の未亡人は由緒ある家柄の出自で律儀な方でしたから、今を時めく両親を持つ貴婦人方にひけを取らせないように、いかなる儀式にも行き届いた配慮をしておりました。とは申すものの、とりたてて、はかばかしい後見役がおりませんので、何か事があった折りなどは、頼りにする人がおらず、心細い思いをしておりました。
2.若宮誕生と桐壺愛后へのいじめ
二人の契りは世間の思惑以上に深かったのでしょう、世にもないほど清らかな玉のような男御子が誕生しました。「一刻でも早く御子を見たい」と心もとない王さまは、正規の日数が過ぎると、すぐさま実家から母子を王宮に呼び寄せました。稚児を御覧になると、世にも珍しいほどの美しい顔立ちでした。初めての息子でもありますから、秘蔵っ子として寵愛します。
女君は身分としては上宮に仕える貴婦人の分際ではありませんでした。子爵の身分の娘は女官・侍女としては上級に属しますので、一目には置かれていました。王さまが始終、お側に置こうとされ、王宮で管弦やその他の催事が催される際には、真っ先に女君をお召しになりました。夜を共にする時も翌朝は陽が高くなるまで引き止め、そのまま昼の務めをさせるなど、端から見ると軽率すぎる点もありました。
御子が誕生してからは、貴婦人たるべき掟にそった重々しい扱いをするようになりましたので、姉のムーラン公后は「ひょっとしたら、この御子を後継ぎにされるかもしれない」と疑心悪鬼となり、白菊公女をおもんばかって気が気ではなりません。さすがに王さまも摂政役でもある姉の諌めを無視することは出来ませんでした。
「桐壺愛后」と呼ばれるようになった女君は、王の深い情愛を唯一の頼みとしておりましたが、女君を貶めたり、何かの欠点を探し出そうとする人が多い王宮で、我が身はか弱く、後ろ盾もいないことから、気苦労がつのっていきます。女君が住む桐壺は三階の端にあり、王さまが桐壺に通う際には幾つかの貴婦人や女官の部屋がある廊下を通り過ぎる必要があります。それが頻繁となると、朋輩方がいまいましく感じるのも道理でした。女君が二階にある王室へ招かれることがあまりに度重なると、 廊下とか階段の踊り場など、ここかしこの通路に意地が悪い仕掛けをされて、送り迎えする侍女たちのドレスの裾が台無しになってしまうことがありました。また、ある時は、どうしても通らざるをえない階段に近い戸に錠がされていたり、共謀して通り路を遮って女君一行を右往左往させることも数知りません。苦しいことばかりが続いて心を滅入らせている女君を見かねた王さまは、王室に間近な貴婦人の部屋を控え室として与えましたが、追い出された貴婦人の恨みは言いようがありません。
3.桐壺愛后の病死と葬送
この御子が歩き始めた頃、御袴着(着衣)の儀式が執り行われました。王さまは王庫や宝物庫から秀逸なものを引き出して立派な式を挙げました。この件でも世間の批判が多く上がりましたが、この御子の容貌や心ばえが類ないほど秀でているのを見ると、妬みあげることはできません。見識者は「こういった人物が世に出現することがありうるとは」と浅ましいほど目をぱちくりさせます。
その年の夏、女君はなんとなく気分がすぐれず、実家に下がろうとしましたが、王さまは暇乞いを許しません。常日頃から病気がちでおりましたから、王さまは毎度のことだと、「もう少し王宮で静養してみたら」と長引かせているうちに、次第に悪化して、ほんの五、六日のうちにひどく衰弱してしまいました。母君が泣く泣く里帰りを願い出ましたので、ようやく帰宅を許しました。「こうした折りに災厄が我が子に降りかかっては」と女君は心遣いをして、御子は王宮に残して、忍び足で退出することにしました。
何事にも限度があり、これ以上引き留めることは不可能と悟った王さまは、退出を公然と見送ることもできない心もとなさに耐え難い思いでした。普段は芳しい匂いを放つ美女の顔がげっそり面やつれ、王さまとの別れを「とても辛いこと」との心中の思いを口に出せぬまま、あるかなきかに消え入るように弱っているのを御覧になると、過去も未来も分別ができなくなってしまいました。泣く泣くあれこれ万(よろず)の事を約束されるのですが、返答もできない様子で、目付きもひどく物憂げで、平生からなよなよしている身が一層なやなよと夢うつつに臥していますので、「どうしたらよいのものか」と思い惑います。里帰りに特別の馬車をあてがう宣旨(勅令)を官人に下したものの、病室に戻ると、どうしても里に帰らす気にはなりません。
「死の旅に出るのは二人一緒に、と契りあったではないですか。私を打ち捨てて死への旅に行くことはできないはずです」と語りかけますと、女君も「そのお気持ちはよく分かります」と言いたげに王さまを見つめて歌をささやきました。
(歌)命に限りがあって お別れして行くことは悲しいことです 何とか命を生きのばしたいものです
「こうなることが前から分かっておりましたなら」と息もたえだえに口に出します。なおも王さまに告げたいことがありそうでしたが、もはや気力が失せて苦しそうにしています。
「こうなったら、手許に置いて始終を見届けてあげたい」と王さまは思し召しましたが、「実家の方での祈祷を本日から始めるとの依頼をさるべき司祭や僧にしておりまして、是非とも今夜から受ける必要がありますから」と取り巻きたちが急ぎますので、無念にかられながら、退出を許しました。王さまの胸は悲しみに塞がれたままで、まどろむことも寝入ることもしません。
様子を見させにヴァンドームに遣った使い人が戻って来る刻限でもないのに、「気が揉めてならない」と際限なく繰り返していると、ようやく戻って来た使い人は「里の人たちが『夜半過ぎにご逝去された』と泣き騒いでいるのを見まして、私もがっかりして王宮に戻ってまいりました」と報告しました。愛后の死を知った王さまは、何もかも分からなくなって、引き籠ってしまいました。
愛后の忘れ形見の御子は手許に置いておきたかったのですが、母の喪中に入った御子が穢れを嫌う王宮に留まる事例はなかったことから、母の実家に退出させねばなりませんでした。何事が起きたのかも理解できず、母に仕えていた侍女たちが泣き惑い、父王が絶え間なく涙を流しているのを不思議そうに見つめています。ごく普通の場合でも、父子の別れは悲しいものですが、王さまの哀れな御様子は見るに耐えません。
物事には限りがありますから、定まった作法にのっとって葬儀が行われますが、母の未亡人は「私も一緒に天に昇ってしまいたい」と泣きこがれています。遺骸に付き添って御見送りをする侍女の馬車に乗り込み、厳粛な儀式が執り行われている葬儀場に到着した時の御心持ちはどんなものだったでしょう。「空しくなった遺骸を見やっていると、まだ生きている気がしてなりません。土と化すのを自分の眼で確かめるなら、『今は亡き人』と諦めもつくでしょう」とけなげに語っていたものの、馬車から落ちてしまいそうになるほど取り乱しますので、「こうなると思っておりましたのに」と侍女たちは手を焼くのでした。
王宮の御使いが着いて、勅使が「爵位を一つ上げて、三位に相当する伯爵(Comtesse)を贈る」旨の宣命を読み上げると、悲しみがこみ上がっていきます。生前に「正式な貴婦人」と言わせなかったことが、王さまには気残りとなって、「せめて爵位を一位上げて天に昇らせたい」とのお気持ちでしたが、こんなことにも反感を抱く貴婦人や女官が多くありました。物事をわきまえている方々は故人の容姿が美しかったこと、心ばえが滑らかで素直で憎めないところがあったと、今になって思い出していました。若い王さまがあまりにもご寵愛されたことで、ひどく妬みはしたものの、人柄が優しく心も情愛に富んでいたことを、王さま付きの女官たちが恋い忍びあいました。「なくてぞ人は恋しかりける」という句は、こうした折りの心境なのでしょう。
日々ははかなく過ぎていきますが、死後に執りしかれる儀式ごとに、王さまは細々とお弔いをします。時が経ても愛后を失った王さまの悲しみはやるせなく、夜になって他の女性を王室にお呼びすることも絶えてなくなり、涙にくれて明かし暮らしていました。その様子を見る人たちにとっては涙で湿る秋となりました。
「死んだ後まで、人の胸をすっきりさせない御寵愛ぶりですこと」と、いまだに許す気持ちがない姉のムーラン公后は陰口をたたきます。里に戻してしまった御子の可愛さを思い出す度、王さまは気がおける身近な女官や侍女をヴァンドームに遣って、御子の様子を報告させます。
4.王の使いの見舞いと復命
秋の大風が吹いて、にわかに肌寒くなった夕暮れ、普段にも増して愛后を思い忍んで、付き人エステルをヴァンドームに遣わしました。
夕月夜が美しい時刻にエステルを送り出した後、眼下を流れるロワール川を眺めながら、思いにひたります。こうした秋の月夜には、以前なら管弦の遊びなどが催され、桐壺愛后はその一人に加わって、リュート(Luth。ギターの前段階)などを情緒深く掻き鳴らし、はかなげに口ずさむ歌の言葉も、常人とは違っていた。愛后の面影が我が身に寄り添って離れない気持ちがするものの、「闇の中で見る現実」よりも劣る淡い幻にすぎません。
エステルはヴァンドームの里に着いて、馬車を屋敷の門の中に引き入れた刹那から、哀れな気配を感じます。屋敷の主の未亡人はやもめ暮らしをしておりましたが、一人娘の面子を守るために邸内の手入れを怠らず、見苦しくないような外見を保っておりました。娘を失った闇に泣き沈んでいるうちに、いつの間にか雑草が生い茂り、大嵐一過でさらに荒涼とした印象を与えます。月影だけは雑草の葎(むぐら)に遮られずに、邸内に射しこんでいます。
未亡人は馬車を母屋の南前に誘導させてエステルを降ろしましたが、悲しみの上に荒れ屋に迎えた恥じらいが重なって言葉を口に出すこともできない有様です。
「娘を失った後も、生きながらえているのは辛い思いですが、王さまの御使いが蓬(よもぎ)の露を分け入って、このあばら家にお越しいただいたことを恥かしく存じます」と言いつつ、耐え切れないように泣き入ります。
「先日伺った女官長セシルが『こちらへ参りますと、とても心苦しくなって、心も肝も尽きてしまいそうになります』とお上に奏しておりましたが、私のような分別を知らない者でも忍び難い思いがいたします」とためらった後、しばらくしてからエステルは王さまの伝言を伝えました。
「『女君の死を悪夢に過ぎない、としばし思い込むようにしていましたが、ようやく心が静まって来ると、どうしようもない悲しみに堪えがたい思いです。こんな時にどうしたらよいか、を問い合う人もおりません。内々で王宮にお越し下さいませんか。若君が涙に暮れる邸内で過しているのは心苦しいので、若君と一緒に早く王宮にいらっしゃい』とのご伝言も涙でむせ返られて、はかばかしく語ることもできず、『こんな光景を人がみたら、弱々しい王と思われるだろうな』と、遠慮がちにもされている御気色の心苦しさを察して、ただおおよそだけを承ってこちらに参りました」と言いながら、王さまからの手紙を差し出しました。
「悲しみの涙で目も暗くなっておりますが、かたじけない仰せ事を光明といたしまして」と老婦人は王さまの手紙を拝見します。
「時が経れば、悲しみも少しは紛れるだろうと思いつつ日を送っていたが、月日が立てば立つ程、忍び難さが募っていくのは困ったことです。幼い若君がどうしていることだろう、と案じております。両親が連れ添って育てていけない覚束なさを口惜しく思います。今はもう、私を亡き人の形見と思って、若君を連れて来てください」など、細々と書いてありました。
(歌)王宮を吹き渡る 物淋しい風の音に 涙をもよおすにつけても 若君の身を思いやります
とありますが、未亡人は涙が滲んで、しまいまで読み通すことができません。
「命が長いと、こうした辛い目に会うものだと思い知りました。この身を世間にさらけ出してしまうのは恥かしいことですから、時々にせよ、王宮に上がることは思いも寄りません。王さまの恐れ多いお言葉を度々承っておりますが、私自身は伺候できかねません。ただ若宮は何を思ってかは分かりませんが、早く王宮に戻りたがっている様子で、それも道理ですから不憫に感じております、といったことなどを、表向きの奏上ではなく、内々にご報告されて下さい。夫を亡くし、一人娘も亡くした不吉な身の上ですから、若君がこんな場所におられるのは縁起が悪く、かたじけない思いです」などと申します。
若宮はすでに就寝していました。
「お目覚めになるのを待って、お顔を拝見して、その御様子を詳しく王さまに報告いたしたいのですが、王さまが私の帰りを待ちわびております。夜が更けてまいりましたから」とエステルは帰りを急ぎます。
「くれ惑う私の心の闇の、堪え難い片端だけでもお話して、胸を晴らしたい思いです。次回は公けの御使いではなく、私的にごゆっくりお越し下さい。これまでは、嬉しいことや晴れがましい御用でお立ち寄りいただきましたのに、こうした悲しい事でお迎えするとは、返す返す我が身のつれない宿命を感じます。娘は生まれた時から、私たちが望みをかけていた子で、亡き夫の子爵もいまわの際になるまで『娘を貴婦人として王宮に上げる、という本懐を必ず遂げてくれ。自分が死んだからと言って、断念してはならない』と何度も何度も言い置かれましたので、立派な後見人を持たない宮仕えは大変なことだとは承知の上で、ただ『夫の遺言に背いてはならない』との思いで、ムーラン公后の侍女に出しました。それが王さまから身に余るほどの御寵愛を受けるようになり、そのご厚情を頼りに、人の仕業とは思えないような仕打ちやいじめに耐えながら、宮仕えを続けておりました。段々に朋輩方の嫉みが深まり、苦労の数々が増していきまして、横死のように亡くなってしまいました。今となっては、王さまの有り難い御心ざしを恨めしく思ったりいたします。これも私の心の闇の一つとなっております」と言いやらぬうちにむせ返ってしまい、夜が更けていきました。
「それは王さまも仰せになります。『自分の心のうちとは言うものの、あまりに人目を驚かすほど思い詰めてしまったのは、やはり、二人は一緒に長くはいられない、と今になって分った辛い宿縁だったからだ。自分はこれまで、世の人の心をねじ曲げたことはなかった、と自負していたが、あの人を知ってからは、恨まれないでもよい人たちの恨みを数多く負ってしまった。とどのつまり、あの人に打ち捨てられてしまい、心を取り戻すこともできぬまま、前よりももっと愚劣な人間になってしまったのは、あの人とどんな契りがあったからだろう』と繰り返しながら、涙がちに顔を湿らせております」と返答しますが、二人の話は尽きません。
「夜もひどく更けてしまいました。今宵のうちに復命をせねばなりませんから」と、エステルは泣く泣く暇乞いをします。
落ちかける月の空が清く澄み渡り、風が涼しげに吹き、草むらの虫の声々が哀れを誘う、立ち去り難い風情でした。
(歌)こうろぎが 声の限りを尽くして泣いておりますが 私の涙は 長い夜に降り続けております
と歌いつつ、王さまの付き人エステルは馬車に乗りかねています。
(歌)虫が鳴きしぎる こんな浅茅生の里に 雲の上の御方から 御使いをいただき
ますます涙がつのってしまいます
「ご訪問がかえって恨めしいほどです」とまで老婦人に言わしめました。
返礼として風雅な贈り物などをする場面ではありませんでしたから、「故人の形見」として「こうした折にでも」と残しておいたドレス上衣一揃いと髪飾り化粧箱を添えてエステルに渡しました。
若い侍女たちの悲しみは申すまでもありません。王宮での朝夕の生活に慣れきっていましたので、王さまの御様子などの思い出を騒々しいほど語り合いながら、若宮が早く王宮に戻るように、未亡人に促します。
「こんな忌々しい老いた身で若君のお供をして王宮に上ってしまうと、人聞きが悪いことを言いふらす人も出てくるでしょう。若宮を見ることがわずかでも無くなってしまうのも後ろめたい思いですし」と思い巡らして、すっぱりと若君を王宮に戻すことをためらったままです。
王宮に戻ったエステルは、まだ就寝されていない王さまを見て、おいたわしい思いをします。中庭の秋の花の盛りを愛でながら気の置けない侍女たち四、五人を侍らせて、しめやかに雑談をしつつ、エステルの帰りを待ちわびていた様子です。その頃、王さまが始終ご覧になっているものは、祖父王とアニエス寵姫の恋を題材にした詩を絵に描いたものに、宮廷詩人が添え書きをした羊皮紙のミニアチュール(細密画)でした。またフランスのものにせよ、イタリアなど外国の作品にせよ、愛人を失った悲しみを歌う詩を語らせていました。
王さまはヴァンドームの実家の様子を細々とお尋ねになります。エステルは哀れな様子だったことを忍びやかに奏しました。老婦人の返信をご覧になります。
「まことに畏れ多い御心持ちに身の置き所もありません。有り難いお言葉をいただくと、ますます掻き乱れてしまう心地がします」。
(歌)荒風を 防いできた木が枯れてしまい 小萩(孫)がどうなるか 案ずるばかりです
と、取り乱した文面でしたが、「それだけ気が転倒しているのだろう」と王さまは納得します。
王さまは「自分の動揺を人には見させまい」と平静を装おうとはするものの、堪えきることができません。ラルシャンで初めて出会った時からの年月のあれこれを思い起こしながら、あれやこれやと思い続けます。「生前は束の間も離れていると、覚束ない思いをしたものだが、一人になっても生き続けられているとは」を自分を浅ましく感じます。
「未亡人が亡き子爵の遺言に背かず、宮仕えの本意を遂げてくれたお礼に、その報いを果たせねば、といつも思っていたものの、それも甲斐ないものとなってしまった」と言いつつ、老婦人を不憫に思います。「それでも、若宮が立派に成長していけば、老婦人もそれなりの報いを受けていくだろう。本人も長生きしなければ、と思い念じていることだろう」とエステルに語りました。
エステルは未亡人からの贈り物をご覧に入れます。「この髪環が、亡き人の棲みかを道士(隠者)が尋ねて行って、もらってきたものであったら」とこぼしますが、甲斐ないことです。
(歌)亡き人の 幻を追ってくれる人がいないものか 亡き人の魂の居場所を知りたい
絵に描かれたアニエス寵姫の容姿は、どんな名手の絵師が描いたものでも、筆に限りがありますから、色香に富んでいるとは言い切れません。ロッシュ(Loche)を流れるアンドル(Indre)川に浮ぶ睡蓮の花や河畔の柳に譬えられた、アニエス寵姫の妖艶な装いはさぞかし麗しいことであっただろうが、桐壺愛后のなつかしげな愛らしさを思い出しますと、花の色にも鳥のさえずりにも較べようがありません。朝夕の睦言で「二人が両翼となって天を飛び、大地にあっては連理の枝になろう」と永遠の愛を誓い合ったのに、叶うことはなかった。限りある命を恨めしく思います。
秋風の音、虫の声を聞くと、一層物悲しくなりますが、久しく会うこともなかったムーラン公后の小館から管弦の合奏やざわめきが聞えてきます。道化戦争が終結して平穏を取り戻したお祝いのためか、白菊公女をねぎらう趣旨なのか、秋の名月をめでながら夜が更けるまで騒いでいます。「嫌みったらしい騒ぎだ」と王さまはむっとします。王さまのこの頃の心持ちを理解している廷臣や侍女たちもにがにがしい思いで饗宴の騒ぎを聞いています。長姉のムーラン公后は我が強く、つんけんとしたところもあり、弟の愛后の死など眼中にはないというふうに見せつけているのでしょうか、月も隠れてしまいました。
(歌)王宮でさえ 秋の月が涙で曇っている ましてあの浅茅生の宿では どうなのだろう
王さまは若宮の里に思いをはせながら、灯心がか細くなってきても起きています。宿直者の名を連呼する巡警の声が聞えてきましたので、もう午前二時になったのでしょう。人目を憚って寝室に入ったものの、まどろむこともできません。起床の時刻になっても、夜が明けるのを気付かずに語り合った昔が恋しくて、朝の公儀を怠るようになります。食欲もありません。朝食はほんの真似事で口につけますが、昼の正膳は避けるようになってしまいます。正膳には酌人、肉きり役、パン焼き人などの侍臣が侍るのですが、王さまの様子を見て嘆きます。男も女も、王さまに仕える近習や侍従・侍女の誰もが「困ったこと」と言い合わせて溜息をつきます。
「ここまで深い契りであったとは」、「愛后の事になると道理を失って、人の謗りや恨みを憚らずになっておしまいになった。今はこんな具合に世の中を顧みられず、世捨て人のようになってしまった」と外国の王朝の例まで引き出して、ささやき合います。
しばらくして、若宮が王宮に上がりました。老婦人はシュノンソーに住みながら、時々、王宮に通います。若君はますます、この世にないようなほど美麗になっていきますので、王さまも末恐ろしい思いをします。
5.ブルターニュ公国をめぐるオーストリア王国との対立とブルターニュ公女との結婚
若君を身近に置いて、桐壺愛后を失った悲しみが少しは癒され始めた頃、フランス王国にとってはとんでもない一大事が飛び込んできました。オーストリア王国のマキシミリアン皇太子とブルターニュ公国の紫陽花(あじさい)女公が代理人を介して形式結婚を挙げた知らせでした。
ブルターニュ公国は道化戦争に敗北した六週間後にブルターニュ公が他界し、残された二人姉妹の長女である紫陽花(あじさい)公女が十二歳で公位を継いでいました。マクシミリアン皇太子は愛妻の死後も息子の摂政としてフランドルに滞在していましたが、次第にフランドル諸都市との軋轢が高まり、親フランス派の手で幽閉されてしまいました。神聖ローマ皇帝でもあるオーストリア国王は直ちにフランドルに救援軍を派遣して皇太子を救出し、皇太子は母国に戻りましたが、愛娘を人質に奪ったフランスに対する敵愾心がさらにつのっていきます。
まだ若すぎる女公を支えながら、フランス王国に敗北した痛手から立ち直らせていかねばならないブルターニュ公国と、フランスに屈辱を浴びせられ続けるオーストリア王国とが手を結び合うのは自然な成り行きではありました。逆にフランス王国にとっては、北のブルゴーニュ・フランドル公国、北東のドイツ・オーストリアに西のブルターニュが加わる包囲網は王国の存亡に関わる重大事です。
直ちに王さまは挙兵してロワールを発ち、力づくでブルターニュ公国に侵入しました。首都レンヌを包囲して、孤立した紫陽花女公に代理結婚の破棄と自らとの結婚を迫りました。女公と結婚し王子が誕生すれば、王子はフランス王国とブルターニュ公国を継承し、事実上、王国の領土が拡大します。桐壺愛后を嫌い、王さまに批判的だったムーラン公后も、白菊公女を不憫に感じながらも、背に腹は変えられず、紫陽花女公との結婚を後押しします。ジアン(Gien)公爵は紫陽花女公の叔母にあたる故ブルターニュ公の妹を正室に迎えていましたから、ジアン公夫妻が仲介役となって紫陽花公女も取り巻きの重臣たちも、次第にフランス国王との結婚に傾いていきました。その模様を耳にはさみながら、父親と婚約者である王さまとの間に板挟みとなった白菊公女の心中は複雑でした。ムーラン公后に大切に養育されて、いずれはフランス王国の女王になる自覚は固まってはいるものの、ブルゴーニュ・フランドル公国の公女たる自負もありました。
国王級となると、結婚破棄や結婚にはローマ法王の承認が必要でしたから、手続きに時間を要しますが、承認される可能性が濃くなった頃、王さまは白菊公女と面会しました。結婚適齢期に入る十二歳を目前にした公女は平静さを装いながら、王さまの婚約破棄の申し入れと紫陽花女公との結婚の報告に聞き入ります。理性では事情を把握できますが、悔しさと恥の涙が流れます。王さまが別れの代償に差し出した金の首鎖を白菊公女が受け取って、二人の面談が終りました。
白菊公女はすぐに故国への帰郷を申し出ましたが、王国は白菊公女が持参したアルトワとフランシュ・コンテを手放したくはありません。王さまに代って王族の誰かと結婚させたら良いのでは、と王宮内外の声が高まります。ムーラン公夫妻は桐壺愛后の若君と結婚させてはみたら、と提案して、王さまも同意しました。すぐに特使がオーストリア王国に派遣されましたが、「国王とマキシミリアン皇太子は言下にフランス側の申し入れを拒絶した」と戻ってきました。
王さまと紫陽花公女の結婚式はロワール川の交通が遮断される中、フランス王国の大貴族の代表とブルターニュ公国の代表がそれぞれ数名づつ見取るだけの密やかな形式でランジェ(Langer)城で執り行なわれました。王さまは二十一歳、女公は十四歳でした。帰国もできずに、宙に浮いてしまった白菊公女はムーラン公夫妻が引き取りましたが、紫陽花公后が引き連れて来た二百人を越える女官、侍女や家臣も王宮に出入りするようになったこともあり、桐壺愛后の若君もムーラン公夫妻が面倒を見ることになりました。
翌年、王さまと紫陽花公女に第一子の王子が誕生し、朱雀(すざく)王子と命名されました。白菊公女と若君はムーラン公夫妻に伴われて、ムーラン城やセーヌ川に面すムラン(Melun)など各地を転々とします。これからの行方が見定まれない白菊公女にとって、若君は寂しさを紛らわしてくれる弟のような存在になります。若君も白菊公女を実の姉のようになつき、公女の胸に抱かれる度に白菊公女が放つ妙なる香りにうっとりします。睦まじい二人を複雑な思いで見守りながら、ムーラン公后は「このまま二人が結ばれてくれるなら」と淡い希望を抱きます。
その間、白菊公女の父マクシミリアン皇太子はフランスへの撒き返しを遂行していきます。自分を追い出したフランドルの反対勢力を力づくで屈服させた後、フランス王国が併合していたフランシュ・コンテに侵攻して奪還しました。オーストリア軍の攻勢にフランス側も譲歩せざるをえなくなり、サンリス(Sanlis)で行われた交渉で協定が成立しました。オーストリア王国はフランス王国のブルゴーニュ地方占拠を認める代わりに、白菊公女のフランドル帰還に合わせて北境のアストラ地方と東境のフランシュ・コンテ地方は旧ブルゴーニュ・フランドル公国の領土に戻す、という内容でした。白菊公女は十三歳、若君は四歳を過ぎて物心がつき始めた頃でした。白菊公女との別れを知った若君は泣くじゃくります。この光景は脳裏に焼き付けられたのか、若君は成人した後も、時折、この時の様子を夢に見るようになりました。
白菊公女が母国に戻った二か月後、マクシミリアン公太子の父王が崩御し、マクシミリアンはオーストリア国王を引き継ぎ、神聖ローマ皇帝にも選出され、フランドル・ネーデルランド地方を神聖ローマ帝国に組み入れました。さらにイタリアのミラノ公国の公女と再婚して、ミラノ公国を事実上の支配下に置きました。
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