その4竹河      (カオル 14歳~21

 

1.ヒゲ黒と死別後の玉鬘の生活   (カオル 十四歳まで)

 ここで触れるのはヒカル・ゲンジ一族とは離れていましたが 最後には太政大臣にまで昇りつめたヒゲ黒の辺りに仕えていた、口が達者な侍女たちの生き残りが、問わず語りに話していることです。紫上に仕えていた侍女たちの話と似てはいませんが、彼女たちの話では「ヒカル様の子孫たちについては、誤ったことも混じって伝えられています。私どもよりも年配の老女たちも『記憶違いなのでは』と不審がっておりましたが、一体、紫上の侍女たちの話と実際の事実と、どちらが本当の事なのでしょうか」といったものです。

 

 ヒゲ黒の正夫人となった玉鬘は男子三人、女子二人を生みました。ヒゲ黒は五人の子供たちを、それぞれ大切に育て上げることを念頭に置きながら、月日が経過していくのを待ち遠しく思っていましたが、残念なことに他界してしまいました。遺族にとっては夢のような出来事で、「一日でも早く」とヒゲ黒が気をせいていた娘の王宮仕えの話も立ち消えになっていました。世間の眼は時の権勢にばかりおもねるものですから、あれほど威勢があったヒゲ黒が亡くなった後は、内々の宝物や領していた所々の荘園などの消失はなかったものの、大方の様相は打って変わってしまい、ボールガール城内もひっそり静かになって行きました。

 

 王宮の女官長の座を続けて来た玉鬘の腹違いの兄弟に当たるアントワンの大勢の子供たちは、世に時めいて繁栄していましたが、貴人同士の付き合いは中々難しい上に、元々、玉鬘とは親密な関係でもありませんでした。亡くなったアントワンは人情味に少し欠けていて、むら気が過ぎる性格であった上に、玉鬘の存在には人の眼を憚らざるをえない事情もあったからでしょうか、兄弟たちは誰も玉鬘との親密なやり取りはしないでいました。これに対して、ヒカルは総じて昔と変わらぬ心持ちで、玉鬘を一族の一人に数えていて、自分の死後を綴った遺言状でも、サン・ブリュー王妃の次に、玉鬘について書き加えていたので、夕霧右大臣などもヒカルの思いを踏まえて、しかるべき折には玉鬘邸を訪れていました。

 

 玉鬘の息子三人は成人式などを済ませて、それぞれ一人並みになっていましたから、父君が亡くなった後も、不安で身につまされてしまう辛さはあるでしょうが、何とか自立していくことは出来るでしょう。「問題は二人の姫君の身の処し方だが、どうしたら良いものか」と玉鬘は心配していました。かねてからヒゲ黒が姫君を貴婦人として王宮に上げたい強い意向を安梨王に語っていたこともあるので、安梨王も「そろそろ妙齢に達した時分であろう」と年月を数えて、「貴婦人として上がるように」との催促がしきりにありました。

 それでも玉鬘は「サン・ブリュー王妃がますます並び立つ者がいないほど、寵愛を増している気配に圧倒されて、貴婦人がたが皆、無用な人でいるような状態の中で王宮に上がったところで、周囲からよそよそしく疎んじられてしまうだけになってしまうのは辛いことであろうし、また人より劣った、取るに足らない様子を見せられて、気を揉んでしまうことになってしまう」と考えて、ためらっていました。

 

安梨王に王位を譲った冷泉院からも、ひどく丁重に貴婦人としての所望がありました。院はかって残念なことにイタリア遠征のパヴィア敗北で捕虜となってしまったため、玉鬘を取り逃してしまった悔しさを恨めしく伝えて来ます。

「今はまして盛りの年齢を過ぎてしまったので、興覚めだと思い捨てになられるでしょうが、私を安心できる父親代わりと考えて、姫君を譲って下さい」と大層真面目に要望して来ます。

「どうやってお答えしたら良いのだろう。自分のめぐり合わせの悪さから、ヒゲ黒の妻にならざるをえない運命となってしまい、冷泉院の思し召しに背くことになってしまったことを『好ましくない』と思われたことであろうと、いまだに恥ずかしく、かたじけないことだと感じていたので、今になって自分の娘を差し出して、機嫌を直していただこうか」などと、玉鬘は決めかねていました。

 

姫君二人の見目形がとても素晴らしい、との評判が立っているので、思いを寄せる男たちが多くいました。夕霧右大臣の四男の官位四位に蔵人少将フレデリクと呼ばれる者は、雲井雁が産んだ子でしたが、兄たちよりも先に官位が上がり、大事がられていました。人柄は非常に善良で、真心をこめて長女ソフィーとの婚姻を申し入れていました。フレデリクは夕霧とも雲井雁のどちらの関係からも近縁の間柄でしたから、玉鬘邸に出入りする際などでも、よそよそしい扱いはせずにいました。フレデリクは侍女たちにも馴染んで、姫君への思慕を打ち明けられる手立てもあったので、夜となく昼となく通って来て、絶えずやかましくしているので、玉鬘は煩わしく感じながら、心苦しい思いでいました。

 母親の雲井雁からも、しばしば婚姻についての手紙がありましたし、父親の右大臣からも「官位はまだいたって低い者ですが、私どもに免じて申し入れを許していただけたら」といった話もありました。玉鬘は「ソフィーはただの臣下には嫁がせまい」と決めているので、次女ドロテーとの婚姻を念頭に置いていて、「フレデリクが今少し官位を上げて、世間から軽く見られもしないようになったら、申し入れを許して上げても」と考えていました。

 フレデリクの方は「許しがもらえないなら、強奪も辞さない」と常軌を逸してしまいかねない打ち込みようでしたが、玉鬘は「この上ない良縁」とまでは思ってはいないまでも、女性側からの許可が出ないうちに、とかくの間違いが生じてしまうと、世間への聞えも軽々しいものになってしまうので、取次ぎをする侍女たちにも「ゆめゆめ間違いを起こしてはなりません」などと厳命していますから、侍女たちは出鼻を折られたように困惑していました。

 

 首都のパリへの復帰に伴い、玉鬘一家はロワール地方とパリを結ぶ街道に位置するエタンプ(Etampes)のこじんまりした邸に引っ越しました。

 ヒカルが初老に入ってから、山桜上が産んだ若君は冷泉院から我が子のように可愛がられていて、侍従から官位四位の中将になっていました。その頃、十四か十五歳になっていて、まだ少年らしい幼い側面も残っている年頃でしたが、心構えは大人びていて人柄もよく、行く末は人より勝って行く兆しが明白なので、玉鬘はカオルを婿に出来たら、と思っていました。

 玉鬘たちが移って来たエタンプの邸はランブイエ城に近い所にありましたから、しかるべき折々には玉鬘の息子たちに誘われて、カオルが遊びに来ることもありました。奥床しい妙齢の二人の姫君がいる邸でしたから、若い男たちで気取らない者はなく、わざと目につくように邸内をさまよったりしています。姿形の良さでは、始終入り浸っているフレデリクが上げられますが、親しみがあり、気恥ずかしげな気品に富んでいる点ではカオルの有様を越える者はいません。

 

 ヒカルの血筋、という思い込みがそうした思いにさせるのでしょうが、カオルは自然と世間からも大切に扱われています。若い侍女たちはことさらに褒め合っていますが、玉鬘も「本当に良い方だ」などと言いながら、懐かしげに話しをしました。

「亡きヒカル様の親切な心配りを思い出すと、慰めようもなく心に染みてしまい、悲しいばかりになってしまいますが、ヒカル様の忘れ形見として、どなたとお会いできますでしょうか。夕霧右大臣は重鎮におなりになったので、ついでがないと対面も難しくなりました」と言いながら、自分の兄弟のように接しますので、カオルもそういった気持ちにさせる場所として、やって来ています。

 カオルには世間によくいる男たちのような浮ついた好色さは見えず、大層落ち着いているので、邸内のここかしこにいる若い侍女たちは、残念で物足りないと思って、あれこれとカオルに話しかけては困らせていました。

 

2.夕霧の玉鬘邸訪問、カオルと蔵人少将フレデリクの煩悶   (カオル 15歳)

 新年に入った二月に、子供の頃シュノンソー城で「高砂」を歌ったロラン大納言、故ヒゲ黒の長男でロラン夫人の真木柱と同腹のベンジャマンなどが新年の挨拶に玉鬘邸にやって来ました。元帥も兼ねる夕霧右大臣も息子を六人とも引き連れて訪れました。夕霧は軍人としての世間の評価をロランより落としているものの、容姿を始めとして、様子と言い人望と言い、何一つない大官に見えます。息子たちもそれぞれ、大層すっきりした美男で、年齢の割には官位も進んでいて、何の苦労もないように見えます。六人の中でフレデリクは世評通り誰よりも大切にされているような様子が顕著でしたが、ふさぎ込んで悩み事の種がありげな顔をしていました。

 

 夕霧は内カーテンを隔てて、昔と変わらぬふうに語りかけました。

「これといった用事もなくて、しばしば訪ねて来ることも出来ずにおりました。歳をとっていくにつれて、遠征を除くと、王宮に上がる以外の外歩きなどは気恥ずかしく億劫になっていますので、昔話を語り合いたい折々が度々あるものの、それも出来ずにおりました。何か必要があった際は、まだ若い私の息子たちを使ってください。息子たちにも『その際は必ず誠意をお見せしなさい』と言い聞かせております」などと夕霧が話しました。

「御覧のようにこの邸はものの数にも入らない有様ですのに、人並みにお考え下さって訪ねて来られたのを嬉しく存じます。ヒカル様からいただいたご好意は今になっても忘れ難く思い出しております」と話すついでに、それとなく冷泉院が娘を要望していることをちらっとほのめかしました。「とは言うものの、後見人もいない者をフォンテーヌブロー城に上がらせると、あれこれ見苦しいことも起きてしまうだろう、とあれこれ考えあぐねております」と続けました

 

「姫君については、王宮の安梨王からも思し召しがあるように承っております。冷泉院か安梨王か、どちらに決めるべきか。なるほど冷泉院は譲位をされて、盛りの時代は過ぎた印象もありますが、世に類のない有様を見ていると、まだまだ若々しさを保たれておられるようです。私も立派に育った娘がいたら、差し上げてみたいと思い寄ることもありますが、秋好妃やアンジェリク貴婦人など立派な方々に交らわせるほどの者ではないのを残念に思っております。それにしても、冷泉院の唯一のお子さんである第一王女ジゼルの母でおられるアンジェリク様は了承しておられるのでしょうか。これまでも、あの方に遠慮して、冷泉院に上げることを断念した例もありますが」と夕霧が答えました。

「そういったわけではありません。アンジェリク様は『院は所在なげに暇を持て余している様子なので、私と同じ気持ちでお世話をしてあげて慰めて欲しい』などと勧めておられますので、私も検討してみることにしたのです」と玉鬘が返しました。

 

 玉鬘邸を訪れていた人たちは、誰彼となく一緒になって、山桜上が住むランブイエ城に向かいました。山桜上の父の朱雀院の恩顧を受けた者やヴィンランドリー城に関りがあった人たちも、皆それぞれランブイエ城を素通りすることが出来ないので、同道しました。玉鬘の三人の息子、左近中将コリニー、官位五位の右中辨フェルナン、官位五位以下の侍従の君セバスチャンなども夕霧大臣のお供をしたので、行列の威勢は格別なものになりました。

 皆が去ってひっそりとした夕暮になって、カオルが玉鬘邸を訪れました。昼間はカオルより年長の若者たちが大勢集まり、誰一人として不細工な者はいず、皆見苦しくもなかったのですが、遅れて一人で訪ねて来たカオルは際立って人目を引くような印象を与えます。例によって物好きな若い侍女たちは「やはり違っていらっしゃる」「こちらの姫君のお側にこのお方こそ並べてみたいものです」と聞き憎いことまで話しています。

 確かにカオルはまだ若いのに、艶っぽい様子をしていて、身じろぎをする度に匂ってくる薫りは並のものとは思われません。どんな姫君であっても物事が分かる人なら、「本当に人より勝っている人物だ」と認めざるをえないように思われます。

 

 礼拝堂にいた女官長が「こちらへ」と招きましたので、カオルは東の階段を上がって、両開きの戸口のカーテンの前に座りました。庭先の梅の若木のつぼみが開くのを待ち遠しそうにしている中、黒歌鳥の初声がおおらかに聞こえて来ます。取り澄ましていながら、好き心を徴発させるような仕草を見て、侍女たちが他愛もない言葉をかけますが、カオルが言葉少なに軽くあしらっているだけなのが、癪にさわったのか、カリンと呼ばれる上級の侍女が詠みかけました。

(歌)手折ってみたら ますます匂いが勝るでしょうに もう少し色づいてみたらどうでしょうか 

   梅の初花さん

即興の歌に感心したカオルもすぐに返歌を詠みました。

歌)はた目では 枝葉をもぎ取られてしまった 殺風景な木だと見なすでしょうが 

   心の中は咲き匂っている 梅の初花ですよ

「疑わしいと思うなら、袖を触れてみなさい」と冗談を言うと、(歌)梅はその色よりも 香りの方がしみじみとした興趣を思わせる 誰の袖が宿の梅に触れて 移り香を放っているのだろうか といった歌のように、「実際は色事よりも香りだ、ということでしょう」と侍女たちはカオルの袖を引っ張らんばかりに、口々に騒ぎ立てています。

 

 すると礼拝堂の奥の方から玉鬘がいざり出て来て、「困った人たちですね。気恥ずかしそうにされているお堅い人をつかまえて、よくも厚かましいことを言いますね」と小声でたしなめましたが、カオルは「堅物という名をつけられてしまった。ひどく滅入ってしまう」と傷つきました。

 玉鬘の三男の侍従セバスチャンはまだ王宮勤めをしていないので、新しい年の挨拶にあちこち歩き回る必要もなく、邸に戻っていました。菓子と盃を乗せただけの沈香の木の折敷二つが差し出されました。

「夕霧右大臣は歳を重ねるに従って、亡きヒカル様によく似て来ています。カオル殿はヒカル様に似ているようにはあまり見えないものの、気配がとても物静かで、艶っぽく優雅なところがある。ヒカル様の若盛りの頃はきっとこのようにおられたのだろう」と玉鬘は思い浮かべながら、しんみりとしていました。やがてカオルは邸を去りましたが、その余韻が残る香ばしさを侍女たちは褒めちぎっていました。

 

 カオルは「堅物」という名を玉鬘から付けられたことが癪にさわっていましたが、二月二十日過ぎ、梅の花が盛りになりだした頃、「色っぽさの匂いが少ないと絡んで来た、あの浮かれた侍女カリンの鼻をへし折ってみよう」と思いながら、セバスチャンを訪ねました。

 邸の中に入ると、自分と同じ上着姿の男が立っていました。隠れようとしているのを引き留めてみると、いつもこの邸をうろうろしている蔵人少将フレデリクでした。本殿の西の部屋から聞こえて来るリュートやエピネットの音色に心をときめかせながら、佇んでいたのでしょう。「恋煩いで苦しそうにしているが、周りが許していない恋に望みをかけてしまうのは、罪作りなことになってしまうだけだ」とカオルは思いました。

 

 エピネットの音が止んだので、「さあ、邸内を案内して下さい。私は勝手がよく分からないから」と言って、フレデリクと連れ立って、西側の渡り廊下の前の紅梅の木の辺りを歩きながら、流行り歌「梅が枝」を口ずさんでいると、花よりもはっきりしたカオルの匂いが室内にまで漂うので、侍女たちは両開きの戸を押し開けて、口ずさみに合わせてハープを上手に掻き合せました。

 女性が呂の低い音調で合わせるのは難しいことなので、「中々の弾き手だな」と感心して、もう一度繰り返して口ずさんでみると、ハープに加えてリュートまでもが類ない花やかな音色を奏でました。「どういうわけか、この邸の応接ぶりは趣が深い」とカオルは心が動かされたので、今夕はこれまでよりも少し気を許して、他愛のない冗談なども言ったりしました。

 

 すると室内からフランス型ハープが差し出されました。フレデリクもカオルも互いに譲り合って手を触れずにいると、息子のセバスチャンを介して玉鬘からの伝言がありました。

「貴方の爪音は亡くなったアントワン太政大臣に似通っている、と聞いております。是非ともお聞かせください。ことに今宵は黒歌鳥に誘われるようにされて」との申し入れでした。「恥ずかしがって爪を噛んでいる場合ではない」とカオルは感じたので、あまり気乗りがしないものの、ハープを搔き鳴らすと、その音色は邸内に広く響き渡りました。

「いつもお目にかかって睦び合ったこともない父上ではあったが、もうこの世にはいないのだ」と思うと、こうしたちょっとしたしたことの機会にも玉鬘はアントワンの面影を思い出して、しみじみと悲しくなりました。「そう言えば、このカオル君は不思議なほど亡くなった柏木大納言の様子によく似ていて、ハープの音色もそのままのような印象を受けてしまう」と涙を流してしまうのも、歳をとった証しである涙もろさからでしょうか。

 フレデリク少将も非常に面白い声で、流行り歌「さき草」を歌いました。差し出がましいおせっかいをしすぎるような人は混ざっていなかったので、自然と興が高まって、音楽の宴が続きました。主人側のセバスチャンは亡き父ヒゲ黒に似てしまったのか、こうした音楽の方面は不得手なので、酒杯を進める役ばかりをしていましたが、「せめて宴の祝杯の辞の代わりにでも」と責められたので、「竹河の橋たもとにいる私だが 少女を連れた私を 花園に放して欲しいと流行り歌「竹河」を同じ呂の低い音調で歌いました。まだ少年らしい未熟さはありましたが、楽しそうに歌いました。

 

 内カーテンの中からまた酒杯が出されました。

「あまり酔いが進んでしまうと、普段から心に秘めていることを抑えることが出来ず、失敬なことをしてしまう、と聞いているのに、どうされる積もりですか」とカオルはすぐには酒杯を手にしようとはしません。玉鬘はさらに人肌が懐かしげに染み込んだ重ね着を重ねたドレスをあり合わせの贈り物として差し出しましたが、カオルは「これはまた、どういうお積りでしょうか」と慌てて、主人役のセバスチャンの肩に乗せて、そのまま立ち去ろうとしました。セバスチャンが引き留めて渡そうとしたものの、「酒と軽食をいただいて、すっかり夜が更けてしまったので」とカオルは退散していきました。

 あとに残ったフレデリクは「こうやって中将の君がそれとなく出入りするようになると、ここにいる人たちは皆、侍従に心を寄せてしまうことになってしまい、自分の身がひどくみじめなものになってしまう」とひどく気弱になって、つまらなさそうに恨みました。

(歌)人は皆 花に心を寄せているのだろうが 春の夜の闇の中で 一人迷ってしまっている

と嘆いて、座席を立つと、内カーテンの中の侍女が返歌を詠みました。

(歌)折にふれて せつなさを感じるわけでもありません 梅の花の香りにだけ 

   心を移すわけでもありません

 

 翌朝、カオルからセバスチャン宛てに手紙がありました。

「昨夜は大変取り乱してしまいました、皆さんはどう思われたことでしょう」とありましたが、玉鬘にも読んでもらおうと思ってか、ラテン語を避けて書いていて、端に歌を詠んでいました。

(歌)一緒に謡った「竹河」の一節に 私の深い心の底を 汲み取ってくれたでしょうか

セバスチャンは母がいる部屋に手紙を持参して、皆に見せました。

「字も上手に書かれていますね。今の若さでこのように何もかも不足なく備わっているなんて、どういったお方なのでしょう。まだ小さいうちに父上のヒカル様がお亡くなりになり、母上の山桜上が甘やかして育て上げたのに、やはり生まれつき優れているのでしょうね」と玉鬘は自分の息子たちの筆跡が悪いことを恥じました。実際にセバスチャンが書いた返信の筆跡はひどく未熟でした。

「昨夜は酒と軽食で夜が更けてしまった、と言われて去ってしまったのを皆が訝しんでいました」。

(歌)竹河を一緒に謡った後 夜が更けないうちにと 急いで退出されましたが 

   どういった理由があったのか と解釈したら良いのでしょうか

 実際、このやり取りをきっかけにして、カオルはセバスチャンの部屋を訪れるようになって、二人の姫君に気がある態度を見せているので、フレデリクが心配していたように、邸内の人たちは皆、カオルに好意を持つようになりました。まだ少年らしさも残っているセバスチャンも、「姉の婿になってくれて、始終、親しくしてもらったら」と願っていました。

 

 

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