その2 帚木(ははきぎ)   (ヒカル 16歳) 

 

7.頭中将アントワンの体験――常夏の女(夕顔)

 

「私も愚か者の話をいたしましょう」と頭中将が言って語りだしました。

私が密かに見初めた女性は、それ相応に見られる程度の器量でしたから、『長く続く女性』とは思いませんでした。けれども馴れるにつれ、愛しさが増していって、たえだえに通いながらも、忘れえない女性となり、そうなると女性の方も私を頼りとする気配が出てきました。

 私を頼りにするようになると、「恨めしい」と思うことも出てくるだろうと、気が咎める折々もありましたが、女は気にしない風を装って、通うのが久しく途絶えても「たまさかにしか来ない御方」と怨じるわけでもありません。ただ朝夕につけ、辛抱している様子が見えるのが不憫で、将来までの約束事をあれこれいたしました。

 

 両親は亡くなっていましたから、心細いようで、時に触れ「何とか、この人を頼りにしていこう」という気持ちを感じさせるのも、いじらしくありました。こんなように気立てがよく、穏やかなことをいいことにして、久しく訪ねないでいたところ、私は後で耳にしたことですが、ある知人を介してジアンの私の正妻の家から、情けもない嫌みな脅しを受けたようです。

 こちらは「そんな可哀そうなことがあった」とも知らずに、心中では忘れないものの、手紙も送らずに長い間、行きもしないでいると、女は憔悴して心細くなり、その上、私との間に幼い児もおりましたので、思い煩いつつ撫子の花を折って、手紙をつけて私に送ってきました、と言いながら中将は涙ぐんでいます。

 

「それで、その手紙の文面は」とヒカルが問いますと、「なに、格別なものでもありません」と答えます。

(歌山里の 庭が荒れてしまいましても 折々には 撫子の私たちの児に 

   哀れみの露をかけてください

 

 それで私は思い出して、訪ねてみますと、例のように穏やかな応対ですが、ひどく憂い顔で、荒れ屋の露に濡れた庭を眺めながら、虫の声のようにひっそりと泣いている様子が、昔物語のようでした。

(歌)色々な花が咲き混じっている そのうちのどれかは分かりませんが 

   常夏に咲く撫子の母のあなたに 勝るものはありません

 子供のことは差し置いて、まず「花が咲いてから 塵すらつかせまいと ずっと思っている 貴女と私が造った 

夏の花だからね」といった歌で、母親の機嫌を取りました。

 

(歌)あなたが久しく来られなくて 積もった塵を振り払う袖も 露(涙)で湿っている常夏ですが

   ミストラル(Mistral)の嵐が吹き荒れそうな 秋がやってきました

 女はそう、はかなげな歌を詠みますが、心底から私を恨んでいるようでもありません。女は涙をこぼしても、大層恥かしげにつつしみ深く紛らわし隠します。「貴方の辛さも承知しております」と思われるのが苦痛であるような素振りも見せますので、私も一安心して帰途につきました。またしばらく途絶えがちにしておりましたことろ、跡形もなく消え失せてしまいました。まだ生きているなら、はかない世の中をさすらっていることでしょう。

 

 私も「愛しい女」と惚れていましたから、もっと煩わしげに私を思い惑わすような素振りを見せてくれたなら、そうした惨めな思いはさせなかったでしょう。久しい間途絶えがちにするようなことはしないで、それ相応の待遇をして、末長く面倒を見ることができました。女が撫子に例えた幼子が可愛いかったので、「何とか尋ね出したい」と思っておりますが、いまだにに消息が分かりません。これも、先刻の話にあった「はかなく消えてしまった女の一例」に当りましょう。

 

 私のつれなさを「辛い」と思っているのに気付かず、女への思いが絶えることはなかったものの、無益な片思いになってしまいました。今はようやく女を忘れかけてきましたが、「女の方も、私のことを忘れ去ることができず、折々、辛い悲しい思いで胸を焦がす夕刻もあることでしょう。これなどは、添い遂げられない、頼みがいのない仲というものです。ですから、先刻の嫉妬深い女も思い出としては忘れられないでしょうが、面と向ってみると煩わしく、悪くすると飽きてしまうこともありましょう。リュートが上手な女も、穏やかではない浮気の罪は重いものです。私の常夏の女のように、あまりに嫉妬を焼かないのも、かえって疑いを抱かせてしまいます。

 ですから、「どれが一番良い」と最終的に思い定めることができないのが世の常です。それぞれを単に比較して見ても苦しいものです。それぞれの良い所だけを抜き出して、非難すべき点は持ち合わせていない、などという女は、どこにいるでしょうか。憐憫な聖ヴェロニク(Veronique)に思いをはせますと宗教臭くなって、妙なことになってしまいますし、人間離れがしすぎてしまいます」とアントワンが言いますと、一同は一笑しました。

 

 

8.文書官ジルベールの体験――賢女

 

「ジルベールにも何か面白い話があるだろう。少しくらいは白状してしまえ」とアントワンがけしかけます。

「私は下の下の階級ですから、どう考えましてもお聞かせするような話はありません」と答えたものの、アントワンがしきりに「早くしろ」と責め立てますので、「さて、何をお話ししましょうか」と思案します。

 

「私がまだパリのソルボンヌ大学の学生だった時分、『これこそ賢女だ』と断言できる実例を体験しました。先刻、エリック殿が話されました女性のように、公的な話も理解し、私的な世俗の世渡りに必要な心構えにも深い知識があり、学才もそんじょそこらの博士が恥かしくなるほどで、すべてにおいて、口をはせませない程の優れ女でした。

 

 私はある博士の家に学生として通っておりましたが、『博士には大勢の娘がいる』と聞いて、ちょっとした折に、そのうちの一人に言い寄りました。それを聞きつけた親は、すぐに『固めの盃』を持ち出して、高名な詩人の結婚の詩『我が双方の道を歌うのを聞きなさい。富者の娘は嫁ぎ易く、嫁ぐことも早いけれど、夫を軽んじてしまう。貧者の娘は嫁ぎ難く、晩婚となってしまうが、義母に孝をつくす』と詠いながら、祝杯を挙げました。

 

 私の方はさほどには深入りはせず、先生である親の気持ちを憚って、その娘と付き合っておりました。娘は私を愛してくれまして、よく世話を焼いてくれ、寝床での語らいでも、役に立つ学問の話や役人として知らねばならない道々のことを教えてくれました。手紙もフランス語を書き混ぜないラテン語で、しかつめらしく寄こします。自然と私は娘との縁を切ることができず、彼女を師匠として、ちょっとした下手な詩文を詠むことも学びました。今でもその恩を忘れることはできませんが、気が許せる家庭の妻として頼りにするとなると、才能のない私の体裁が悪い振舞を見せるのが気恥ずかしい、と感じておりました。

 

 お二方のような貴公子には、しっかりして心強い後ろ盾などは必要ないでしょう。私どもにとっては、学もなく才もない女を歯がゆく感じながらも、自分と気性が合って浮世の縁に引きずられて行く、ということもありますから、男というものは他愛がない者です」と話して、一息つきました。

「それで、それで」、「中々、結構な女ではないか」と残りを言わせようと、皆がはやし立てますと、ジルベールは「してやったり」とばかりに鼻をうずうずさせます。

 

「そうして、カルチェラタンにある女の家に久しく行くことがなく、所用のついでに立ち寄ってみますと、いつものように居間の中には入れてくれず、衝立(ついたて)越しの離れた場所に座らせました。

『長い間訪ねなかったので拗ねているのか』とあほらしく感じましたが、『別れるのに良い節目になる』と思いました。ところが、さすがに賢女だけあって、軽々しく嫉妬するでもなく、世情の道理も承知していますから恨むこともありません。女は奥の方から声を張り上げて、こう申しました。

 

『このところ重い感冒にかかってしまい、堪えかねて極熱の蒜(ひる。にんにく)の草薬を服用いたしました。それで私は非常に臭いので、ご対面はできません。何か御用があるのなら、直接にではありませんが、お伺いいたします』といかにも、もっともらしく釈明するのです。

 

 何とも返事のしようもありませんので、ただ『了解しました』と立ち去ろうとしたのですが、物足りなく思ったのでしょうか、「この悪臭が抜けた頃にお越しください」と声高に言います。それを聞き過ごすのも気の毒でしたが、たてこもった蒜の臭気がプンプンと襲ってきますので、ぐずぐず立ち止まっているわけにもいきません。何もせずに、ただ逃げ腰になりました。

(歌)蜘蛛の振る舞いを見ていれば 私が夕暮れに訪れるのが分かりそうなものなのに

   臭気が消える昼(蒜)が過ぎてから お越し下さい というのは理解できかねます

何かの口実でしょう」と言い終わらずに走り出ました。

 すると下女に追いかけさせまして、返歌を託しました。

(返歌)夜毎に逢っているほどの 睦まじい仲でございます 蒜の臭いが充ちる昼間に

   出合ったとしても 何の恥かしいことがありましょう それなのにお逃げになることはないでしょう

 

「すぐに斬り返しの返歌を寄こすとは、さすがに才女ではありませんか」と落ち着き払って話を終えますと、三人は呆れてしまって、「作り話だろう」と笑います。

「どこにそんな女がいるものか。そんなことなら、魔女と一緒にいた方がましだ」とアントワンが爪弾きをします。主馬頭は「 話す値打ちもない」とジルベールを睨みつけて「もう少しまっとうな話をしなさい」と責めますが、ジルベールは「これ以上に珍奇な話はございましょうか」と涼しい顔をしています。

 

 

9.主馬頭の結論――良識と謙譲の女

 

 何事につきましても、男でも女でも浅薄な者は、自分が会得したわずかな知識を「残りなく見せ尽くそう」と思い込んでしまうことが嘆かわしいことです。女性がギリシャ・ローマの歴史書や旧約・新約聖書といった堅苦しい学問を深く究めていくのは愛嬌がありません。とは申すものの、女性だからと言って、世間全般の公事や私事について無知であってもよい、ということでもありません。

 

 わざわざ堅苦しい学問を学ばなくとも、少し才覚がある女性なら、自然に学問が耳にも目にも入ることが多くあります。そうした類に属す女性の中には、ラテン語やギリシャ語の走り書きなどをして、そんな必要がない女同士でかわす文章にも、半分以上をラテン語やギリシャ語で埋め尽くす、というのは「ああ嫌だ。もっと物柔らかであって欲しいのに」と思えます。書いた当人にはそんな気持ちがなかったとしましても、ラテン語やギリシャ語が多すぎますと、文章を読む際に自然とごわごわした固い感じになってしまい、わざとらしく聞えたりします。こうした事例は貴婦人の中にも多く見受けられます。

 

 自分はいっぱしの「詩人」だと自負している女性が、作詩に凝りすぎて、いわれのある故事を初めから詩の中に取り込んで、男が多忙な最中に、詠み語ってくるのも癪に触ります。返事をしないと情がないように思われますし、それをしない男は恥をかいてしまいます。王宮でのしかるべき祭事、例えば五月のキリスト昇天祭(Ascension)で急いで参内しようとする朝に、忙しくて昇天祭にちなんだことなど考える余裕もない時に、根つきの弁慶草に引き掛けた詩を詠んできたり、十一日一日の万聖節(Toussaintで難しい御題が与えられて文句を呻吟している最中に、菊の露に寄せた詩を送ってくる、といった風に、本人は時節に適ったことと思い込んでいます。そんなことをせずとも、後でゆっくり読んでみると、ごく自然に面白くにも哀れにも感じられる詩なのです。その頃合いを見誤って、目に留めてもらえない事情を推しはからずに詠み掛けてくる、というのは思慮が足りないように見えます。

 万事において、「なぜ、そんなことを」と思わせてしまうほど、時と場合を分別できない心持ちなら、風流ぶらない方が無難です。すべての点で、知っていることでも知らぬ顔をし、一度や二度は言わないでおいた方が良いでしょう。

 

 こうした話が続いていきますが、ヒカルはある一人の女性の有様を、心の中で思い続けていました。「藤壺の宮には不足した点も、行き過ぎた点もなく、行き届いた御方だ」 と改めて確認できましたが、恋煩いで胸がひどく痛くなりました。

 

 雨の夜の女性論議は、どちらの方向に進んで結末がついた、というわけでもなく、次第に本筋からはずれた雑談となっていって、夜が明けていきました。

 

 

10.ヒカルの方違――トロワ知事のポンセの邸

 

 ようやく天気が回復しました。こんなに王宮に籠ってばかりいるのは、左大臣に気の毒なので、アンジェに向いました。

 

 アンジェ城の邸内の雰囲気や葵君の様子は、整然としていて気品が高く、取り乱したところがありません。「やはり、昨夜、主馬頭エリックが話していたように、捨て難い女性の中に入る、実直な女(ひと)として葵君を頼りにしなければ」と思いはするものの、あまりにきちんとした有り様が打ち解けにくく、恥かしげにすましこんでいるのが気詰まりな感じになります。中納言ナデージュや中務(なかつかさ)ロザリーなどの、人並み以上に優れた若い侍女たちに冗談をかけながら、暑さで部屋着だけになっている姿を、侍女たちは「見甲斐がある」と惚れ惚れしています。

 左大臣も娘の許にやってきました。ヒカルが部屋着でくつろいでいる姿を見て、衝立(ついたて)をはさんで、着席しました。「この暑さなのに」とヒカルが苦い顔をしますので、侍女たちはくすくす笑います。「シッ、静かに」と言いながら、ソファ(長椅子)に寄りかかります。大層鷹揚な振る舞いです。

 

 暗くなり始めた頃、「今夜、この邸は災禍や凶事をもたらす中神星(天一神)が巡行する方角にあたります」と占星術に詳しいお付きが忠言しました。「そう言えば、いつも中神星は避けることになっている」と気付きました。「自宅があるシュノンソーも巡行路に当っている。どこに行ったら良いものか。大儀なことだ」と面倒がって寝室に入りますと、お付きの誰もが「めっそうもないことを」と言い張ります。

 

 その中の一人が「少し遠くになりますが、お供について来たトロワ(Troyes)知事(受領)のポンセPoncé sur le Loir)にある屋敷が、最近、ル・ロワール川から水を引き入れて涼しくしている、と聞いております」と申します。ヒカルは「受領」と聞いて、昨夜の「中の品」を思い出して興味が惹かれました。

「それは良い思いつきだ。億劫だから、馬車のまま邸内に入れる所にしたい」と返答します。お忍びで通う女の所は幾つもありましたが、「久しぶりに左大臣宅に下って来たのに、方塞がりを理由に別の女の所へ行ってしまうのは、さすがに「申し訳ない」とためらったようです。

 トロワ知事を呼び出して希望を伝えますと、承諾はしたものの、同輩がいる所へ引き下がって「父がミラノ副公使に任命されて、急にミラノへ旅立ってしまった。留守中、妻子を当方が預かることになって、移ってきている。手狭な所でもあるし」と迷惑がっています。それを耳にはさんだヒカルは「そんな風に人が大勢いる家が嬉しいのだ。女っ気がない旅寝なんて、もの寂しい心地がするものだ。衝立の後の所にでも寝させてもらえばよいのだから」と言いますと、「本当に、良いお泊り所になってくれればよいのですが」と使いをポンセに走らせました。

 

 人目に触れずに「ことさらに仰々しくなく」と急いで出発しますので、左大臣にも挨拶をせずに、お供も親しい者だけに限って、ポンセに向いました。

 ポンセまで行くとなると、夜を徹しての強行軍となりますので、異腹弟の帥宮(そつのみや)が住むル・リュド(Le Lude)城に一晩泊めてもらうことにしました。翌朝、絵心のある弟と一緒に邸内の風景スケッチを楽しんだ後、ラ・ロワール川の支流ル・ロワール川を上っていきました。

 

 先にポンセに駆け付けたトロワ知事は「あまりに急だ」とブツブツ不平をたれますが、家従たちは相手にしません。本館の東向きの応接室を掃除させて、臨時の座敷をしつらえました。夕暮れが近付く頃、ヒカル一行が到着しました。ル・ロワール川から引き入れた水の流れに味わいがあります。田舎屋風の柴垣を結いめぐらして、前庭の花木も端正に植えられていました。吹く風が涼しく、どこからともなく虫の声々が聞え、ツバメが多く飛び交っています。

 

 ヒカルの従者たちは、疲れを癒そうと、丘陵の下に湧き出る泉を囲んで、アペリティフ(食前酒)を飲み始めました。主人が夕食を供しようと、「小瓶を手に 魚捕りに 海草採りにブルターニュの磯を」と風俗歌を歌いながら、忙がしくしている間、ヒカルはテラスに出て邸内の風景をゆっくり眺めながら、「一昨日の品定めに出てきた『中の品』にあたる屋敷は、こういったものなのか」と感慨深げでした。確かトロワ知事には「おませだが、器量よしと評判の妹がいたはずだが」と、どのような女性かを知りたくて耳をそばだてていると、西向きの部屋に人の気配がします。ドレスの衣擦れの音がさわさわと聞こえ、若い女性たちの声が愛らしく耳に入ります。

 

 さすがにヒカルの存在を気にかけながら、忍び笑う気配がわざとらしく感じられます。よろい戸を開け放っていましたので、トロワ知事は「不用意だ」と叱って、よろい戸を半閉じにしました。隙間から室内の火影(ほかげ)が漏れてきます。ヒカルはよろい戸にそおっと近寄って、隙間から室内を覗きましたが、よく見えません。そのまま、そこに留まって耳を澄ませていると、奥の大広間に皆が集まっているようです。ひそひそとささやく話を聞いていると、自分のことを話題にしています。

 

「大層真面目な御方のようです。歳が早いうちに縁組をされてしまって、浮いた遊びができずに、さぞお寂しいことでしょう」。

「いえいえ、よい頃合いを見計らって、結構、隠れ歩いておられるようです」などと話すのを聞いて、藤壺のことをいつも心にかけていますので、ぎょっとして「こうした折りに私と藤壺のことが噂になっているのを聞いてしまったら、どうしようか」と不安にかられました。幸いなことに、藤壺の名は出ずに、別の話のようでしたので、聞き流すことができました。桐壺王の異腹の弟である式部卿の姫君に、ヒカルが朝顔を贈った歌などを、誰かが得意げに披露しているのも聞えてきます。

「歌を披露し合うなど気楽そうな様子だが、実際に接してみると、中の品の女性は見劣りがするのではないだろうか」と感じます。

 

 トロワ知事が入って来てオイルランプを付け添えて、室内を明るくし、どういうわけか菓子・果物だけを供しました。

「『我が家は見事な掛け物を飾り立てております。大君さまも婿さまもお越し下さい。酒の肴は何にいたしましょう。アワビかサザエかウニか』という流行歌『我が家』の歌詞を忘れたのかね。デザートだけでなく、肉とか魚とか、もっとちゃんとした物はないのか。そこまで気が回らないとは、ひどい主人(あるじ)だ」と文句をつけますと、「そこまで気がつきませんで」と身を固くして恐縮します。

 

 応接室の端に急ごしらえで設けた寝所に、仮寝のようにヒカルが入りましたので、お付きの人々がお側を離れました。

 

 屋敷には愛らしい子供が幾人かおりました。近習としてヒカルが王宮で見馴れた子供もいます。父の官位五位のミラノ副公使の子もおりました。大勢いる中に、大層上品な様子をした十二か十三の少年がいました。

「どれが貴殿の息子で、どれが義理の弟なのか」などとトロワ知事に問うと、「あの少年は亡き『衛門府の督』の末っ子で、大変可愛がられていたのですが、幼い時に父に先立たれて、姉の縁を頼ってこちらに参っております。学才もあるので 近習として王宮務めをしたいようですが、父親がいないこともあって、望みどおりには行かないようです」と答えます。

「可哀想に。するとその姉君というのが、貴殿の継母ということか」。

「さようでございます」との返答に、「貴殿とは不釣合いな若い継母を持ったものだ。その女性については桐壺王も聞いていて、『官位四位だった衛門府の督が娘を宮仕えに出したい、と奏上していたが、その娘はどうなったのであろうか』と、いつぞやおっしゃっておられた。人生というものは、定めがないものなんだね」と、ひどく大人びた物言いをしました。


「不意に私の継母になってしまいました。世の中というものは、こうしたように、今も昔も定めがないものでございます。とりわけ、女の宿命は浮き草のようであるのが哀れなことです」と申し上げます。

「ミラノ副公使は大事に扱っているのか。若い後妻を主君のように思っていることだろう」。

「まあ、そういうことでしょう。自分のご主人様と崇めているようです。『あまりにデレデレし過ぎだ』と、私をはじめ、息子達は苦々しく思っております」など愚痴をこぼします。

「そうは言うが、貴殿たちのような今時の若い世代どもに、まだまだ負けはしないだろう。歴戦の騎士としてならした人物であるし、老いたとは言え、色事の方もお盛んなことだろう」などと話しながら、「婦人達はどこにいるのか」と尋ねました。

「皆、西館に移らせました。でも間に合わずに、この本館に残っている者もいるかもしれません」と答えます。

 

 お供の人々は酔いがまわり、テラスの縁に臥したまま、寝入ってしまった者もおりました。

 

 

11.ヒカル、空蝉に逢う  

 

 ヒカルは寝つかれません。「手持ちぶたさの一人寝だな」と思うと、目が冴えきってしまいます。応接室の北側の部屋に人がいる気配を感じて、「あそこに、さっき話に出た継母が隠れているかもしれない。老人の後妻になるとは可哀想な女性だ」と気にかかっていましたから、ドアを開けて廊下に出て気配をうかがいました。

 

 すると、先刻の少年が「もしもし、どこにおられます」とひそひそ声で、可愛らしく問いかけています。

「「ここに臥していますよ。客人はもうおやすみになりましたか。仮の御寝所は近くにあると心配していましたが、割合に離れているようですね」と答えています。寝台に臥しながら話すしどけない声が少年と似通っていますので、少年の姉であることが分かりました。

 

「近衛中将様は、応接間の控えの間でおやすみになっています。音に聞えた評判のお顔を拝見しました。本当に美男子でいらっしゃいます」と弟は一段声を低くして言っています。

「昼間でしたら、私も覗かせてもらいましたのに」と眠たそうに言って、顔を掛け布団に引き入れる音がします。「もう少し熱心に私について弟に尋ねてくれれば良いのに」とヒカルは物足りない思いをします。

 

「私はこの端の方で寝ます。あぁ暗いなあ」と少年はオイルランプの灯芯を引き上げているようです。 姉はドアの向こう側の筋向い辺りに臥しているようです。

「中将の君はどこに行きましたか。今夜は人が側にいてくれないと、何か恐い気がします」と言いますと、下段の控え場に臥している侍女の返事が聞えます。「下にある湯屋に下りていきましたが、直に戻って来ると申しておりました」と言っています。

 

 侍女たちが寝静まった頃合いを見はからって、北室のドアの掛け金を外してみますと、向こう側の掛け金は掛かっていませんでした。中に入り、移動式カーテンをはらってほの暗い室内を見ると、長持ちなどがゴタゴタ置かれています。その中をわけ入って人の気配がする場所へ進むと、小柄な感じの女性がこじんまりと臥しています。やましいとは思いながらも、顔を覆っている掛け布団をはらいますと、相手は侍女の中将の君が戻ってきたと思い違いをしたようです。

 

「中将を呼んでおりましたので、人知れずお慕いしておりました私の思いが通じたような心地がします」とささやきますと、勘違いに気付いた相手は分別がつかなくなってしまいます。魔物に襲われた心地で「あっ」と怯えますが、顔に掛け布団がかかって、悲鳴は外に漏れません。

 

「あまりにぶしつけで、ふとした出来心のようにお思いになるのはごもっともですが、ずっと前から貴女を恋い続けていた私の胸のうちを聞いていただきたくて、こうした機会を待っていたのです。私とのご縁は決して浅いものではないと、お思いください」とごく柔らかい調子で語らいかけます。魔王ですら荒立てることができない気配でしたので、露骨に「ここに怪しい男が」などとわめくことができません。

 

 女はただただ情けなく、「ありえない事」と思うと浅ましい気になって、「人違いでございましょう」と言うのも、やっとでした。消え入りそうに当惑した様子がいたわしくも愛らしくもあるのを、不憫に感じながら、「人違いではありません。心の導きを理解されずに、知らぬ顔をなさいますね。私は遊び人めいた振る舞いはいたしませんよ。私の思いを少し聞いてください」と言って、大層小柄な身体を抱いて廊下に出ますと、中将の君とおぼしき侍女と出くわしてしまいました。

 

「あれ、あれ」とのヒカルの声に、怪しく思った中将の君が探り寄って来ますと、ヒカルの夜着に焚きしめてある、妙なる薫りが匂い満ちて、中将の君の顔にまで吹き寄せてきましたので、何者かと察しがつきました。

 

「これは一体、どうした事でしょう」と思い戸惑いつつ、言葉が出せません。相手が普通の男であったらなら、手荒に女主人を引き放すこともできますが、そうすると騒ぎとなり多くの人に知られてしまって女主人の名誉に関わります。中将の君は動揺しつつ、ヒカルに追い縋っていきますが、ヒカルは臆することはなく、女君を抱いたまま応接室に入っていきます。ドアを閉めながら、「明け方に迎えに来なさい」と言い捨てました。

 

 それを聞いた女君は中将の君がどう思っていることだろうと、死ぬほど辛い思いをします。汗びっしょりになって、ひどく悩ましげにしている様子を見ると同情する気持ちもわいて来ますが、例の如く、どこから出て来る言葉なのか、しんみりと思いを込めて口説いていきます。

 

 女君はあまりに浅ましい出来事に「これが現実なものとは思えません。私は価値もないしがない身ではありますが、このように人を見下しにされる御心を深くお恨みします。私のような分際の者にも、それ相応の分際というものがあります。貴方さまの分際とは離れております」と言って、自分を力づくで犯そうとしているヒカルを、つくづく情けなく心憂い人と思っている様子がいとおしく、さすがに気恥ずかしい思いもしますが、「私はその分際の区別をまだ知らない、経験が浅い者です。ごくごくありきたりの多情な男のように思われては心外です。貴女も噂などで聞いておられるでしょうが、私はやみ雲に浮気心を起こしたことはありません。無茶をしてまで、こうした行動に出てしまったことを責められるのは当然ですが、私自身もなぜなのか、不思議でなりません」などと、真面目になって色々と口説きます。類ないヒカルの熱意に負けて、気を許して身をまかせてしまうのは恥かしく、「情が薄く、ぶっきらぼうな女」とヒカルに見られたとしても、こうした浮気めいたことには口説く甲斐がない女になりすましておこう、と意を決して、つれない対応をします。

 

 元々の人柄は柔和でしたが、しいて強い心に徹するように努めましたので、ヒカルが押しても引いても、柳のような心地がして、折れそうで中々折れません。

 

 事が終って、女君は真底、浅ましい心にかられて、ヒカルのぶしつけな無礼の心を恨みながら泣いている姿はとても哀れです。心苦しくはあるものの、「このままで再会することがなかったら、後で口惜しい思いをするだろう」と感じます。

 

 女君は慰めるのが難しいほど塞ぎこんでいますので、「なぜ、そこまで私を疎ましい者にお思いなのですか。こうしてお目にかかれたのも、ご縁があったからだと思ってください。まるで世間を知らない乙女のようなふりをされるのは、まことに辛いことです」と恨みますと、「このように、老いた男の後妻という憂(う)いた身の運命が定まらない、まだ独り身であった頃に、こうした熱情をいただけましたなら、あってはならない己惚れ心だとしましても、そのうちに愛していただける時もあろうか、と信じて自分を慰めることができたでしょう。こうした仮初の浮き寝をしてしまったことを考えますと、ますます心が乱れるばかりです。ですから、『これだけと思われて 私の宿を見たとは言わないでください 人が聞いてしまうこともあるでしょう』と歌にもありますように、『私を見なかった』とお思いください」と語るのも、まことにもっともなことです。

 ヒカルは真心をこめて、誓いをしたり、慰めの言葉をかけたりと、気をつかうことが多かったことでしょう。

 

 雄鶏が鳴きました。お供の人々も起き出して、「いやいや、よく眠れた一夜だった。さあ、馬車の用意をしよう」などと言い交わしています。二階で寝ていたトロワ知事も出て来て、お供の人々に「方違えで愛人の許を訪れた、という訳でもないでしょう。まだ夜が明けきっていませんから、急ぐことはありませんのに」などと言っています。

「再度、こうした機会を持つことは非常に難しいだろう。当面、どうしたらよいのだろう。手紙を通わすことも不可能なことだろう」と思うと、胸が痛くなります。

 

 応接室に中将の君が入ってきて、とても苦々しい顔をしていますので、ヒカルは一旦は女君を放しましたが、また引き止めてしまいます。

「貴女にどうやってお便りをしたらよいでしょう。世にも知らない貴女の御心の冷淡さも私の悲しみも、深く刻み込まれた思い出となりました。こんな珍しい出来事があって良いものでしょうか」と薄涙すら浮べているヒカルの姿は、まことに艶っぽく見えました。

 

 雄鶏が度々鳴きますので、ヒカルもさすがに気がせいてきます。

(歌)あなたのつれなさに 恨みを言い終わらぬうちに 鶏(とり)がとりあえずとばかり

  鳴いてしまいました なぜ私を起こそうとするのだろう

 女君はもったいなくも晴れがましい心地はするものの、自分の身の現状を思うと、ヒカルからどんなに優しくされても何とも思いません。常日頃、「無骨で嫌らしい」と愛情をもてない夫がいるミラノを思い浮かべて、「夫が夢に見てはいまいか」と空恐ろしく、身が縮む思いでした。

(歌)我が身の憂いを 嘆き足りないうちに 夜が明けました 鶏の鳴く音にとり重ねて 

   声に出して泣いてしまいます

 

 戸外がみるみる明るくなっていきますので、ドア先まで送っていきます。北室にいる女性たちも、応接室の控えの間にいた人々も起き出して、ざわついてきました。仕方なくドアを閉めて女君と別れてしまうのがせつなく、ドアが二人を隔てる関所のように見えました。

 

 プルポワン(上着)とショース(タイツ)に着替え、テラスに出て、しばらく外を眺めています。西側の部屋のよろい戸越しに、女性たちがヒカルの姿を覗いているようです。テラスの間に立ててある衝立の上側から、ほのかに見えるヒカルの有り様を身に染むばかりに惚れ惚れとしている、浮気性の侍女たちもいることでしょう。

 

 月は下弦の有明で、月影がさやかに見える、中々味わいのある早朝でした。何ともない空の景色も、見る人によって艶っぽくも、身に沁みるようにも見えます。ヒカルは人知れない胸中の苦しみを言づてするよすがもないまま、残り惜しげに出発しました。

 

 シュノンソーに帰り着いて、仮眠をしようとしても、まどろむこともできません。再会できる術(すべ)もありませんが、さすがにあの女(ひと)が煩悶する心中は「どうなっていることだろう」と心苦しく思います。格別、優れた点はないものの、感じの良さを充分に持った「中の品」であろうか。あの経験豊富な主馬頭エリックが語ったことは「確かに当っている」と合点がいきました。

 

 

 

                              著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata